卵の中の黄身

我もなく うつし世もなくなにもかも  神の中なる 神のあらわれ  BYダンテス・ダイジ

 朝、瞑想(妄想)をしているとバーナデット・ロバーツの「自己喪失の体験」のコピーを読み直したくなった。

 この手記が他の神秘体験を扱った文献とかなり違う匂いをさせているのは、やはり虚無との遭遇を扱っている章ではないだろうか。

 ロバーツによると、人間の「自己=自我」とは虚無と直面するのを防ぐための防護膜のようなものであるらしい。

 その『虚無』とはこのようなものであった。

 「私は突然まわりのすべての生命が完全に停止してしまったのに気が付きました。どこを見ても恐ろしい虚無がすべてのものに侵入して生命を奪ってゆくのです。皆忍びよる虚無に息を詰まらせ、断末魔のうめき声を発するほかないのです。生命が急に抜け落ち、そのあとには死と崩壊しかありません。これは恐ろしい光景で、こんなものを見てはもう誰も生きていられないと思いました。」

 この虚無に直面して、彼女は以下のことに気づく。

 「自己と呼ばれるものは、絶対の無を見ること、生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいることが分かりました。自己が無ければ、この虚無に直面するのを避けるすべはなく、直面してはとても生きていられないのです。」

 そして次の結論に達する。

 「実際、この世のすべての人にまず第一に望みたいのは自己を持つことです。自己を持ちさえすれば、私が見たもの、それを見てはもう生きられないものを見ないですむのです。」

 これはなにか究極的な魔境といったにおいを漂わせているように思う。
 言い換えれば、「究極」に達する前に課せられた試練のようなものを。
 
 「普通の意味での絶望とか憂慮とかいうものは、この不可知の重圧にくらべれば、自己防衛の玩具のようなものに過ぎません。この重圧の方は防ぐ手立てもなく、第一防ごうとするものさえいないのです。自己があるということは、どんな状況においても何よりも大きな補償となるもので、自己とは不可知の状態に対する人間の補償に他ならないというのが、今の私の確信です。」

 自我、というのは『未知』を『既知』に翻訳し続ける機能を持っているのだろうか。
 こういうことはダイジの本にも何箇所か書かれていたと思うので、このことをテーマにちょっと長めの文章を書いてみたい。と思った。

 しかし、『未知』≒ヌミノーゼ(神的恐怖)≒究極的『美』

 がエゴを超えた結果出現する、というのは理解できる(頭で)のだが、『虚無』というのがどこでどう出現するのかよく分からない。

 ・・・・多分、わからなくていいんだろうな。

 


 石井登さんという人が書いた「臨死体験研究読本」を読んでいる。
 石井さんは以下のHPの管理人さんである。

 http://www.geocities.jp/noboish/

 この本にも「自我」の定義とか、性質に割かれた章があって、臨死体験とか覚醒体験において、現象的に自我にどのようなことが起こるのかということが考察されている。

 個人的には、自我、というのは脳の比較的新しい部分で構築されているのではないかと思う。確かそうだった。大脳新皮質とかそういうの。
 しかし、それとは別に「ただある意識」みたいなのを担当している脳の部位があるんじゃないだろうか。辺縁系とかそういうの。
 
 この「ただある意識」は「ただある」だけで結構充足しているのだが、表層部分の「自我意識」担当部署が活性化すると時間性とか個別性とか、社会的ステータスとか自分のみかけとかそういうのにひっぱられてしまって「ただある」というのを忘れ果ててしまうのじゃなかろうか。

 あくまでいいかげんなイメージですが(^^

 これだけだと、世界との一体感とか、そういうのがなんででてくるのかわかんないしな。



























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