スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

 瞑想の質は、やはり変化しているみたいだ。

 修道会の翌日のような、らりらりな感じはないけど。
 ああもわかりやすく身体に来ると、なにかの影響を信じないわけにはいかない。即物的な自分にもわかりやすいような形であらわれてくれているのか・・とか思う。

 隣の席にガンギマリな感じの人が座っていて、仕事がすごく大変でも揺るがなくなってきたというような話しをしていた。逆に死ぬほど疲れて帰ってきたときのほうがよく「トベる」こともあるらしい。

 それはわからなくもない。
 疲れてるほうが余計な雑念が湧いてこない時があるから。
 家にこもっている時は、確かに外側から迷いの種が入り込んでくるということはないが、なんともいえない閉塞感や、内側からのマーヤが徐々に滲み出してきたりするのだ。

 I先生は、霊障を受けるようなスポットに行ってきたあとの方が瞑想に入れることがあるというような話しをした。
 そういう時は座って目を閉じたとたんに、お化けがビジョンとしてばーっと襲いかかってくるから集中しやすいんだそうだ。それって・・・(^^;わからん。

 神に意識を向けると、神があり、マーヤに意識を向けると、マーヤはどんどんふくらんでいく。
 仕事できついおばちゃんからの電話を取ると、そのおばちゃんとのやりとりを思い返したり、そのおばちゃんのいやらしさを(内面で)言語化しようとしたりするのだが、そういう内的行為がマーヤをどんどんマーヤにしていくのだなと感じる。泥で遊べば、自分の手も汚れざるを得ない。
 現象(マーヤ)以前に、戻れば、そこには煩わされるものはない。

 ダイジの「アメジスト・タブレット」を少し読み直す。
 0か1だなーと思う。ダイジのもとにはぎりぎりの人しか集えなかったのではないだろうか。初期の講話録はある程度守備範囲が広いと思うけど。
 でも「アメジスト」は自我に対して、かなり露骨に敵対的な部分が多いので普通読んでるとイヤになったり、きつくなったりしやすいと思う。
 この自我への攻撃をもっとも徹底的に、分析的におこなったのが、グルジェフではないだろうか。
 人の自我を攻撃するのは、その人の真我を愛しているからだと思う。

 しかし、「我」というのはやはり卵の殻的な側面ももっており、割れば必ず中から新しい命が出てくるわけではない。時期が早いのに叩き潰したら、可能性を潰してしまうだけだろう。








スポンサーサイト
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/12/14 22:13
コメント

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。