「アセンション」に実体はあるのか?(4)

 フリーター、ニートは「アセンション」出来ますか?


 現在、正社員以外の非正規雇用の労働人口が全体の3割を超えていると言われている。
 一昔前は、正社員以外の労働形態はすべてフリーターと呼ばれた。
 何かミュージシャンになるとか、小説家になるとか自分の夢があって、そのためにアルバイトで生計を立てているというイメージである。そこにはどこかお気楽な、遊び人というニュアンスも伴い、批判の対象にもなっていたように思う。
 しかし、現在、非正規雇用をフリーターと呼ぶこの定義だと、契約社員・派遣社員としてフルタイムで働き結構重要な仕事をこなしている人も「フリーター」に含まれることになりもはや実情に沿った言葉ではなくなってきている。女性では50パーセント以上が「フリーター」になっているのである。(男性20パーセント強)
 あまりに、非正規雇用が普遍化したために「フリーター」と言う言葉では大雑把過ぎるようになっている。 

 一方、ニートという言葉。
 これは働かない人たちのことだが、統計の仕方によっては「フリーター」人口が一部ニート人口として数えられることもあるらしい。
 
 「フリーター」「ニート」はどちらかと言うとネガティブな文脈で語られることが多かった。
 個人の病理として言うなら、ピーターパンシンドローム(大人になれない人)、社会不適応、甘えであり(この場合だと正社員として働きたくない人が増える状態)、社会の病理として言うなら不況により人件費を削減するために非正規雇用を増大させている状況として語られる。(この場合だと正社員として働きたいけど働けない人が増える状態)
 どちらにしても、あまりよろしくないことであった。

 最近ではさらに「ワーキングプア」という言葉も登場し、フリーター増加現象を景気の悪化による悪い現象ととらえた場合、病状がより進行しているとも見える。

 しかし、もう少し、シンプルかつ根源的な見方が語られることは少ない。いつの時代も、病気の症状は何かを教えてくれる。
 その症状の奥にある、声、叫びとは

 もう、精魂をすり減らして、企業の利益のために一生働きたくはない!

 と、言うことなのではないかと僕には思えて仕方がないのである。
 そこで問われている問題は、経済や、精神病理であると同時に、既存の生き方や価値観の正当性なのだ。
 日本人は、特に欧米などと比較しても、異常に働き続けてきたはずだ。第二次大戦が終わり、ひとつの巨大な価値が崩れ去ったあと、誰も彼もが個人の物質的な繁栄が幸福だと考えて働き続けてきた。
 その結果出現したのが、この巨大な精神病院のような社会だった。
 その中に生まれ、その中で傷を負ってきた人間が、
 その原因となったライフスタイル、自らの傷の原因となった暮らしにどうしてまた入って生きたいと思えるだろうか?
 なにか新しい生き方が必要なのだ。

 CDの開発者天外伺朗氏は、「フリーター」「ニート」と呼ばれる層の中には、社会参加に二の足を踏んでいる人がたくさんおり、この中に新しい時代を作っていく力がたくさんあるという(個人的には非常に勇気付けられる言葉)ことを言っている。 
 どちらにしろ、バブルのような時代に戻ることが景気の回復ではない。それは回復ではなく、後退だろう。
 
 ちなみに、僕個人に限って言えば、今のように非正規雇用が増えて、いろいろな労働形態が普遍化しつつある状態はホッとするものがある。(政治・経済的な見方ではダメダメなのかもしれないけど)
 僕は大学を卒業するまでは、社会とは、朝から夜まで働かなければならない牢獄のようなものかと真剣に考えていた。
 そして、やりたい仕事や、積極的にそれに向かう夢とかいうものがどうしても考えられなかったのである。
 だから大学には6年通い、就職活動もしなかった。
 
 特に目的というものもなく、東京に来て、色々なバイトをしながら生計を立ててきた。その過程で出会った、たくさんの人たち、出来事の思い出は宝になっているが、それは僕が「フリーター」であることとセットで切り離せない。

 以上、あまりアセンションぽくない話しでした(笑)。

スポンサーサイト
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/09/10 12:23
コメント

管理者のみに表示