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安心

 誘導瞑想のCDを聞きながら瞑想していて、「一番リラックスできる場所に行きましょう」というのを聞くと、子供に戻ってしまった

 そして自分の力で生きて行く、行かねばならない、という思いから来る圧力を感じているのを自覚した。
 当たり前のことっちゃそうなのだが、結構気づかないものだ。

 ふっと「幼子のようにならねば天の王国に入ることは出来ない」という言葉を思い出す。

 幸福な子供は、両親に守られ、また愛されている。
 普通の大人は、自分で自分を守りながら生きている。

 成長することにより、愛され守られているという世界を出ると、人は自分で安心を求めるようになる。
 しかし、どこに安心を求めるかが問題だ。

 多くの場合、それは失くした原初の安心が決して再び手に入らないという絶望から二次的なものを求めていく過程であるから。

 未来への不安により、より多くの物質を蓄えておかなければならないと思う。
 愛されないことへの不安により、できるだけ美しい姿やこころを維持したいと思う。
 自己の価値への不安により、何か少しでも人より秀でたものを見つけようとする。

 僕が囚われている多くの価値や、考え、それらは「不安」により形作られてきたものかもしれない。
 
 幼子に帰る、ということは僕らを愛し、守っている存在、生かしている存在を現実とすることなのではないだろうか。
 そしてその愛の関係性の中で、「不安」によって発生した価値や、考えや、表層的な自己は自ずから解消され真っ白になっていくのではないか。

 I先生は、「母なる神を体験したことによって、自分の内側の子供は完全に癒された」ということを話していた。
 
 神により、癒された、子供。
 全体生命からすれば、個生命はすべて子供。
 インナーチャイルドが真の元型的輝きを取り戻すのはその時だろう。


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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/06/12 11:51
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