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往生は決定と存じそうらえ。

 近くに浄土真宗のお寺があるが、このお寺は月に一回くらいの割合で墨で書いた言葉を門の脇に貼り付けている。

 今月は『何が起こるかわからないのが世の中 何をしでかすかわからないのが自分』というものだった(笑)。

 親鸞の悪人正機の教えに見られるように、浄土真宗は完全他力というか、阿弥陀の慈悲の前にすべてを投げ出してすがるというようなところがあるようだ。(そんなしっかり勉強したわけでないのであれですが)

 親鸞も弟子に、『人を何人殺して来い』と言って、弟子が出来ません、と言うと、「それはお前がそういう人を殺す業をもっていないからだ。もし持っていたら殺そうと思わなくても気がついたら何千人も殺しているものだ」と言ったという。

 そういう立場であるから、『自分』というものもその本質は業(=カルマ)の中で自分にはコントロール不能の流れの中で動かされているのだから、『何をしでかすかわからない』という言葉が出てくるのだろうと思う。
 自分は善人である、あるいは自分はこういう人間であって、こういうことをする人間で、こういうことをする人間ではないという信念はあるきっかけによって簡単にひっくり返り得る。

 自分は人を傷つけたりしない。いつも利用され傷つけられるほうだ(=善人)と思ってると、いつの間にか傷つける側に回ってる(=悪人)などということが往々にしてある。

 しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし
 
 この「悪人」というのは自分が何をしでかすかわからないと認識している人を言う。

 キリスト教的に言えば、「自分は髪の毛一本黒くも白くも出来ない」と知っている、自己の無力さを知り抜いている人を言う。

 「善人」は自分が善人だと認識している、自我(自己イメージの)の枠が固い人。その善人でさえいつかは成仏するのだから、自分がなにをしでかすかわからないと悟っている「悪人」が成仏しないわけがあるだろうか。
 ということでこれは逆説的な言葉なので、普通の意味の、善人、悪人とは異なっている。

 自己は無力であると言うと、「いやそんなことはない、人間には世界を変える力がある」という反論も出てくる。これはどのようなレベルで語るかの問題で、人間が善きほうに、光に向かおうとする努力は必要で、飲んだくれてああ、自分はアル中だ~ダメ人間だ~悪人だ~悪人だ~といってるのがよいと言うわけではない(たまにはいいかも笑)。

 アッラーを信頼せよ、しかしその前にお前のらくだをくいにつなげ
 
 と言う言葉があるが、らくだをくいにつなげるのは人間の努力だ。でも、くいをつないでも、くいがぼきんと折れるかもしれないし、急にらくだが暴れだして逃げてしまうかもしれないし、大地震が起こるかもしれない。そのことに対して人間は無力だから、努力をした上で神を信頼し、そして起こることは受け入れなさいとこの言葉は言っている。

 最近、自分はこのちゃんとらくだをつないできたかな?と思うことが多く、それは自分で光のほうに向かう努力をしてきたかなと省みることが多かった。確かに自分なりの仕方で神さまを信じようとはしてきたが、自分が幸せになるために手を抜いていたと言う部分もあるような気がしてきた。

 例えば、神さまのことを考えているのになんか気がめいるな~と、言うときもしかしたら、あまりにも部屋が汚いのかもしれない。そう言うときに、掃除をするという解答をちゃんと導き出せるかどうか。これはわかりやすすぎて現実味のない例だけど、自分が(他の人に対してもそうだが)心地よくいるために自分に出来る努力を惜しまないというようなことが大事なのではないかと思う。

 部屋が汚い→掃除というのは、精神面にもあてはまることで、自分の中の何かがある現象を引き寄せているという事実に基づいて、自分を内観的に振り返ることや、また結構昔は小馬鹿にしていたようなポジティブな言動を心がけるということや、笑いを忘れないというようなことも大事なんじゃないかな~と感じるようになった。

 ちょっとI先生の言う「神の御心」というのを曲解していたかな?と思う。
 まあ、実際に理解してない限り曲解する以外ないのかもしれないが、「みこころ」の中にはこういう人間側の努力ももちろん含まれているということだ。
 だからある意味「あなたの自由意志があなたの人生を決定している」という教えも、またそれでその人がよい方向へ行くのならまったく問題はないのだろう。

 もし「神の意志」というものが念頭にあれば、自分の言葉や内面を浄化しようという教えを神様からいただいたものとして感謝して受け取れるのではないだろうか。

 なんだかずいぶん親鸞の話しからずれてきたが、親鸞と弟子の会話でとても味わい深いものがある。

 弟子の唯円が親鸞に、

 「念仏しても歓喜は湧いて来ず、死ぬのはいやで、早く浄土へ参りたいとも思わないのはどうしたことでしょうか?」と問う。それに対して親鸞は弟子の未熟さを叱責することもなく、「私もそうである」と言う。

 「果てしない過去から、生まれては死に、死んでは生まれるということを繰り返している苦悩の世界に深い愛着を覚えて、その苦悩の世界こそ捨てがたい。
 また生まれたことのない、悟りの世界のことはどんなにやすらぎに満ちたところであろうかと思えても、ちっとも恋しくない。これはまことに煩悩が盛んであるからである」

 「だが、どれほど名残惜しく思っても、この世の縁が尽きれば、力なくして、終わりを迎える。
  そのときこそ、悟りの世界へ行くことになるだろう。
 いそいで悟りの世界へ行きたいとは思わないものを、特にあわれんで、救ってくださるのが阿弥陀の慈悲(宇宙の無限のはたらき)である。だから、これにつけてもいよいよ阿弥陀の慈悲をたのもしく感じていいのだ。そして悟りの世界に行けることはすでに決定していると思っていいのだ」

 なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。

 神さまのことを勉強しだして、少したち、『自分は別に悟りたくないんじゃないか』と思うことがよくあった。というのも悟りというものが自分が認識していない以上、その悟りたいと思う『悟り』というのは僕の頭が勝手に思い描いた何かでしかない。し、多分それは現実の『悟り』とはまったく違う。

 と、すれば、その自分のまったく知らないものをどうして『欲しい』と言えるのかということだ。 

 瞑想していて、自分とか現実がよくわからない不可解なものに見えて、もう普通の感覚にはやく戻りたいとテレビをつけて見入ったこともあった。その不安感や恐怖感もまた「悟り」とは無関係で、ただ僕のこころのボーダーライン上にある何かなのかもしれない。でもそれはこの自分にしがみつく力の現れであるようにも思えた。
 そんなときには、そんな自分が自分以外の何かであるなんて知りたくもないと思った。

 この瞑想は正しいんだろうか?ただの昔の恐怖のフラッシュバックなのだろうか?気が狂いかけているのだろうか?それとも越えようとしているのだろうか?

 という混乱で瞑想をやめてしまったことが何回かあった。。。
 何かが強烈に怖い。なにかよくわからないのだが。

 そんな自分だけど、I先生のところに行き続けたのは、多分「神」というのがあったからだろうと思う。
 「悟り」ではなく「神」、それを信じること、感じること。
 その「神」から日々たくさんの気付きを与えられていること。
 時にはエネルギーとして、根源にある愛や、知恵を予感させてくれること。
 それらのことは「悟り」とはまた別だとしても、とても自分にとって大切なことだ。
 そららのことがあったから神さまが生活の中に入ってきて、定着するようになったと思う。
 これからもずっと、神さまを思い続けていたい。

 そして親鸞の言葉を読むと、「悟りたいとも思えない」唯円と同じ僕も、神さまに少しづつ引っ張ってもらっているのかなと思うのだった。そして少し安心する。安心て・・・悟りたくないんならおかしな話だが。

 悟りたいのか、悟りたくないのかさえももよくわからない、変なものだなと思う。

 悟りたくないのに、悟らせて欲しいなんて。


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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2009/07/27 21:32
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