行為者はいないということについて

 先の『許し』とも関係する事ですが、行為者は存在せず、自由意志は究極的には幻想であると言うことを説明する卓越した文章があります。
 自分の行為でないがゆえに、自尊心や罪悪感から救われることが可能となると思われます。
 I先生の話しとほとんどそのままで驚きます。 
 かなり好きな本の一冊です。
 ややジュニャーニャタイプの人向きかもしれません。
 僕がペヨーテを食らった時に見たのは、これに近い世界でした。
 すべて無自覚のうちに愛に奉仕していました。

 『人生を心から楽しむ~罪悪感からの解放~』 ラメッシ・S・バルセカール著より
 マホロバアート出版

 


 私の観念によれば、人間の相互関係の為にエゴを創造した神はまた、非常に限られたケースにおいて、個人的行為者と言う感覚を破壊するプロセスも始め、そういったケースで自己覚醒、悟りなどが起こることが出来ます。もちろん、エゴの中で不幸の原因となるものは、エゴ自身の行為者と言う感覚なのです。そして、そのプロセスが始まった例においては、このプロセスが始まるにふさわしいプログラミングを持った適切な肉体精神機構が提供されたのです。
 この観念の重要な点は、霊的求道は特定の肉体精神機構がそうプログラミングされたから起こるのであって、個人が自己覚醒、悟りを求めようと決心したから起こった訳ではない、ということです。

 実際の話し、赤ん坊が生まれて、母親の乳房を本能的に求めて以来、人生とは求めること以外のなにものでもありません。どんな種類のことを求めるかは、ひとつひとつの肉体精神機構のプログラミングに依存しています。求道者とは、単に個人的行為者という感覚を持ったエゴの幻想に過ぎず、その感覚とは、私達が知ってるような人生が起こることができるように、神が聖なる催眠※1を通じて創造したものです個人的行為者という考えは、催眠にすぎず、すべての行為は特定の肉体精神機構を通じた聖なる出来事であることを完全に理解することが、いわゆる一般に知られている自己覚醒ということです。 ※2

 さて、残りの疑問は次のようなものです。どんな行為も個人の行為ではない、ということを、絶対的に無条件に受け入れる事が、どうして自己覚醒の平和をもたらすのか?というものです。賢者が賢者であるのは、特定の肉体精神機構を通じたすべての行為は、聖なる出来事であること、つまり、仏陀の言葉によれば、「出来事は起こり、行為はなされるが、それに関して、個人的行為者というものは存在しない」を完全に無条件に受け入れているからです。肉体的精神的行為はインプット(思考や、見られたり、味あわれたり、匂いをかがれたり、触れられたりした何か)への脳の反応として、あらゆる肉体精神機構を通じて起こり続け、それに対してエゴは何のコントロールも出来ず、したがって、そのプログラミングに対してもエゴは何のコントロールもできません。 ※3

 例えば、賢者の肉体精神機構を通じてある行為が起こるとします。賢者は、賢者と同じ理解力をもっていない社会で自分の人生を生きなければならず、それゆえ、賢者を他のあらゆる個人と同様に自分の行為に責任があるとみなします。
 ある特定の行為が、社会によって「よい行為」と判断されるとします。すると社会によって承認されたことが、賢者の肉体精神機構コンピュータの中でインプットとなり、その反応は喜びの感覚かもしれません。しかし、賢者は、社会の賞賛を引き起こした行為は彼の行為ではなく、それゆえ、喜びの感覚は起こってもプライドの感覚は起こらないということを完全に理解しています。
 もし一方で、その肉体精神機構を通じて起こった行為が、うっかりと誰かを傷つけてしまったり、社会から承認されなかったら、後悔の念は起こるでしょうが、それが自分の行為ではなかったと知っているので、罪悪感は起こり得ないのです。
 同様に誰かが賢者を傷つけるとしたら、その傷は神の意志、あるいは、自分自身の運命として受け入れられるのですが、それは誰の行為でもなかったことを知っているので、傷を神の意志として受け入れ、賢者は誰も憎むことはできないのです。
 同様に、賢者は誰かに嫉妬したり、うらやましく思ったりすることもできません。何があるにしても神の意志しかありえないのです。

 いいかえるなら、賢者は普通の人と同じように活発に社会の中で自分の人生を生き、それに参加し、あらゆる普通の人と同じように人生の喜びを楽しみ、苦しみと痛みに耐えるのです。しかしながら、重要な点は、普通の人とは違って、賢者はプライド、罪悪感、憎しみ、嫉妬、誰かに対する敵意といった重荷をもつことなく、人生に参加するということです。仏陀の言葉で言えば、賢者は哀しみである人生に参加しながら、同時に涅槃の平和を楽しむのです。それゆえ仏陀は言ったのです。

 「サムサーラ(世俗)は苦しみであり、ニルバーナ(涅槃)は平和である。しかし、このふたつは別のものではない」

 この段階で残る最終的質問とは次のようなものです。では、いかにして、「すべての行為は聖なる出来事であり、いかなる個人の行為でもない」ということを完全に無条件に受け入れることができるようになるのか?これに対する明確な答えとは、それ自体神の意志でないかぎり、誰も神の意志について、このように受け入れるということを獲得したり、それを達成したりすることはできないというものです! 
 しかし、このような心の平和を求めるということが、ある人の中ですでに起こっていることは、神の恩寵を通じてであり、そのプロセスをさらに推し進めるのは実に神の責任である、という事実からかなり人は慰めを得ることができます。ラマナ・マハリシの言葉によれば、次のようになります。

 「あなたの頭はすでにトラの口の中にあり、逃げる事は出来ない

 しかし、前にも言ったように、神の意志でなければ何事も起こらないという事実があるからと言って、あなたがするべきだと思ってることをする妨げにはなりません。なぜなら、あなたにはこの見かけの自由意志があるからです。




 はいたか注

 ※1 マーヤと呼ばれたりします。マトリクスの見せる幻影。これがあるので世界が成り立っているようです。

 ※すべて神のみこころ グルジェフ流に言えば自動機械の反応。

 ※3 コントロールできないから、素晴らしいように思います。コントロールできたら、人間の頭並みのことしか起こりませんね。愛はエゴを自由に使えるが、エゴは愛を自由には出来ない。 

 
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神様 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2009/03/23 20:48
コメント
>白蓮さん

お返事遅くなりましたe-466

>この問題については以前「奇跡を求めて」を読んでいたとき
>に考えたことがあります。そのとき非常に怒りを感じる人
>物がいてその人物に対する怒りに悩まされていたのです
>が、その人間の言動も一種の機械性から起こっていること
>でありそれに対して怒ることに必要性があるだろうかと考
>えたのです。この考えは一時的に効果はありましたが、や
>はり怒りはやみませんでした。そして20年近いときが流れ
>ましたが未だにその人物に対する怒りは残っています。そ
>こに行為者の悪意の存在を感じてしまうというのは非常に
>根深い幻想です。

>今回このエントリーを読んで神の意志、聖なるプログラミングとい>う観念を教えてもらいました。
>なるほどそう考えるとまた違った感覚が生じてくるようです。あの>行為もこの行為も神の意志だとしら怒りよりもむしろ奇妙な喜悦>を覚えなくもありません。いいかえるとそれは笑いの感覚です。>神は彼らを通して僕を笑わせたかったのかも知れません。

後から考えて、その時深刻だったことほど笑ってしまうこと、ありますよね。グルジェフ的に機械性というと、意味がまったくないように感じられますが、神が行う、『聖なる行為』には必ずその意図するところがあるように思います。神に委ねれば委ねるほど、すべては神の行いであることを神様は見せてくれるようです。

その度に、笑ったり、感謝したり、うるっとしたりと・・・とても深いものですね。白蓮さんにも、今後も更なる神様の恩寵がありますように!v-421


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