鞍馬山とシヴァ・リンガ幻想

 京都の実家に帰省した折に、鞍馬山に行ってきた。
 
 鞍馬山と言えば、以前から少し気になっていたことがあった。
 それは、「サナート・クマラ」伝承についてだ。
 なんでも、「サナート・クマラ」という存在が人類救済のために金星から650万年前に天下り、鞍馬山から霊波を送り続けているというものである。
 日本の歴史ある山なのに、なぜ近代オカルティズムの匂いがするお話しになっているのだろう?なんで、「サナート・クマラ」て片仮名なんや?

 ネットで軽く調べてみると、神智学の母ブラバッキー夫人がそういう情報をチャネルしたという説があった。確かに、神智学的な伝承ではある。
 鞍馬山のパンフレットではサナート・クマラは「魔王尊」として紹介されている。

 『鞍馬山の信仰の歴史は魔王尊の降臨からはじまる。650万年前の昔、宇宙の大元霊である尊天の指令によって金星から派遣された大魔王尊が、人類救済の使命を帯び地球の霊王として鞍馬山上に降臨した。
  魔王尊の姿は分からない。降臨した時のまま16歳の若さをもって霊王として活動し、さまざまなお姿を現すという。永遠に16歳の若さを保ち、人類が遠い未来において水星に移住する時、人類を誘導してくれるという。魔王尊の姿を描きたいと思った「狩野法眼元信」は、奥の院で大祈願のすえ霊示があり、杉の大樹から垂れ下がった蜘蛛の引く糸をたどって描きあげたお姿がある。60年に1度、丙寅年に限り開扉される。』

 鞍馬寺の本尊は「尊天」というが、これは森羅万象をあらしめる根源的な力そのものだ。宇宙生命、大活動体。尊天の化身とされているのが、毘沙門天、千手観音、そして魔王尊であり、それぞれ太陽、月、大地の力をあらわしている。
 しかし、なぜ、「魔王」なんだろうか?これもわからん。

 『金星から、鞍馬寺奥の院に天下った魔王尊は、地下空洞の支配者であり、その規模は北欧・ヒマラヤ・南米と日本の鞍馬、四ヶ所のみに出入り口をもつ大都会であるという。』地下空洞?シャ・シャンバラっすか(笑)

 魔王様については謎が多いが、今回は鞍馬山でソーマ・ヨーガを行う、という目的で入山した。
 実家の最寄り駅から叡山電鉄にのって、約30分ほど、終点の鞍馬で下車。
 由岐神社、本殿を過ぎて、護法魔王尊が祀られる奥の院へと続く山道で、適当な場所を見つけ、ソーマを使った。
 その直後、少し前から雲行きは怪しかったが、とうとう雨が降り出した。
 少々の雨なら生い茂っている木が防いでくれるけど、雨脚は強くなるばかりなので一時上り口の小さな山門まで撤退した。
 山門には雨宿りをしている人が数人いたが、雨が止む気配が一向にないのでみな頃合を見計らって雨の中へ出て行き、一人残された。
 僕は山門に腰を降ろして、そこで瞑想してみることにした。

 次のようなイメージが展開した。

 三叉のほこを持った、裸の男神。大きな魚にまたがって、輝く海洋で戯れている。屹立し、反り返った、巨大な男根。背後には宮殿のようなたてもの。

 なにか見てはいけないものを見てしまったような感じがするが、それは神聖な趣きを持っていた。その存在が何も隠し立てをしていなかったからだ。すべてをさらけ出しながらも、高貴だった。
  
 その後イメージは天高くそびえたつ、白熱した男根へと変化した。白く輝くペニス・・・。

 そのイメージのインパクトは強烈で、一種の元型的世界をのぞいてしまったような感覚があった。その元型的世界では人間が作り上げた太古の男根崇拝的エッセンスがもっとも原始的な畏怖すべきイメージとして保管されている。
 そのような精神状態においては、「ペニス」は、猥雑なもの、こっけいなものであることをやめ、神々の世界を象徴的に表現するもの、コクマー的な力の権化と化す。
 
 その世界はヘビーに過ぎた。
 タブーを垣間見てしまった、という観念が拡大し、罰せられる、もしくは死と引き換えに真実を知るという世界にひっぱられがちになってしまった。
 山のエネルギーにあてられたのかもしれない。
 その得体の知れない力を、ブラバッキー夫人の回路はサナート・クマラの神話として表出したんだろうか・・・。

 しかし、いくつかの洞察・・・というか直観を得た。
 シヴァ・リンガというのがある。
 インド各地の寺院に祀られている円柱状の石で、シヴァ神のシンボルなのだが、これは男根である。(インド人はリンガは「シンボル」ではなく、シヴァ神そのものだと言うらしいけど)
 極度に象徴的な形態として礼拝されているが、当初ヨギがそれを幻視した時にはもっと生々しく生命力に脈打っているようなものではなかったかと感じた。
 シヴァ神自体が全裸の神として覚知されたという可能性もある。
 
 なぜ男性器と、神聖な存在がリンクするのか?
 例えば、ユングが幼少期に見た夢の中においてはリンガは「地下の神」として不気味な様相でそびえていた。

 「・・・確かではないのだが、多分赤いクッションが座の上にあった。すばらしい玉座でおとぎばなしの本当の王様の玉座だった。
 何かがその上に立っていて、はじめ、私は4~5メートルの高さで、約50~60センチメートルの太さの木の幹かと思った。とてつもなく大きくて、天井に届かんばかりだった。けれども奇妙な構造をしていた。それは、皮と裸の肉でできていて、てっぺんには顔も髪もないまんまるの頭に似たなにかがあり、頭のてっぺんには目がひとつあって、じっと動かずにまっすぐ上を見つめていた。・・・・・・

 ・・その時、外から私の上に母の声がきこえた。母は「そう、よく見てごらん、あれが人喰いですよ」と叫んだ。それが私の怖れをさらにいちだんと強めた。・・・

 ・・・ずっと後になってやっと、私があの時みたのはファルロスだったことがわかった。そしてあれが儀式のファルロスだったとわかるまでに十年を要した。私は母が言ったのが「あれこそ、人喰いなのだ」ということなのか、「人喰いはあれなのだ」ということなのかはっきり区別できなかった。第一の場合なら、主イエスやジェスイットは子供達を食べるものではなく、ファルロスこそが人喰いであることを意味していたのだろうし、第二の場合なら、人喰い一般がファルロスで象徴され、従って、暗い主イエスもジェスイットもファルロスも同一物であるということになる。・・・・

・・・いずれにしても、この夢のファルロスは名付けられるべきでない地下の神のように思われ、若い間じゅう存在し、誰かが主イエスについてあまり強調して話す時にはいつでも繰り返しあらわれたのである。主イエスは私には決して全く現実的なものとはなりきらず、すっかり受け入れることも、愛しつくすこともできなかった。幾度となく私は彼の地下の片割れのこと、もとめずして与えられた、ぎょっとするような突拍子もない啓示のことを考えてみるのだった・・・・」 ユング自伝1 29p~30

 自伝を読んでみると、ユングには形骸化したキリスト教をもっと無意識の生生しい力で補填しようという衝動があったようで、その途上において「聖なるもの」と「俗なるもの」が同一であること、「聖なるもの」はもっとも俗であると考えられているものによって象徴化されるということを無意識(魂)から教えられていたように思える。
 しかし、聖なるものとしてリンガを見るのは恐ろしい経験ではないか?
 神々がそのように赤裸々であること、本当にホリスティックであることが畏怖をかきたてるのだ。
 そういえばユングは、神の大量の排泄物が天から落ちてきて、大聖堂をばらばらにするというビジョンも見ていた。
 これは冒涜ではなく、自己自身の、そして神の全体性への尊い受容であると僕には思える。

 とにかく、「聖と性」「神々のエロス」というテーマについてはこれからも考えていきたい。

 (後から気付いた事

 ソーマのビジョンでは、三叉のほこを持って海で戯れているので、ギリシャのポセイドンみたいな神に思えたが、シヴァも三叉のほこを持っていたことに気付いた。
 加えて奥の院一帯の地層はもともと海底にあったもので、ウミユリやサンゴの化石を含んでいるということ。だから海で戯れていたのだろうか?
 もしかすると、鞍馬山は海神のリンガなのかもしれない。。。と夢想した。
 
 天高くのびて、山となる、海底の意志。







 


 






スポンサーサイト
サイケデリクス&ソーマ・ヨガ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/06 11:54
コメント

管理者のみに表示
« 聖霊 | HOME | リアル »