スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

霧を払ってくれた文章

 私たちが自分の人生において神の意志の妥当性を考慮することができる前にまず、「神」という言葉で私たちが何を理解するのかについて明確にする必要があります。
 私にとって神とは、源泉、意識、最高のパワー、非現象、ユニシティです。あるいは他の呼称も使われるでしょうが、とにかく、そこから現象と宇宙が生じる一なる源泉、同じ瞬間に相互関連する正反対のものが存在する基礎です。
 源泉、神は相互関連する正反対のものを超越しています。それは二番目がないただ一つのもの、そこから現象化されたみかけの二元性が現れてくる非現象のことです。

 いくつかの哲学の中には、神を、現象化したみかけと関係している一つの存在として見なしているものもあります。つまり、現象宇宙の支配者にして、「善」の代表である神。まあそこまでは、問題はありません。しかし、混乱が起こるのは、現象の二元性の中で、彼らが相互関連する反対物である悪の代表として悪魔を受け入れ、なお、偏在、全能、全知の存在として、「神」をこの宇宙の「創造主」であると考えるときです。神は、源泉、つまり、そこから幻想としての現象の二元性が生じる二番目のない一なるものであって、同時に現象内の神(善)や悪魔(悪)といった、相互関連した正反対物のどちらか一部分になることはできないのです。ここに大きな混乱が存在することになります。

 神の意志を解釈する必要性が生じるのは、人間の思考が、それ自身が「悪」であると考えることが、神の意志によって起こることを受け入れられないからです。人間のエゴによれば、神の意志を、人間の思考が「悪」だと考えることに当てはめるべきではないということになります。なぜなら、悪は、悪い勢力の代表としての悪魔によって象徴されているからです。

             (中略)

 それが聖職者であれ、信者であれ、個人の考える心にとっての本当の問題は、ある瞬間にその行き渡っている状況の中で、権威ある個人が「よい」と考えることが起こることに関してだけに、神が関わっているという誤った観念です。言いかえれば、人間の考える心は、どんな瞬間にも起きている「すべての」こと、すなわち現在の瞬間の「あるがまま」が、神の意志であることを受け入れることができないのです。それは「神」という言葉が「源泉」、二番目のない一なるもの、そこから現象全体が生じるものとして、受け入れられていないからです。

 それゆえ聖職者と信者の考える心、エゴは、神の意志は、どんな瞬間にも、存在しているすべてのことに関係するということを受け入れることができないのです。神の意志は、人間が考える「よいこと」と「悪いこと」に依存していません。たとえば、第二次世界大戦のときに、自分の息子がベルリン襲撃で死んだある女性は、それが神の意志で起こったことを受け入れる理解力がありました。しかし、聖職者は、どうしてそれが神の意志でありうるのか?と問うわけです。彼にとっては、それはどちらかといえば、そのときイギリスが戦っていた悪の勢力、敵、ヒットラーの意志のように思えたのでしょう。

            (中略)

 私は、神の意志があらゆる瞬間に行き渡っていると思います。たとえば、殺人が起こったとしましょう。私のその出来事の解釈は、その出来事は神の意志、またはその当の肉体精神機構の運命ということになります。神の意志によれば、その人の運命が殺人によって死ぬということであり、その片方は殺人をするという運命なのです。そして、その殺人者がつかまって、死刑になるのか、またはつかまらず、それゆえ罰せられず自由の身でいるかもまた、その人の運命なのです。無実の人が罰せられるのもまた、神の意志であり、その人の運命でもあります。
 事実は、人間、つまり、現象全体の中の一つの対象物にしかすぎないものが、神の意志が機能するその基礎を知ったり、理解したりはできないということです。ドイツの神秘家、マイスター・エックハルトが表現しているように、人間にできることはただ、神の創造と機能の荘厳さと、多様性に驚嘆することだけなのです・・・私たちはそれを理解し始めることさえできません。





人生を心から楽しむ~罪悪感からの解放~

ラメッシ・S・バルセカール

(ニサルガッタ・マハラジのお弟子さんです)





スポンサーサイト
未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2007/06/22 21:31
コメント
こんにちは。

引用している文の内容、よくわかります。そのとおりだなぁと思うのですが、でも、神と人が対等の存在だということが抜けているようで、なんか運命論の危険を感じます。

神が「二番目がない一つのもの」で、悪魔と(ほんとうは神ではない)善神が「対立する二つのもの」というのは、中国哲学でいえば道(太一、太極)と両義(二極、陰陽)のことなのでしょうね。
しかし道は、世界のすべてのものに宿っている、物にも、現象にも、人にも。すべてのものそのものである。
だから神とは人のことでもあり(人の内にもあり)、すべてのことである、ということなのだと思います。だから、人が「神」や「運命」に従うままの存在だと考えると、これは違う。
この文章は、そのことを否定しているわけではないようですが、ひとは何者にも従わなければならない存在ではない、ということを、もっと強調していいと感じました。

運命も頑然とあるけれど、ひとは自分で自分の未来を歩いてゆくことができる。


どうもその辺りが気になりましたので、余計かもしれない一言のコメントでした。お邪魔しました。
>のまさん

おはようございます(^^

「運命論」というのは、人によって全く違った意味を持つやっかいな言葉だと思います。

そして、その言葉が意味するものはおそらく、「最初から確定された運命が存在していて人をそれを生きることしかできないのだ」、ということだと思います。

 これは往々にしてネガティブであるとか悲観的だと思われますが、必ずしもそうだとは思えないのです。というのは人間は未来を知ることは出来ないからです。
 もし確定した未来を人間が「知っていて」、それを変更することも出来ず、ただ運命に従って生きることしかできないということならこれは悲観的なものです。

 でも実際のところ、人間は未来を知ることは出来ないので、今僕らと共にある現実が「最初から確定された未来なのか」あるいは「自らがクリエイトした未来なのか」ということもわからないのではないかと思います。

  部分的な抜粋なので誤解を招いてしまったかもしれないのですが、この本の著者は目の前の状況に何もせずに服従せよ、とか屈服せよとかいうことを謳っている訳ではないです。
 
 とても良かったので、よろしければ是非読んでみてください!
 (うまく説明できないため笑)


灰タカさんこんばんは。
丁寧なお返事ありがとうございます。

抜き書きの部分を読んでの解釈だけで書いた勝手な解釈で、失礼いたしました。灰タカさんのお返事を読んで、安心いたしました。
未来という、見えないけれど大事なものに対してどのように処していくべきか、考え始めると終わることない未知の世界ですが、それゆえに「見えないこと」にいろいろと意味があるのだろうと思っています。

なんにしても、悲観的に沈殿してしまうことなく、こころに灯をもってゆきたいと思っています。積極的楽観、という言葉が好きです!

ありがとうございました。
みんな、頭がいいなあ。。ぼく、難しくてよくわかんないやぁ☆
ヤアー!
ヤア~v-14

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。