哺乳類はなるべく食べない。

  肉食を避ける人にはいくつかタイプがあると思う。

  ①ノービーフ、ノーポーク、ノーチキン、ノーフィッシュ

  という完全菜食主義者から、

  ②ノービーフ、ノーポーク、ノーチキンだが、魚はおいしくいただきますというタイプ

  ③ノービーフ、ノーポークでチキンは食べる(魚も)というタイプもある。

  僕は今のところ③を目指しているが、この前旅行に行ったとき売店でフランクフルトを買い、ケチャップとマスタードをかけようとしたあたりで僕はハタと気付き、

 「これって豚だよね?」と相方に尋ねた。

 「当たり前でしょ」

 し・しまった~~~~。哺乳類だった。とは言えケチャップまでかけているので、おいしくいただくことにする。このように肉食の魔の手は広いのである。

 なぜチキンはよくて、豚と牛はいいのか?
 鳥だって生きてるんだぞ!という意見もあると思う。
 僕も理想は菜食(魚は食べたい)だと思う。
 が、どうも鳥類と哺乳類の間にある一線があって、だからチキンだけは許しているという人が多いのではないかと思う。

 これはなぜかということは『日月神示』を読んではっきりしたのだが、豚さんや牛さんは人間にかなり近いということ。人間に近いものを食べれば一種の「共食い」になるということだ。

 誰だって自分に近いものは食べたくない。
 ゴリラやチンパンジーを食べたいと言う人はあまりいないだろうし、犬や猫をあまり食べないのは(まー食べる国もありますが)彼らがいつも身近で心理的な距離が近いからである。
 本来、牛や豚とも人間は心理的距離が近い。仲間感が強いはずだ。
 牛も豚も人間と同じようにお母さんの乳を飲んで育つ。
 親に対する愛情、子への愛情と言うものもあるだろう。
 
 が、牛や豚を都会で飼ってる人はまずいないし、見るのはスーパーですでに食肉加工してパックになってるものだけだから、その距離感が感じられなくなっているのだろう。
 牛や豚の感情(喜怒哀楽)は、魚や鳥のそれよりも人間そのものなのだ。
 殺されたときに感じる痛み・恐れ・悲しみはそれ相応のものがあると思う。

 と言っても鳥には愛情がないから食ってもいいとと言ってる訳ではない。
 鳥→魚→植物
 と人から遠く移行するほどに、感情が人間的ではなくなり、そのため「恨み」によって食あたりすることがなくなるのではないかという話し。

 『日月神示』は自分より遠いもの(穀物と野菜)を食するのが、本来の食の姿であると言う。
 そうすると食べられるものにも憎しみや苦しみはなく、食べるほう・食べられるほうどちらにも喜びがあるからだと言う。 
 
 「草木は身を動物虫けらに捧げるのがうれしいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生まれると申してあろうがな

 「霊人はまた、いろいろな食物を食している。言うまでもなく、霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが要するに歓喜を食べているのである。

 食べられる霊食そのものも、霊人も、いずれも食べるということによって歓喜しているのである。地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。

 そして、食べるということは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば、霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。

 これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ると、食べているのか、食べられているのか、判らないほどである。

 また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠く離れたものを好む。
 現実社会における、山菜、果物、海藻などに相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故なれば、性の遠く離れた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い動物的なものを食べると歓喜しないのみならず、かえって不快となるからである


 つまり性の遠いものを食べる方がお互いに「うらみっこなし」になるということのようだが、この言葉は僕にはとても論理的かつ合理的に感じられる。

 牛や豚を食べると、スタミナがつくというようなイメージがあるが、本当は消化するのに大きなエネルギーを使うのでからだに無駄な負担をかけているようだ。
 さらに消化し切れなかった老廃物が血液を汚す傾向がある。

 本来、日本には戦前肉食は少なかったが、敗戦後、意図的に導入されたのである。
 それは欧米の穀物メジャーや畜産業界の利益になるからだった。
 広告を使い積極的なパフォーマンスが行われたのだ。

 テレビでうまい焼肉屋の特集とかをよく見かける。
 あーいうのに洗脳されると、焼肉がごちそうだと頭の中に刷り込まれてしまう。

 確かに、うまい。
 瞬間的には。
 だがその後のからだの状態をしっかり観察して、感じてみると、そんなに喜んでないのがわかる。

 玄米に魚と味噌汁のほうが、ずっと元気で、喜んでいる。
 なのになぜ肉を食う必要があるのだろうか・・・
 
 だから当たり前のことだと思う。
 禁欲的なことでもなんでもない。
 本当はそっちのほうがずっと「楽」なのだ。

 神様を信じることも、それが自然で、楽なことだったのではないかと思う。 
 神がない世界には不安しかない。
 なのにそれが「宗教の領域」に閉じ込められててしまった。
 それは「食」と同じくらい、それ以上に自然なことだったのではないだろうか。

 本当に自然なこと。
 それを思い出したい。
 日月神示は本当の意味でそんな楽な道を、ウレシウレシの道を説いているのだ。  
 それが「かんながら」の道かもしれない。 


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アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2008/07/13 15:17
コメント
とてもとても納得致しました。
自分も今、様々な事を見、聞、感じ、毎日気づいて納得しての連続です。
あなたの言葉もとても心に入り納得させられた次第です。
有り難うございました。
>yamatouzume様

コメントありがとうございます!
ずいぶん前の記事ですが、これで引用した日月神示の考え方は、何かものを食べるときに今でも心のどこかにあるように思います。ちょうど個人的に、食べ物についていろいろ考えているサイクルでした。思い出させていただきましてありがとうございましたv-238

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