文化的多様性と食糧危機

  昨日NHKで生物多様性についてのフォーラムを見た。

  約3000万種の生き物が地球上には存在しており、それぞれが固有の役割を持っているということであるが、急速に種の絶滅が進行している。
  本来種は自然の法則によって生まれたり、絶滅したりするものだが、近年の大量絶滅は人間が行っていることで、そのつけは結局人間に帰ってくる。

 これを見て思ったのだが、『文化』というのも多様性があるからこそうまくバランスがとれているのではないだろうか。西洋商工業都市文明の一元的なグローバリゼーションは、ただただ一方的に地球環境を破壊してきた。
 本来あった土壌を無視して、そこにまったく異種の植物を植えた。その植物は歪んで、毒々しい花を咲かせるより他ない。
 「文化・文明」というのもひとつの有機体である。
 そこには先人が保持してきた生きる知恵や、情熱がこめられている。
 もちろん新しい世代と、古い世代の間で葛藤や対立があるのは当然だ。
 古代エジプトの頃から老人は「最近のわかいものはなっとらん」とぼやいていたそうだが、そのような葛藤を通じて文明は変化・発展してきた。 
 そのような変化はいわば自然な変化だった。

 しかしこれに対して、暴力的な変化というものが存在している。
 暴力的な変化とは、物理的・精神的な占領政策である。
 それまでのライフスタイルを無視して、外側からの力によって半ば強制的に文化を改造するということがある。ネイティブアメリカンや、アボリジニの人々に対してはそれは赤裸々に行われた。
 彼らは先祖代代々住んでいた肥沃な土地を追われ、精神的な伝統を否定され、望みもしないのに義務教育を強制された。
  「自由・平等・平和」というのが彼らのスローガンであるが、その実態は「貨幣主義」であり、実態なきものによって、実態あるものを支配・統制することだった。
  情報というのも一種の暴力である。四六時中(生まれたときから)ある種の情報にさらすことによって、その情報をインプットし、「自由な選択」によってそれを行っていると思い込ませることが出来る。

 このような人工的に変質させられた文化は、その本流とあまりにも離れすぎたために衰退していくことを免れない。これは「暴力的な変化」である。
 このようにして、いくつもの文化が変質し、西洋商工業都市文明のグローバリゼーションの中に取り込まれる。取り込まれた国々では、大量の消費や、精神の荒廃が進行し、やがて結果として世界全体が危機に瀕するということになる。
  このように考えると「文化多様性」が失われることは、全体にとっての危機であると考えるのもそう間違っていないだろう。

  例えば・・・最近、食料の値段が高騰し、日本にも食糧危機が来る可能性が叫ばれている。
  その主な原因はオーストラリアや、アメリカ、中国の穀倉地帯で異常気象による旱魃などの影響で作物がとれなくなったということもあるが、他に今まで肉食をしなかった発展途上国の間で肉食が増えてきたことなども原因のひとつであるらしい。
  肉食は、非効率的な食事だ。
  本来、自然界では、植物、草食動物の数に比して、肉食動物の数はきわめて少ない。少ないからこそ、草食動物が食べつくされることなく生態系のバランスが保たれている。
  しかし人間ずべてががんがん肉を食うなら、その分の牛や豚が必要となり、それらを飼育する穀物が必要となってくる。つまり一頭の牛を食べることは、その牛がそれまでに食べてきた何十キロ、何百キロの穀物を食うと言うことでもあるのだ。
 それだけの穀物があれば、現実に食糧危機に陥っているほかの国の人をたくさん食べさせてあげられるかもしれない。なのにそれを牛のえさにして、その牛を自分たちが食うと言うのはいかがなものだろうかと思えてくる。

 先の記事でも書いたが、日本も戦前までは肉食はほとんどなかったと言う。
 「食文化」というのもひとつの文明を構成する重要な要素であると思うが、日本の「食文化」が相当変質してきたことも、様々な成人病や、精神病の原因のひとつであると思える。
 案外そんなことを見直して、本来の文化を取り戻すだけでも日本は世界に貢献できるかもしれない。 
 というか、日本で生まれたマクロビオティック(玄米菜食)なんかは国内よりアメリカやヨーロッパでもてはやされてるかも・・・。

 もう肉はそろそろうんざりです・・・の国々だが、地球の全ての人が肉はもううんざり・・・と思うほど肉を食わせる余裕は地球にはもうない。

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未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2008/07/14 12:26
コメント
はじめまして
はじめまして。はいたかさんのブログは興味深くていつも拝見させていただいております。昨日偶然みつけた動画とこの話題が僕の中でシンクロを感じさせたので、初コメしてみました。
その動画とは、有名みたいなのですでにご存知かもしれませんが、セヴァン・スズキという少女の、1992年に行われたリオのサミットでの伝説のスピーチというやつです。youtubeでみれます。

僕が最近強く思っていることは、"人は大人になってからも(こそ)、学び続けなければならない”ということです。子供のときは自然にいろんなことを学べたのに、大人になると押し付けられるシステムに、慣れる、耐えるということが要求され、思考を麻痺させている人が非常に多くいるように感じます。しかし、次の世代に伝えるべきこと、残すべきものを学び、体現していくことが大人としての責任であるように思います。
そんな僕も20代後半で、大人の側にいる立場なのですが、今の社会の現況の中で、その責任を果たすのはなかなか難しくて、日々悪戦苦闘し、迷い続ける毎日です。・・・・・・うまくまとめられませんが、この少女のスピーチになにか駆り立てられるものを感じ、はいたかさんのこの話題にシンクロを感じたので、ささやかすぎですが、コメントするというアクションを起こしてみようと思いました。
長文ホントにすみません。
>ジョナサンさん

初コメありがとうございます。

セヴァン・スズキのスピーチ聴かせていただきました。
誰でも子供の頃は彼女のような視点を持っているのかもしれませんね。
動物が死んでいくのが悲しい、オゾンホールが怖い、貧しい子供たちがかわいそう、これらはすべて当たり前のことだと思います。
でも大人になると、それらの現実がどこかヴェールをかけられたように遠い世界の出来事のように思えてくるのかもしれません。

>大人になると押し付けられるシステムに、慣れる、耐えるというこ>とが要求され、思考を麻痺させている人が非常に多くいるように>感じます

とジョナサンさんがおっしゃっているようなことが、非常に知覚できる現実を狭めているような気がします。
現在のシステムそのものがそのような現実を生み出しているところもあるので、システムは現状維持のために、大人には麻痺していてもらいたいのかもしれません。それはシステムの防衛作用ではないでしょうか。

でもその中で悪戦苦闘しながらも、学ぼうという意志を持っているジョナサンさんのような方もいらっしゃることが、やっぱり全体の希望なのではないかと思います。学校じゃ大事なことはなにも教えてくれないですから、大人になって自分で学ぼうと思ったときが本当の始まりですね。

こんごともよろしくお願いします♪
ご返答ありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いします。

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