カスタネダ『沈黙の力』、詩と死

 カルロス・カスタネダのドン・ファンシリーズ『沈黙の力』を買ってみた。
  これは人類学者のカスタネダがヤキインディアンの呪術師ドン・ファンに教えられた体験をまとめたものだ。真贋論争なんかもあったりするようだが、多くの人がバイブルにしている古典だ。

  以前第一作『呪術師になる』を買ってはみたものの、文体のためか、なんなのか最後まで読めず放置しているが、大分前の修道会でカスタネダの本は良いという話がでて、また改めて読んでみたいと思ってからかなり時間がたってしまった。

 というのもいくら良いという話を聴いても、個人的には以前買ったカスタネダの本を読むという気分では全然なかったので、Amazonで注文する気にもならなかったのだが昨日たまたま大きな書店による用があってそのとき探してた本の近くにカスタネダのシリーズが並んでいた。

 何気なく手にとって読んでみると、思わず時間を忘れ引き込まれそうな濃いセンテンスがたくさんある。ドンファンは自分を呪術師と言っているが、その呪術師というのは、呪いをかけたり雨を降らしたりというレベルの一般的な呪術師のイメージとはまったく意味が違い、彼が語っているのは「絶対の世界」「神の次元」であることが明白だ。彼は神のことを『抽象』と言ったり『意志』と言ったり、ナワールと言ったりしている。

 そして人と『意志』を結びつける輪が存在しているのだが、その輪は日常的な心配事などによって曇っている。これを清めて『抽象』と結びつこうとうすることが「戦士の道」であるという。

 ドンファンは第一作では確か、様々な意識を変成させる植物の力を借りて、カスタネダのリアリティに衝撃を与えていく。その中にはペヨーテも含まれており、ペヨーテに宿る精霊はメスカリートと呼ばれる。実際、ペヨーテに含まれる向精神物質はメスカリンだ。僕は「メスカリート」に大変親近感と敬意を抱いている。

 以下、たまたま手に取った時、お~と思った箇所。




 「だから死の概念というのは、呪術師の生涯の中でも、とてつもなく重要なものなんだ。わしがお前に、死にまつわる数え切れないほど様々なものを見せてきたのも、わしらの目前に迫った避けることのできない最後を知ることが、じつは真の平静さをもたらすことだとお前に納得させるためだった。わしらがふつうの人間として犯すもっとも高くつくまちがいは、不死の感覚に埋没することだ。それは、もしも死について考えなければ、死から自分を守ることができると信じているようなものだ」

 「でもドン・ファン、死について何も考えなければ、たしかにそのことで思い煩ったりしなくてすむじゃないか。あんただって、それを認めないわけにはいかないだろう」

 「ああ、たしかにその目的には役立つ。だがな、そんな目的は普通の人間にとっても無価値だし、呪術師にとっては滑稽でしかない。死を澄み切った目で見つめることがなくては、秩序も平静も美もあり得ないんだ。呪術師はこの貴重な洞察を得るために奮闘し、それによってあたうかぎり深いレベルで、誰の人生であろうとそれが今を超えてずっとつづいていくという保証はないことを知る。この認識が呪術師に、忍耐強くしかも行動的であるための勇気、愚かであることなしに従順であるための勇気をもたらすんだ

 ドンファンは私の顔をじっと見つめた。そして微笑むと、首を振った。

 「そうとも。死の概念こそ、呪術師に勇気を与える唯一のものなのだ。おかしいだろう?それが呪術師に、うぬぼれぬきで狡猾であるための勇気を、そして何より傲慢にならずに非情であるための勇気を与えるなんて」

 彼はまたにっこりして、私を肘でつついた。私は彼に、自分の死のことを考えるとどうしょうもなく恐ろしくなってしまう、と打ち明けた。実際いつも死について考えてはいるが、だからと言ってけっして勇気が出たり、行動を起こす気にさせられたりしなかった。ただ冷笑的になり、どうしょうもなく憂鬱な気分に落ち込むだけだったのだ。

 「お前の問題は、ごく単純なものだ」彼は言った。

 「お前は妄想にとりつかれやすいんだ。ずっと言ってきただろう、呪術師が自らに忍び寄るのは、妄想の力を打ち破るためだと。自分に忍び寄る方法はたくさんある。死の概念を使いたくないのなら、おまえ自身に忍び寄るために詩を使えばいい、それをわしに読んできかせてな」

 「なんだって?」

 「前にも言ったように、わしはいろんな理由から詩が好きなんだ。わしの場合、詩を使って自分に忍び寄る。つまり自分自身に揺さぶりをかけるために、詩を使うのさ。お前が読み、わしが聞く、そうしてわしは自分の内部での対話をやめ、内なる沈黙にはずみを与えるんだ。すると、詩と沈黙とがたがいに結びつき、それが揺さぶりをもたらすのさ」

 彼の説明によれば、詩人は無意識のうちに、呪術師の世界に憧れを抱いているのだという。詩人は戦士の道を歩んではいないが、それだけよけい、彼らの手にしているものに憧れるのだ。

 「わしの話していることを実際にお前が感じ取れるかどうか、見てみよう」彼はホセ・ゴロスティサの手になる、一冊の詩集を手渡した。私がしおりのはさんであるところを開くと、彼は自分の好きな詩を指で示した。

 ・・・この飽くことを知らぬ、執拗な死が
 この生きながらの死が
 神よ、あなたを滅ぼしてゆく
 あなたの精妙きわまりない細工の中で
 バラの中で 石の中で
 不朽の星々のなかで
 そして歌に、夢に
 目を射る色彩に照らされる
 火のように
 燃え尽きたうつしみのなかで 

 ・・・そして神よ、あなたはその場所で
 無窮の時を、死につづけてきたのだろう
 われらが何も知らぬうちに
 あなたの灰、かけら、澱
 でもあなたはまだそこにいる
 自らの光に欺かれる星のように
 星なき光はわれらに達し
 限りなき破滅を
 われらから隠し続ける


 「こうした言葉を聞くと、わしはこの詩人が物事の本質を見ていると感じる。そうして彼とともに見ることができるんだ」私が読み終わるとドンファンは言った。
 「この詩が何についての詩であっても、それはどうでもいい。わしが唯一気にするのは、詩人の憧れがわしにもたらす感覚だ。わしは詩人の憧れを借用し、それとともに美をも盗み取る。しかも驚くべきことに、詩人はほんとう戦士と同じく、受け取るものには惜しみなくその美を与えるんだ、自分のためには憧れをとっておくだけでな。こうした揺さぶり、美のもたらす衝撃が、つまり忍び寄りなのさ」






 「死は敵ではない、たとえそう見えるとしてもな。死は人間が考えているような破壊者でないんだ。」

 「じゃ、いったいなんだい?」

 「呪術師に言わせれば、死は唯一、わしらが相手にする価値のあるものだ」彼は答えた。

 「死はわしらに挑みかかるのさ。普通の人間にしろ呪術にしろ、わしらはその挑戦を受けるように生まれついている。ただ呪術師はそのことを知っているが、ふつうの人間は知らないんだ」

 「ぼくにいわせると、死ではなく、生のほうが挑戦だと思うけどな」

 「生とは、死がわしらに挑みかかる際にその手段にするプロセスだよ。死は積極的な力だ。生命はいわばアリーナさ。そのアリーナの中にいる選手はいつでも、その当人と、死の二人だけなんだ

 「じゃあドン・ファン、ぼくは人間というものも挑戦者だと思うんだけど」

 「全然違うな」彼は答えた。
 「わしらは受動的なんだ。いいか、わしらがもし動いたとしても、それは死の圧迫を感じているからでしかない。死はわしらの行動や感情を調整し、わしらを打ち破り、勝負をものにするまで容赦なく押しまくるんだ。さもなくば、わしがあらゆる可能性を超えて上昇し、死を打ち負かすか、ふたつにひとつさ。呪術師が死を打ち負かすと、死は二度と再び挑みかかられることがないよう呪術師を解放して負けを認めるんだ。」

 「呪術師が不死になるということかい?」

 「いや、そうじゃない。死が彼らに挑みかかるのをやめる、ただそれだけだ

 「でも、それは、どういうことなんだい?」

 「思考が、想像を絶するものへとんぼ返りを打った、ということさ

 「何だい、その、想像を絶するものへの思考のとんぼ返りっていうのは?」

 「想像を絶するものへの思考のとんぼ返りというのは、精霊の来訪のことさ」彼は半ばあきらめたような口調で説明した。
 「つまり、わしらの知覚の障壁が破られることだ。その瞬間、人間の知覚は限界に達する。呪術師は斥候を送るという術を駆使して、そうした知覚の限界を探る。わしが詩を好きな理由はそこにある。詩を斥候として使うのさ。だが、以前にもいったように、詩人はこの斥候役が何をなしとげられるか、呪術師ほど正確に知ってはいないんだ」

(引用終わり)




 死(death)と、詩(poetry)についての話しだが、日本語ではどちらも同じ「シ」という音で発音される。
 ドンファンは、自分にショック(揺さぶり)を与えるために死(シ)の概念がダメなら、詩(シ)を使えと言ってることになりとても面白い。カスタネダの師(シ)であるドンファンが言ってるわけだシ(笑)

 死も、師も、詩も、意識にショックを与えうる存在だ。

 すこしこじつけぽくなってくるが、ドレミファソラシドの「シ」もオクターブの最後の音であり、ひとつの周期の終わりの音だと言える。

 この死というのは肉体の死に限らず、もっと深いレベルでの「死」であり、僕は死とはつまるところ「変化」であると理解している。そういう風に解釈して初めて、ドンファンの言っている意味が見えてくる。人間が恐れているのは死というよりも「変化」であると、僕は実感する。

 死(シ)はオクターブの最後にあるのではなく、レの音はドの死によって生まれ、ミの音はレの音の死によって生まれる、死とは、生の原動力である。

 そしてそれに対するのが「ものごとがなんとなくこのまま続いていくという妄想」ではないか。
 だから死=変化というのは、様々なレベルで存在し、『一期一会』という言葉も、たとえお互いの肉体は死ななくても、今のこの出会いは一度きりのかけがえのないものであるという直感的認識をベースにした四文字熟語だ。つまり深いレベルでの「死」を見据えた言葉であると思う。

 「変化」というのはある意味非情に気持ちが悪いものである。
 僕も人一倍馴染み深いものに執着する(=不死の感覚に埋没する)方ではないかと思う。
 が、たとえば、数年前ひとりきりでインドに行く前の日の夜自分の部屋で、そしてたったひとりでデリーの安いホテルのベッドに横たわって街の騒音を聞いていたようなときに感じたそこ深い孤独感と、「気持ち悪さ」
 
 インドで、ガイドブックにも乗っていない駅で降りてしまい、線路の向こうに夕日が沈もうとしてるのをみたときに感じた「気持ち悪さ」

 あるいは、意識に作用するドラッグを摂取して、なじみの現実感覚が遠のいて、まったく異質な現実が現れてきるときに感じたような「気持ち悪さ」。あれはなかなか言葉にしにくい。
 
 そしてこれらすべて小さな「死」との遭遇と言えるものだ。
 実際「変化」は僕らが認識していないだけで、いつも起こっている。しかし自分のエゴの中の何かが脅威にさらされるような時しか人は「死」と「変化」を感じはしない。

 人は普通、季節の変化に脅威を感じはしない。
 それは同じように巡り来て、来年もまたやってくる。毎年同じように春には花見のニュースが夏には海水浴の映像が、秋には紅葉がテレビで映し出される。時は巡りゆき、また帰ってくる。
 しかし、すべては同じものではない。
 なにか自分のエゴの成分が死のうとしている人は、季節の変化にも敏感に反応する。
 失恋やあるいは親しい人の死といったことでもかまわないが、その時に彼・彼女の目に映る季節の循環というのはまったく違った意味を持つ。
 紅葉が終わり、落ちようとしている葉は、まさに彼ら自身の生命となる。それはもう二度と戻らない何かの死なのだ。

  おそらく放浪の修行者(サドゥー)のような存在が存在したのも、常に「死」を、つまり「変化」を友として旅することが彼らの意識を常に目覚めさせておくために必要だったからだろう。
 旅が人を成長させると言われるのも、それが絶え間ない「一期一会」の連続であるからかもしれない。一期一会だからこそ人はそこに、美や秩序やを認識させる。人間お互いに思いやりをいだけないのもその大半は、相手や自分が死ぬことを忘れているという理由にあるのではないだろうか。「このままずっと・・・」が惰性による倦怠感や、不満を生むのである。
 繰り返すがこれは肉体の死だけではなく、『いつ相手がいなくいなるかもしれない』ということで、だからこそ『いまてくれてありがとう』という思いが生まれ得る。ずっと相手がいるに違いないというのは信頼でもあるが、惰性による傲慢でもあるかもしれない。

  つまりこれが『悪しき不死の感覚』であると僕は思う。

 グルジェフは、人が高次の印象を吸収するにはショックを与えなければならないと言っている。
 このショックに該当するものが「死の認識・知識」である。
 
 これは肉体死だけのものではなく、
 今住んでいる場所、今付き合っている人、今している仕事、今愛着を抱いてる考え・・・
 もっと大きく考えれば、この時代の価値観や システムや 国や ライフスタイル

 などすべてに当てはまることで、それらが「一度きり」のものであると知ること、それらが変化していくということを知ることが、死を知ることだ。ところがこの死をリアルに観想することは、人間がもっとも苦手なことのひとつではないかと思う。なかでも難しいのは「自分」というそのすべてを認識している存在が死ぬことを知ることだろう。

 しかし、人が優しくなれるのは、死を知っている時だけかもしれない。

 死によって 詩によって 師によって・・・

 シによって、人は シる。 




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知覚、リアリティetc | コメント(4) | トラックバック(0) | 2009/05/14 21:30
コメント
>シによって、人は シる。

迷言なのか、、、名言なのか、、、v-410

私も歳のせいか、少しづつ死を受け入れられようになったのか、
ただの痴呆の兆候なのか。。。v-399

「自分」の死から・・・まったく、まったく別ものへのシフトが。。。
>ザッハさん

>迷言なのか、、、名言なのか、、、

そう言われると若干恥ずかしいっすv-402

僕もバカになって来ているのかと思うことがあります。

「液体感覚」に憧れてしまいました。うーん左脳止めたいですね~
液体感覚とはまた違いますが
右脳のイメージの世界って本当に豊穣で驚きます。
独自の知性を持ってるような。
はじめまして。
カスタネダが好きな者です。
死と、師と、詩と、(音階の)シ、面白いですね。
言葉遊びとしてぼくも使わせてもらいます。
>tosibee様

はじめまして!コメントありがとうございます。

ずいぶん前に書いた記事でほとんど内容も忘れていました。

でも読み返すと、カスタネダのそしてドンファンの言葉はよいですね!

この頃と比べると自分の現実も、社会の姿もずいぶん変化し、そして死んだなーと考えさせられますね。

シは著作権フリーなのでどんどんご自由にお使いください^^♪

ありがとうございました。

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