自由なる自然

 この時代において、『自然』は再発見しなければならないひとつの神であるだろう。先進諸国に住む多くの人はあまりにも自然のリズムから切り離されてしまった。
 全体から切り離された存在は、必ず元のユニティに回帰したいという衝動を内に秘めている。
 癒しへの願望というのは様々な種類があるだろう。肉体の不調から解放されたいという願望、過去のトラウマから解放されたいという願望、ストレス漬けの生活から脱け出したいという願望。
 しかし、その根幹には『自然』へと帰りたいという願望がある。
 本来あるべき状態に、僕らはいないような気がする。
 そして、あるべきだった状態に帰りたいと願っている。
 その願望が不自然なまでに高まっているのが、この時代であると思う。
 それは僕らが不自然に生きているからだ。

 自然のリズムから切り離されてしまっている・・・
 では、自然のリズムとは一体なんだろうか?
 リズムとは、一定の間隔で繰り返される音である。
 それは悠久の時の流れを貫いて存在する法則だ。
 人為的に操作する事は出来ない見えない掟だ。
 古代中国人はそれをタオと呼んだ。
 そしてタオに従って生きる事が幸福であると考えた。

 すべての行動には、それをするにふさわしい時節がある。
 目覚めるにふさわしい時間、瞑想するにふさわしい時間、働くにふさわしい時間、眠るのにふさわしい時間・・・。
 
 すべての行動において、それをするにふさわしいスピードがある。
 歩くのにふさわしいスピード、呼吸するにふさわしいスピード、食事するのにふさわしいスピードがある。
 
 すべての行動においてそれをするにふさわしい量がある。
 一日のうちで吸収するにふさわしい情報量がある。話すにふさわしい言葉の数がある。食事の量が、労働時間が、ストレスの量がある。
 タオが、人間が幸福であるために満たすことを求める基準が存在する。
 早い話、これらすべてが狂っているのがこの西洋商工業都市文明ではないかと思う。
 
 この文明は、母なる自然の内側に一時的に出現したバーチャルワールドだ。
 父なる神は、ハーモニーの中に不協和音を入れたかったらしい。
 しかし、自然のなかに出現した不自然は、今やガン細胞のように成長しふくれあがり、惑星の各地に転移し生命自体を破壊しようとしている。
 そしてこの不自然なるバーチャルワールドの中で生きる僕らは、その不自然なライフスタイルゆえにガン細胞に侵されて死んでいく。
 僕ら自身が、自然の調和を乱すマザーアースのガン細胞であることをやめれば、僕ら自身も健やかになっていくのは間違いない。
 
 この文明の中で生きる僕は、他の国に生きる人たちよりも自由であると考えている。だがそれほど自由であると感じてはいない。
 僕らは本当に、自由なのだろうか?
 自由のなかにいると、自由であることがわからなくなるのだろうか?
 そもそも、自由とはなんなのだろうか?

 まず間違いなく、自由とは何でも好きなことが好きな時に出来るということではないだろう。
 それはある条件に過ぎず、それが満たされている人が自由であるとは限らない。牢獄の中でも人は自由でいられるし、プールつきの豪邸の中でも人は不幸でいられる。

 「俺は自由だから、毎晩4時過ぎまで起きていて、昼過ぎまで寝ている」という人が単にリズムが狂っているに過ぎないように。
 「私は金銭的に自由だから、ブランド物のバッグを月に何十個も買いあさる」という人が、単に何かの心理的穴埋めとしての行動にとりつかれているに過ぎないように。
 狂っているから、いらないものまで、欲しくなってるのかもしれない。
 狂っているから、しなくてもいいことまで、してしまうのかもしれない。
 欲しいものが手に入ること、したいことができる事、それはもしかすると、単に狂気に対するストッパーが欠如しているに過ぎないのかもしれない。
 それは幻想の自由だ。
 
 自由は、きっと自然に生きることのなかにある。
 なぜなら自然に生きるということのなかにおいて、僕らは本当の自己を発見できるからだ。自分は何を愛しているのか、何をしたくて、したくないのかということが見えてくるのは自然のリズムにおいてである。
 そして、自然のリズムにおいて発見した、自然なる自己=本当の自己を生きているときに感じるのが「自由」ではないだろうか。

 この自然なる自己に近づくためには、必ずしも大自然のなかに出かけたり、山奥で暮らす必要はない。
 夜には、テレビも蛍光灯も消して、ろうそくをつけて、その前でゆったりと過ごすだけでも正常なリズムは取り戻せる。瞑想すらする必要はないと思う。ただ、炎を見つめて何もしない時を過ごしていれば、自然とそれは瞑想的にもなっていく。
 自然とは、木々や、山や、海のことだけではない。
 テレビが消えた後の沈黙、電気を消した後の暗闇も、偉大な自然なのだから。本当に身近なことから、自然を取り戻すことは出来るのだ。 
 そのときに自然と湧き上がってくる穏やかさ、喜びを感じる時、きっと僕はつかの間タオに帰ってきているのだろう。






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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/01 15:34
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