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コタムリト(不滅の言葉)

 神が使い手、私は道具。・・・これを覚らぬあいだは何度も何度も戻ってこなくてはならない。つまり、生まれかわらなくてはならないのだ。
 「あの御方だけが行為者である」ことを覚ったならば、もう再生はしない。
 「私」と「私のもの」が真実(実在)をおおいかくしているのだ。


                ※

 ヴェーダーンタに一つ、いい説明がある。鍋で、まぜご飯をつくる。じゃがいもや茄子も米にまぜてある。火が通ってくると、いも、茄子、米は鍋のなかではね上がる。すると、そいつらはウヌボレて、「私は動いている!私はとび上がっている!」と思う。

 小さい子供はそれを見て、いもや茄子は生きているからあんなふうにとび上がっているんだ、と思う。いくらか成長して知恵がついてくると、いもや茄子は生きているんじゃない、自分でとび上がっているんじゃない、鍋の下に火が燃えているから、あんなふうに動くのだ、燃えている薪をとってしまえばもう動かないのだ、ということがわかってくる。

 人間の「私が行動者だ」というウヌボレは、無智から生ずる。神様の御力で、あらゆるものに力があるのだ。もえている薪をとり去ってしまえば、何もかも黙る。
 あやつり人形は、人形師の手にあやつられてみごとに踊っているが、手から放れると、もう動きも進みもしない!

 神様に会わぬうちは、あの智恵の宝玉にさわらぬうちは、自分が行動者だと錯覚して、オレが私がといって、うろつきまわっているんだよ。そして、「私は善いことをしている」、「私は悪いことをしている」というような、差別の感じがするのだ。

 この差別の感じが、つまり、あの御方のマーヤ(創造現象)で、マーヤの世界で暮らすために、あの御方から与えられたものなんだ。


              ※
 

「大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉」より















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マスターたちの系譜 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/05/18 20:17
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