キと視覚

  気(キ)というと目に見えないエネルギーだというのが普通の認識だと思う。

  では、その本質は何かというと、意思の力、志向性、注意力なのではないかと思う。

  たとえば、「気が行く」というのは、なにかある物事に自分の意識が向かうということを意味している。意識したところに、気が行くわけだ。

 たとえば道でタイプの異性とかを見かけたとする。
 すると、視覚的にその人物を捉えたことによって、そこに意識が飛んでいく。
 現代の科学では、この状態ではただ視覚が映像をキャッチしただけでなにも起こっていないが、実際は意思の矢をそちらに向かって放っているに等しい。
 この意思の矢はある次元では現実性を持っているので、敏感な人はそれを察知して振り向いたりする。

 見てるだけ~というのは、実のところそこに自分の気を飛ばしているということなのだと思う。
 
 気が散る、というのは、様々な対象に転々と意識の対象が移っていくために、エネルギーがばらばらに振り分けられ、どれひとつちゃんと集中できないことを言う。

 今日、電車に乗ってるときに、立ったまま5駅くらいずっと目をつぶっていて思ったことだけど、視覚によって気が散るということがとても多いことに気づいた。
 これ、見えなきゃいらいらしないのに、というものが本当に多い。
 視覚が聴覚や、嗅覚と違うのは、それが能動的かつ男性的な感覚だということだ。
 視覚は視野の中を常に動き回り、自分にとって意味あるものを常に探している。視覚を研ぎ澄ますということは、たとえば目を凝らすとか、じっと見るという言葉を使い、なにかハンター的な性質を持っているような気がする。
 それはその性質上常に動き回っているので、視覚的刺激が多い場所だと意識も視覚に連動して、「気が散る」。

 それにくらべて、聴覚や嗅覚という感覚は、視覚にくらべて受動的かつ女性的だ。
 聴覚を働かせるときには「耳を澄ます」という。
 その意味は澄ませることにより、外界の音を感知しやすいようにするためであり、自分自身に働きかけているということだ。
 視覚を研ぎ澄ませることとの性質の違いは明らかだと思う。
 聴覚あるいは嗅覚は、対象を探して動き回る必要がないのだ。

 なにを言いたいかというと、視覚という感覚はその性質上、能動的に注意の矢を外側に飛ばすものなので、やはり視覚によって「気が散る」ということがとても多い。

 セイント星矢に出てくるバルゴのシャカというキャラクターがいつも目を閉じているのは、「私はコスモを増大させるために目を閉じているのだ~」ということだけど、身もふたもなく翻訳すると「気が散るから目を閉じてんだよね」ということになる。(最近漫画を再読したのれす)

  

 (↑悟ってるみたいなポーズをしてるのに、私にひざまづいて許しを請え!とかいうのがオモローです)

 現代は特に視覚を酷使する文明ではないかと思うだけど、テレビやネット、プレステ、携帯など常にきょときょとと眼球が動き続けている。(携帯用音楽プレイヤー、ゲーム機も普及しているので、総体的に入力過多だろう)
 このことが、「気の散る」状態をもたらしていると思うけど、加えて、他の気が過剰に進入してくるということもあるのかもしれない。

 昔から精神のバランスを崩すことを、「気が違う」「基地外」と言ったりするけど、これは自分の気とは違うエネルギーによって自分の気を殺されたり、押さえつけたりされているということをあらわしているのかもしれない。

 とすれば、視覚の入力を意図的にカットすることによって自分のエネルギーを取り戻すことが出来るということも起こる。
 これを突き詰めて、断食なども加えて長期の隔離をおこない自己の真実(使命や本質など)を探ろうとするのが、インディアンの伝統で行われる「ビジョンクエスト」などではないだろうか。

 約3週間ほど師匠のアドバイスにしたがって、夜はなるべくネットもテレビも落として、2,3時間はBGMだけを流してじっとしているようにしてみてエネルギーが刷新されるような感じがした。
 意識の軸がばらけていたのが、自分自身にもどっていくような?感じ。
 何もせず、ろうそくの火を見たり、たまにタバコを吸ったりしているととても贅沢な気分になるのが不思議だ。 

 「とにかく自分が主体になることが大事なんだよ。他からのよくない影響に支配されてはならない

 とI先生が言っていた。
 環境に対して自分が主となり、その上に神様を持ってくる感じだろうか。

 自分自身から逃げて他のものに走ると、そのキによって支配されざるを得ない。
 
 ふと思ったことだけど、なぜ「引きこもり」というと、ネットやゲーム、アニメなどという言葉が浮かぶのだろうか。それらがあらわしているのは、引きこもった時間を他者の世界に支配されてすごしているということだ。引きこもりの問題は、完全に自分自身の中に「引きこもれない」ということにあるのかもしれない。

 完全に自分自身の中に引きこもったときに現れるのは、「ビジョンクエスト」の世界であり、それは不健全なことではなく、かつては大人になるためのセレモニーだった。

 リアルであるとはどういうことだろうか。
 人が現実感を失うとはどういうことだろうか。
 他者とのふれあいがないことや、自然とのつながりが失われているのは悲しいことだ。
 しかし、もし、一人きりでいられる時間があるのなら、情報の海から離れて、その一人でいる自分自身の存在をしっかりと実感できるなら、それは一番身近な他者である自分自身との絆を取り戻すことにつながるのではないかと思う。

 多くの人が「正しく引きこもる」すべを知っていれば、世の中はよくなると思う。


 ※今、記事を書き続けるべきか迷っているので、出たりひっこんだりしてます。これもまた消える可能性があります(笑)ネット上のアイデンティティは解体するかもしれませぬ。


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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2009/10/16 17:27
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