何を怖がるのか

 恐怖と、「さからうこと」は等しい。

 さからっていないものに恐怖はないし、恐怖しないものにはさからわない。

 そしてよく考えてみると、何かを恐れるという現象は、常に恐怖への恐怖ではないだろうか。
 例えば、人に嫌われることを過度に怖れるという場合。
 それは、人に嫌われること自体を怖れているというよりも、人に嫌われるという状況下に感じる恐怖を、恐怖している。

 常に恐怖には実体がない。
 それはここにはない、何か別のものへの不安をかきたてる。
 しかし、それに実体があると錯覚しているから、恐怖を恐怖しているだけであることが僕にはわからない。

 不安とは、不安への不安以外にない。
 抵抗とは、抵抗への抵抗以外にない。

 一体僕は、何を恐れているのか?

 おそらくそれは、死への恐怖だろう。

 これはルートチャクラの生存衝動、あるいはクンダリニーにルーツを持つ。
 クンダリニーは無明の根っこである。

 この衝動を元に、第1、第2、第3チャクラで構成された自我が存在している。
 自我であるところの僕は、恐怖自体をベースにして動き回っている。
 恐怖は我々の本質だ。
 ただし、ハートチャクラよりも上の自己を発見した場合は、この状況を克服することができる。
 自我にはすべてを愛する事も、許す事も出来ないという。
 これは、愛したりだとか、許したりだとかを含む、「自分が何かをなしている」と思い込んでいる自我自体が、恐怖からの逃走であるからだろう。
 
 騒音自体に対して、静かにしろ、というようなものなのだ。
 音に対して、静かにしろというのは、音の性質を否定することだが、自我に対してすべてを愛せというのも、やはり同じように自我の性質を否定することなのだろう。

 ただし、愛につながろうとする努力は、僕がしなければならない。
 

















 
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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/06 20:55
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