ハイランダー

  朝から頭の中で爆風スランプの『ハイランダー』という曲が鳴っている。(だいたい年がバレる発言)
  こんな歌詞だった。


  土地が高すぎて 東京じゃ家は買えぬ
  田舎に引っ込むしかないね
  誰も住まなくなる 誰も住めなくなる
  一握りの金持ちが家を買う
  そうなったら

  庶民の汗が ああ かわいそうだ
  庶民の汗が ああ かわいそうだな

  差別がひどくて黒人じゃ生きられない
  アフリカの南 遠い国さ
  だけど金も銀も そしてダイヤモンドも
  アフリカの南の国から来るのさ
  そうなんだぜ

  婚約指輪が ああ かわいそうだ
  婚約指輪が ああ かわいそうだな
  
  君は机の上で
  君は何を学んで
  君はいつか立派な会社に入る 
  そして 死ぬ

  何にも知らない奴は かわいそうだ
  何にも知らない奴は幸せだな
  何にも知らない奴は かわいそうだ
  何にも知らない奴は 幸せだな

 
  http://www.youtube.com/watch?v=FVwwZeA_hLE
  
  中学生くらいにこの曲を初めて聴いて、「えっ、会社に入ってすぐに死ぬって、その間はしょりすぎやない?」と思った。「精神的に死ぬ」ということを理解してなかったから当然だが、立派な会社に入るとその間をはしょっていいくらい無意味な日々が続くのだろうか?と中学生なりに考えさせられたりもした。

 が、僕の時代、すでに社会派風刺ソングみたいなのはあまり耳に入ってこず、バリケードや、レジスタンスという言葉にドキドキ感を感じる精神的に全共闘世代の僕はこういう風刺的な歌詞であるというだけでなにか血が騒いだのを覚えている。(真正面から激突して行ったのは尾崎豊くらいじゃないだろうか。)

 しかし、反体制的なムーヴメントが活発でないにも関わらず、80年代や90年代というのは内にこもった反世界的な、ニヒリズムの時代ではなかっただろうか。
 そこには明らかに敵となるような対象はもちろん、存在していない。
 戦前のように若者が国の為に、米英に突撃していくことはない。
 また高度経済成長の時代のように物質的な発展を追い求め、汗を流して働くという三丁目の夕陽的な生き方もない。
 また社会の価値を疑い、大学にたてこもったり、ヒッピーになってコミューンを作ったりという爆発力もない。
 では何があったかというと、あきらめに似たニヒリズムと空騒ぎの空気。結局は、敷かれたレールを嫌々歩くしかないという雰囲気だったのではないだろうか・・・。 

 それはおかしいことを、おかしい!と声をあげていうことがおかしいという時代でもあった。
 僕も、おかしいことをおかしいと言うのは、かっこ悪いことだとどこかで思っていたような記憶がある。
 
 さすがにマスメディアも、今を希望ある世代とは言わなかった。
 テレビをつければ僕の目に触れるのは、どこかの政治家がまた汚職をしただの、猟奇的な殺人がおこただのそんなニュースばかりだった。そしてCMになれば、ものをもっと買ってくださいという大合唱、チャンネルを変えれば、お笑い芸人が熱湯風呂につかって悶絶したり、顔に生クリームをぬりたくられてわめいている。
 そんな中で、まれに地球の環境がアブナイ、もう限界だ、みんなで少しづつよくしていかねば・・・などという情報が混入する。ノストラダムス予言の恐怖!などという特番も放送される。もうわけがわからない。

 ダブルバインド、トリプルバインドだ。
 マスメディアが、さんざん危機や社会のどす黒い点を報道しつつも、それを改善できずむしろ人の意識を劣化させているようにさえ見えるのは理由がある。

 それはまれにしか、根本的な解決や、根本的な構造問題をとりあげないからだ。

 例えば、イスラエルによるガザの空爆がある。
 これを正しく報道するには、イスラエル建国の歴史、イスラエルとパレスチナの関係、そしてアメリカでイスラエルへの利益を誘導するイスラエルロビーが存在する事、イスラエルとユダヤ系資本との結びつき、などもあわせて報道する必要がある。じゃないと、まったくなんのことかわからないし、あーまたあの辺でごちゃごちゃしてるなくらいにしかならない。
 なぜ大量破壊兵器を、何も持っていないイラクがアメリカに蹂躙され、何百発もの核を保有するイスラエルがあの場所で野放しにされているのか?といったことである。

 それと同じように、来る可能性のある食糧危機、や現在進行中の金融危機に対する対処法。
 
 これも 自給自足できる村をたくさん作る!

 これしかないのではないかと僕は思うのだ。
 昨夜、NHKで派遣切りされた人がたくさん農業に応募するがなかなか定着しないというようなことを、やっているのを見た。
 「農業」それもいいかもしれない。
 でもやはりまず「農」そのものへの意識シフトが必要であり、その実践(実践のない僕が言うのも恐縮だが)が大事なのではないかと思った。
 「農」に「業」がつくと、それは現在の貨幣経済の枠組み内でのこととなり、いくら投資し、いくら回収できるかというレベルの話しにならざるを得ない。

 そうなると、昨日の放送でもあったが、面接で知能テストをやり、優秀な人材を採用し、海外にも販路を拡大するというような話しになってくる。優秀な人材が農業に流れるのはよいことなのかもしれないが、もっと根本的な意識の転換が求められていると思うのだ。

 それははっきり言うと 『お金がなくてもある程度生きていける』というその意識の拡大ではないかと思う。そのための村であるし、そのための共同体だ。
 派遣切りをされて、困っているという人に対しても例えば、「うちの村に来てください」というオファーを目にする機会が増えればどうだろうか?
 そこである程度働けば、「食べるには困らない」という人が増えていけばどうだろうか? 
 そして、各地に存在するそのような「村」が、貨幣経済の枠を超えて相互に生存の為に連結すればどうだろうか?まったく新しい可能性が見えてくると思うのだが。

 どうも、農業の大切さなどを特集する番組というのは稀に見るが、やはりこの種の共同体が大きくとりあげられないのは現在のシステムの根幹を揺るがしかねないところがあるのと、「なんとか会」のようにちょっとアブナイ、」カルトチックな共同体というのも存在するためかもしれない。

 だがここでも、①今の国家や巨大資本、貨幣を中心とした今までのパワーと、②地方や個々人、土地、実物を中心としたパワー間の綱引きというか、駆け引きのようなものが始まると予想される。

 このままで、もし実際に食糧危機が来れば、①の枠内で生きているなら食べ物は『配給』になるかもしれない。お金なんて持ってても役に立たず、今月分の「お米券」を役所に持っていくことになる。
 その場合パワーバランスは食料を管理する国家に傾く。国民は国家に管理される。
 だが、②の枠内で生きていれば、生存の一番要となるものが自分たちの手中にあるわけなので、自由を守ることが出来るかもしれない。そのための準備の時間はあまり残されていないかもしれない。

 食糧危機など起こらなかったとしても、この大地に根付いた生き方は、次世代の主流になる可能性が大きくあると思うので、急いではじめてもよいくらいではないかと思える。
 
 このような事実に出来るだけ多くの人が気づく必要がある。

 数年前までは

 何にも知らない奴は 幸せだな

 だったが、今後はどうなるだろうか?
 なぜか20年前の歌が生々しく蘇ってきた朝だった。
 ハイランダーは「傭兵」だ。
 傭兵は戦争がなくなると用はなくなる。
 故郷に還る用意を始めるときかもしれない。


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アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2009/04/08 10:57
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