精神的な指導者が、社会的・道徳的に見て、許しがたい行為を行うという場合そこには何パターンかの理由があるように思われる。

 まずひとつめ、

 ①彼が完全な詐欺師であった、という場合。

 つまり彼は、占いの技法や聖典などをある程度研究し、そのような世界に関する知識を持っていた。加えて、人をコントロールし、欺くすべに長けていた。彼は宗教はやりようによっては非常に金になる、と思いいわば「事業」として教えを説いていた。
 この場合、彼はいかなる形での内面的体験、覚醒体験もしていない。彼は物質を越えたものを信じてはいない。
 しかし、このようなケースは比較的少ない。
 そして、あまり大きな社会的問題にはならない。
 問題になるのは、②以降である。
 
 ②彼は完全に本物の導師であった。ただ「狂気の師」であったために現代の社会がそれを容認できなかった。

 人が描く、聖者のイメージと言うのはステレオタイプである。彼は温厚で優しく、自我から解放されている。いつも静かに微笑んでいる。彼は正直で、謙虚で、ストイックだ。このようなイメージは、あまりにもステレオタイプでありすぎるために、リアリティーに欠ける。
 人々は「聖者は~をしない」というルールを自分の頭の中で勝手にいくつもつくりあげる。聖者は嘘をつかない、聖者は汚い言葉を使わない、聖者はセックスをしない、聖者は贅沢をしない、聖者はミニスカをはいて、鼻ピアスをしたりしていない(そうではなくなんかだらーんとした長い服をきている)・・・その他無数。
 もちろん、そのようなイメージに限りなく近い聖者というのも存在する。しかしそれが聖者の表の顔だとすれば、裏の顔をもつ導師と言うのも存在すると僕は思っている。
 彼らは、一見すると、めちゃくちゃな振る舞いをする。突然怒鳴りつけたり、非合理な事でしかりつける。いきなりベンツを何十台もコレクションし始める。女弟子や信者に手を出して、はらませる。
 しかし、彼らは本当は真理を悟っており、そのような行動は「愛ゆえに」されているのだ。和尚は確か、講話でこんなたとえを用いていた。
 
 『せまい部屋に鳥が迷い込んできた。窓は開いているが、鳥はそれに気付いていない。そこで、私は強く手を叩いた。すると、驚いた鳥は舞い上がり、開いていた窓をすり抜けて大空へ帰っていった。
 さて、手を叩いた時に鳥は、どう思っただろうね?
 ひどく驚き、いくらかは屈辱的に感じたのではないだろうか?』
 
 このように手を叩く、という行為、つまり人を解放へと導く行為が場合によっては人間の自我をひどく脅かせるものであることもありうる。弟子には、それが全く理解できないが・・・。なぜなら弟子は、短期的な視点しか持ち合わせていないからだ。
 導師は弟子にどう思われようが頓着しない。そういう次元には生きていないからだ。言葉のわからない鳥に愛情を持って「あそこに窓があるよ」と話しかけるよりも、ぱん!と手を勢いよく打ったほうが早いからだ。そうすれば、鳥は機械的に飛び上がり、自動的に窓から出て行くということを導師は予測できるのだ。少しくらい驚かせても、それが鳥のためだ。

 ではこの行為はどこまで、通常のモラルを越えるのだろう?
 
 嘘をついて弟子を導くことはあるか?→YES、僕はあると思う。
 意味もないことで叱ったり、暴力を振るうことはありうるか?
 →YES、僕はあると思う。 
 では弟子のために、弟子を殺すことはあるか?→・・・・・。

 結局、これがオウムのヴァジラヤーナ、金剛乗の問題である。
 自我を脅かす、解放のための手の一打ち、これを論理的にいくとこまで飛躍させていくと必ず、

 社会的極悪=超越的最善

 という価値の大反転にまで行き着きはしまいか??
 可能性としては、僕はそれもあると思う。
 なぜなら、神は、そのようなことをいつもするではないか・・・。
 しかし、これは麻原や、凡人である僕たちが考える事ではない。

 狂気の師という存在に社会が無理解なのには、もうひとつ理由がある。
 多くの場合、

 浄化→進化→浄化→進化→浄化→進化→悟り

 と、ステップバイステップで真理に至ると考えられている。
 これだと、真理を悟った人は、浄化されつくしている訳だから全くピュアな神様みたいな存在になっていても不思議ではない。

 だが、癒し、浄化、進化と言う軸の延長線上に

 悟り・覚醒というポイントが必ず待っているわけではない。このふたつは全く無関係ではないにしても、常にずれており簡単には理解できない。
 だから目覚めた人が、人格的に完全(それってどういう意味だろう??)だとは限らないのである。
 ダンテスダイジは、「悟りと人格的成熟はまったく無関係だ」と言い切っているが。。。 
 ②の狂気の師が、社会に波風を立てた場合、それは必要な波乱、「みこころ」であったということになる。

 ③彼はいくらかは真理を知っていたが、それは不完全な真理であったと言う場合。

 これがやばいパターンではないか。
 だいたい、ドラッグもやっていないのに、ばーっと光のかたまりが見えたり、美しい声が話しかけてきたり、見えるはずの無いものが見え始めたりした時に、自我が増長せずにいられる人間がどれだけいるのか?

 グルジェフは「人が覚醒すると、眠り込ませる力が何倍もの勢いでやってくる」と言っていた。
 この眠りこませる力、というのをサタン(外的な諸力)と考えることもできるが、あるいは「我の揺り戻し現象」ともいえるかもしれない。
 潮が引いた海辺のように一時的に解消した自我が、今度は津波のような勢いで押し寄せてくるのだ。
 そして、経験した「至高の至福」を自我と合体させることによって最強のモンスターが生まれる。
 
 自我+至高の至福=私は神に選ばれた存在だから、あのような経験をした。


 もう、彼は人間ではなくなってしまうのである。
 そして、ある意味悲劇的な存在と化す。
 覚醒と堕落の落差があまりにも大きかった場合、社会は彼を①の詐欺師として裁き、抹殺するしかなくなってしまうのだから。

 「何者でもないこと」の至福を知った後で、今度は彼は自己をあの世的なイメージと同一化し始める。
 僕らは、神々に近づくのではなく、「何者でもないもの」にならなければならないのではないか。





 











 
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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/29 12:11
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