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既にあるものが・・・

 太陽は、神の似姿だ。
 あらゆる生物・植物・鉱物の相互依存によって活動する地球と言う生命体も、太陽の活動なしにはあり得ない。
 太陽の存在は、可視的な物質次元だけを見れば・・・そして太陽系という枠組みの中だけで考えれば、あらゆる生命の中心であり、創造の光の発出源だと言える。太陽が発する光こそが、熱エネルギーこそが命の源だ。
 僕らがなんとなく生きているこの日常生活はすべて、この創造の光があるからこそ成り立っている。この事を考えると、存在の神秘に打たれてしまう。
 もし太陽が突然消滅すれば、永遠に夜明けの来ない闇が訪れ、地表は凍てつき、すべては死に絶えてしまうだろう。
 地球はその公転の中心となる重力場を失い、どこか宇宙の果てへはじき飛ばされてしまう。
 太陽があるからこそ、光が絶え間なく地上に降り注がれているからこそ、すべてが存在し、地球という惑星が安定した場を確保することができるのだ。
 太陽はミクロコスモスである人体では心臓に該当する。全身に血液を絶え間なく供給する心臓のように、太陽は鼓動し、光を、熱を休みなく放射している。
 太陽や、水、そして大気。
 植物、動物。
 これら既にあるものに対して、その意味と感謝と畏怖の念を取り戻す必要性が迫ってきている。
 それをエコロジーの原点としておかなければならない。

 神を悟るということも、既に存在するものが確かに存在すると知ることであるという。
 僕らが修行して、霊格をあげるかなんかして偉い存在になるのではない。問題となるのは神であり、僕らではない。
 禅の逸話にこんな話しがある。
 座って修行している弟子に師匠が尋ねる。

師匠「お前は何をしているのか?」
弟子「修行をして仏になろうとしているのです。」

すると師匠は落ちていた近くのかわらを拾って磨き始めた。

弟子「何をしているのですか?」
師匠「瓦を磨いて、鏡にしようとしている」
弟子「瓦を磨いても、鏡になるわけはないではないですか」
師匠「ならば聞く。座禅をして、仏になることができるのか」
弟子「それは同じ事なのですか??」

師匠「牛が引いている車が動かなくなったとき、お前は牛を打つのか、車を打つのか!?」


 この師匠は、弟子が見当はずれの行為をしていることを指摘している。
 自我は、決して神にはならないということだ。
 弟子の「修行をして仏になる」という発想は、牛車が動かなくなった時に車を鞭打つような見当違いのものであるということを師匠は教えたかったのだろう。
 I先生は瞑想を続けていくと、瞑想がマーヤになっていくということを言っていた。この禅の逸話も、瞑想するという行為が深いマーヤになった事例とも解釈できる。
 そうではなく・・・既に最高のものは存在している、と知ることが重要なのではないか。
 その最高のものは僕がどんな状態にあろうと、常に最高のものとしてあり続けたし、これからもあり続けるだろう。
 その最高のものを本当に愛しながら生きるとき、その最高のものへの愛が開ける時、もはや僕らは自分の状態にはこだわらないだろう。僕は常にその最高のものから生まれ続けている。
 辛い時にもその最高のもののことを思えば、僕はその最高のものから流れ出るものであるということが感じられる。
 その個人的イメージは、胸の中の虚空で輝く太陽だ。
 
















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アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/16 22:41
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