ネイティブアメリカンの知恵⑤

 ナンシー・ウッド著 「今日は死ぬのにもってこいの日」(原題:MANY WINTERS)より





 ね、ほら、わかるよね
 いろんな人がここへやってくる。そして俺たちの生き方の秘密を知りたがる。
 やたら質問するのだけれど、答えは聞くまでもなく、連中の頭の中でもうできてるんだ。
 俺たちの子供は素晴らしいというけれど、本当のことを言うと、可哀想だと思ってる。
 さかんにあたりを見まわしても、やつらに見えるものと言えば、それは埃だけさ。
 俺たちのダンスを見に来るのはいいが、写真を撮ろうと、いつもキョロキョロしている。
 連中は俺たちのことを知ろうと思って、俺たちの家へ入ってくるけれど、時間は五分しかないと言う。
 土と藁でできている俺たちの家は、彼らから見ると妙チキリンなんだよね。
 だからここに住んでいなくてよかった、と本当は思っているわけ。
 そのくせ、俺たちが究極の理解への鍵を握っているんじゃないかと疑ってる。
 俺たちの人生の秘密を見つけ出そうとすれば、永遠の時があっても、連中には足りないな。たとえみつけたとしても、やつらはそれを信じないだろうよ
 



 たくさんの冬を
 わたしは生きてきた
 終わりのない夏と戯れ、疲れきった大地を
 最初の雪が降ってきて覆いつくした
 時のそもそもの始まりから
 たくさんの冬
 わたしは山々の頂に水を捕らえて放さなかった、
 月と太陽がみごとな円環を創り出した大地の始まり以来
 まだ冷めやらぬ山々の頂に
  
 たくさんの冬
 わたしは星たちを至るところに吹き飛ばした
 それぞれの星が落ち行く先を
 冬の陽の路に沿って
 海へと川が流れゆくように
 たくさんの冬
 木々はわたしたちとともに寝た
 獣たちはわたしの胸の上を歩き回り
 鳥たちも夜寒の辛さを和らげようと
 わたしの火のそばに近づいてきた

 たくさんの冬
 わたしは孤独な月を友として生きてきた
 その月があとを追う灼熱の太陽は
 大地を冬から解き放つ前
 わたしたちの感謝の歌に聴き入った
 たくさんの冬を
 わたしは生きてきた
 解けてゆく雪の中から、ひ弱な花が現れて
 わたしは春の精です、と言った
 時のそもそもの始まりから




 冬の木は
 まるで親父の顔の皺みたいだ
 それとも
 わたしがまだ若くて
 悟りへの明快な一本道を
 探しあぐねていた頃に通ろうとした
 たくさんの小道みたいかな?
 一本一本の枝には
 さらに小さな枝があり
 辿っていくと
 いろんな結末、いろんな悲しみが待っていた
 枝は、わたしの体重を支えるには
 どれもこれもひ弱すぎて折れてしまい
 まごついてわたしは下に落っこちた
 冬、
 たくさんの小道のように
 絡まりあった裸の枝を
 空に向かって高々と伸ばしている木を見た
 だが道は
 それぞれが目的をもっていて
 その木の根っこに帰ろうとしていた




 若いとき、わたしは何も知らなかった
 背はすごく高かったが、中身は育っていなかった
 そこである日わたしは山へ行った
 すこしだけ死んでみようと思ったのだ
 これは部族の者が、浄めのためにやるやり方だった
 わたしの口は開き
 わたしの叫びは風の上に落ちて、すぐに吹き払われてしまった
 目は何ものも見なかった
 すると、太陽はわたしの無知に目隠しをした
 わたしの耳は沈黙を聞くばかり
 すると、川はわたしを歌の中に溺れさせた
 わたしの手は空気を押しとどめた
 すると、火はわたしを燃やしつくした
 とうとうわたしは無になってしまった
 ある日目を覚ました
 真実を言いなさい、と風が言った
 そこでわたしは言った、怖くてたまりませんと
 そのわけが知りたければこれを見なさい、と太陽が言った
 そしてわたしは、村が変貌してゆく様を見た
 音楽を聞きなさい、と川が言った
 そしてわたしは、わたしの部族の者が笑っているのを聞いた
 暖かみを感じなさい、と火が言った
 そこでわたしは子供たちを抱えた
 自分が真に誰だかを知りなさい、と精霊が言った
 そこでわたしは、わたしは人間です、と言った



 わたしが憶えている手は
 殺してごめんなと謝りながら
 木を切っていた
 親父の手
 わたしが憶えている手は
 花というものの目的を教えてくれた
 お袋の手
 わたしが憶えている手は
 いつか鹿を殺す日の稽古に
 野うさぎを殺していた
 兄貴の手
 わたしが憶えている手は
 新しく生え出る木を見つけようと
 土をほじくっていた
 姉貴の手
 わたしが憶えている手は
 わたしの人生のいただきに行く道を教えてくれた 
 爺さまの手





 たぶん、君自身になるってことは
 泣き叫ぶ嵐の中に、君独りいるってことだ
 そのとき君が求めるすべては
 人の焚き火に手をかざすことだけ 


 わたしたちは重要じゃない
 わたしたちの人生とは、それでもって
 永続する思考を引っ張りまわしている、たんなる糸
 思考はそのようにして、時を貫き旅をする


 

 人生について
 わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
 それは得がたく、そして美しいものだ
 仮装して、だまくらかしながら、それは現れる
 大笑いしながら、現れることもある
 人生について
 わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
 なんにも
 わたしの答えは、わたしだけのもの
 おまえには通用しないだろう
 樹木と同じで、わたしたちは共通の根を持っている
 ところがその育ち方の違うこと!



 おまえは後戻りはできない
 わたしたちの道が
 「昨日」に架ける橋だと信じているなら
 おまえはここで生きることはできない
 「今」は過去のやり方とは違うのだ
 「今」は美しい
 なぜなら、この世で大事なもののすべては
 わたしたちに至る道を見つけてしまったからだ




  わたしたちにはいつも何らかの宗教があった。常に神を信じて、わたしたちのやり方で、神を崇めた。神様というのはどこか天上の雲の上にいる人間だよ、と教えられたのは、スペイン人がやってきた1598年以降だった。そしてこういう話しも聞かされた。なんでもこの神には息子がいて、実際にこの地上で生きようとやってきた。そしてわたしたちを救うために、酷い殺され方をしたのだと。だからわたしたちは、彼を崇めなければならないというのだ。

 その当時こういった考えは、奇妙だった。わたしたちにとっては、神は岩の中、木の中、空の中、至るところに偏在した。太陽は私の父だったし、大地は私たちの母、月や星はわたしたちの兄弟姉妹だった。だからスペイン人が来るまでは、神を人間としてみたことはなかったのだ。それから、長い茶色の衣を着た神父が、十字架形の杖、祈祷書、水やなにかをもってそこいらをうろつき、やたらその水をわたしたちの頭に注ぎかけるのだった。そして言うことには、もうわたしたちは彼らの宗教の信徒だ、なぜなら今まさに洗礼を済ませたところだからだと。わたしの仲間には、神父たちを神さまだと思い込んでいる者もあった。逆に、彼らの宗教に最後まで抵抗する者もいた。わたしたちはその宗教が怖かったからだ。ある者は鞭打たれ、ある者は殺された。

 結局わたしたちが決めたのは、こういうことだった。すなわち、外見にはどんな教会へ行こうと大差はない。わたしたちの教会は、常にわたしたち自身の内にあった。大事なのはこっちの教会だ。外の教会がみな崩れ落ちても、こっちはずっと長い間残るだろうからだ。



 今日は死ぬのにもってこいの日だ
 生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている
 すべての声が、わたしの中で合唱している
 すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやってきた
 あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった
 今日は死ぬのにもってこいの日だ
 わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている
 わたしの畑は、もう耕されることはない 
 わたしの家は、笑い声に満ちている
 子供たちは、うちに帰ってきた
 そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ






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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2009/09/08 20:22
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