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ディクシャの科学的説明

 ディクシャという手法を開始した、カルキ・バガヴァンによると、「悟り」というのは神経生理学的な変容であるということだ。
 脳のどのような部分が変化すれば、いわゆる覚醒した意識状態が生まれるのかということはドラッグによる変成意識や、臨死体験などとの絡みで個人的にはずっと興味のある問題だった。

 バガヴァンによれば、頭頂葉と前頭葉の活動が意識の変容に大きく関わっているという事らしい。
 まず頭頂葉は、「一部の神経科学者たちが見当識連合野(orientation association area)あるいはOAAと呼ぶものを司っている。OAAの機能は空間における方向定位を我々に提供することである。」
 空間の中で自己と他者、あるいは他の事物がどのように配置されているのかということを認識する部位ということになるのだろうか。
 現代人のこの部位は慢性的に過活動の状態にある。するとどういうことが起こるかというと、自己と他者、自己と世界がまったく分離しているという感覚を常に生み出し続けるらしいのだ。
 しかし、ディクシャという手法によってその部分にあるエネルギーを流すと
頭頂葉に変容のプロセスをもたらし、その機能が永久的に変化し、定着するように見受けられる。それによって、物理的境界は認識されるが不自然な活動過多は停止する。そして小脳扁桃―海馬はもはや分離した自己の存在という感覚を生み出す必要がなくなるのである。」

 前頭葉の方は、「神の実現」に関係している。
 「前頭葉は個人的意思と関連している。多くの神秘的伝統では、個人的意思が神の意志へと溶け込むことが、神実現への入り口であり、結果であると述べている。しかしこれは、もし前頭葉が活性化していなければ起こりえない

 もし前頭葉が十分に活性化されていない場合には、「主観的体験レベルでは、これは脆弱な自己意思と鈍感さを意味する。退屈感は前頭葉が不活発な時にのみ感じるものである。前頭葉が活性化するために欠かせない神経伝達物質であるドーパミンは、生きていることに魅惑されている感覚、至福感にとって必要である。神との神秘的結合にはこのような感覚、至福感が伴うとしばしば報告されている。」

 そう言えば、ディクシャを受ける時は、頭のてっぺんと額に手をあてられたのを思い出した。
 「神の認識」というのは、やはり文化的な伝統が生み出したものではない。もともと脳には「絶対者を知る」という体験を司る部位が存在するのだろう。宗教のバリエーションというのは、その「絶対的体験」が文化的なフィルターを通されて様々に変質していったものではないだろうか。

 ディクシャによって、本当に悟りへと導かれるのかということは、今の段階ではなんともわからない。この運動自体が本物であれば、時間が結果を出してくれるだろうけど。
 個人的にはディクシャを受けてから、いくつか面白い事はあったけど。。。

 ディクシャの科学的説明はここから拝借↓

http://www.din.or.jp/~holos/deeksha/opitz.htm

 「ディクシャと脳のスキャン 」
 「悟りと脳」 
 「魂の暗夜と脳科学」













 














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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/02/15 17:52
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