ナチュラル

 ダンテス・ダイジは、ある講和の中で「人の為に自分の命を投げ出すのが、人間にとってもっともナチュラルな状態なんだ」と言っていた。

 自己犠牲というと、なにかすごく徳の高い人しか出来ないというようなイメージがあるが、というよりもそれがある意味「当たり前」であると言ってるようで、印象に残っている。
 しかし、その「当たり前の人間」が現在ほとんどいない、とも言ってる訳だが。

 昨日、ビールを飲みながら「銀河鉄道の夜」を読んでいた。 
 カムパネルらがクラスメートを助けるために、河の中に入り溺れてしまったことをジョバンニが知るシーン。カムパネルらがそうしたのは、彼の心がクリアでナチュラルな状態であったからだと言える。
 でも、ナチュラルな状態であれば、自然とそのように体が動く生物に人間をつくった「宇宙」になにか眩暈がするような感覚を感じた。

 カムパネルラが友人の為に死んだことを知ったあと、ジョバンニは、お母さんのミルクを持って家に走っていく。この物語の中では何もかもが愛によって満ちている。その自己犠牲の精神は、「蠍の火」の話しで象徴的に語られている。
 
  「僕はもうみんなの本当のしあわせの為なら 僕のからだなんかひゃっぺん焼いたってかまわない」と言うジョバンニもやはり彼岸への旅を通じて自分のナチュラルさを発見できたと言えるのだろう。

 もしかすると、みんな心の底では、誰かのために死にたいのではないだろうか?
 そんな気さえするのだ。
 しかし、それを恐れてもいる。

 多くの人は、人には悪く思われたくないし、自分でも良い人間だと思いたいと思うのだが、一方 
 超良い人間(カンパネルラ的行為を喜んでするような)であることは恐れているのだ。
 少なくとも、僕はそうである(とある出来事で認識した)。
 ハートの奥に潜むイエスが自分の姿となることを拒絶している。 
 適当なところで「チョイ悪」な自己イメージで留めておいたほうが、馴れ合いが利く。
 しかし、ナチュラルということは、僕らがどう思おうが、その本性は超善で、すでにそれだということになる。 
 
 いろいろなものに、命を捧げているんだろうか。

  しかし、そこまで行かなくても、ひとりでに倒れる誰かを支えようと体が動くようなときと言うのは、誰にでもある。
 それだって十分、すごい。 
 それをするのは自「我」ではなく、誰の中にもある神様から与えられた、尊い部分なのだろう。

 ひとりでにしてしまうとか、体が勝手にとか、普段はそんな(やさしい)人じゃないのに・・とか言うけど
 自分がやらない(やってるという意識がない)からこそ、それは尊いように思う。

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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2008/07/03 00:31
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