客観芸術と主観芸術
グルジェフが定義したところによると、芸術(ART)には客観芸術と主観芸術が存在する。
客観芸術とは、宇宙の法則をそのまま体現したようなもので、それらの持つ形態、音、意味などが人の意識を治癒・向上させる類のものである。
意識を向上させるとはどのようなことか?ということは、同じくグルジェフ用語から考えたい。
人間の感情中枢には、低次の感情センターと、高次の感情センターのふたつがあるとグルジェフは考える。
低次の感情センターは常に機能しているが、高次のセンターはほとんど眠っている。低次のセンターは怒り、悲しみ、不安、恐れなどのネガティブな感情で常にエネルギーを消費している。
低次のセンターにも肯定的パートと否定的パートが存在し、肯定的パートでは「快」と感じられる感情も得られるが、それほどレベルの高いものではない。多分バラエティ番組を見て笑っている時のような「快」だと思う。
稀に高次の感情センターが機能すると、超越的な愛や、感謝、畏怖など神秘体験に付随するような感情が発生する。客観芸術の役割とは、高次のセンターへの橋渡しであると考えられる。
「グル」の存在も高次感情センターを機能させる。
高次感情センターと、高次思考センターの活動が、悟りの諸相である「智恵と愛」であると思われる。(グルジェフ流に解釈すれば)
自然は芸術作品であると言われるが、「客観芸術」と呼ばれるものの原型は自然現象という形で既に存在している。
自然の形態、音、匂いなどは人のリズムを正常なものに調律し、その中で生かされていることへの感謝を思い出させる可能性がある。
愛、感謝、創造主への全面的降伏が起りうるのは、そのような状態を介してではないだろうか?
物質的には非常に質素な暮らしをしながらも、精神性を守りぬいているネイティブアメリカンのような人たちは、常に常に大地とのつながりをもっとも大切にしている。
確か今年の初めに書いたような気がするが、古代エジプトの文明というのは、失われたアトランティス文明の名残を継承しており、客観芸術の持つ意味を理解していた。ピラミッドやスフィンクスは客観芸術の結晶であると考えられる。これはアンソニー・ウェストの「天空の蛇」に詳しく述べられている。
芸術の持つ意味は、時代を下るにしたがって次第に個人的色彩を強めてきた。それは「主観芸術」と呼べるものに次第に変化していった。あるいは「主観芸術」のみがアートとみなされるようになった。
そして現代娯楽作品として製作される多くの映画や、ドラマ、小説はイタズラに低次の感情センターを撹乱して刺激を感じさせるものがあふれている。そして自分が与えられているものへの感謝を生み出すのではなく、自分が与えられていないものを想像の中で補い、それへの欲求を掻き立てるような働きをもしている。
「客観芸術」は、今・ここにフォーカスさせるものであり、自分が持ち得ない何かを熱望させるのではなく、既に与えられている実存に気付かせる。
例えば、スーフィーの寓話や、キリストやブッダの生涯の物語は、その言葉は、それが創作であろうとなかろうと、客観芸術であると僕は感じる。
イエスの生涯で言えば、処女懐胎から始まり、十字架上の死と復活に至るまでいくつものレベルで象徴的に読解するということが可能だ。
そこに含まれている「意味」は途方もなく大きい。
それらは史実として学ぶのではなく、内面的に読み解いていくものなのだ。
「客観芸術」の特質のひとつはその奉仕性にあるのではないだろうか。あたかも太陽や月の様に、それらは惜しみなく光を注ぐがその見返りを求めていない。ピラミッドやスフィンクスも同じように、より偉大なるものへのモニュメントとして製作されたものであり、利益の回収を求めたりしていないのだ。
「客観芸術」が重んじられる、またはそれが生まれてくる文化的な土壌が存在し、エジプトのモニュメントにはそのような忘れられた精神性が働いているのではないだろうか。
安直にそれらを「王の権力を誇示するもの」なんて言うのは、我々の時代の発想だろう。それはピラミッドについてではなく、僕らの意識についての表明に過ぎない。
客観芸術とは、宇宙の法則をそのまま体現したようなもので、それらの持つ形態、音、意味などが人の意識を治癒・向上させる類のものである。
意識を向上させるとはどのようなことか?ということは、同じくグルジェフ用語から考えたい。
人間の感情中枢には、低次の感情センターと、高次の感情センターのふたつがあるとグルジェフは考える。
低次の感情センターは常に機能しているが、高次のセンターはほとんど眠っている。低次のセンターは怒り、悲しみ、不安、恐れなどのネガティブな感情で常にエネルギーを消費している。
低次のセンターにも肯定的パートと否定的パートが存在し、肯定的パートでは「快」と感じられる感情も得られるが、それほどレベルの高いものではない。多分バラエティ番組を見て笑っている時のような「快」だと思う。
稀に高次の感情センターが機能すると、超越的な愛や、感謝、畏怖など神秘体験に付随するような感情が発生する。客観芸術の役割とは、高次のセンターへの橋渡しであると考えられる。
「グル」の存在も高次感情センターを機能させる。
高次感情センターと、高次思考センターの活動が、悟りの諸相である「智恵と愛」であると思われる。(グルジェフ流に解釈すれば)
自然は芸術作品であると言われるが、「客観芸術」と呼ばれるものの原型は自然現象という形で既に存在している。
自然の形態、音、匂いなどは人のリズムを正常なものに調律し、その中で生かされていることへの感謝を思い出させる可能性がある。
愛、感謝、創造主への全面的降伏が起りうるのは、そのような状態を介してではないだろうか?
物質的には非常に質素な暮らしをしながらも、精神性を守りぬいているネイティブアメリカンのような人たちは、常に常に大地とのつながりをもっとも大切にしている。
確か今年の初めに書いたような気がするが、古代エジプトの文明というのは、失われたアトランティス文明の名残を継承しており、客観芸術の持つ意味を理解していた。ピラミッドやスフィンクスは客観芸術の結晶であると考えられる。これはアンソニー・ウェストの「天空の蛇」に詳しく述べられている。
芸術の持つ意味は、時代を下るにしたがって次第に個人的色彩を強めてきた。それは「主観芸術」と呼べるものに次第に変化していった。あるいは「主観芸術」のみがアートとみなされるようになった。
そして現代娯楽作品として製作される多くの映画や、ドラマ、小説はイタズラに低次の感情センターを撹乱して刺激を感じさせるものがあふれている。そして自分が与えられているものへの感謝を生み出すのではなく、自分が与えられていないものを想像の中で補い、それへの欲求を掻き立てるような働きをもしている。
「客観芸術」は、今・ここにフォーカスさせるものであり、自分が持ち得ない何かを熱望させるのではなく、既に与えられている実存に気付かせる。
例えば、スーフィーの寓話や、キリストやブッダの生涯の物語は、その言葉は、それが創作であろうとなかろうと、客観芸術であると僕は感じる。
イエスの生涯で言えば、処女懐胎から始まり、十字架上の死と復活に至るまでいくつものレベルで象徴的に読解するということが可能だ。
そこに含まれている「意味」は途方もなく大きい。
それらは史実として学ぶのではなく、内面的に読み解いていくものなのだ。
「客観芸術」の特質のひとつはその奉仕性にあるのではないだろうか。あたかも太陽や月の様に、それらは惜しみなく光を注ぐがその見返りを求めていない。ピラミッドやスフィンクスも同じように、より偉大なるものへのモニュメントとして製作されたものであり、利益の回収を求めたりしていないのだ。
「客観芸術」が重んじられる、またはそれが生まれてくる文化的な土壌が存在し、エジプトのモニュメントにはそのような忘れられた精神性が働いているのではないだろうか。
安直にそれらを「王の権力を誇示するもの」なんて言うのは、我々の時代の発想だろう。それはピラミッドについてではなく、僕らの意識についての表明に過ぎない。
Comment
>うさ子さん
ありがとうございます。
>いろんな客観芸術的なものに触れてるのに、気付いてないこと、
>いっぱいあるように思います。
あるでしょうね〜。グルジェフは人は「印象」によって生きているて言うんですよね。目にしたもの耳にしたものの「意味」を食って生きてるんです。だから、客観芸術って人を生かすものなのかもしれません。
人を生かしてる微細な次元の法則を、形態化したもの・・・でしょうか。フラワーオブライフ的な幾何学も含めて。
ありがとうございます。
>いろんな客観芸術的なものに触れてるのに、気付いてないこと、
>いっぱいあるように思います。
あるでしょうね〜。グルジェフは人は「印象」によって生きているて言うんですよね。目にしたもの耳にしたものの「意味」を食って生きてるんです。だから、客観芸術って人を生かすものなのかもしれません。
人を生かしてる微細な次元の法則を、形態化したもの・・・でしょうか。フラワーオブライフ的な幾何学も含めて。
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感動しました〜。
いろんな客観芸術的なものに触れてるのに、気付いてないこと、
いっぱいあるように思います。