不可解の閾

 「自覚ある精神分裂病とは、病気ではない。
  その鋭敏な感受性が、エゴの未知性を知覚し、エゴによって仮構された世界が崩壊している強烈な緊張状態なのことであり、真実在への回帰の始まりであり、クンダリニー・ヨーガの出発点である。」

       アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジ    

 大学生の頃、高校のクラスメートのタイヘー君が電話である「体験」を話してくれた。
 彼は高校の頃は多方面に優秀なタイプだった。成績も良かったし、陸上部に入っていて運動神経もいい。工芸の時間に作った、木工のジグソーパズルは市の展示会か何かに出品された。リーダーシップをとるタイプではなかったが、言う事も面白いので、誰からも好かれていた。
 僕はどちらかというと、劣等感も強かったし、人見知りも激しいので学校では息をひそめて、日陰でおとなしくしていた。 彼は自閉症ではないのか?と冗談交じりに噂されるくらいだった。
 でも、僕はタイヘー君のことが好きであったし、彼もよく声をかけてくれた。どこか通ずるものがあったんだろう。
 高校を卒業して2、3年くらいは一年に一回か二回くらい電話で話すことがあった。彼がその体験を話してくれたのは、ある夏の夜だった。

 それが起こったのはごく普通の、夕暮れのことだったという。

 見慣れたいつもの道を歩いていると、突然それは起こった。

 その時突然、彼にとって自分が知覚しているという事実、自分の意識というものが異様なものへと変貌した。
 自分がここに存在して、世界を知覚しているということの奇妙さが彼を圧倒したと言う。見慣れた自己は消えてしまった。
 彼は危機感を感じて、「自分の名前は○○○」「親父は○○で、母親は○○」とくり返して、必死に自分を取り戻そうとしたという。
それが功を奏したのか、その感覚はだんだんなくなっていき、普通の状態に戻った。でもそれがあってから、彼は世界を今までと同じようには見る事ができなくなったそうである。

 その話しを聞いた時、僕も意識や宗教的なことに興味を持ち始めており、彼とそのような話しが出来ることがうれしかった。
 彼と同じような体験はなかったが、なんとなく感覚的には、彼の言っていることが理解できるように思えた。
 その話しは何か重要なことを語っているのだと直観した。
 
 存在しているということは至福であると聖者達は言うが、それは同時に気味が悪いほど不条理なことにも違いないのだ。正確に言うと、通常の習慣的な知覚がなんらかの原因によって部分的に崩壊した時、その「気味の悪さ」が顔をのぞかせる。
 それはあのサルトルの「嘔吐」という小説で、主人公のロカンタンがマロニエの根っこを見たときに、あらゆる人間的意味をはぎとられたときに現われる事物のありのままの姿に嘔吐を感じたという・・・あれと似ていると思う。
 
 僕は見当識と共に生きている。
 見当識は自分は誰で、ここはどこで、今はいつで、おおよそ身の回りではどのような出来事が起こっているのかという認識だ。
 そのような認識、あるいは思い込みの絶え間ない連続が、僕自身の仮想現実的宇宙=自我を構築している。
 しかし、本当はそれはすべてフィクションに過ぎない。
 名前も、性別も、自己イメージも、過去も、未来も、意識が現在の意識としてのみある時には、存在しない。というか、リアリティーが極度に薄れてしまう。ぼやけてしまう。
 それらは自分の意識が作り上げていた、防護壁だということに気付いてしまう。
 なんのための防護壁か?
 おそらくは、この「気味の悪さ」から逃れるためのものだろうけど・・。
 それらの防護壁が消えた時に現われる、自己、意識、世界知覚は不条理極まりない場合がある。

 僕も、タイヘー君の話しを聞いてから数年後似たような体験をした。

 現実が理解不能になりそうになった。
 というか、理解不能になることへの不安があった。
 気が狂いそうになった。
 正確には、気が狂うことへの不安があった。

 コンビニへ食べ物を買いに行った。
 お菓子のコーナーでうろうろしていると、視点が一点に固定したまま(ポテトチップスの上だ)動かなくなった。
 そして、色んなものが消えた。
 時間も、場所も。
 コンビニで買物をしているという事実も。
 自分が知覚しているという事実だけが残る。
 しかし、自己イメージも、外部イメージもすべて希薄になった状態では、いったい誰が、何を知覚していると言うのか??

 僕は誰なのか?
 いや、これは何か??
 これ(知覚主体)はどこにあるのか??

 ハッと我に返り、一点を凝視していることの怪しさにようやく思い至る。
 他者の存在によって、見当識が強まった。
 店員の方をちらっと見た。
 でも実際はそれほど長い時間固まっていたのではないのかもしれない。

 それは不快な感覚だった。
 にも関わらず、それはリアルに感じられた。
 なぜなら、論理的にどう考えても、僕自身に対する僕の認識というのはすべて虚構であるとしか思えないからだ。
 すべては、社会的に機能するために生み出された錯覚に過ぎない。
 例えば僕が山田太郎という名前だとすると、僕は本当に24時間、365日山田太郎だと言えるだろうか。
 誰かに名前を聞かれると、仕方なく「はい、わたしは山田太郎です」と答えるだろう。しかし、僕が深く眠り込んでいる時にも、僕は山田太郎なのだろうか?そして、僕が山田太郎でないとき、僕は何なんだろう?
 
 そして、僕が何かであるということは、どういうことだろう?
 なぜ僕は何かであらねばならないのか?

 高校生の時にそういう体験をしたと言っていたタイヘー君が、今どうしているかとても気になる。大丈夫かな(笑)


 
 





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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/18 11:17
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