スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

自己受容と許し

 ダイジのテープのなかに初めて聞く言葉が出てきていた。

 「垂直の悟り」と「水平の悟り」だ。
 どうやらこれは「アメジストタブレットプロローグ」で解説されている、クンダリニーヨーガ的な悟りと、禅的な悟りのことらしい。
 垂直に上昇し、霊界の中心太陽に還るのが「クンダリニー」、この世に生きつつすべてを受容するのが「禅」と、すごく簡単に言えばそういう感じになる。
 「もし人類が滅びなければ、禅が最後の宗教になり、人類が滅びるとすれば、その直前にクンダリニーが栄えるだろう」という言葉も入っていた。

 「水平の悟り」については、臨済録講義において語られている。
 禅というものについては、僕はもちろん参禅なんてしたことはないし、頭の知識も乏しいのだが、自己受容ということに関しては自分の問題としても考える事が多かった。
 ダイジのテープが来る前、自己受容ということに関して考え直させられることがあったのだが、この臨済録講義を聴いて、理解がひとつにまとまった。

 以下の文章は主にふたつの書籍(エックハルト・トール「悟りを開けば人生はシンプルで楽になる」、タデウス・ゴラス「なまけもののさとり方」)と、実体験、それにダイジのテープに触発された考えです。




 愛するということ、受け入れると言うこと、許すと言うこと、そして理解するということ、これらはすべてつながっている。

 愛さなければ、理解する事なんて出来ない。
 愛のない、理解のみによる理解などない。
 愛がなければ理解もない。真の理解には常に愛がある。

 人は自分が憎む相手を理解することは出来ない。
 なぜなら、憎しみがその人物をありのままに見る事を妨げるからだ。
 憎む相手について僕が知る事は、僕自身の憎しみだけだ。
 それ以外の相手の素晴らしさは見えなくなってしまう。
 もちろん、「憎しみにとっては」相手が素晴らしいと困る訳だが。
 特定の人物への憎しみに囚われるということは、相手の嫌なところしか映さない眼鏡をかけるようなものである。

 そしてこれは自分の内面についても言える。
 多くの人は自己自身の中に許せない部分を持っている。
 それは外面的な特徴の場合もあるし、内的な何かである場合もある。
 どちらにしろ、何かが気に入らない、不全感と共にある人が多い。
 これは言い換えれば、どうしても全体として自分を愛することができない、という状態だ。
 
 自分を許すことが出来ない時、人は自己欺瞞に陥りやすい。
 嫌いなものを好きだと思い込もうとしたり、自分が本来のあるがままの自分より立派だと思い込んだりするのは、自分自身が嫌いだからだ。
 その嫌いな自分から目をそむけると、その自分は(愛の不在により)見えなくなる。しかし、何かから目をそむけているから不安は残る。
 そして目を背けているという事実すら忘れてしまった時に、自己欺瞞は完全なものとなる。

 そもそもなぜ、自分で自分が嫌いになるかというと、多くの場合それは他者の視点を内面化しているからだ。
 僕らが外側の承認によって、自我の安定を得ようとする限り、この不安に終りはない。

 でもよくよく考えてみれば、そのままのありのままの姿で、存在として受け入れられている事、世界の一部としてあることを思えば、自分で自分をごまかす必要などない。
 逆に言えば、自分を十分なだけ許せていない限り、自分で自分をごまかし、自分はあるがまま「以上」のものであると思い込み続けるしかないのだ。
 自分のあるがままを受け入れているとき、エネルギーと安らぎがあるだろう。しかし、あるがまま以外のものになっていると、不安がある。

 皮肉な事に、あるがままを認める不安からあるがまま「以上」のものになったと思い込んでいるというのに、そこにはやはり不安があるのだ。不安を解消するには、自己の何もかもをいとおしみ、抱きしめる以外にない。

 このことが経験的に事実だと思うのは、僕が以前、性的な問題で自分が完全にど変態ではないかと異様に思い悩んでいた時期があったからだ。
 まず自分の内部にある衝動が生まれるとする。
 その衝動が大きくなると、僕の意識がそれを感知する。
 その状態であれば、良いも悪いもいかなる分裂も、不安もない。
 しかし、外側から刷り込まれた価値観によって、その衝動を「許されているもの」か「許されていないもの」かに振り分ける時に問題が生じる。
 仮にそれが僕の意識にとって、「許されていないもの」であったとする。
 するとどうするか?
 そもそもその衝動を最初からなかったことにするか、それともそれは許されたものであるように偽装するか、自分は許されない衝動を持ったと認識するかどれかしかない。
 このどれを選んだとしても、こころに負担がかかってくる。
 ひとつめとふたつめなら、自己欺瞞による不安。
 みっつめなら自己嫌悪である。

 結局こういうことの積み重ねが、「なんだかよくわからないけど、自分嫌い」という状態を招くのではないか。
 自我が破綻をきたさない為には、そもそもの最初にある善悪二元の価値によって、自己を裁かないことが必要となる。
  
 ド変態でもいいのである。
 少々パラノイアでもいいのである。
 
 一体誰がいけないと言うのか?
 いけないと言う人はいるだろう。否定する人はいるだろう。気持ち悪いという人はいるだろう。否定的な人には事欠かないのがこの世界だ。
 
 しかし、世界中の誰にも、僕のことは否定できない。
 僕を否定するのは、僕自身でしかあり得ない。
 そして、許すということも。 
 

 


























スポンサーサイト
セラピー&ヒーリング | コメント(4) | トラックバック(0) | 2006/06/24 21:57
コメント
禅とクンダリーニ
こんばんは

「もし人類が滅びなければ、禅が最後の宗教になり、人類が滅びるとすれば、その直前にクンダリニーが栄えるだろう」

そんなことも言っていたのですか。それでクンダリーニが流行らない理由がわかりましたよ。
湖南さん、こんばんは~。

人類が滅びるとすれば、この世ならざる至福を発見せざるを得ないから、ということなんでしょうか・・・。

このままはやらないでいることを祈りたいものです(^^;



第慈の言う「禅とクンダリーニ」の違いについて解りますか?
「禅」は、人類が考案した悟りへの安全な近道、「クンダリーニ」はもっと悟りへの早道だが、非常に危険性を伴う、よって然るべき師匠(グル)の指導が絶対不可欠とされる。
クンダリーニが昇りはじめると、各チャクラが刺激される、その時に様々なビジョンが視えてくる、そして自己制御が効かなくなる、そこにグルの見極めが絶対に不可欠なんだ、第慈でさえ究極の悟りを得るのに、インドまで指導を仰ぎに行ったんだ。
>>禅とクンダリーニさんへ

貴方は勘違いをしています。
第慈の初期の頃は、「禅」を主軸に法話を続けていたんだ。
それが何時しか「クンダリーニ」の指導に変わったんだよ。
どういうことか解りますよね!



管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。