「永遠の伴侶~スワミ・ブラマーナンダの生涯とその教え~」
 日本ヴェーダーンダ協会出版

 ラーマクリシュナの直弟子といえば、僕はヴィヴェーカーナンダしか知らなかったが、この本はもう一人のブラマーナンダ師の伝記や教えをまとめたものになっている。

 『永遠の伴侶』というタイトルは、ラーマクリシュナがこのブラマーナンダ師がクリシュナ神と蓮華の上で遊び戯れているというビジョンを見、この少年はクリシュナの永遠の伴侶であると悟ったというエピソードから来ているようだ。

 ブラマーナンダ師の教え、導き方というのはかなりI先生のやりかたに似ている。バクティ、神を思うということを強調し、ジャパ(神の名を唱える事)を勧める。先生はこの本を種本にしているのではないかと思ってしまうほど似ている。
 しかし、それだけに、僕が今いる方向性に適したアドバイスがたくさんこの本の中に発見されたように思えた。

 『誰でも、自分の一番好きな仕事をしたいと思うのだが、それは働きの秘訣ではない。どんな仕事をする場合にも、それが好きであろうとなかろうと、それは主の御仕事である、ということを知り、それにふさわしい態度をとれ』

 『ある時ある人がラーマクリシュナに、自分は一向に神を瞑想したいという気持ちにならない、と打ち明けた。師はかれに、誰を、もしくは何をもっとも愛しているかとお尋ねになった。かれは、自分はペットの子羊を一匹飼っていて、それを非常に深く愛している、と申し上げた。

 「よし、よし!」と師はおっしゃった。

 「たいそう良いことだよ!その子羊に餌をやる時には必ず、かれを愛撫したり何かをしてやったりする時には必ず、自分はいま主に奉仕しているのだ、と考えよ。もしお前が真心こめてこれをすることができるなら、それで最高者に到達することができるぞ!」と。』

 『常に神を思え。ものを食べている時に、すわってる時に、寝ているときにかれを思え。何をしていても神を思え。このような実践の反復によって、瞑想の時にらくに神を思い、かれに没入することができるようになる』

 『シュリ・ラーマクリシュナは常におっしゃった、「決してこころのエネルギーを浪費してはならぬ」と。これは、絶え間なく神を思っていよ、という意味である。世俗的な人は、自分の金を浪費しないように非常によく気をつけるが、自分の心を浪費していることにはほとんど注意を払わない。心に絶えず神を思う、ということほど偉大なことはないし、やさしいこともない。このような実践こそがクンダリニーをめざめさせるのだ。マーヤーのヴェイルが一枚また一枚とはがされて新しい視野がひらけるのである。』

 『神を買う事はできない。見神の経験は、ひとえに神のお慈悲によって与えられるものだ。それでは人は修行しなくてもよい、ということになるのか。絶対に、しなければならない。そうでなければ、欲情が人をめちゃくちゃにしてしまうだろう。 金持ちは門番を雇う。門番の務めは、泥棒も牛も羊もその他の侵入者も邸内に入ってこないよう見張る事である。人の心はかれの門番である。それだから心は強くなるほど良い。心はまた御しがたい馬にもたとえられて来た。そんな馬は乗り手を間違った方向につれて行くかもしれない。手綱をしっかりと握ってその馬を制御することのできる者だけが、正しい道を歩く事ができるのだ』

↑こころが門番なら、神様はさしづめ「お客様」か。いつくるか分からない客。「お客様は神様です」お~至言!(爆)

 『もし神の御名という甘露を味わったなら、それをとなえるのをやめることなどが、できようか。かれの御名の力たるや、人がそれを感情をこめて繰り返しても機械的にくり返しても、どちらでも効果が現われる、というほどのものである。師はよくおっしゃった。

 「ある人がガンジスの堤の上を歩いているとせよ。かれは自らすすんで沐浴することもできる。間違えて河に落ちるかもしれない。あるいは、誰かに水中に推しいれられることもあろう。その何れにせよ、彼はガンジスで沐浴はするのである」と』

 やはりインドと言う特殊な特殊な国の、しかも今から100年ほど前の教えなので部分的にはついていけないところはある。
 過度に禁欲的な部分などであるが・・・・。
 バシャールが『あなたがワクワクすることをしなさい』と言ってからかどうかは知らないが、ニューエイジ系の教えには無節操なまでに自分に楽しく、忠実ならばOKという考えが広がっているように思える。
 だが、その楽しさが表面的なものか、あるいは本当の魂の声なのかということを判断するという責任は放棄しているように感じられもするのだ。ダンテス・ダイジ導師の『君はどうかい?』という言葉の無限の多層性が示しているような深みがない。(バシャールへの批判ではない。そういう浮ついた傾向のこと)
 古典的な教えは、やはりその根本において「自我との戦い・戦争」(超努力)なのである。これと「流れに身を任せる」(いわば無努力)という教えはどのように結びつくのだろう。

 僕は、食欲も、テレビも、ビデオも性欲も、とくに捨て去るつもりはいまのところないのだが、「放棄」ということについて考えさせられた。
 「世俗」を放棄して、神のみに身を捧げるということの意味。
 自我の思い描く未来を退け、神に身を委ねるということについて。

 充実した仕事、金銭、旅、パートナーなど多くの人が思い描く「ハッピー」はすべて俗であることは現代でも変わりはない。
 それらを全て退けると言うわけではなく、もっとも本質の「神」をなによりも愛し、求めるという方向性が必要なのかもしれない。
 この世の全てを経験して、うんざりしてから神を求めるのではなく、まずあらゆる至福の源泉を愛するということ。そこからはじめるという事。









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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/26 12:00
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