両国へリスニングに(トマティス体験)


   5/23記 5/27編集



 

  本日は完全に夏日、6月下旬くらいの体感です。

  やや暑いけど、僕はこれくらいの方が調子がよく、活動性がMAXになるのはこんくらいの気候でしょうか。

  ということで本日はトマティスを体験しにお出かけしてきました。

   Dr-tomatis.jpg
 
  トマティスとは、フランスの耳鼻咽喉科医アルフレッド・トマティス博士(1920~2001)が開発した、聴覚を胎内の状態に戻すことによりリセットして、ブロックされていた音の周波数帯域を聞こえるようにし、より完全な耳にするための方法です。これはまた、語学、音楽の上達、リラクゼーション、トラウマ治療、潜在能力の開発、発達障害児童のセラピーなど幅広い分野で応用されています。

 かつてはオペラ歌手のマリア・カラスがトマティスを受けたことは有名です。

  現在、ボイトレ再開しまして、地元の公園で地味に発声練習したりしてますが、図書館でトマティスに関する本に引き寄せられ読んでみました。



 で、思いました。「発声」と「聴く」ってことはふたつセットなんですね。
 どうしてもボイトレとかするとなると「声を出す」方にのみ意識が向いてしまいますが、トマティス理論によると「聴こえない音は発声できない」ということです。だから音楽をする場合、アウトプット以前に、音を脳にインプットしている耳がどのような状態であるかというのはすごく重要になるのではないかと。

 トマティスでは普通の聴覚テストでは詳しく測らない、周波数別の聴力をテストしてオーデイオグラムという表にします。

 なんとこれを見ると、パーソナリティの特徴などもわかるらしいですね。

 どの周波数帯の聴力がよいか、ということで例えば高音域が強く、低音域が弱い場合、精神文化への理解力などは深いが、肉体労働は苦手、行動力に欠ける。

 逆に、低周波の感度が強く、高周波ほど感度が鈍いという場合は、足腰は丈夫でからだは元気、行動力は十分、ただ細かなデスクワークは苦手、頑固で融通が利かない面も・・・なんていう傾向が現れるそうです。

 ホントなら面白いですよね~

 ちなみに前の方のようなオーディオグラムの結果を知性曲線、後者のような結果を行動曲線と呼ぶようです。

 人体各部に共鳴する音も周波数によって異なり、高周波ほど頭頂(8000ヘルツ)寄りに、低周波ほど尾てい骨寄(200ヘルツ)りに共鳴します。


 (尾てい骨の200ヘルツは、ドレミの歌のソ~は青い空~のソ(mid1G)とソシャープ(mid1G#)の間くらいです。
 胸部の1500ヘルツは、hihiGで、ドレミの歌のソから3オクターブ上、普通の歌い手には出ない声です。最後につけた動画でご確認くださいませ。
頭頂の8000ヘルツは、マライキャリーでも出せる音じゃありません。
 ただ誰にでも聴こえる音です。胎児は8000ヘルツの音の世界にいるとトマティス博士は言ってるようです。)


 そしてある音域にだけ音のカーテンと呼ばれる、ブロックがある場合があるようで、これは例えば幼児期のトラウマなどで起こるそうです。子供は先天的な障害がなければ、もともとみな完全な耳を持っていますが、つらい出来事があると、ある音を聞こえなくすることで、自分を守る場合がある。それが「音のカーテン」と呼ばれるもので、オーディオグラムでは斜線がひかれるエリアです。

 うーん、どうもトラウマというのはあれですね、たぶん聴覚だけではないんですが、サバイバルのために「知覚を制限する」みたいですね。だから不安が強いと、ある特定のポイントに関してはむしろ普通の人より知覚力が研ぎ澄まされたりすることもあるようですが、知覚でも思考でも全体的な広がりは失われます。

 知覚は限定的・固定的となり、思考や行動は強迫的・常同的(ループする)となるような気がします。
 動物たちの生存プログラムの名残が、人間の中で発動している状態です。

 で、面白いんですが、トマティスにより耳を初期化することでトラウマそのものが癒されることもあるらしいんですよ。
 発育トラウマというとどうしても、ヒプノなど潜在意識に働きかける系というのがメジャーですが、知覚器官を解放することによってそれが癒されるのなら大変興味深いことです。

 まだ、トラウマというと精神的な症状が出るという認識がメジャーで、知覚にも影響するということはあまり知られていません。

 僕らはおおむね、同じ世界を共有していると思っています。

 しかし、耳という器官ひとつとっても、ある人には聴こえている音が、ある人には聴こえていない。あるいは、ある人には右から聴こえ、ある人には左から聴こえている(音の定位能力の違い)ということがあるんですね。

 それを可視化して見せてくれるのが、オーディオグラムなわけですね。

 で、僕もまず、その検査を受けさせてもらいました。

 ヘッドフォンをつけて音が聴こえれば、左右聴こえた方の手を挙げるという簡単なテストです。

 僕はたぶん、知性曲線を描くのではないかと思いました。あと音のカーテンもあるんだろうなと。

 ってのは結構聴力とか発声に関するコンプレックスがありまして、騒音の中で人と話すのがものすごくイライラするくらい苦手だったり、なかなかこちらも騒音を飛び越えるような響く声が出せないとか、歌の先生に音程の悪さをダイレクトに指摘されたり(泣)しましたので。

 ・・・のですが。結果は予想外で、「耳、いいですよ」(ヤター)ということでした。バランスがとれた理想曲線に近いということ。

 理想曲線はイタリア人などに多いそうです。そう言えば濃厚なピザやワインは好きです(関係ないって)

 あ、カンツオーネも好きだよ(もういいって)




 ただ、左耳の高周波域に音のカーテンがかかってるエリアがありました。
 そして気導音(空気を伝わって感受する音)にくらべて骨導音(体内の骨から伝わってくる音)がちょっと不安定な曲線となりました。

 音のカーテンができる理由は様々ですが、常に自分の左側に何か自分にとって耳をふさぎたくなる人・ものがあったり、また左耳は女性とのコミュニケーションに対応しているので、女性トラウマという場合もあるらしいです。

 まあ、女性トラウマは割とあるんですけど、原因はよくわかりません。なんかブロックされてるみたいです。

 カラオケでよく左耳をふさぐいで歌うと、ましに歌える気がするんですが、それとも関係あるんでしょうかね~

 今回のこのリスニングテストは、無料です。(トマティス自体は結構高額何ですけどね)

 いやーこれいいですよ。
 オーディオグラムだけでもかなり自己理解が深まりますし、 
 担当の方もすごく明朗知的な感じで、すごくお話ししやすかったですし、お勧めしたいですね。

 入会などをごり押しされることもありませんでしたし。

 テスト以外にも出し惜しみする感じもなく、たくさんのことを教えていただきました。
 
 雑多な騒音が苦手(家電量販店のえげつない騒音など)という話をすると、それに対処する「聞き耳を立てる」というエクササイズを教えてもらいました。自分の耳をぴーんと伸ばしてる感じで、10センチくらい耳より上の位置で聴いているとイメージするそうです。

 すると、交通量が多い通りでも、車の「ぐおーん」という低音部分ではなく、しゅっしゅっっと風を切る音のような高音部分にフォーカスしやすくなるらしいです。人間にとって、より物理的な低音部分がより脅威を覚え、ストレスになりやすいらしいです。

 これは聴力が完全に受動的なものではなく、「選択できる(周波数帯域を)」ということを意味しています。
 「うるさい」というのは絶対的なもんじゃないんですね。聴き方を変えることもできると。

 面白いなーと思いました。実践してみようかと思います。ウサギ耳^^ 

 トマティス博士は聴こえてくる音の「高周波をとらえなさい」と言っていたようです。

 そして最後に、一時間だけ聴覚セラピーをお試しで聴かせてもらいました。

 いやーこれが、異様に気持ちよかったんですよね。こんだけ長々と書いてるのも、どうもあれにエネルギーをかなりもらった気がするからなんですが。

(これももしかすると、トマティス理論特有の考えかもしれませんが、脳は糖分などからだけエネルギーを補給しているわけではなく「外から聴こえてくる音」「自分の声」からもエネルギーを補給しているらしいです。

 だから、読経とか歌を口ずさむことはすごく、脳の働きに影響するってことです
。)
 
 簡単にいうとリクライニングチェアーに横になって、音楽を聴くだけです。
 曲は前半モーツアルトで、後半はグレゴリア聖歌です。
 頻繁に聴こえてくる周波数帯域が変更されます。(多分フィルターがかかったり、はずれたり)
 そうすると、モーツアルトの中音域だけが聴こえたり、高音だけが聴こえたりするんですね。

 完全に途中から深い瞑想状態になっていました。

 すごく平和で、美しい、草原のような風景が浮かんできたりして、とにかく気持ちよい状態を味わっていました。

 たぶんシータ波の状態ではなかったろうかと思います。

 終わって、外に出ると、すごくリセット感があり、明日の仕事や帰りの電車時間のことなんてなんにも浮かびませんでした。

 ただ夏空がきれいで、いいなーと。自分で瞑想もしますが、なかなかここまでリセットされないんですよね。最近は特にいろいろ悩みもありまして、夜も睡眠があさかったりで、思考が走り気味だったのがすごく落ち着いて、風景が新鮮に見えました。

 久しぶりの感覚でした。
 僕もヘミシンクとか、バイノーラルサウンド系のCDをよく聞きましけど、なんかそれとも違いましたね。

 うーん、単にグレゴリア聖歌が好きだからかなーその要因もあるかもしれませんが、とにかく気持ちよかったことは確かでした。

 この平和な気持ちよさはフローティングシェル(アイソレーションタンク)に入った時と少し似てるでしょうか。

 フローティングシェルは、明らかに母胎の環境再現でもあり、スタニスラフ・グロフいうところのBPM1の再体験的意味合いが強いです。トマティスの聴覚セラピーでは、少しづつ音にフィルターをかけて、胎内にいた時に聴いていた8000ヘルツの音のみが聞こえるようにします。これを長期間聴き続けることで、聴覚がリセットされるということです。

 胎内の疑似環境をつくるという点ではどちらも似てますよね。
 タンクは感覚的に胎内の再現であり、トマティスは聴覚的な再現ということになる。

 これ組み合わせたらすごそうだけど、誰か作ってくれないかな。
 
 音と声、聴覚の世界は果てしなく深いですね

 発声とともに聴覚も探求していきたいと思います。 

 最後に音に関して面白かった動画をいくつか・・・ 

 高音厨普通にすごいな・・・ぼかーどっちかというと低音厨なので それでもこんなにでんけど

 低音厨の人、お笑い芸人の麒麟川島的なシブい低音っすね 合間のコメントが妙にかっけ~




 


 




セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/05/28 22:46

虹のパレードに寄せて ②





 (続き)しかし、これもまた難しく、というのは僕自身いまだに自分のジェンダーが謎なんですよね~

 女性とつきあったことはあります。
 ついこの間まで、10年以上付き合っていたパートナーと一緒に住んでいました。
 他にも期間は短いですが・・・
 男性と付き合ったことはありません。
 でも、人数だけで言えば、体験自体は男性の方が多くなります。
 
 アイデンティティ的には、「男」メインでやっていますが、「女」人格が時々顔をのぞかせてきます。

まだあどけない小学生のころ、初恋は女の子でした。

 ショートカットの見た目ちょっとボーイッシュな女の子でした。

 この子と大きくなったら結婚したいと思っていたような気がします。

kou-e.jpg

 そのころ↑

 あ、今思い出したことがある。

 僕はちょっと変なんですかね~

 そのころ、近所の小さな神社に帰り道お参りしながらいつも「幸せな結婚ができますように」って言ってたんですよね^^小石を投げて鳥居の上に載ると願いがかなうみたいに、みんな言ってて、、よく石を投げてました。

 10才そこそこの男の子がする願い事?と今は思いますけど。

 他に、テレビアニメの「キャッツアイ」を見て、ああいう格好がしたいと思ったりしてました。

 

 いやいや、当時ですよ。今の僕の画像に想像でレオタードをかぶせないでくださいね。

 似合うわけないんだから・・

所持したりしてないですよ・・・

 あと女子向けアニメって違和感なく普通に見てましたね。
 割と好きです。女子向けのほうが恋愛志向でちょっとドキドキするというか

 再放送だった尾思うけどこの辺のアニメ?

 すっげー覚えてるこの歌

  






 なぜかうちにあった「キャンディキャンディ」も楽しく読みました。
 今でも、あんまりベタベタなのは読まないけど、「ガラスの仮面」やら萩尾望都さんの漫画やらはきれいで好きです。


  11、2才のころになると、結構男子にもウェットな感情を感じる自分に気づきました。

  クラスメートにハーフのなかなかカッコいい子がいましたが、彼が、「好きな子がいる」という話をしてるときに、思わず「それ女?」と尋ねてしまったことがありました。すると彼は笑って「男だったらおかしいやろ」(関西弁喋れるんですよね)と言いました。なぜ、そんなことを聴いたかと言うと、もしかすると、自分のことが好きなんじゃないかとなぜかその時思ってしまったんですね。
  
 と、同時に、クラスには好きな女の子というのもいました。
 転校してきた子で、ちょっと大人っぽくて、胸が大きいと男子に評判の子でした。(小6ともなると修学旅行とかでそういう話しをするわけです)

 小学生のころはそれでもそんなに悩んだり、自分が人と違うとも思わなかったんですけどね・・・

 悩みとか違和感が大きくなってきたのは、17,8くらいからでした。
 女性的になりたいという欲求があって、それと葛藤していました。

 kou17.jpg


 ゲイとトランスジェンダーの区別がまったくわからなかった10代、20代のころ、もしかして自分はゲイじゃないのかという内なるホモ疑惑に苦しんでいました。

 それはかなり強烈な自己嫌悪を伴い、半ばひきこもりになっていたのはそれも原因のひとつだったのです。

  どうも、自分は普通の男とは違う、何かあやしい、変態的な、汚い存在であり、あのまぶしいキャンバスの中に歩いて出て行く資格がないと思え・・・。

 だから一人自転車をこいで誰もいない海にばかり行ってましたし、自己嫌悪を忘れられるアルコールに頼ってました。

 最初はその内なる「何か」を抹殺して、まっとうな、普通の、健康的な男性になろうとしていました。

 しかし、どうしても「普通の男」になれそうもない気がしてきた時に、ゲイ向けの雑誌を買ってみました。

 やや捨て鉢気味に、もうゲイになってやろうかと思ったのです。
 ちょっとゲイの方に失礼な書き方になってしまいましたが、なんかそういう気持ちだったのです。
 ひとつ間違えば、僕は多分、売り専(ゲイ向けの風俗)で働いてたと思います。
 

 出会い系で、ゲイの男性にあったりもしました。
 だが、どうも違う感じがする。なんか、その世界に入れないのです。

 あとから気づきましたが、それはゲイの世界には♀という記号・イメージがなかったからでした。
 ♂と♂だけが絡まりあう世界に自分はいることが出来ず、そこでも違和感を感じる。

でもいっそ、パーフェクトなゲイであったらよかったのにと何度も思いましたよ。
そうすればこんなにあっちかこっちかみたいにいろいろ悩んだり、迷ったりしなくて良かったのにと。
かつての彼女とも100パーセントストレートな男として付き合いたかったとも思いました。

  のちにあるカウンセラー的な人物、(というかよく書いてるI師匠ですが)に、いっちっばん最初に会った時に、「精神的にレズなのでは?」と言われてはっとしました。(しょっぱなからなんちゅー話ししてるんだろ)

 そこで謎のピースがひとつみつかりました。

 つまり、性自認に女性性の部分があり、性対象も女性であれば、確かにレズビアンということになる。

 どちらかというと僕の嗜好は♀と♀のLの世界に親和性があり、ゲイの世界である♂と♂に溶け込めるはずはなかったのです。

 ただ、自分が女性になるとかなんらかの♀イメージが入ると、男性との関係は違和感はないので、正確にはMTFバイセクシャルと言えるかもしれません。また性自認が♂の部分も確かにあり、結構いまだ混乱してる感じです。

 I師匠にはその時に「最初見て、この子は女の子だなと思った」と言われて、ちょっとうれしかった思いでもあります。
 まだ20代でしたね~・・・(遠い目)

  なぜか師匠と最初に交わしたのはそういったセクシャリティに関する会話でした。

  また師匠以外にもたまに自分の中の「女性」を見てくれる人がいました。

  高校の時のクラスメートと談笑してる時、「Mはわがまなな<女>やな」とふといいました。他の男子が「いや、いや女とちゃうやろ」とふざけながら突っ込むと、彼は「ええんや」と笑うでもなく真面目な顔をしてました。
 いや、正直、キュンとしました(笑)
 わかってくれる人がいると思って。

 あとクラスで性転換したら似合いそうな男子一位にめでたく選ばれたり・・・

 他にも何度かそういううれしい言葉をかけられたことがあり、まあそれにすがって僕の中の彼女は生存を続けてきたのかもしれません。

 しかし逆に典型的な野郎扱いをされたり、昔からの知人に馴れ合った会話の中で「おっさん」とか「親父」とかギャグでも言われると「ひどい、何でそんなこというの・・・」と傷ついたりしました。
 正直、まだ「おばさん」と呼ばれたほうがいいかもしれません。
 でも説明できないんですよね、どうしてこんなに嫌な気分になってるかを。

 その後20代の終わりくらいから女装することに興味が出てきたりしました。
 女性として男性と会ってみたいとも思いました。
 でも、そのころには何年もつきあってる彼女がいたので、かなり欲求は自分なりにセーブしてたつもりです。
 ところが、時々、ぷちっと何かが切れて男性と浮気してしまうことが何度か。
 それが思いっきりバレたこともありました。彼女は本当は男が好きなんじゃないのかと疑っていたと思います。
 
 「本当」はどうなのか、いまだによくわかりません。
 ただいえることは確かに僕の中の「女性」は存在して、彼女を抹殺しようとすると、彼女は暴れまわるということです。これ以上男性化したくない、たまにはきれいな服でおしゃれしたいとささやくということです。

 なぜ彼女はいるのか、彼女は何者なのか。彼女はどうしたいのか?

 遺伝なのか、生育暦なのか、単なる趣味嗜好なのか

 その辺の謎を見極めつつ、今後も<僕>は、僕の人生に出会いと、混乱と、豊かさをもたらした<彼女>とつきあっていきたいと思っています。
 抹殺しようとすることはもうやめました。
 ここのところいろんな自分の生活の屋台骨が解体してきましたので、もう、月並みだけど自分に本当に正直に生きるしかないのかなーと思っています。

 まあセクシャリティは変わっていくものとも言うので、男とか女とかゲイとかトランスとか、今「決めないで」今のあり方で人生を楽しみたいです。今回書いたのはすべて過去のことです。



 明日は午後は多分晴れてまた暑くなりそうです。

 パレードに参加するかは未定ですけど、初夏の代々木公園でRAINBOW FESTAのブースをぶらーっと回ってみようかと思います。 


 
セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/05/06 20:57

虹のパレードに寄せて① TOKYO RAINBOW PRIDE2016


                       rainbow.png




 また更新にだいぶ時間があいてしまいました。

 一応元気でやっております。

 先日は、武蔵野市内で開催された「LGBTカミングアウトのためのコミュニケーション講座」というのを聴講してきました。

 この講座は5月7日、8日に代々木公園などで行われる<TOKYO RAINBOW PRIDE>の関連イベントとしてひらかれました。

 RAINBOW PRIDEというのは、

「 『東京レインボープライド』は、 LGBTをはじめとするセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)が、差別や偏見にさらされることなく、より自分らしく、前向きに生きていくことができる社会の実現を目指すイベントの総称です。

その主なものとして、『パレード』『フェスタ』を主催し、『レインボーウィーク』キャンペーンを実施しています。

これらのイベントを通して、LGBT当事者並びにその支援者(Ally)と共に、「“生”と“性”の多様性」を祝福する場を提供しています。

日本では、人口の5~8%前後がLGBT当事者ではないかとされています。

決して少なくはない数であるにもかかわらず、まだまだLGBTの存在は可視化されているとはいえないのが現状です。

 『東京レインボープライド』では、様々なイベントを通じ、LGBT当事者が等身大の存在として広く社会で知られるようになり、当たり前に暮らしていけるよう努めていきます
。」


 というものです。(RAINBOW PRIDEホームページより)


 LGBTという言葉はこのところ随分メジャーになってきてますけど、雑に説明すると

 L→レズビアン G→ゲイ B→バイセクシャル T→トランスジェンダー  を意味して、そのようなセクシャルマイノリティ(性的少数者)に属する人たちの総称として LGBTという言葉があります。

 で、まー生まれ持ってそういうカテゴリーで人生を生きてきて、家族だとか大事な友人、職場などに本当の自分をさらけだした上で生活したいという時に、「カミングアウト」(自己開示)が必要となってくるわけです。

 o-BRAZIL-900.jpg

 その講座と言うのはこういうデリケートな問題をカミングアウトする時に、カミングアウトする方、される方にどのような心構えがあれば、わかりあえるかということをテーマとしたものでした。

 正直、僕はそういうセクマイ(セクシャルマイノリティ)の方が集まる場というのは初めてで、結構緊張感が強かったのですが会場に入ると、まあごくごく普通の男女が座っていました。当たり前ですけど、見た目で明らかに人とは違うとか、おかしいという人はいないのです。マツコデラックスみたいな濃いキャラ(嫌いじゃないですが)で会場が埋まっていたら多分帰ってたと思います。

 ただ、先生はトランスジェンダーの方で、男性としてうまれているけど、女性として生きている方でした。
 髪の毛はロングですけど、背は結構高く、男性的なシルエットでもあり、メイクもされてるという感じで、一見するとメディア的な「おねえ」のキャラと<やや>少し近いかもしれません。

 でも違うんですね~~

 なんと先生には女性の彼女がいて、彼女との間に子供がほしいので、性適合手術、ホルモン療法などは受けてないと言われていました。

 ここまで読んで、LGBTにまったく詳しくない方は???となるかもしれまんせん。

 トランスジェンダーの中には、MTF(man to female)とFTM(female to man)があります。この講師の方の場合はMTF、つまり肉体は男性として生まれているけど、性的アイデンティティは女性と言うケースです。(精神医学の言葉では性同一性障害とも言います)

 MTFの方の中には、アイデンティティは女性で、恋愛や性の対象は男性という方がたくさんいます。
 これは理解しやすいですよね。
 自分が女性であり、男性に愛されたいということです。
 
 しかし、性自認は女性だけど、性の対象も女性という方もたくさんいて、MTFレズビアンと呼ばれます。
 他にも性自認は女性で、性の対象は男女両方だというMTFバイセクシャルもたくさんいることでしょう。
 
 ちょっとややこしいのですが、もともとLGBTのLGBまでは 外的な対象の嗜好性を意味する(男好き 女性好き 両性好き)であり、TranceのTはそもそも自分は男か女かというアイデンティティの問題であるので、概念の枠組み自体がちょっと違うわけです。
 LとGにはタチやウケ、リバ(リバーシブル)という性的に能動的、受動的、あるいはどちらもと言う役割のある意味男女分化という要素はあるのですが、性的アイデンティティ自体の転化は薄いのです。

   講師の方も、いろんな場で自分の立場を説明すると「じゃああなたははるな愛ちゃんみたいな感じなの?」というようなリアクションが返ってくることが多くて、結構困ることがあると言われていました。

 ここで個人的な話をしますと、僕自身もセクマイ的な傾向が強いと思います。
 だから、一般教養としてではなく、当事者意識でこの講義も聴講しに行きました。

 まあ、ブログとかで性別♂60% ♀40%と書いたり、なにげに小出しにカミングアウトはしてるんですが・・・

 といってもWEB上だけのことであり、WEB先行で知り合った人にはなんとなく理解してもらえますが、リアル先行で知り合った人にこちらから言い出すというのはハードルが高く、まだやったことはありません。

 WEBでも小出しにしか書いてこなかったので、LGBTウィークに寄せて、今回はなるべく詳細にカミングアウトしてみようと思います。 

 しかし、これもまた難しく、というのは僕自身いまだに自分のジェンダーが謎なんですよね~(続く)



セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/05/05 13:42

Radio update 4/19 インナーベイビーとつながる旅

  baby.png


  ジョン・ブラッドショー著「インナーチャイルド」本文の瞑想より、 インナーチャイルドの中でももっとも根源的な内なる赤ん坊を癒す瞑想を、少しアレンジしてレコーディングしました。

  インナーチャイルドと言う言葉はもう随分知られています。

  しかしこの本で特徴的なのは、内なる子供を乳児期、歩行期、前学童期、学童期、思春期とわけていることで、それぞれの時代に必要な学習やケアが必要であることを説いています。 

 例えば乳児期で必要なのは、母親との肉体的な十分な接触です。どれだけ栄養を豊富に与えても、肉体的なスキンシップが少ないと乳児は正常に発育しないと言われています。猿の赤ん坊などでの実験では、何も「抱きつくものがない」環境に入れられた小猿は死んでしまうことさえあります。このことから、子が親に甘える愛着行動はそれ自体が生命に必須のことと言えるでしょう。

 また、乳児は「うーうーあー」というような自分の声にあわせて反響してくる周りの声を必要としているようです。これはエコーイングと呼ばれるそうです。それを聞くことにより、赤ん坊は自分が見守られていて、世界は信頼に足ることを学ぶのです。

 これらの要素が十分満たされたとき、乳児は健全な自己愛と、信頼を学ぶと著者はいいます。

 この瞑想は傷ついたり、十分な愛をもらえなかったと思い込んでいるインナーベイビーとつながり、癒すものです。

 すでに大きな大人であったり、ご自身の子供さんがいる場合でも、自らのベイビーとつながることは現在の親子の関係をより良好にするであろうと思われます。

 一応僕の声で録音してありますが、本当は自分自身の声で行うのがベストなのかもしれません。

 また心の治療を受けてる方、幼児期の大きなトラウマが予想される方は慎重に聞いて、あまりにも感情の負荷が大きい場合はすぐに中止してください。


 ↓↓では、インナーベイビーの旅、はいたかご案内バージョンはこちらから↓↓







セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/04/19 20:52

今さらですが、EFT






  トラウマの治療として、SE(somatix experience)の記事を以前書きましたが、10年くらい前から結構浸透しているEFT(emotional freedom teqnique)についてはなんとなく知ってるもののあまり興味はありませんでした。

 今回、「人はどうして死にたがるのか」というヘビーなタイトルの本を読んでいたところ、タッピングについて書かれている部分があり、興味を持ったのです。

 この方は自衛隊でずっとカウンセリングをされてきた方で、希死念慮がともなう深刻なうつのケースも多く、経験されてきたようです。
 この本に書かれていたうつのメカニズムの説明「うつは本来生命を守る、怒り・悲しみ・不安などの感情がいっせいに誤作動を起こしている状態」もすごくしっくりくるものでした。




 それだけに、こういう立場の人でさえ、ちょっと著書の中で紹介したくなるEFTには何かあるのではないかと思い、調べてみました。

 EFTのやり方は今ではネットで検索するといくらでも出てくると思いますが、拍子抜けするくらいシンプルなものです。
 苦しい感情、症状などを言語化しながらからだの特定のポイントを中指でとんとんたたき続けるだけです。

 これだけのことで非常に重いトラウマや、からだの症状から解放される人がたくさんいるみたいです。

 ちょっとEFTの2ch掲示板を見てみましたが、なんとなく批判的コメントが多そうな2chでも肯定的見解が多かったのが印象的でした。

 プロのヒプノセラピストの人でも、メインはヒプノでもサブ的にEFTを取り入れている人は多そうです。

 ただ「人はどうして死にたがるのか」には、これが向いてない人もいて、必ずしも万人に有効と言うわけではないので効果がない場合は忘れてくださいと書かれています。でもなんとなくざーっとネットでみた限りでは、実践すればやった人の半数以上はなにかいい影響がありそうなそんなイメージのある療法かなと思いました。

 僕の場合は、気になる感情にフォーカスして、鎖骨したのポイントをもむだけでもかなり感情が動くのを感じました。

 CBSでもEFTにより退役軍人のトラウマが劇的に好転したケースをニュースでとりあげていて驚きました。
 



 ウーピーが、飛行機恐怖症を克服したエピソードもあったりして、、、いやー想像以上にワールドワイドですね、タッピング。
 野球選手までベンチでタッピングって・・・いつのまにこんな世界になってたんだ。こんな光景あること知りませんでしたが。 ツボを叩くだけなので少なくとも血行はよくなるでしょうし、お金もかからないので、やってみても損はない方法ですよね。





セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/21 19:15

Radioupdate & 引き寄せ系書籍 人生はシュレディンガーの猫もとい、チョコレートの箱 


  今年の1月某日に収録したトークをアップロードしました。

  人生の目的と使命について


 

  index
  
 ■例えば、グラハム・ハンコックの使命はなんだろう?
 ■「想像すると見えてくる」
 ■ホテルのナイトシフトで救われた「魂の目的」
 ■ブレナン系ヒーラーKimさんのこと
 ■行っていることはすべて使命の断片
 ■魂に刻まれていく印象
 ■言葉のバトン~人生は巡る輪のように~
 ■ミーム 
 ■人生のコアにある花が開く年に


↑のお題ともつながるテーマですが、ここのところ、引き寄せ系の本をよく読んでいます。

 別に神と悟りにしか興味のない硬派なスピリチュアリストを気取っていたわけじゃないですが、このジャンルは割と敬遠してた部分がありました。

   しかし何気なく表紙にひかれてこの本を購入してから、続けて何冊か読むことになりました。

  
   

 僕は本を買うときは直感的に買うことが多いです、あんまり特定のジャンルを体系的に読んだりはしません。タイトルとか、筆者の名前とか、にスイッチを押されることも多いですが、今回のスイッチONはこの装丁の感じでしたね~。

 『引き寄せ思想』で語られることが、わかりやすくまとめられています。
 『引き寄せ思想』とは、類を友を呼ぶ、波動が共鳴しあう、思考が現実化するというような考え方で最近では「ザ・シークレット」のブレイクで有名になったものです。

 ↓この本も有名です↓以前マイミクさんに教えてもらい買いました。流し読みしただけだったのですが、また熟読してみました。

 

 思考が物理的現実と関係性を持っているのは100パーセント間違いないですが、それはどの程度なのか。また今体験している現実にどの程度自分の意思が反映しているのかということに関して様々な考え方があります。↑の本は現実は100パーセント思考の反映だと言います。これを引き寄せの過激派、あるいは左翼と呼びましょう(笑)

 せっかくサヨクを設定したので、引き寄せのウヨクも設定しておきます。↓

 

 右翼は「すべては神の意志であり、何もぼくらはやっていなとい」う古来からの思想です。
 引き寄せなどはなく、すべては与えられるだけであり、100パーセント僕らは神からのお恵みにより生きていると言う考え。
 バガバッドギータなどにもみられます。

 僕はやや右翼よりなところがあるので、エイブラハムは面白かったけど、ちょっとなーというところがあり、バランスをとるために前から気になっていたヨガナンダの成功哲学を買ってみました。



 これはかなりしっくりくる部分がありました。やはり伝統的なヨガの体系で修行してきた偉人なので、カルマや神の意志ということも含めての引き寄せ思想、あるいは成功哲学となっています。

 エイブラハムはカルマとか前世とか「そんなの関係ねー!」(古っ)という態度でした。

 威勢はいいけど、個人的にはそれもなーどうかなーっていう

 20世紀初頭に書かれてるのでちょっと時代を感じる部分もありますが、現代でも十分応用できる考えに思います。ウヨクの要素もあるけど、左もはいっており双方に受け入れられやすいのではないでしょうか。

 ただ残念ながら引き寄せ好きな女子とかは、あえてヨガナンダには行かないでしょうね・・・・

 ↓そして古典となっているこの本↓




 この本はエネルギーが自分と合わないのか、なんかちょっとだけしんどいです。携帯版のくせに重くて分厚い!全部読んでません。
 でもさすがに成功哲学の源流だけあり、興味深い箇所はたくさんあります。

 名前だけはもちろん知ってましたが、著者のナポレオンヒルが、鉄道王のカーネギーより依頼されて25年も成功者への調査の上に執筆したというのは知りませんでした。ただ成功バイブルなので、内容がもうすでにいろんなところへ流出してるんですよね。潜在意識とか、アファメーションとか。僕としては、カーネギーと著者との関係をはじめとするこの本の成り立ちにより興味をそそられました。20世紀アメリカの基盤を築いた鉄道王がこういうことに興味を持っていたというのは考えさせられます。

 思想的には・・・左なんですが、さすがにキリスト教国家の本ですし多少右も入ってますね。

 富や豊かさを求める場合、多少は左的要素があったほうが元気にはなります。100パーセント神のお恵み待ち状態よりも、自分の思考を整えて行動すれば希望があるかも?と考えたほうがモチベーションはアップします。右をベースに考えても神の意志により、自分の想念が現実に影響することを知らされる、ということはあると思うんですよね。「天は自ら助けるものを助ける」という格言のように。

 ちょっと面白かったのでふざけ気味に右と左にたとえてみました。どちらが真実かと悩んだり、どちらが真実だと言い切るのは政治的発言と同じくアブナイかもしれませんね~。ある時は右(神の意志)、ある時は左(自分の創造)でいいんじゃないでしょうか。ノンポリの日和見ぐにゃぐにゃで行こうと思いますよ、僕は。

 そして僕の好きなフォレストガンプの言葉が過ぎります。

 「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで中身は分からない」

 Life was like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get

 「僕にはわからない・・・皆運命があるのか、それとも風に乗ってただ彷徨ってるだけなのか?

       たぶんその両方だろう。両方が同時に起こっているんだ」

I don’t know if we each have a destiny, or if we’re all just floating around accidental-like on a breeze. But I think maybe it’s both.Maybe both are happening at the same time





セラピー&ヒーリング | コメント(3) | トラックバック(0) | 2016/02/11 13:17

SADサーフィン:冬季ウツとの付き合い方


 早くも11月になり、肌寒い日が多くなってきましたね。

 今日は朝から空は一面ミルク色で、冷たい雨が降っています。

 この季節になると、いつもテンションが下降気味になっていきます。

 前から自覚していましたが、僕はSAD(seasonal affective disorder)日本語で言う冬季うつの気があるようです。SADは秋から冬にかけて、気力の低下や、感情の不安定、睡眠過多、食欲の変動、ひきこもりなどの症状をしめすことです。 

 たぶん20代から症状が強くなり、SADの概念がないころはひたすらその不調にかなり振り回されていました。
 ここのところは「秋はヤバイ」ということを学習していますので、自分なりにセルフコントロールしたり、半分修行みたいなこともしたり(水かぶったり)することで、やや付き合い方はわかってきましたが、それでも明らかに春や夏とテンションが違うことは否めません。

 今年はいろいろ環境の変化も合間って10月はなかなか大変でしたが、何かのヒントになるかと講談社から出ている「季節性うつ病」<ノーマン・E・ローゼンタール著>という本を読んでみました。

  


  それで思ったことなんかをいくつか書いてみようと思うのですが・・・

 まずSADの原因は、秋冬の日照時間と日照量の減少が原因と考えられています。

 簡単に言うと、光の減少が人間の脳に作用して、春夏とはまったく違う生化学的変化を起こしている状態、と言えるのでしょうか。

 それは一言で言うとセロトニンの減少ということになるようです。

 セロトニンは安心感や、集中力、感情の安定などを司る神経伝達物質で最近は一般にも有名になってますね。
 それが減ってしまうとSAD特有のさまざまな症状が出てくるようなのです。

 セロトニンはドーパミンやノルアドレナリンなどの伝達物質を調整する作用もあるようで、セロトニンの減少によりドーパミン、ノルアドレナリンが暴走し快楽的な依存行動に走らせたり、キレやすくさせたりもするみたいです。

 僕の場合は、やる気が低下するとともに、感情がコントロールできなくなる、忍耐力がなくなるという傾向がでてくることに気づいていました。普段なら何気なくスルーできるようなイライラにひっかかり、「なんだこのヤロー!」となってしまい、その後うつ状態になるとかそんなことが何度かあったような気がします。

 11月ごろになんかのヒーリングを受けに行って「あなた死神みたいな顔してるわよ」(どんな顔?)とか言われたこともあります。

 まー「それセラピストが言う言葉か~」とも思ったのですが。
 僕の感覚としては非常にひからびてたので、そう見えてもおかしくなかったかもしれません。

 10月下旬、11月から12月冬至前くらいが結構きつい時期でしょうか。
ハロウィンの飾り付けやイベントを見ると、闇の季節が近づいたようでまじめに戦々恐々としそうになります。
 SADの人は11月~2月、3月くらいまで症状が強い人も多いらしいです。
 
 でも僕の場合、1月になり毎日日が伸びて行ってるのがわかるとそれだけでかなり明るい気持ちになるし、梅も咲いたりしますから2月は寒いけどそれほどつらくはないかなーと思いますね。
 来月は3月だ~と思うだけで、結構うれしくなったりするもんです。そして春分~夏至くらいまでがもっともテンション的には高いと感じます。

 you tubeに動画出してみようとかいう発想は春だからこそ思いついたのかもって感じです。
 今はあまりしゃべる気がしません(笑)

  ということで久しぶりに長々と書いています。 

  なんだかSADに関しては、東京に来てからのほうが過酷な感じもします。

  SADは日照時間と関係してるので一般に高緯度地域のほうがより、発症しやすいと言われます。そうすると東南アジア、オセアニアより、ヨーロッパのほうが患者さんが多くなるわけですね。

 日本でも東北地方は自殺率の高さで有名です。

 ただ、日照量も関係するので、低緯度でも冬場に曇天が多い地域ではやはりSADは発生するようです。

 しかし、単純に日照時間だけで考えた時に、本日2015年11月2日JAPAN TOKYO北緯35度の日の出は6:03分
 日の入りは16:46分です。昼の長さは10時間43分です。

 これが僕の出身のKYOTO(同じく北緯35度)の場合、

 日の出:06:18
 日の入り17:03

 昼間→10時間45分 

 このへんあまり変化はないようですが、突然九州に飛ぶと、

 たとえば

 KAGOSHIMA北緯31度 の場合

 日の出:6:34
 日の入り:17:28

 昼間→10時間54分

 OKINAWA 北緯26度は

 日の出:6:38
 日の入り:17:47
 
 昼間→11時間9分です。

 沖縄は東京より日の出は30分ほど遅いですが、日の入りが一時間ほど遅く、この時期でも17時47分、18時前でも明るいですね。東京は最近17時過ぎると真っ暗です。悲しい><まさにS・A・D(^^;

 逆に北海道根室 北緯43度は 

 日の出5:53
 日の入り:16:09

 10時間16分という短さ・・・

 うーん美しい自然と地平線、「北の国から」にあこがれる部分はありますが、僕は北国には住めそうにありません。

 関西圏に生まれて東京に行くとわずかながら高緯度に行くわけであり、生まれた時に刻まれた体内リズムと微妙に違うサイクルへの適応を迫られるのか?とも思ったりしました。さらに6年ほどさらに南の高知にも住んでたし・・

 たとえば東京と鹿児島は緯度にすればわずか4度の差ですが、これだけ違うとSADの発症率は4パーセントほど増えてくるようです。

 「季節性うつ病」の資料によると、全人口に対するSAD、準SADあわせた発症率は、北緯35-40度のネバダ、ユタ、コロラドなどで19.7パーセントに対し30-35度のアリゾナ、ニューメキシコ、テキサスでは14.2パーセントとなっています。

 これだけ読むと、なるべく早くハワイ(ホノルル 北緯21度 11月の昼間→11時間20分)に移住したい気持ちでいっぱいになりますが、実際SADには転地療法や冬季のバカンスが効果が大きいようです。

 といっても実際に移住したり、旅行には行くには時間・お金の制約がある場合が多いです。 
 さらに旅行の効果は一時的になりやすい。
 
 そこでこの「季節性うつ病」ではSADの治療は光治療を中心として紹介されていました。

 光治療は冬季に不足する日照量を照明装置の光を浴びることによって補うものです。
 現在ではこのような装置も市販されています↓↓↓





 これは多分かなり効果はありそうですが、やや高価なことと、なるべくヨーギ的に、自然や自分の活力だけで好転させるほうが好きな方には、以下のような方法も効果があるようです。


 ■断眠、早起き
 ■とにかく野外で太陽光を浴びる、照明を多くする 
 ■運動、筋トレ
 ■呼吸法
 ■瞑想
 ■セロトニンの原料となる炭水化物などを少し多めにとる
 

 今回、僕はまた日の出を連続して3日ほど見にゆき、そのエネルギーをもらいました。
 それ以後6時半には起きる生活を続けており、最初の谷間ははどうにか乗り切った感があります。
 ここ2年くらい、冬場はよくやってるんですが、朝の太陽はいつ見ても気持ちがよいです。
 体の不調や、だるさはつらいものですが、冬になると太陽のありがたさがわかるのはいいですよね。
 闇が多ければ、その間のわずかな光を人はとらえようと努力をするものだと思います。
 

 我々はSADの患者の光に対する感受性が健常者よりも弱く、そのために冬季にはより強い光を必要とするのではないかと考えた。最近のダン・レオン博士による国立精神保健研究所の研究では、その逆かもしれない。
 SADの患者は、暗い部屋の中で弱い光を健常者よりもすばやく見つけることができるのである。この環界の光により敏感であるという点は、私の臨床的な観察とも一致する。私の経験ではSADの患者は環界の光の質の非常に敏感なのである。しかしながら、健常者よりも環界の光に敏感な患者たちが、それにもかかわらずより強い光を必要とするというこのパラドックスは、科学的にはまだ解決されていない。


                                           季節性うつ病(223ページより)




 SADの人たちの光感受性は実は高く、暗闇の中で光ってるものを発見しやすいそうです。
 光感受性が高い人が、光不足になるというパラドックスがあるそうですが、中にはその季節の変化によって起こるこころの波をアーティストとして生かしているという人もいます。
 ここに至って過敏性は一種の力や、創造性にもかわるわけですが、本の最後にそんな芸術家の例が紹介されていてとても勇気付けられました。

 
 ロバートは物語を語るとき、目に入る光の量を調節する。自分の気分を調節して、それを聞くものの心にも伝えようとするかのように。物語の中で暗闇について語るときには、彼は目を閉じて手探りするようだ。光について語るときには、彼は目を開き光を見つめる。この物語の、そして他の冬の物語のもっともドラマティックな瞬間は、暗い風景の中に突然予期されずに現れる強い光とともにやってくる。光と光の引き起こす化学反応に飢え切っていた眼球の中の受容体が、暗闇から突然現れた光りに反応して化学物質をあふれ出させ、感覚の洪水を起こすのではないだろうか。

 ロバートはこうして彼の生活の実例をほんの少し見せてくれた。彼が数時間のうちに語ってくれた四十年間の生涯について思い返すと、私は彼の最初の思い出にこころ打たれる。
 弟の誕生日のケーキの上のろうそくの炎を見つめている三歳のころの思い出である。わずか三歳にして暗い日の光の魅力にとりつかれていたのだ。

 ロバートの話を聞きながら、私はこの本の中のすべての人のことを考えていた。暗いニューイングランドの田舎道を疲れ、悲しみ、クッキー(クッキーは彼女のうつを和らげる)を求めて車でいくペギー、寒い冬の日に学校を休むアラン、もとは疲れ切って約束を守れないほどだったが、今は自信に満ちて光治療機を売って歩くニール、夏の昼下がりに野の花を摘むジェシカ、そして、今、冬の旅の物語を、暗闇からあふれ出す光を語っているロバート。
 これらの人々は光と闇への並外れた感受性によって、我々の世界についてまた我々のそれに対する反応について、我々が気づかずに通り過ぎてしまったかもしれない何事かを語っているのである。


 日の出を求めて真冬の早朝に太陽を見に行ったからこそ見れた、霜が朝日に輝く美しさや、太陽がからだを温める感覚を思い出します。


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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/02 17:13

自己表現と『聴き手コンプレックス』について


 こんにちは、記事ではご無沙汰中のはいたか鳥です。

 このところ気がつくとラジオのアップデートだけを更新していました。

 なんでこうなったのか。思い返してみると、好きな本や詩の朗読を音声ファイルで出してみようかという計画は前からあったのですが。

 去年の暮れくらいでしょうか。時々お世話になっているセラピールームへ行く途中録音したヘッセの「デミアン」の朗読を聴きなおしていました。そうしてると、誰か他からもらうメッセージよりも何かその文章の中に、自分の声の中に心の深いところを振動させる何かがあることに気づいたのでした。

 そんなこんなで生きるうえでのヒントは、外側の権威やマインドが志向する「いと高きもの」だけにあるのではなく、自分が本当に愛するものの中に(その時の僕にはデミアンの一節だったわけですが)、そして声となって現れている自分の波動の中にあるのではないかと改めて思った次第でした。 

 ということで、自分の肉声で愛するものについて語ってみたいという衝動が高まってきました。
 ICレコーダーに向かって朗読やアドリブでなんか話したりということを続けました。

 だいたい一月くらい録っては聞き、まあまあ形になってると思われるものは動画ファイルに編集してアップするという作業をしてきました。その過程で結構多くのことに気付きました。

 話し方の癖とか、まあそういうのもあるんですけど、大きいのは『声』での表現に自分が思ってた以上になにかブロックがあるという気づき。

 あんなべらべら喋りやがってなに言ってんだと思われるかもしれませんが、あれはICレコーダー君という理想的な聴き手がいるので出来たことではあります。

 ブロックのひとつはどうやら「恥ずかしい」という感覚、「不安」という感覚、などですがどうも自己表現全般に対して「恥」の感覚が強いようです。そして言葉を発するということ自体に何かとても怯えている部分があるようでした。なのでRADIOは、あえて恥をさらすという実験的な意味合いをも持っています。

 まあこういう方多いかと思いますが、僕はほんの一言二言でも、相当気をすり減らしながらこれでよいのか迷いながら発しており「何気なく話す」ということが割りと苦手なのです。

 そのため落ち着いて慎重な人に見られることも多いですが、会話を楽しんだり打ち解けたりするのがながらく苦手でもあり、人と会ったあとに「あーあの言葉は傷つけなかっただろうか」とか「不愉快にさせ怒りを買っていないか」なんて煩悶することは昔から日常ちゃめしごとでありました

 人と会ったあとその時の会話が頭を何度も何度も駆け巡り、言った言葉や言ったほうがよかった言葉が反響し、眠れなくなってしまうのです。

 というほど自分自身の表現には自身がなく、迷いが多いということだと思います。

 でもですねーだいたいアドリブで話してみて、聴きなおしてみると、やや自信がもてたという面はちょっとあるかもしれません。

 ↓この動画はそんな体験から自己表現に関することについて話してみました↓
 

    




 聴き手コンプレックスというのは僕の造語ですが、なんか人と会うと相手の話ばかり聴いて全然喋ってないなあ、悩みや愚痴を聞きすぎて疲れるなあ もう誰にも会いたくないなあ みんなきっと私のこと(話し)はどうでもいいんだなあ なんていう思考に陥りやすい人のことです。

 僕は昔からそういう心境になることが多々あり、頑張ってよく傾聴をしてると、「なんか喋れよ」と言われることもありました。
 そういうときたいてい僕は聴き疲れと、人疲れ、相手の存在に圧倒されることにより頭もぽけーっとして口を開くことが出来なくなっているのでした。そういう時はよく「でさ、さっきのあれはどうなったの?」とか「質問をする」ということによりその場をしのぐことが多いです。

 どうも「黙れ」というサインと「喋れ」というメッセージがダブルバインド的に混乱を引き起こしているような部分があるようです。
 これはおそらく多くの人がかかえる状態でもあり、意外と表現者として生まれた人にこそその症状が強く、ミッションを全うするためにはそれを克服する必要がある場合も多いと思います。

 そのように自己表現が抑圧される原因は何か、そこからの解放の道筋はどのようなものかなどについて考えてみました。 
 「恥じ」の感覚が表現をブロックすること、そして人間関係によって発生するブロックだけではなく、そもそも日本の教育システムにそれを助長する側面があるのではということ、恥じと芸人、自己表現の根源は何か?などがテーマとなってます。

 会話は相手とのフィードバックであり、繊細で気の弱い人はどうしてもリアクションが少しでも悪かったり、不快にさせたと認識するとあっというまに黙るか、相手のペースに合わせて傾聴モードになるという傾向があります。

 人見知り、コミュニケーション不全の原因のひとつは反応を気にしすぎること、そして反応をネガティブに解釈してしまう癖によって、他者とのフィードバックが怖くなることによるのかもしれません。

 それならば、まず自分自身や人間以外とフィードバックループを創ってみるという手もあるのです。

 表現エネルギーは、創造エネルギーの一部であり、あらゆる創造性と同じく取り扱いに注意を要するものです。
 暴走させても、抑圧させてもよくなく、穏やかな道筋をつけてやる必要がある。
 特に生まれもって創造性のエネルギーに突き動かされてる人は、よりいっそう、その扱い方を学ぶ必要がありそうです。
 
 悲しい犯罪などは非常に粗野で破壊的なかたちで行われてしまった自己表現という側面もあるかと思います。

 なのですべての人が自分の表現エネルギーを創造的に流すということは、世界全体のためでもあるのでしょう。

 僕らの内側で生まれ出ることを、誰かに聞かれることを待っている「声」

 それは自我を押し通し、主張する表現だけではなく、「私たち」からの『声』、叡智からの、未来からの『声』かもしれないからです。 

 
    


 

セラピー&ヒーリング | コメント(4) | トラックバック(0) | 2015/07/04 12:08

ファスティングで思い出す、コーヒーと砂糖の日々 ■地のヨーガ■



ここのところまた断食熱が高じてきたので、たまに半断食ぽいことをしています。

 普通の食事は一日いちどだけにして、あと一食はこういう感じのフルーツサラダ盛りにしたりだとか、あるいは玄米と味噌汁のみにしたりとか。あるいは食べないとか。

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 大根、ニンジン、レタスのサラダ、オレンジ、ナッツ 豆乳

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 りんご ベビーリーフ 雑穀 ナッツ 豆乳 いなご(笑 物産展で買った。まずくはない) 


 おろしだけで一日過ごす半断食もしてみました。

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 野菜と果物のみはからだが軽くなりかなり気持ちがよいのです。
 
 さすがにいきなり夕方までまるっきり何も口にしないと若干フラッとしましたが、これも要は慣れなのかもしれません。

 効果としては体が軽いということと、心が穏やかになる、イライラしにくくなる、不安感が軽減するということを実感しています。感覚、特に嗅覚が鋭敏になり、犬になったような気分を一度味わいました
  
 食べることや食べないことに思いを馳せていて、思い出したのは、以前学生時代、メンタル的にかなり調子が悪かったときの食生活でした。

 毎朝、必ず、缶コーヒー(砂糖入り)を一本飲んでいたことを思い出したのです。

 3白の害と言われるように、精製された白砂糖はあまりからだによろしくないとされています。
 
 僕は基本どちらかというと辛党で、辛いラーメンだとかカレー、スナック類はついつい買ってしまうことがあるけど、スイーツに取り付かれたことはありません。

 たまに食べる分にはおいしいので、出されたり、もらったものは食べるけどあまり積極的に買い求めることはありません。特に洋菓子系はここのとこ苦手になりました。

 最近、半断食をしてたころ、職場でロールケーキを出してもらったのですが、半分も食べないうちに胃の辺りがかなり気持ち悪くなってきたので、さすがに残しました。なんとなく洋菓子系は重たくなるというのは以前から気付いていたのですが、あまりに強烈に反応が出たので、これはちょっとよろしくないなとそれ以来あまり買わなくなりました。

 そんな僕ですが、砂糖を唯一積極的に摂るのは珈琲を飲むときです。
 ブラックでも飲めますが、やっぱ多少甘味があるほうが珈琲に関しては好きです。
 
 きび砂糖を小さいスプーンに二杯くらい入れて、豆乳かミルクを多少加えてから飲みます。

 でも学生の頃は自分でコーヒーを入れるという発想は皆無で、僕の中ではコーヒーとは缶コーヒーを意味していました。
 缶コーヒーのCMを見すぎた影響かもしれませんが、「ていうか、自分で入れたのなんてうまくないでしょ、プロが作ったこっちが本物でしょ」くらいの勢いでした。
 
 毎朝、目が覚めると近所の自販機にコーヒーを買いにいくというのが日課でした。
 多いときには一日に2本くらい大量の砂糖が入った缶コーヒーを飲んでました。

 今から思えばちょっとひ~な感じですが、缶コーヒーを飲むと、もやっとウツ気味だった頭が急速に目覚め、高速で回転を始めいろいろな考えが次々に浮かびテンションがあがります。それで病み付きになったのでしょう。

 不安と落ち込みが続く日日だったので、この朝の缶コーヒーに自然と頼るようになりました。
 缶コーヒーなしで一日を始めるのがなんとなく不安になり、それで毎朝目が覚めると自販機に直行するようになったのです。

 どのような物質の影響かはわからないけど、缶コーヒーと家でいれるコーヒーはどうもその性質がまったく違う別物の飲料に思えます。

 サイフォンコーヒーもそれなりに覚醒効果はあるけど、缶コーヒーよりはかなりマイルドなあげ方をします。
 一方、僕のやや過敏な体質もあるかもしれませんが、缶コーヒーはなにか薬物的なまでに脳と神経にエフェクトします。
 大量の砂糖とカフェインの相乗作用かもしれません。
 あるいは他に入ってる物質の作用もあるのでしょうか。

 とにかく朝缶コーヒーを飲むと、僕のマインドは急速に高揚して、ノートになにか書きまくったり、自転車でその辺を走り回ったりするけど、午後になるとまた急に落ち込みイライラしがちになります。

 おなかが減ると、いつも以上に心が不安定になるんだろうと思い、イライラし始める前になるべく早く昼食を摂るようにしていました。

 大量の砂糖を一気に取り込むと、血糖値が上昇します。
 すると、これに対して血糖値をさげるインシュリンが分泌され、一気に血糖値がさがります。
 すると、低血糖時にでるアドレナリンなどの人をイライラさせる物質が分泌されるようです。

 今にして思うと、僕はおなかが減ってイライラしていたというよりも、缶コーヒーを飲んだ副作用としての低血糖状態を経験していたのかもしれないと思います。昼食になにか食べると、それがもとに戻り、落ち着いたのかもしれません。

 これはきっと麻薬なども同じだと思うけど、外側の物質の影響で急激な興奮を引き起こすと、その後急激な落ち込みが必ず起こります。

 砂糖とインシュリンにより血糖値が乱高下することにあわせて、おそらく脳神経系の働きも乱高下し、それはメンタル的には躁鬱、不安、イライラなどの症状としてあらわれるのでしょう。

 夜に眠れないことが多く、それもありお酒をよく限界まで、部屋がひとりでに回るレベルまで飲むようになりました。
 その翌日は午後一時起床とかになり、またダルイので缶コーヒーを買いに行きます(笑)。
 そうすると、僕のマインドは急速に覚醒し・・(以下∞ループ)

 現在ではほとんどコーヒーはサイフォンでいれるけど、缶コーヒーをたまに飲むとやはり「キターーーっ」って感覚になります。まあいいんですけどね、いろんなアイデア出ることもあるし。

 ただ、ちょこっと強烈過ぎて、合法ドラッグとまではいかないものの、大学生の頃の僕のようにこれで中毒状態になって不安定になる人もいるかなという気はする。

 コーヒーと砂糖となんかの物質のトリプル効果にはなかなかエグイものがあります。

 半断食などをたまにするようになり、あー僕の10代、20代はかなり化学物質によってかき乱されていたなと思います。
 うーん、あまり生きる意志がなかったですからね。
 生活力がないというか、内面に閉じこもっており、衣食住の基本的要素にあまり興味がもてませんでした。
 逆にダサい感じもしてたかもしれません。
 でも、「基盤」である衣食住や肉体に無頓着すぎるとやはりそこに足をすくわれます。 

 どうしても思ってしまうのは、あの頃の自分に少なくとも今の自分くらいの食事や運動と、メンタルなコンディションとの間の関係性に関する理解とかがあれば、あそこまで自分を虐待はしなかったのにな~ということです。

 大学生になり、一人暮らしを始める10代とか20代の人たちにはまず、そのような知識をこそ、大学なりどこかで教えられるべきなのではないかと思います。衣食住をいきなり自分だけでアレンジしろというのはちょっと酷な部分があります。

 例えば18の頃の僕は、毎日3食食べないとマジでヤバイと思い込んでいました。
 朝ごはんを抜くとか怖くて出来なかったですが、現在はもう6年くらいは朝ごはんはほとんど食べていません。
 それが何で出来たかというと、そんな食べなくても大丈夫かも?という知識が入ってきたから実践できたわけです。

 どちらかというとヤバイのは食べないことよりも食べ過ぎることと、ヤバイものを入れるということです。

 そしてその入れてるものの性質を知らないということかもしれません。
 
 むしろ一定期間食べないということは、自分のからだを知る上で、生涯の内に少なくとも複数回は実行したほうがよいことだと感じます。その期間は現代日本では欠落している「ビジョンクエスト」の期間ともなり得ます。ネイティブアメリカンの伝統では人生の大切な節目にはしばしば断食する習慣があるようです。

 断食、ファスティングはからだに与える治癒力や美容、ダイエットがとりあげられがちですが、もともと60年ほど前ロシアの病院で絶食療法が本格的に研究・適用されたのは精神病院だったみたいです。様々な精神疾患の患者さんが劇的な回復を見たことから研究されるようになったそうです。

 

 10分10秒あたりから~

 「絶食5日目から患者の悲観的態度が薄れ目を開けるようになった。10日目歩き始めた。まだ話はしない。15日目、患者は枕元に置かれたジュースを飲み散歩に出かけた。社会生活への復帰の道を歩み始めた。・・・このように回復した患者の例は注目に値しました。精神疾患が絶食で治癒したのです。ニコラエフ医師は奇跡的とも思われる効果に驚き、絶食の研究を続け、発展させました。

 絶食は精神疾患だけではなく、患者の人格全体に影響を与えます。・・・絶食すると覚醒作用と抗うつ作用が現れます。
効果としてあげられるのは絶食1週目に意識が鮮明になること、アシドーシス(断食により一時的に酸性の体質になる時期。倦怠感や頭痛が起こる。2~3日目)が終わると落ち着きを取り戻すこと、そして食事を再開した週にはウツの症状が軽くなることです
。」

 確かに脳神経系への影響はかなりあるような気がします。
 僕もニンジンや大根おろしだけで一日を過ごすと、肉体の力の回復を感じるとともに、夢見状態で鮮明で美しいビジョンが浮かびました。
 専門家ではないので詳しい仕組みはわかりませんが、ドーパミンやらセロトニンやらの脳内物質、脳の中の創造性や活力、心の強さと関係する部分に影響するのかもしれません。

 もし今年の春から進学や就職で一人暮らしを始める人がいたら、マクロビやローフードなどの食養やファスティングに関する本は生きる知恵として是非読んで欲しいなと思いました。

 以下、とても参考になった本。

 














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セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/05/24 13:25

超気持ちいい入浴法 ▼水のヨーガ▼



 とっても気持ちのよいお風呂のはいり方を見つけたので、紹介したいと思います。

 レナード・オァー著「不死の探求」という本からです。

 この本の趣旨をかいつまんで言うと、人間は不死となる、あるいは次元間を行き来できるような肉体を持つことは不可能ではないということです。

 そして著者自身が伝説的なアバターであるババジをはじめ、何人もの齢数百歳を重ねる不死者と会ったことがあると明かしています。

 これは一般的にはちょっと信じがたい主張ですが、僕は死なない人というのは実際におそらく存在しているのではないかと以前より思っています。日月神示でいうところの半霊半物質のボディをもつ人でしょうか。

 ババジ、ジーザス(復活して不死となったと考える)など。

 この本の中では日本ではあまり聞きなれないゴラクナスという不死者が登場します。

 ゴラクナスとは絶対者が、ゴミ捨て場に捨てられた赤ん坊の死体に宿った存在ということらしく「ごみの主」という意味らしい。

 ゴラクナスはほとんど日本語で検索してもヒットしないようですが、数少なく出てきた情報ではゴラクナスはどうやらシルディ・サイババのグルのようです。

 うーん・・ということはなんだか実在性が増しますね。伝説ばかりと言えない様な。

 ネパールのカトマンズにゴラクナス寺院があり、そばには聖火が燃える小屋、ドウーニが立っていると「不死の探求」に書かれていますが、このブログの情報では

 「ワシントンD.C.のアメリカン大学の哲学と宗教の教授、チャールスS.J.ホワイトによれば、シルディ・サイババはグル ゴラクナスのナス伝統に従っていた。「サイババの宗教的習慣はヒンズーとモスリムの慣習を混ぜ合わせていた。、、、彼は小さな使われていないモスクに入り、そこが彼のその後の生涯の住居となった。そこで、彼は火と線香を用いたヒンズーの儀式を行った。彼はナスパンティ ピールの方法でドゥーニでずっと火を燃やし続けた(今日も帰依者が燃やし続けている)。」

 とあります。うーん興味深いですね、このつながり。これを読むとシルディ・サイババがゴラクナスの火の伝統を受け継いで守っていたのは事実のように思われますが。いたんでしょうか、ゴラクナス。というかいるんでしょうか。

 あと不死者といえば

 西洋で伝説的な人ではサンジェルマン伯爵とかも

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   死なないと言ってもディオ・ブランドーとかになったらダメですが。。。
  これは人の血を吸って永遠に生きるパターンです(笑)

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 また割りと近代でもラーマリンガのように大勢がアセンションを目撃したという聖者の記録が残っているので、こういう現象は条件さえ整えば当たり前であるかのように発生すると思うのです。ちょっと前にブログを読んでいただいた方から、日本でも数年前にアセンションした女性がいるという情報をいただいたので、あるいはこの現象は想像以上に身近にあるとも考えられます。(僕が目撃したわけではないので、あくまで聞き伝えによるものですが)

 師匠もたまに、死なない人とか、仙人のような存在はインドとかにいるという話しをします。

 ただ、同時にこういうスーパーナチュラルな存在の情報はものすごくマーヤになるということもよく聴いています。

 重要なことは常識を逸したことに憧れるのではなく、僕らがどれくらい命の根源と同調し、自分自身でいること、愛でいることができるかということだからです。
 そしてそれは往々にして当たり前のものごとの中にあるものです。
 お皿を洗ってるときや、爪を切ってるとき、お笑い番組を見てるときにもあって、
 ヒマラヤのカイラスや、セドナで瞑想してるときだけにあるわけではありません。

 また、永遠の命を垣間見ると火の鳥の我王のように、自分が生きることや死ぬことはどうでもよくなる(=ただ自分の役割を果たす)可能性もあります。

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 なので、やや用心しながらこの本を読んでいたのですが、これはなんか結構感じるものがいいんですよね。

 基本的にヨギ系であり、アドヴァイタ系ではないと思います。
 だから超常現象に拒否反応がある、硬派なアドヴァイタ好きにはウケが悪そうです。
 それでも、ただ神の名前を繰り返すマントラヨーガやジャパヨーガといわれるシンプルな方法を重要なものとしている点などは、とてもポイントを押さえてる感じがします。

 著者は心身を浄化するには地水火風よっつのヨガがあると述べており、これは最近僕が考えてきたことと一致しました。

 大地
 水
 火(太陽)
 風(呼吸、プラーナ)

 などとつながることでエネルギーを高め、安定させることができるわけです。
 アーシングやウォーキングは大地のヨガに該当します。
 滝行、入浴、シュノーケリングなどは水のヨガ。
 サンゲイジングは火のヨガであり、呼吸法は風のヨガです。


 この中で水と風のヨガとして紹介されていた入浴法が以下のものです。


 ①バスタブに水をためる

 ②鼻で呼吸しながら、結合呼吸*のリズムを始める

 ③呼吸しながら、片方の足を水に入れる。

 ④肉体と感情に起きるすべての変化を十分に経験するまで、呼吸を続ける

 ⑤もう片方の足を水に入れ、すべての変化を十分に経験するまで、呼吸を続ける。たとえばからだが突然ほてったり、冷たくなったりする人もいる

 ⑥バスタブの中に座り、変化を十分に経験するまで呼吸を続ける

 ⑦吐く息が軽く、バランスが取れて、開放的になるまで呼吸を続ける

 ⑧首まで水に浸って横たわり、吐く息が完全に軽く、リラックスした状態になるまで呼吸を続ける

⑨頭を後ろに倒してクラウンチャクラ(頭頂部)を水に浸ける。そして、エネルギーの変化をしっかり経験し終えるまで呼吸を続ける

10 額まで水に入れ、鼻と口だけを出す。その姿勢のまま完全にリラックスし、エネルギー体が済んで清らかになり、バランスを取り戻したように感じられるまで呼吸を続ける。そして、自分のエネルギーセンターの位置に気付く。

 11 結合呼吸を続けながら実験として両足を水からだし、エネルギー体の変化に気付く。

 12 この手順を逆にする。頭を水からだし、立ち上がり、片足ずつ水から出る。呼吸は結合させ続ける。

 13 以上の手順を三回繰り返す。


 *結合呼吸というのはリバーシングというセラピーで使う呼吸法で以下のようなもののようです。

 ①短い呼吸を4回する

 ②長い呼吸を一回する

 ③息は鼻から吸って、鼻から出す

 
 ちなみに僕はかなりいい加減にやりました。深い呼吸はしたけど、結合呼吸はしてません。
 三回も出たり入ったりしてません。
 めんどくさいこと嫌い。

 これをいい加減に実践してみて、額の第三の目辺りを水に沈めるあたりから、明らかに意識が変化するのを感じました。

 自然にからだが浮いてきて、耳は水中に沈むために音が聴こえなくなり静かになります。

 すごく気持ちいいーです。

 知らない間に自動的に半瞑想状態になり数十分が過ぎていました。

 基本的にいつもカラスの行水タイプで10分も湯船には入らないことが多いのですが、これだと気持ちよくてあっという間に時間が過ぎます。(ただし顔も沈めるので、お湯はややぬる目がいいかな)

 レナード氏は水の浄化についてこう書いています。

 「水の浄化を行えば、物理的宇宙について単に頭で考えて恐怖をいだくのではなく、その宇宙を直接的に経験する機会を与えられます

 そう、水に浸るという経験は子宮内の原初的な恍惚感(BPM1)とつながっており、その心地よさはおそらく宇宙的経験なのです。

 ずいぶん前にフローティングシェルに入った経験を思い出しました。

 バスタブの中で自然と顔がニヤケていきます。

 ニヤケつつ、最近入浴介護の仕事で訪問している知的障害の人のことも頭に浮かびました。

 その人は服を脱がされてるときや、頭を洗ってるときは全力で嫌そうな顔をするのですが、湯船に入ると瞬時に極楽にいるような表情になります。

 この変わりようがすごくて、最初ちょっとウケてました。

 日によって機嫌とかは微妙に違うと思うのですが、湯船に入ると天国モードになるというのは毎回同じです。

 あー●●さんは、今の僕と同じような気持ちよさをもっとマインドに邪魔されない形で毎回経験していたのか・・・とちょっと思いました。

 久しぶりにかなり深くリラックスできた経験になりました。

 フローティングシェルや、この入浴法はヨガといえどもかなり快感系、解放系であると思います。 

 一方水のヨガには、滝行や、冷水シャワーというのもありこうなってくるとちょっと修行がかって来ます。

 でも朝一で冷たいシャワーを浴びると、「アー今日も仕事かーヤダナ」と言う思いが、冷水のショックにより一瞬でリセットされ、身が引きしまります。

 だからその時はきつくても、事後はかなり爽快になります。

 冷水は「チャクラを洗浄しつつ閉じる」ということなので、満員電車や雑多な人のエネルギーへのディフェンス力をあげるにはもしかすると冷水がよいのかもしれません。

 著者いわく、「苦行のヨーガは、楽しみや慰めのヨーガと同時に行う」ことが重要だと述べています。

 でないと「偏屈になる」らしいです(笑)

 意固地にならないためには、楽しむこととか、心地よいことをすることがかなり大事なんですね~。

 火のヨーガで言えば、楽しいのは日光浴やキャンドル瞑想、まあサンゲイジングくらいで、信徒さんのために火ぶくれを作りながら行われる護摩行や火渡りの行、一日中太陽を見つめて失明した手塚治虫「ブッダ」のナラダッタは火のヨーガを苦行的に行ったことになる。

03_05.png


 陰謀論が流行ったり、人々が裏の権力者への不満を毒づいたりする世界というのは真実に近づいた世界ではなく、むしろ戦争などに突入する前のピリピリとした世界に近い。

 もちろん、陰謀というのは普通にあると考えますが、そのような世界であるからこそ、楽しみや喜びのヨガというものを実践する必要があるのかもしれません。

 電子レンジが悪い、水道水が、マスコミが、電磁波がいけない、砂糖が、スマホがテレビがいけない、放射能が、と現代は怪しいものをあげればいくらでもあげていける世界です。

 そういうものをすべて切り捨てて生活しようとするといやでも偏屈な意識になりそうになることは個人的に経験しています。
 またそういうものに毒づくことは自分の否定性のはけ口となります。

 まあー「汚染を愛す」くらいの気持ちをちょびっとは持ってはいいのかもしれません。 

 もう一個著者の言葉の引用ですが、


 「霊的浄化の行は少しづつ取り入れるべきだということは、繰り返し述べる価値があります。

 からだが衰弱したり、気分が混乱したり、落込んだり、怒りを感じたり、またそのほか感情が乱れるのを感じたら、霊的浄化のエクササイズはやめ、バランスや安定を回復するまではいつもの習慣に戻るべきです。

 「いつもどおり」に感じられるのは、ひどく病気におかされている状態や汚染されている状態かもしれませんが、自分や他人が死なない限り、そこに戻ってもかまわないのです。



 これなんかは珈琲中毒で、飲酒も喫煙もする僕にとっては福音的な言葉です^^
 

 「豊かな生とはバランスをとることです。地、風、火、水、そして心のバランスを取ることです。

 創造と破壊のバランスをとることです。

 蓄積と分配のバランスをとることです。

 知性と経験のバランスをとることです。

 浄化と汚染のバランスをとることです。

 拡大と縮小のバランスをとることです。

 不易と流行のバランスをとることです

 行為と無為のバランスをとることです。

 活動と静止のバランスをとることです。




 ヨガや修行というのも人生と同じかもしれません。

 生きてて、楽しい経験と、苦しい経験があるのと一緒。

 冷水を浴びることはちょっときつい修行。

 でも温かいお湯につかっても浄化になるとすれば、片意地をはって冷水ばかりを浴び続ける必要はない。

 そして冷水を浴びることの中にもある種の気持ちよさや爽快感がある。

 食べることの中にも、食べないことのなかにも心地よさがある。

 陰陽あいまって完璧であり、陰中にも陽が、陽中にも陰があるんですね。

 
 まあ、堅い話はやめて、とりあえずお風呂に入りましょ~か♪


セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/02 15:33

ロングウォークとアーシング②



 変容期の地球で



 ネパールで大きな地震があり、被害が大きくなっているようです。

 現在地球は、人間で言うと風邪を引いてるような状態にあると思う。

 体温をあげ、せき、くしゃみ、ふるえなどの症状を出すことによって自浄作用を発動させている。

 脈拍も、体温も、血圧も、バイタルは乱高下する。いや、こうなってくるともはや風邪とはいえない。

 極端な暑さや、突発的、集中的な豪雨、雷、夏場の巨大な降雹、竜巻、巨大ハリケーンや台風、大雪、火山の噴火や、地震、磁場の減少、シンクホールなどにみられる異常な地殻変動をみると地球が今まで保っていたホメオスタシスが崩壊しているように見える。これは特に20世紀末から今世紀に入って顕著になった。

 僕が体で感じるのは、地球は僕が子どもの頃の地球ではもはやないということだ。

 地球は病気・・・というか何か、そのシステムを一度リセットさせようとしているか、あるいは人間で言う思春期のころのように急激にそのシステムを変容しようとしているように感じる。

 地球は、宇宙という子宮の中でBPM2に入った。
 生みの苦しみはすでに始まっている。

 そのプロセスが急激で破壊的なものとなるか、あるいは長期に及ぶ比較的穏やかな変化となるかはわからない。
 
 ただ、多くの人が現在の地球は変容期にあると考えているみたいだ。

 こういう時期にあって、必要なことは、ガイアにへばりついていることではないかと僕は思う。

 エネルギー的にも、物理的にも、この惑星に深く根を下ろしていなければ、この変化は僕らを耐え難い状態へと誘いかねない。 
 
 そのためにガイアはGravityを使っているのかもしれない。

 すべてのシステムが腐敗にまみれ、政治がかげり、一人、また一人と平均台の上から脱落していく

 大地に引っ張られ、落ちて落ちて、最後にたどり着くのは、母なる星の土の上だ。

 どうしようもなくなり大地に転がり、土に頬をつけると、大地の中から声が聞こえてくる。

 「さあ、しっかり私にしがみついていなさい、シートベルトをしめた?ジェットコースターが動き出すわよ!!」とガイアは息子達娘達に呼びかけている。

 多くの先住民のシャーマンたちが、ガイアの悲鳴とそして子ども達へのよびかけを聞いている。



 2011年3月11日、東日本大震災が起こったあと、僕は「3・11以降」という記事を書いた。

 それは3・11以前と以後では僕らは違う世界に入ってしまったのだという認識があったからだった。

 3・11以前という世界。
 いろいろな不穏な動きはあったものの、なんちゃってな平和が継続していた世界は、もうあちら側にいってしまった。
 その「あちら側」の世界で僕は来るべき地球規模のシフトを夢想したりしていたが、それはもう「こちら側」となってしまった。
 そんな風に思っていた。
 ACのCMばかりになったテレビや、止まったままのエレベーター、エスカレーター、震度5規模の地震が日常的に起こるような状態が、確かにそうだと感じさせた。
 あれから4年がたち一見してみると、少しづつ時は流れ、穏やかな空気感が戻ってきているようにも見える。
 しかし多くの人が現在の世の中の動きに不安なものを感じているに違いない。
 何かがおかしい、と。
 いつからおかしいのか?
 それはやはり4年前のあの日からだ。
 やはり僕らは3・11というマトリクスにログインしたままなのだ。 
 僕はそんな風に思えてならない。
 平和になったのではなく、僕らは「こちら側」のMATRIX311という仮想現実に慣れつつあるのだと。

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 僕が2011年の3月8日「向こう側」で撮った最後の写真は、自分の裸足の足の写真だった。

 僕は震災前の一週間ほど普通以上に寝つきが悪く、精神状態もテンパリ気味だったので、エネルギーを安定させようと公園ではだし歩きをしたのだった。 


 4月になってからブログににこんな風に書いた。

 
 3月8日、「向こう側」で撮った最後の写真。
 裸足で土や木の根の感覚を感じて歩いた。

 あらゆる矛盾があらわになるにつれて、

 僕ら自身も裸にならねばならなくなるだろう。
 目をそむけていたものと直面したり
 自分自身の嘘や、ごまかしとも向かい合わねばならなくなるかもしれない。
 でも裸の自分自身にほこりを持って、どんなに格好悪く思えても、とりつくろうより美しいことを肝に銘じて生きたいと思う。
 
 人からどう見られても自分の本性を隠さずにいれば、新鮮な空気とともにいられる
 もし裸足で歩けば、少々とげがささろうと、大地がじかに包みこみ支えてくれるように

 裸足で生きる勇気を僕らに・・・・!
 

 そしてMONGOL800の「矛盾の上に咲く花」という歌を貼った。




 矛盾の上に咲く花はまだそこかしこで咲き誇っている。

 いつになれば僕らは大地の上に咲く花に囲まれて生きることが出来るだろう。

 わからないけど

 きっとその始まりは、僕自身が大地の上に立つことから始まるんじゃないかと願っている。


 
 アーシング





 アーシングを知ったのは、これまたエハン塾さんからの情報だった。

 アーシングとは裸足で土の上(もしくは石やコンクリートの上、アスファルトはNG)に30分ほど立つことだ。

 人の体内には過剰な電流が滞っているので、これを大地に流すことで健康状態を大きく改善することができるという。

 アーシングの提唱者クリント・オーバー氏は、室内でアーシングが出来るマットや枕、寝具なども製作、販売しているらしい。

 エハンさんの知人が時差ぼけ防止に、アメリカへ飛行機で行ったとき空港を出るとする向こうの大地にアーシングするとまったく時差ボケの症状に悩まされなかったという話も紹介されていた。 

 天然素材でできた草履だとか、革靴からゴム底の靴という絶縁作用のある靴をはき始めたことが人の健康状態を悪化させている大きな原因だという。

 まあ、アーシングという言葉はなくてもきっと人間は裸足で大地と接するということは何かあると本能的に知っており、だからはだし歩き健康法とかが昔からあったんだと思う。

 僕は過剰電流を流す、という発想はもっていなかったが、アスファルトに対しては昔からすごく違和感ありで、こんな地面ぬりかためちゃダメでしょと常々思っていた。

 なんか大地が呼吸を出来なくなっている、という感じがすごくしていたのだった。多少水はけ悪くて、石ころだらけでも土が露出している道は何かホッとさせるものがある。

 そういうのも地面から<気>のようなものが出ているか、封印されているかによるのかもしれない。

 だからアーシングの考え方によると、大地と僕らの間にはブロックがふたつある。
 ひとつはアスファルトなどの絶縁素材で、もうひとつは僕らが絶縁素材で出来た靴や靴下を常にはいているということだ。
 そして、裸足で大地に触れるということがほぼない生活をしている。

 この動画を見て、僕もさっそくやってみた。

 アパートの庭に裸足で立ってみます。(←たったコレダケ)

 開始後数分でとても気持ちよく、エネルギーが安定してくるのを感じます。
 また気を受けたときに出るような、微妙な体の振動が僕の場合は自然と起こるようでした。
 それほど派手なものではないですが、かなり気持ちはいいです。落ち着きます。

 体内の電気がアースされているかはわからないけど、もしそれが事実なら長時間PCに向ったり、すげーつよい電磁場の近くで仕事する必要のある人はやってみると調子がよくなるかも。


 そういえばサンゲイジングの提唱者は、サンゲイジング時には裸足で土の上に立つことといっていましたが、これをすると確かに太陽からのプラーナと大地からのプラーナをどちらも受け取ることが出来て最高の方法かもしれません。

 ここ一年か二年ほどエネルギーを強化・安定させる方法論を自分なりに模索してきましたが、アーシングはその中でもベスト5に入れておきたい方法です。
 特にこれからの季節はあたたかいので実践しやすい方法です。

 ちなみに残りは


 ●ウォーキング(なるべく空気のいい場所)、トレッキング
 ●節食(あるいは断食)
 ●サンゲイジング、朝日を浴びる
 ●瞑想
 ●呼吸法      
 ●クリーンタイム(情報機器などOFFにして静かに過ごす時間)                  などです。



 生命力とつながる自分なりの方法を持っていることが、これからの時代、結構大事ではないでしょうか。



 アーシングとグラウディング



 アーシングと、スピリチュアルな世界で言われるグラウディングは若干ニュアンスは違う。

 グラウディングとは、エネルギー的に地球とつながること、この物質的次元にしっかり碇を下ろすことなどを意味してると思う。

 僕はグラウデングなんてしなくていいんだもん、と若干馬鹿にしてた時期もあるけど、どうも昨今の流れを見るとグラウディングしろと言われてる感じがする(笑)。
 あるいは個人を越えたユニバーサルな流れなのかもしれないけど。
 それこそガイアのグラビティが僕らを呼んでいるのか。

 それでもグラウディングワークを遊び感覚でやってみたことは今までにも何回かある。

 グラウディングワークはだいたいイメージを使うか、それプラス体の動きが伴う場合もある。

 典型的なものは自分の尾てい骨のあたりからエネルギーの管が伸びて、それが地球のコアとつながっていることをイメージしたりするようなものだ。

 呼吸とともに不要なエネルギーはその管から流れ出し、かわって力強い大地のエネルギーが流れ入ってくる。

 これはこれでいいのだと思うけど、僕としては実際に足を地面につける、ということをしたほうが生々しく、実感を持って大地とつながっているということが感じられる。

 いろんな花や草の匂い、蟻や蜂たちの世界が間近に見えるので、イメージだけのワークよりも僕は体験的なアーシングのほうが好きかもしれない。

 ただイメージだけのワークでもエネルギーとしてつながらないということはないと思うんだけど、僕の今の方向性として体験的なものにより魅力を感じるので、アーシングのやり方に惹かれるのだと思う。

 しかし、人はなぜ、グラウディングなんかをする必要があるのだろうか?

 別に地面から10センチくらい上をふわふわ浮いた人でもいいんじゃないだろうか。

 よくいわれるのはグラウディングはこの世界への影響力や、コミットの強さ、そして生命力に関係するということだ。

 より具体的にいうと、仕事や、お金、物の流れなどをひきつけるにはこの物理的次元にグラウディングしている必要があるというのだ。
 
 もう少し本質的に言うと、グラウディングとはある意味<肉体への受肉の完了>であり、完全に受肉することなしには、僕らはこの3次元世界を完全には生きられない。

 スピリチュアルな比ゆを使うと、この世界に僕らはツアーに来ているのだが、完全にこちら側に着地することを恐れて、ずっとバスの中やホテルの中で過ごしているとも言える。

 グラウディングしていないと、ヘッドトリップが激しくなる。
 この世界よりも頭の中の世界のほうがリアルになるのだ。

 僕らの着地を阻むのは、まずは「恐れ」であるといえる。

 トラウマ反応のひとつとして解離反応があるけど、これは常に体の中にエネルギーが半分くらいしかはいっていない状態だ。

 度重なるトラウマ体験が、肉体の中に存在することを危険だと思わせ、いつも半分くらいからだから抜けた状態が習慣化される。
 曇りガラスの向こうから世界や他者を見ているようで、いつもぼんやりして、時空の感覚も混乱しがちになる。

 恐れがヘッドトリップを加速させ、ヘッドトリップが恐れを生む。
 世界への、人への、身の回りへの恐れ。

 まあ、そんな状態だからこちら側の豊かさとつながりにくいのはある意味当然かもしれない。

 <世界は恐ろしい>のだ。決して、完全にこちら側に着陸してはいけない。
 完全に受肉すると、もっと恐ろしい目に会う可能性がある!
 そのような無意識的な認識がグラウディング、受肉を阻む。

 だから、こうも言える。
 恐れない意識だけが、完全にこの世界に下りてくることができる、と。

 だからきっと、植物たちは、そして4本の足を大地につけて歩く動物たち、常に腹をつけている爬虫類たちはグラウディングしているに違いない。
 彼らには人間ほど恐れにおかされていないため、この世界に完全にいることに躊躇はない。
 生まれたばかりの赤ん坊も、あるいはそうかもしれない。
 肉体が自分ではないことを知ってる存在は、肉体に完全に降りることをいとわない。

 この世界の恐れを知った人間の大人たちだけが、再び大地へと、からだへと戻ってくる必要があるのだ。

 長いことウォーキングを続けて、ひとつ気付いたことがある。

 僕は旅行が好きだから、次はまたインドに行きたいとか、沖縄の離島に行きたいとか夢想することがあったけど、

 なんだ、身の回りでも実際に足を使って歩き回ればたくさんの豊かさや可能性があるじゃないかということだった。

 自宅から数キロ圏内であっても、知らなかったいい場所や、美しい風景がたくさんある。
 一時間ちょっと歩くと小さな飛行場がある。
 滑走路から飛び立つ小型機は、伊豆大島へ向う。
 お昼の太陽を背に立つ僕から見て右手のほうへ、東へ飛んでいくのがわかる。
 海のある方向へ

 いや下手すれば家の軒先にだって。
 庭先にある、植物や、いろんな虫たちの営みがある。
 大地に足をつけて毎日見つめていると、どんどん草の丈が高くなり、蜂が増えていくのがわかる。

 なんだ、旅って、これのことだったんじゃないか。
 見知らぬ風景を見ること。
 自分の足で歩くこと。
 体験することにより、心が喜ぶこと。
 決して遠くへ行くことじゃない。
 山も好きだけど、街は山の裾野だ。そして地球の一部だ。

 つまりこういうことなんだ。

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 すべての場所はつながっている。 

 今僕のいる場所で旅が出来なければ、どこに行っても旅なんか出来ないんじゃないだろうか。

 僕にとっては旅への憧れは、歩かない言い訳でもあったみたいだ。

 そう、本当の旅とはもしかすると、今いる街への旅、日本への旅、地球への旅、大地への旅、そして僕のいるこの場所への、僕自身の命への旅かもしれない。
 地球とからだ、そのふたつにリコネクトすることが、その旅へのパスポートとなるのかもしれない。



 再び変容期の地球で


 もし、この惑星が本格的に変容のための自浄作用を発揮し始めているとするならば、アーシングやグラウディングはその変容期の地球においてどんな役に立つのだろうか。

 世界各地にプレッパーと呼ばれ、来るべき時のために物資を備蓄したりシェルターを作ったり、あるいは自給自足的な共同体を用意している人たちがいます。

 水、食料、土地、ガスマスク、武器、弾薬にいたるまで用意している人がいるでしょう。

 そのようなある種やり過ぎ感さえ漂う物質的な備えと比較するならば、エネルギー的に大地とつながるだけではいかにも心もとないように思われる。

 水はどうする?土地はどうする?マスクは?という話しになる。

 ハリウッドが製作する大スペクタクルカタストロフィー映画でも、いつも助かったり活躍する人々はそういうものの恩恵を受けている。

 あるいは非常時においては、グラディングよりも、電池やラジオの方がよほど役に立つかもしれない。

 でも僕はもっとも本質的には大地や天とのエネルギー的つながり感がもっとも重要な要素だと思うのです。

 なぜかということはうまく説明できません。

 あえて説明しようとすると、このシフトは物理的なシフトであると同時に、やはり精神的なレベルでのシフトであるはずだからです。ハリウッドカタストロフ映画では常に欠落している要素ではありますが、、、日月神示に書かれているような「お土をおろがむ」ようなこころが必要ではないでしょうか。 

 そして、肉体が健康で、プラーナが充実しているという状態はやはりどんな状況でも耐えやすくしてそれを乗り越えやすくしてくれるはずです。
 そして、プラーナは基本的には自然なるものからしかきません。太陽、大地、大気、食物、生命体などからしか来ないのです。
 そのような意味では、天地とつながることが地球変容期における、重要事項であることの説明となるかもしれません。

 まあ、僕としては未来に何かとてつもないことが起こるとか、あるいは今は大変な時代だとことさらに警鐘をならすような記事はあまり書きたくなく、最近はあたかもそういうことはなかったかのようなネタを書くことが結構多いです。
 個人的にも、えぐいことが起こってもあえて、ニュース的なものはシカトするような感じで、生活する傾向にしています。
 地震等の予言が流れても、「あー気のせい気のせい、なんも起こりまへん。富士山も噴火しまへん。漫画でも読みましょ」という感じで。あえて距離をとって、日常的なことにフォーカスしたりします。
 というのは、こういうことは恐れと興奮で脳を刺激させていとも簡単にヘッドトリップに陥り、自分自身のリアリティと絶縁するような類の情報だからです。
 
 でも僕の中ではやはり正直に書くとMATRIX311にいるという認識はなくなっていません。
 だから、こころがざわざわするネタを書くことなく、しかし本格的な地球変容期が訪れたとしても、その用意となるような、楽しく命や生命力を育むような情報をなるべく発信したいと思っていました。

 今後も基本的にはそんな感じで、地球変容期を頭の片隅におきながらも、そんなことは与太話だろのていで、この大地の上にいることを愛して生きたいと思います。



 
セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/04/26 19:18

ロングウォークとアーシング

 

  ここんところ、ロングウォーキングにはまっています。

  それちょっと長いやろ、電車使えよという距離をウォーキングしてしまうことをなんとなくそう呼んでいます。

  自宅近くに多摩湖自転車道という遊歩道があります。

  これは結構素敵なところで 春は桜の花や新緑のトンネルの下を歩けてとても気持ちがよい道です。

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  起点は武蔵野市で、終点は一応西部遊園地駅、だいたい23キロくらいでしょうか。  

  途中で花小金井駅、小平、萩山など西武線の駅を通り、多摩湖に出ます。

  途中の丸亀製麺でさくさくの天ぷらを食べたりも出来ます(笑)

  その道をよく歩いていたりしたのですが、自分は一日にどれくらい歩けるものかということが気になり始め、その限界ラインのようなものを見定めたく20キロから30キロくらいのウォーキングをたまにしてます。

 20キロだったら普通に歩いてだいたい4時間弱くらい?ですね。

 最初は自宅(西東京市)から、日野駅まで歩いて、そこから東中神までぐるっと周り電車で帰りました。

 続いて多摩湖自転車道を多摩湖まで歩き、そこから瑞穂町に出て、JR八高線箱根ヶ崎駅から電車で帰ると言うコース。

 などを歩きましたが、今回は自宅から青梅駅までにチャレンジ!
 少し寄り道しつつ40キロほど歩くことを目標としました。
 なんで40キロかというとフルマラソンの距離を意識してるのでしょう。

 でもただ直線的に最短距離を歩くのはつまらないので、ウォーキングツアー玉川上水の源流を見にいこう!を開催決行することにしました(参加人数一人w)

 玉川上水の横はいつも日常的に通りますが、あまり歴史は知りませんでした。
 歴史的なエピソードとしては太宰治が入水したくらいした知りません。
 そこで調べたところ、1653年に多摩川から江戸市中に飲料水を引くためにのちに庄右衛門・清右衛門ののちに玉川兄弟と呼ばれるようになる2人が工事を請け負ったとのこと。羽村から四谷までの距離で、当時の技術。
 これは数年かかったのかと思いきや、4月着工、11月15日完成ということで七ヶ月ほどでやり遂げたということなので驚きました。

 そこでこの上水の起点となる羽村堰と呼ばれる場所までとりあえず、歩いて、ついでに青梅まで行って見よーというプランです。

 起床六時で、7時に家を出ました。

 多摩湖自転車道もよいのですが、玉川上水沿いの道というのも場所によっては、遊歩道のような感じになっていて木々に囲まれ森林浴気分を味わえる場所もあります。電車の駅で言うと鷹の台とか拝島とかのあたりでしょうか。

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 こういう個人宅を公開してるオープンガーデンもあります。
 なかでうどんとか食べれるみたい。
 この日は生憎まだ開店前。
 次は行ってみたいな~

 拝島近くの上水。下流とかなり趣が異なります。

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 午前11時半頃、JR拝島駅に到着。(20キロくらい)

 拝島駅周辺にも自然が豊かな公園があります。
 そこでランチ、コンビニのり弁当を・・・。


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 13時半頃羽村堰着です。家から出て6時間半ですが、休憩などを省くと歩行時間6時間弱くらいかな。

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 そんな歩いた気がしない。

 玉川兄弟銅像。

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 羽村多摩川の近辺で、チューリップのイベントをやっていました。

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 畑一面にチューリップが咲き乱れ圧巻です。入場料など不要。これすごかった~

 青梅到着15:45 証拠のニャロメ。


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 時間から考えると、歩行距離35キロ~40キロくらいでしょうか。
 40キロの壁を越えたかったんだけど、いまいち不明。
 まーいいか。

 面白かったし^^

 うちに帰ってから疲れがどっと出てこたつに座ってるのもダルクなり、8時ごろに布団を敷いてごろごろしたニャロメ。

 でも翌日筋肉痛などは一切ありませんでした。

 最近10キロ走った翌朝は筋肉痛なったけど、歩くのと走るのでは使う筋肉が違う模様。
 あるいはロングウォーキング慣れしてきたのかも。

 ウォーキングは2011年くらいからよく行ってきました。

 その頃自分の力を取り戻す必要を感じており、気功の本にとりあえず足の筋肉を鍛えることが全身のプラーナの強化につながると書いてあったからです。

 精神的なストレスや感情の滞りも健康状態にもちろん影響すると思いますが、肉体に近いエネルギーの層が分厚く安定していれば、ストレス性の収縮力が体内に侵入してくるのをガードすることができるそうです。基本的に筋肉を動かし、エネルギーを発電することでこのエネルギーの層は分厚くなるのですが、足の筋肉は全身でもっとも大きいためにここを稼動させることがエネルギーの層を分厚くするためにもっとも効率的であるようです。

 悩み事やストレスはメンタルに解決する方法と、別のエネルギーレベルに働きかけることにより解決する方法があります。意味性によって支配されるメンタルな次元から、もっと生命力の根源的なレベルに働きかけることで、とりあえず動物としての生命力を活性化させると意味的な次元はそれがメインではなくなるために、悩みは力を失います。

 大地や動物的な生命力 体で言えば 足 丹田以下 につながる方向性。 

 動くこと 息をすること 飲むこと 食べることなどの根本的活動の気持ちよさがしっかり感じられる状態です。
 
 そしてそのあと、考えても仕方ないものに関してはスルーし、行動が必要なことに関しては行動するということになります。どちらにしてもある程度肉体が活性化してなければ、ストレスにやられやすいという側面はあると思います。

 あと、ウォーキングを長時間するとタバコを吸いたくなくなるという効果があり、喫煙を減らしたいという場合にもよさそうです。おそらく酸素の摂取量が増え、新鮮な空気をたえまなく取り入れているからでしょう。


 1時間から90分くらいはよく歩いていたのですが、今年に入ってから塩沼亮潤阿闍梨の体験が語られた、「大峯千日回峰行」という本を読み、僕の中の何かに火がついたようでした。

 ご存知の方も多いと思いますが、大峯の千日回峰は48キロの山道を毎日15時間かけて歩きます。

 その毎日のスケジュールはすさまじいもので23時半に起床して、午前零時半に出発、歩き続けながら夜明けを迎え午後3時に帰ってくるというものです。それから身の回りの仕事(掃除洗濯)などをして、翌日の準備をし19時に就寝、23時半には起床。数時間寝るとまた出発・・・という繰り返し。これが5月から9月までの期間毎日続きます。

 それが9年間続き1000日の満行となるわけです。

 食事はほとんどおにぎりと水(胃が弱って梅干、お茶類など受け付けないため)だけ。爪がわれ、血尿が出て、行の途中には幻覚を見るといいます。

 全長数メートルのいのししが現れたり、天女が金剛石をくれたりしたそうですが、行も終わりに近づくとそんな体験も消えうせてしまうとか。

 これだけの修行が行われるのは、千日回峰満行後の四無行に耐えられる精神と肉体をつくるためだということです。
 四無行とは、9日間堂にこもり行われる、(寝ない・飲まない・食べない・横にならない)の行。
普通に命が危ない行で、生存確率は半々とも言われているようです。
 行者の心身は生と死のボーダーラインに限りなく近づき、その体からは文字通り死臭が漂うといいます。 
 ちなみに塩沼アジャリのお話しでは、一番つらいのは食べないことでも、寝ないことでもなく、「飲まない」ということらしい。

 こんな激しい行と、のり弁当を食べて、キャンディーをなめながら歩く、僕ちんのウォーキング旅行を比較する気は毛頭ないのですが、この千日回峰の話しが僕の中のプチ修行癖のようなものを刺激したのは確かなようでした。

 
 なぜかあの本が僕の中では、「よし、僕も歩こう」というモチベーションになったのです。

 一日中ずっと歩いてみたいなーと思うようになりました。

 次は12時間~15時間くらいの行程にチャレンジしてみたいです。

 まあトレーニングであると同時に、結構面白いんですよね。ロングウォーク。

 まずお金がかかりません!(←ココ重要) 帰りの電車賃とか食事代くらい。

 そして歩いていると、今まで目に入らなかったものとか、知らなかったことが結構飛び込んでくるんですよね。

 チューリップ畑のイベントとか。オープンガーデンとか。
 
 数十キロという距離を肉体感覚で理解することもできます。

 歩くというのは人にとって根源的な行為なので、自分がそれだけ歩けることを実感することは自分のエネルギーを知り、力の感覚を感じることでもあると思うのです。

 歩き続けるということは体験の連続になります。8時間なら8時間、見知らぬ体験が続きます。まあ、日本の街なのでコンビニがありスーパーがあり似たり寄ったりでもあるのですが、それでもはじめての街はやはり始めての街です。見たことのない風景を見続けるという刺激を脳は受け続けることになります。その刺激が心をリフレッシュさせてくれるという作用があるように思います。

 芭蕉のような旅する俳人や詩人がいるのもそういうことが原因なのかな?とちょっと思いますね。

 先日参加したI師匠の夜の集いで、「M君何かオモロイことない?」と尋ねられ、最近山登ることとか歩くことにはまってますと答えました。


I師匠: 「山登ってんだ?どんな山?」

  灰:「奥多摩のほうの山とか・・・」

  I師匠:「御岳とか、雲取とか・・・」

 灰:「はい、雲取はまだ行ってないけど東京とでは唯一2000メートル越えの山らしいですね」

   歩いたりしてると一番気持ちよくて、今日も赤羽から歩いてきたんですけど・・・

   体を動かして精神的な面を安定させようというのはありますね。」

 I先生:「悪くないよ。あのね、歩くのはね、四国の話ししたのは昨日だっけ?

     八十八箇所のお遍路あるじゃん?あれってお寺に手を合わせて八十八箇所をまわるのがメインじゃないんだよね。歩くのがメインなの。今みたいに車でお寺からお寺に移動するんだったら、あんまり意味がないんだよ。

  お寺からお寺の間に、やっぱりもくもくと歩くじゃん。その黙々と歩いてるときに思考が自分の内面に向いてくる・・・これはマラソンだったり、チャリンコで山走ったりするのでも一緒なんだけど・・・何時間も黙々と自分の内側に向っていくという作業が必要になる。それがスポーツの場合をお遍路の場合では意味が違うじゃない。

 次のお寺からお寺の間で黙々と歩いてるというのはやっぱり、自分の命とか人生とかそういうことを考えるんだよね。その黙々と自分の内側に向かって考えて歩いてることに意味があるんだよ。

 お寺行ってお参りしてるときは意識が外向いてるじゃん?あの仏さん、えらい古そうやなーってこう見てたりだとか、そういう時は全然メディテイティブじゃないんだよね。ところがやっぱ次のお寺に向かって歩き始めたときから10分、20分たつと完全に自分の内側に入っていって、歩いてる記憶がないみたいな(笑)それが大事なんだ。

 灰:「歩きながら考えると違う思考になりますね」

 I師匠「そうそう、マーヤ解きでもなんでもそうなんだけど、内側に向かっていかないとダメだから。だからM君が精神的に不安定だとかいうけど、不安定なのは内側に向いてるからなんだよ。外側にもっと自分を興奮させるようなものがあればね、そっちに気をとられてると、不安定にはならない。

 なんで自分の内側を向くと不安定になるかっていうと、自分の内が確立されてないからね(笑)

 自分の内側が確立されてなくて、内側を向いちゃうと、不安定になるっていうのがあるんだよ。

 だからそれが覚醒するだとか、「わかっちゃう」だったりとかして内面が安定すると、内側に向くことが幸せになってくるっていうことなんだよね。
 
 だから内側を向きつつ安定させるっていう意味で、歩くっていうことはどっちにも属さないの。外に向いてるとも内に向いてるともいえないわけ。外にもある程度気を使いながら、かつ内側も向いてくるから、だから歩くとか巡礼をするとか、歩行瞑想をするとか、っていうことは有効な手段になってくる」

 灰:「あのー大峯山の千日回峰行を読んで奮起させられまして・・・」

 I師匠:「塩ちゃんね。多分あの人の師匠がK寺のGさんだったと思うけど・・・俺はK寺のGさんって言う人と一時とても仲良くしてて、吉野に行ったりとかして電話してさ、院主さん今吉野に来ましたーっていうと、夜になると一升瓶かかえてやってきてさ、飲みましょ、飲みましょつって結局夜明かしで飲んだりとかさ。すごい仲良くしてたの、なんか。」

 でたっ><

 I師匠に自分がいま興味あることとかマイブームを話すと、なんかそのトピックの裏側にすでに控えていましたなんてことがたまにあるけど。ちょっとびっくり。

 それにしても偉いお坊さんとたくさん知り合う縁に恵まれるというのは、多分基本的かつ本質的にI先生がお坊さんだからなんだろうなとちょっと思った。

 I師匠「俺はなんかねー修験宗の偉い人とすっごく仲良くなっちゃう傾向があって、京都のS院てあるじゃん。平安神宮のちょっと上の方。どこだっけあそこ、白川通りと丸田町通りが交わるところだよね。そのS院のMさんと俺と、チベットを旅行したときずっと同室だったの。」

 僕はあまり詳しくないのだが、修験宗はだいたい3つの派があって天台宗系は塩沼さんの金峰山修験宗と、京都S院の修験宗だという。そして真言宗は京都山科の醍醐寺が拠点だという。3つのうちふたつの拠点が京都にあるとは知らなかった。I先生はかつて京都に住んでたことがある。時期的には僕が10代の頃だろうか。

 僕が生まれ育った京都市の岩倉実相院のあたりも仕事で来てたようで、詳しかった。

 しかし

 京都出身やけど、いまだに白川通りとか、丸田町って言われても全然ぴんとこおへんわー
 京都いた頃は、小説とゲームくらいしか興味あらへんかったしなー(せめて京都なまりで)

 また京都に帰ったときにいろいろ歩き回ってみたいと思います。

 師匠の話でもあったけど、歩くことは内側と外側の橋渡しというか、世界とつながる根源的な行為なんだろうなと思いました。

 シンプルですが、セラピー的効果、プラーナ強化効果、メディテーション効果いろいろ複合的に作用します。

 エネルギーのほしい方は是非お試しを♪

 またスピリチュアルな世界でよく言われる、グラウディングやあるいは最近メジャーになってきたアーシングともつながると思いますが、長くなるのでまた日をあらためて書いてみたいと思います。


セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/04/24 12:11

HOW TO LIVE?


  自由の中で、どう生きるか


 joy of not working




 最近読んで面白かった本。

 「働かないってワクワクしない?」は、自由時間をどのように過ごすかについての本です。

 だいぶ前に出版された本ですが、この本のポイントは働いていない時間にこそ人生のエッセンスが存在しているのではないか・・・?と投げかけていることです。仮に失業したり、退職したときにできた膨大な時間をどのように過ごすのがもっとも満足できるかということについて考えています。

 この作者のアーニーさんは、週に数日働きrがつかない月、つまり三月から八月までのアウトドアにもってこいの季節は働かないといううらやましい生活をされているようです。


 僕が最初に膨大な時間に直面したのは、6・3・3の半義務教育を終えて大学に入学したときでした。

 普通僕らは小学生、あるいは3,4歳の幼稚園の頃から生活の枠組みを外側から提供されて育ちます。

 何時から何時は勉強、そして給食やお弁当、昼休み、午後からは体育、部活・・・というような感じで約12年間がたちます。そして時々行われるテストは、どれくらい提供された情報を暗記・応用できるかということを機軸に行われます。

 学校を終え、卒業すると、今度は通常は職場のフレームが待っており、それに基づいて毎日生きていきます。

 大学生活というのは、その合間で比較的自由時間が多い、一種エアポケット的な世界です。
 授業時間もそれほど多くはないので、提供されるフレームが相当ゆるく、個人の裁量に委ねられています。

 いきなりの価値転換をある意味求められるのです。
 しかし、6・3・3の義務教育のあとに、いきなり自由な世界に入っていくということは長年働いた人が急に退職してぼけーっとしてしまうようなリスクも潜んでいます。
 この自由というものに関しての洞察の低さと自主性の欠如が、結局は「適当に遊んですごそう」的な価値観を生み出したりします。
 いきなり骨抜きになっちゃうわけですね。
 学校と、就職の間の長い夏休み的にしか学生生活を捉えていないと、ここには結構なトラップがいくつも潜んでいるように思います。
 「自由」をどう生きるのかというオリエンテーションこそが必要なのかもしれません。

 「働かないって・・・」はそういう自由へのオリエンテーションの教科書になりそうな本です。

 自由に教科書なんていらないっしょ、せっかくノンフレームなんだから好きにすればいいじゃん?とも考えられますが、これは18歳そこそこの人にとってはちょっと酷かもしれません。

 だって僕らは普通、自由をどう生きるか、人生をどう充実させるかという教育ではなく、外側のフレームにいかに自分をはめ込むかという教育しか受けてこないからです。

 「引きこもり」の主な原因のひとつとして、そういった自分力の欠如があるような気がします。

 ノンフレームの時間を充実して過ごすには、ある程度の意志力と自主性、そして自分の深い望みを理解し、それに基づいて生きるということが必要です。
 
 もちろん、時にはだらーっとするのも楽しいですよね。
 好きなときに寝て、起きて、好きなものを食べて、ぼーっとテレビや映画を見て、一日過ごすっていうのも。
 そんな一日があってもいいと思います。
 でも一週間もそんなことをしてるとだらっとするのにも飽きてきます。
 好きなことを自由にすると言われると、往々にして人は、意思を低きに流してダラダラしてしまうという傾向があるようです。そしてこんな毎日むなしいけど、このサイクルから自分で抜け出せないという状態が「引きこもり」的生活の根っこにあります。

 僕は「引きこもり」状態からなんとか意志力を奮い立たせて、本屋さんでバイトを始めた時期がありました。
 2,3ヶ月ほとんど人と話してないような状態も頻繁だったので、最初はかなりレジに立つなんていうことはきつかったのですが、慣れてくるとバイトが与えてくれるフレームの中で過ごすことにより精神的には少し安定しました。そして、新しく入った女子学生に仕事を教えたりすることである種の先輩感すら経験することができたのでした。それは一種の「成功体験」として社会生活に関わる自信にもつながりました。

 こう書くと「ほらねー人はやっぱり仕事をして社会参加をせねばいかんのだよ」という結論になりそうですが、この文章の趣旨はそういうことでもありません、むしろ逆です。

 仕事をして人間的に成長したり、お金を稼いだりということは大事な経験だと思いますが、どうも問題は外側から提供されるフレームのない状態で、僕らが意図も簡単に自分を見失ってしまうということにあるように思うのです。だから多くの人は、仕事がなくなると新たなフレームを求めて就職活動にいそしみますが、これはお金の問題だけではないような気がします。生活の中にフレームがないという不安感がそうさせている部分もあるでしょう。

 ポイントは日本には、外側のフレームに自分をはめ込んだ状態と、だらっとした怠惰な暮らしの間がないことです。
 ウツや自殺率の高さ、就職できなかった学生の自殺などはそれときっと関係があります。

 日本人は社会的圧力にもんのすげー弱いんです。
 DNA的にもそうかも。海外から賞賛される協調性や秩序の負の側面、自我の欠如です。

 就職できなかった、ということは言い換えれば、「就職せずにすんだ」ということですよね。
 価値観を勝手に都合よく書き直せるということが、自分力であり、それは命を守る力なのです。
 何をしていても、生きてる状態が大事だという認識。
 価値観よりも存在を重んじる意識。

 こういうニュースを聞くたびに僕は「就職せずにすんだ」仲間が死んでしまったことへの悲しみを覚えます。
 これは彼らの無知であると同時に、家庭内や社会的圧力の後押しがなければ起こりません。
 ただの認識が、命をここまで左右するのです。
 
 きっと僕が意識だけタイムトラベルをして、昔に戻ったとしても、僕は同じコースを辿って本屋でバイトはしないでしょう。
 懐かしいからちょっとだけその雰囲気を味わってみたいなー
 あの頑固そうな店長の説教を聴いてみたいなーなんて思うかもしれないですが・・・
 今の自分の認識ならば、無理して外に出る必要はないとわかるからです。
 ただ、その頃の自分にとっては外に出て働ける、社会と関われるという自信が必要でした。
 それとどこかに属しているという帰属意識。
 多くの人が帰属意識を、労働の場に求めます。
 この社会で精神的に村八分になる、不適応になるという恐れは意外と単にお金がないということの恐れよりも強いのです。そして、自分としては入りたくない一群に、負けてる感じの一群に分類されてしまうのではないかという恐れですね。

 しかし、この分類の基準自体が外側のフレームであり、自分の命を守るという意識が勝っていれば、それには左右されません。(まー・・お前負けてんなーと言われたら、いい気持ちはしないかもしれないですが)

 このような恐れが、働いていない状態を何かとても陰惨かつ不幸なイメージで彩っているのです。

 でもなら働いている状態がよいイメージで彩られているかというと、そうでもありません。
 よく言うワーキングプアや、ブラック企業など労働にまつわる様々な問題と微妙な景気が職業全般に対するイメージを低下させています。10人に4人が派遣労働ならば、年金や保険料なんて払えません。払うことも出来ますが、そうすると、ほとんど生きるだけになり、将来になかなか希望も持てません。

 夢は正社員!なんていうCMは、個人的にはマジか・・・と思う昨今であります。

 なんで、夢は幸福でいること!にしないのかな。
 夢ってそういう抽象的で、ぼやーっとした感じのほうがよいですよ、きっと。

 多くの人はもしかすると働くのもイヤ、働かないのもイヤ、でも働かないで落ちていくのももっとイヤという意識状態で働いているのかもしれません。これは楽しくありませんよね。

 さてさっきの、 外側のフレームに自分をはめ込んだ状態と、だらっとした怠惰な暮らしの間ですが、

 間、というのは外側からのフレームに依存することなく、100パーセントの自由が与えられても自分の才覚でそこを充実した色で塗ることができる、ということです。そんな才能がある人が、これからの時代幸福に近い場所にいるような気がします。

 僕は幸か不幸か、平均的20代、30代よりもずっと労働時間が少ない生活を送ってきました。
 現在週の労働時間は多くて24時間~28時間くらいでそれを越えると調子がおかしくなります。
 社会保障費までは正直払えません。
 おかげで両親はなかなか安心させてあげられないのですが・・・

 もっとも昔はフルタイム勤務にも何度か挑戦しましたが、どちらも2,3ヶ月でウツ状態がひどくなり離脱しました。
 心療内科にいくとあっさりと坑ウツ薬を処方されましたが、そんなものを飲んで働き続けたくないので、辞めちゃいました。

 お金や生活の安定、帰属意識を求め外側のフレームに自分をはめようとすると、調子が悪くなる。
 そしてまた自分の部屋に振り戻される、ということを繰り返しました。
 そのうち、このノーフレームの空間にこそ何かすべきことがあるのではないか、ここでこそ意識を研ぎ澄ませられるのでは
ないかという結論にいたり、また社会と適度に関わるペースもつかめてきたわけです。
 
 どうも会社というものと相性が合わないようで、会社に毎朝でかける仕事は続かない(もって一年)のですが、お宅に伺うという今の仕事は5年以上続いております。そういうケースもあるわけです。自宅でできる仕事が一番向いてる人もいます。
 だから会社や役所に就職できないからって死んじゃダメ。探せばいいんです。生きる道、生きられる道を。

 まあそんなわけで、自由な時間に何をするか、どういうフレームを自分で作るか、なにをしてると自分は幸福なのかというテーマとはずっと取り組み続けてきました。

 その過程で気がつくと一日3時間くらい対戦型テトリスをしていた日々もありました。
 どうせもうすぐこの文明は崩壊するとか思って、その考えに振り回されていたのですが、それすらも外側からのフレームだったのです。そんな毎日の中で、何が不毛で何が充実か、という感覚がややわかってきました。

 また9・11や3・11のようなことが起これば、恐れに基づいた外側のフレームが優勢になるということも理解できました。
 幼稚園の子どもが何度も地震がまた起こると予言しましたが、ひとつも現実にはなりませんでした。

 だから生きる中で経験することは、何も無駄ではないのでしょう。

 仮にまもなく大災害が起こって死んでしまうとしても、それまではかけがえのない今を幸福に、平和に生きてる実感を味わったほうがよいのです。

 この投稿では、外側からのフレームなしにいかに生きるか、ということについて考えてきたことを少しシェアできればなと思います。


 大切ないくつかのこと



 ①自己理解と受容

 自分の個性、強み、弱み、生まれてきた目的、ミッションなどについて深く気付き、自分マニュアルを作成することです。
 そしてその個性を受け入れ、慈しみます。

 ②ビジョンマップ

 心を喜ばせること、楽しませることについての地図を作成して生きる指針にします。

 ③スピリチュアル&アウェアネス

 人生を振り返り、導きを受けてはいないか調べることを習慣にします。
 自分の人生やシンクロニシティの流れを注意深く観察して、信頼する。
 何を食べるか、どのような本を読むかなどに関して、自分がどう「感じて」いるかという感覚を研ぎ澄ませます。

 ④ダウンシフトする

 あわただしい生活ではなくスローなリズムの省エネ型生活へ切り替えます。
 お金をかせぐことよりも、自由時間を大切にします。

 最後の長期休暇が大学生四回生の夏、その次は60歳の夏だよ!ってなんかおかしくないですかね。

 春と夏は働かないというアーニー・ゼリンスキーさん並みが当然とは言いません。

 でも 

 人生に少なくとも何度か、一月程度休めることがあってもいいんじゃないでしょうか。
 それすらも非常識とされる社会はやはりどこか問題があると思わざるを得ません。

 もしも、体やメンタルな不調があまりにもつらい時は、薬などでごまかしごまかし働くのではなく、休職・退職という選択を優先します。
 経済状況、扶養家族の有無などで一概には言えないことではありますが、収入や世間体よりも、自分の命、健康を守るということを一番に考えます。

 健康を犠牲にしてお父さんは僕を育ててくれたって知るとき、子ども達は本当にうれしいんでしょうか。。。
 自分の命を守ることは、家族のために働くことよりも、本当に男の面子が立たないことなのでしょうか。。。。。

 「お父さんは好きなことをして、僕をなんとか育ててくれた。豊かじゃなかったけど、毎日パパは楽しそうにしていた。」

 思い出としてどっちがいいでしょうか?

 ⑤フレームを相対化する

 すべて外側のフレームは人間がつくったもので、時と場所が異なれば意味をうしないます。
 現代と日本の価値観は一時忘れます。
 アウターフレームの洗脳装置であるテレビを捨てるのもよいでしょう。
 遥か未来人や宇宙人になって自分を見て見ましょう。
 あるいは、イヌイットの長老や、インドの隠者や、オーストラリアのアボリジニなら自分にどう言うかを考えて見ましょう。
 先になくなった知人や親族は自分を見てどう言うでしょう?

 どんなアドバイスが、声が、時を越えた場所から聞こえてくるでしょうか?
 
 その中で、浮かんでくる愛のある答えだけを真実として取り入れます。
 実際それは真実なのです。
 どうしてイメージの中の言葉が、現実の人間の言葉よりも説得力がないと言えるでしょうか。

 また逆に、昭和20年終戦直前、戦争に行きたくなくてどこかに失踪しようかと考えてる若者がいて自分を責めているとすれば、あなたはなんと声をかけるでしょうか?イメージしてみましょう。

 戦争に行け!そして国のために死ね!そう言う人はほぼゼロでしょう。

 いいんだよ、逃げても。

 君の感覚は当然だよって多分言うでしょう。

 でも若い兵隊に優しい僕らが、この現実ではいろんな人を、そして自分を現代のフレームでジャッジしてしまいがちです。

 いつの時代でも、その時代の「当たり前」が命を殺すのです。

 内的なフレームによって生きてる人たちのブログや、本をたくさん読みます。

 あるいは海外を実際に旅して、異なったアウターフレームに触れてみます。

 例えばインドでは、男性同士が仲良く手をつないで歩いていますが、これは別にゲイのひとたちじゃありません。一種の友愛の表現としてこういうスキンシップがあります。

 日本で男同士がお手つないで歩いてたらおかしいですが、これってどちらが正しいという問題じゃありませんね。

 こういうアウターフレームの違いを肌身で感じることが自由でいられる秘訣のひとつだと感じています。

 アウターフレームは異なるという認識→より深いインナーフレームの確立

 海外ではなくても、国内でも可能ですね。



 ⑥何かになろうとするのではなく、自然に自分らしく生きること




 このようなことがポイントとなってくるように思われます。


セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/03/13 13:37

マイクロスリープ・メディテーション



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  誰でも仕事中などに一瞬ウトウトして、ハッと目を覚ますとすごく頭がすっきりしていたという経験があると思います。

  こういう束の間の睡眠は「マイクロスリープ」と呼ばれているらしいです。

  普通人間は数日間睡眠を断たれると、意識に障害が出始め、怒りっぽくなったり何かに集中するのが困難になります。
 
  でも稀に何日間もの断眠実験に挑戦して、成功する人がいます。
  ネットでさくっと検索してまず出てくるのは、264時間、11日間の断眠に成功したランディ・ガードナー少年の記録です。
  このような長期の不眠に成功する人は、マイクロスリープをうまく利用しているのでは?という説があります。

  ギネスなどの記録の場合、もちろん立会人はいるでしょうし、横になって眠ることは不可能です。

  でもマイクロスリープは数秒~十数秒単位でも起こり、多分追い詰められると立ったままでも起こります。
  ということは厳密に外から見て、その人が寝てるか寝てないかを判定するのはすごく難しいですよね。
  脳波で計測することは出来るかもしれないけど、瞑想の熟練者の中には目覚めたままでシータ波やデルタ派の領域に入る人もいるでしょう。

  一見外から見てわからないほどの睡眠でも、集中力を回復し、気分を安定させるパワーがあるからこそ、マイクロスリープだけで何日間も過ごせるのだと思います。

 だからどうも気分が落ち着かない、もやっとする場合には気を紛らわせようといろいろするよりも目を閉じて静かにしてるほうがいい場合があります。すると必要ならマイクロスリープが起こり、瞬時に意識がリセットされます。

 僕もずいぶんマイクロスリープ(早く言うと居眠り)の恩恵にあずかっています。

 このような充電間はいったいどこからくるのか、脳科学的にはいろいろ説明があるのでしょうがスピリチュアル的にあるいは意識学的にいうとどういう現象なのかということに興味があります。

 というのはそれが起こるときには、ある種別の世界の力により助けられてるような感覚を伴うからです。
 うーん、言い換えると別の世界に一瞬行くことにより・・・とも言えるでしょうか。
 多分実際、行ってると思うんですけどね。

 小規模なゲシュタルト崩壊、シャーマニックな意識の転換のようなものがあのリフレッシュ感の正体では?と思うのです。

 僕はよくマイクロスリープに陥る瞬間を観察します。
 マイクロスリープ・メディテーションです。

 するとまず、意識がボーっとしてきて、ゼロの状態と僕が呼んでる状態になってきます。
 さっきまで気にかかってたこととか引っかかってたことが徐々にどうでもよくなり、手放されてる感じ。
 続いてさらに深まると見当識が喪失されます。
 まだ合理的な思考は目覚めているので、部屋にいるというのはわかってはいるのですがそのリアリティが薄れてゆき、自分の肉体やアイデンティティーも遠ざかり、<誰でもない感>を味わいます。

 次に、まったく状況設定の異なる現実に意識が引き込まれるのがわかります。
 通常<夢>と呼ばれるものですね。
 これは現実とまったく異なるストーリーとロジックを持っているのですが、眠りのある瞬間において意識がそちらの現実に置き換わってしまうポイントがあります。
 ここで観察をやめるとそのまま<夢>の論理に飲み込まれていくのですが、さらにしつこく観察を続けると僕の場合は、夢のロジックと現実のロジックを何度もいったりきたりします。人によっては覚醒夢に移行できる人もいるかもしれませんが、僕の場合はあまりそれは起こりません。

 でも、現実から見て非現実があっというまに現実になっていくということが面白いのです。
 シャーマンはこれを意識的におこなうことができます。(目覚めたまま、別の現実に入っていく)
 誰でもこれを、現実を非現実化するという作業を毎晩繰り返しています。

 面白いですよね~~

 僕から見れば、夢の原因とか分析よりも、この現実がゆらぐという現象こそが夢の神秘だと思います。

 胡蝶の夢・・・うつしよは夢、夜の夢こそまこと という発想も出て当然。

 このようなゼロの状態になることと、まったく別の世界に入ることが、あのリフレッシュ感の正体なのでは?と思います。
 真我のほうから瞬間的にエネルギーが流れ込むのかもしれません。

 人が眠る理由をエネルギー補給と考えると、眠らないマスターがいるのは、彼らは覚醒状態でそのエネルギーを常に補給できるからなのでしょう。

 このときに必要な情報も流れ込むことがあります。

 やはり眠りは脳科学だけでは解明できない謎があります。
 パラレルな現実というものを設定しない限り謎が解けないのは<死>おなじで、眠りと死はかなりイコールではないでしょうか。シータ波やデルタ派という脳波は、脳波のフラット、つまり死に近い脳波であり、この物理的次元の拘束からかなり解放された脳波です。そのため、<死>による知覚の拡大に近いものがある。

 夢になくなった方が登場するのは、それが彼らのいる帯域と共通した脳波だからでしょう。

 つまり僕らは毎晩、死んでるわけです(もしかすると毎瞬、かもしれません)

 インドの聖者ラマナ・マハリシは「お前さんは毎晩寝ているのに、どうして死ぬのを怖がってるんだい?」と言っています。
 
 不眠はある意味で、心配事などによる神経系の覚醒が原因で、覚醒時のフォーカスポイントがバラバラになるのを許容できないという状態です。問題が大きく、そしてリアルなので、その問題から意識をそらすことができなくなります。

 しかし実は、このゲシュタルト崩壊状態を許容し、別の現実に移行することを許せば、そこに答えや状況を耐えやすくするエネルギーがあるのです。

 通常は、ひとつの現実しか見えていない、というのが僕らの苦痛の原因のひとつではないでしょうか。

 これが問題解決よりも、しばしば単にリラクゼーションすることが有効な所以でしょう。
 瞑想はこれを意識的に起こそうとします。
 完全に眠りに陥ることなく睡眠時のシータ派やデルタ派の多い状態になることが、瞑想の結果起こります。

 でもそれは実は特殊な脳波ではなく、誰でも体験していることなのです。
 
 うたたねを意識的に行うとそれがわかります。

 オススメ♪

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セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/03/01 11:14

季節性情動障害とサンゲイジング



 毎年、秋はプチウツな日々が多く、からだも低調になることが多いです。

 僕の場合は10月終わり~12月中旬くらいの一月半くらいが特に落込む傾向がありました。

 気分的にだけではなく、風邪もかなり引きやすくなったりしました。

 これはどうも季節性情動障害(冬季うつ ウィンターブルーとも)という症状のようで、結構経験する人は多いようです。

 季節性情動障害とは?

 「日中に太陽光を浴びるとセロトニンという物質が作られる。セロトニンは、脳から分泌される睡眠ホルモンであるメラトニンの原料となる。太陽の光が少ない冬の期間はセロトニン減少が起きメラトニンが十分に生成されない。メラトニンには、季節のリズム、睡眠・覚醒リズム、ホルモン分泌のリズムといった 概日リズム(サーカディアンリズム)を調整する作用があるのだが、これが不足することで体調をきたすというわけだ。
 
 イギリス国民の20%がこの病にかかるという。また、10%のフィンランド人が季節性情動障害を患っているが、フロリダ州ではたった1.4%しかいない。これは、気候環境と季節性情動障害が密接に関連していることの証明である。

 1980年まで季節障害は正式な病気として扱われていなかった。「寒さが苦手な人が泣き言を言っているだけ」と言う解釈が主流だった。

 季節性情動障害に一番多い年齢層は18歳から30歳までで、女性は男性よりも3倍多い。また、寝つきが悪い人に多いと言われている。特に症状がひどくなるのが12月~2月にかけてである。一般的には3月末になればほとんど良くなるのだが、人によっては5月にずれこむ場合もある。


 一般に気分の落ち込み 過眠(寝ても寝ても眠い) 過食 などの症状があり、原因は基本的には秋から冬にかけて日照時間が減ることによるセロトニンレベルの低下にあるようです。

 だから、こういう時はその気分に振り回された状態で、重要な決断などはしないほうがよいですね。
 
 毎年秋が来るとやや戦々兢々としてたのですが、去年はいつもよりもかなり好調に過ごすことができました。

 多分、早起きして朝日を浴びに行く習慣があったので、不足しがちな太陽エネルギーをそれで補えていたのだと思います。

 ネイティブアメリカンのシャーマン、ローリングサンダーの本で朝日は一日でもっともメディスンパワー(治癒的エネルギー)が強いというのを読んだのがきっかけでした。

 

 冬季ウツの対処には他にも、セロトニンをつくるトリプトファンやビタミンB6を含む食事を多く取ったり、サプリで補ったり、運動や投薬などいろいろ手段があるようですが、根本的原因が光不足なわけなので、やはり光で補うというのが本質的な解決のような気もします。

 サンゲイジングもよいのではないかと思いました。

 
 サンゲイジングを長期間行った人は、睡眠時間が減ってエネルギッシュに活動できる時間が増えるという現象がおこるようですが、これは、秋ウツによる倦怠感、過眠などとは真逆の状態です。(不食や小食によっても睡眠時間が減るという話しがある)

 僕は去年サンゲイジングをやってたわけではないのですが、太陽に祈ったり、手をかざしたりしてる間、目からかなりの光が入り、自然的にサンゲイジングをやってたのかもしれないと思いました。

 その結果例年より好調だったのか?
 
 あと休みの日は数時間野外で本を読んだり、音楽を聞きながら日を浴びてごろごろするのも効きます。

 サンゲイジングはもちろん、無茶なやり方をすると目を悪くするリスクもあるので注意が必要ですが、日の出・日没の一時間以内の太陽光線は肉眼で見つめても問題のないものになっているとサンゲイジングの専門家で、NASAの監督下で130日間の不食をやりとげたヒラ・ラタン・マネク氏は考えているようです。

でも秋ウツの改善には必ずしも太陽を凝視する必要はありません、
 お困りの方は、是非朝日を浴びにいってみてください♪



セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/11/13 19:16

直観と<境界線>


  
  タロットカードの中で内なる直観を表すのは、2番の「女教皇」だとされています。

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 根源から、あるいは内なる自己からの宣託を告げる彼女は、すべての人の中に存在しています。

 僕が思うに、自分は霊感もないし、まるっきりそういう能力はないという思い込みの強い人も、虫の知らせ的なシグナルによって行動を左右されているのです。

 もともと人間の心臓には未来をある程度事前に察する能力があるようです。

 これは科学的な環境で設定された実験ですが、ランダムにいろいろな画像が現れるモニターの前に被験者を座らせて心臓の活動を観察すると、爬虫類の攻撃や災害の画像などが表示される数秒前に心臓の波形に乱れが起こるのです。

 以下の動画に実験の撮影があります。(英語です)56分頃~

 


 次に何の画像が現れるかは被験者はもちろん、実験の監督者も知らないので、この場合、被験者の心臓のみがもっとも未来に通じていたということになるのではないでしょうか。

 「女教皇」はもしかすると、僕らのハートのあたりにいるのかもしれませんね。
 そこには頭脳とは別の、知性と情報のセンターがあるのです。

 だから、これらは人が思うほど特殊な能力ではありません。

 ただ内なる指針とでも呼べるような感覚です。

 僕の場合は、直観的に、この本を読むべきだということがわかったり、本の装丁や著者の名前によってそのエネルギーが感じられるということはよくあります。なぜかわからないですが、好きな本は著者の名前の響き自体がとても魅力的にひきつけてくるのです。そして本自体が生き物のように、愛らしさを放っています。間違って踏んでしまうと、生き物をふんずけたように「あ、ごめん」と謝りそうになります。

 これとは逆に、手に取るのもちょっと躊躇する、部屋に置いておきたくないという本もやはりたくさんあります。

 それは腐った食べ物や枯れた植物を部屋において置きたくないという感じと似ています。

 こんな風に直観は、おそらく誰もが知らないうちに使っている明確に定義されていない、五感以外の感覚ではないかと思うのです。そして、人によって直観の働きやすい分野、そうでない分野があるんじゃないでしょうか。

 そして自分の人生の生き方に関わる局面でもやはり直観は僕らにささやきかけてきます。

 ある意味でいうと、本当に自分らしく生きるには直観的に生きるしかないわけです。
 
 というのは、自分が何を仕事とするか、趣味とするか、喜びとするか、どういうライフスタイルを送るか、何を食べるか、などということに関して、内なる指針に従わねば、外なる指針に流されるしかないからです。
 
 外なる指針ののわかりやすい例が、メディアによって意図的に起こされる流行や、ブーム、カリスマ占い師のアドバイス、生まれ育った家族の価値意識、あるいはその時代全体を支配する集合的な価値意識などです。

 多勢を支配する外なる指針と、自分のスピリットの出す指針の食い違いが少なければいいのかもしれませんが、内なる指針と外なる指針のギャップが大きいほど人はその葛藤を封じ込めるか、「少し浮いた人」として生きる勇気を持つかという選択に迫られる場合もあると思います。

 でも実際は自分に正直であればあるほど、周りにも貢献できるのです。
 自分に不正直であればそれだけ、自分のギフトを内側に封印してしまい、その抑圧されたギフトの創造的エネルギーが逆に心身を攻撃します。

 自分の直観に正直であることは、一人でいれば、割と簡単に思えますが、誰か別の人がからむと少し複雑になってきます。

 「境界線」をひくことと、「直観」の関係もそのひとつです。

 よくセラピーの分野では健全な境界線を引くことの大切さが語られます。

 境界線は、僕と、あなたの間にある、個としての分水嶺です。

 境界線を引くとは簡単にいうならば、それぞれが独自の価値観を持っているということを認め、必要以上にそこに干渉しないということ、また人のプライベートな空間やエネルギーを尊重し、そこに入り込み過ぎないこと、そして自分自身についても人から侵犯されることを黙認しないこと、などです。

 境界線がぐちゃぐちゃになるということは、家族やカップルの間でよく起こります。
 当然といえば当然ですが、密な関係ほどどこまでが自分でどこからが他人なのかわからなくなります。

 それは「一体感」、よいことのようにも思われがちですが、健全な境界線のない関係は決してよいものではありません。
 
 それは「愛」ではありません。

 極端な例がユニティの名の下に、みな同じ服を着て、同じような笑い方をする宗教集団のような形態です。
 ないことにされた境界線は、しばしば、組織の外部を敵対的なものとして設定することにより外在化されますが、これが良く起こるカルト内での社会へのパラノイアなのです。

 また国が混沌とするときに起こる、ナショナリズムなのです。

 これが家庭内で起こると、いつも何かのトラブルに全体が振り回されていたり、どこまでが自分の感情でどこまでが人の感情かはっきりしないような纏綿型家族ができあがります。

 この中で人は暗黙に問題意識や信念体系を共有しますが、それが自分のものだと思い込んでいます。

 このような家庭内では常に人の境界線を越えてしまうのが常習となっている人がおり、またテリトリーに踏み込まれ心に干渉されることが常習となっている人がいます。同属としての意識と慣れが<個>の存在のユニークさを、無視してしまうのです。

 直観と、境界線の関係はいくつかの簡単な例で説明できます。

 まず直観は自分のスピリットから、あるいは<根源>から来るものなので、境界線が脆弱であまりにも外側の信念やエネルギー、情報に振り回されていると、それに気付くことができません。
 直観を受け取るには、女教皇が座っているような静寂の空間が必要なのです。

 また直観を感じていても、それを人に表現できるだけの強さがなければ、関係性の中でそれは埋もれてしまいます。

 例えば、僕は一人の時間がある程度ないとかなり疲弊するタイプなので、疲れているときにパートナーとも話すことが難しいことがあります。
 でもそれを押して会話を続けることがよくあったのですが、そうするとそれがストレスになり、イライラし始め、相手にもそれが伝わり、雰囲気がピリピリするということを何回か経験しました。

 今は、ひとりでいたい時は画用紙で作った「一人にしてね」プレートをドアにかけたり、いろいろ工夫してややスムーズになりました。そして僕も、相手が疲れているときは一人の空間をなるべく尊重するようにしています。

 これは境界線は維持したいけど、嫌われたくないというようなジレンマが起こるポイントでもありますが、基本的には「無理をしない」ということが長い目で見るといい結果を生むようです。

 また例えば、友人からどこへ遊びに行こうと誘いがあった場合も、気乗りがしなければ、失礼がないように断ったほうがいいんだと思います。
 いやいや、付き合うよりも例えば、僕がそこで断ることにより、彼にはまた別の可能性が生まれるからです。
 友達を大事にするとは、ある意味では「友達とは、今日は遊ばない」ということにもなりうるわけですね。(また別の日に会う約束をしてもいい)

 ところが相手の反応が気になる人は、ここで自分の感覚にふたをして、出かけていって、楽しくない思いをしがちです。
 自分の感覚よりも、表面的な承認を得ることを優先してしまうんですね。

 相手の話にあわせすぎて、いつも聞き役になってしまうという人は、会話の中で自分の感覚を表現する練習をするといいかもしれません。これは僕もよく意識することです。

 介護の仕事などで、最初は自分の感覚を殺すということを意識し、相手の話を聴くこと、あわせることだけをしていましたが、「自分を殺す」というのはどんなときでもそれほどよろしくないことだと気付きました。

 なぜなら自分を殺すことは、遠回りに「相手を殺す」ということでもあるからです。

 自分の境界線を侵された違和感や怒りを押し殺し続けることは、相手にも付けとなって回ってくる場合があります。
 人のフィールドに干渉するという傾向を当然のものとして受け入れることで、それを常習化させてしまうからです。

 それを回避するには多くの場合、「ちょっと疲れてきた」「休ませてください」「少し一人にして」などというだけで十分です。

 どんな時でも「自分を生かす」ほうがいいのです。

 それはどんな時も自己主張をしまくることとはちょっと違います。
 
 相手のエネルギーに巻き込まれすぎないこと。

 どんな時も、自分のリズムとともにいること、呼吸とともにあること、自分の愛と共にあることで、それが人とのかかわりの中にあるときでも僕らが直観を受け取れるスペースを確保してくれるように思います。

 社会や他者から孤立することなく、女教皇の座るような静寂のスペースとともいられることが理想ですね。



セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/04 13:02

大いなるものとつながる


  前々回は「自分とつながる」ことについて書いてみましたが、今回はもうひとつの重要事項「大いなるものとつながる」ことについて書いてみます。

 神、宇宙、愛や叡智、高次の自己

 なんと呼んでもいいのですが、古来より人は人の知の及ばない実在を直観的に感知して来ました。

 太陽や月、星のめぐり、生命系の複雑さと秩序、それらにはある種の「知性」が内在しているとしか思えなかったからです。自然科学が還元主義的な手法により、すべての生命現象を偶然や自然淘汰で説明しようと試みても、やはり自分に正直に人生や宇宙を見ればそこにはある秩序や知性が息づいていることに気付かざるを得ないと思います。

 僕が思うには、すべての存在はその「大いなるもの」のエネルギーにより生かされているので、ある意味ではすべての存在は「大いなるもの」とすでにひとつにつながっていることは確かです。

 でも、重要なことはそれが僕らにとっての「知」に、より確かな認識となり、リアリティとなるということなのです。 
 「大いなるもの」により生かされているということと、それを知っていることとの間にはやはり違いがあるのです。

 なぜなら「大いなるもの」と個々の認識を通じてつながることが、個々の心の救いや、エネルギー、愛、知恵を受け取るパイプラインを築くことになるからです。

 先週師匠の夜の集いに参加したとき、「つながることとわかること(覚醒することの違いはなんですか?」という質問が参加者の方からありましたが、師匠の答えでは、

つながることは大前提、でもものすごくつながっていても、わからないということはある。わかるかわからないかはその人の人生のミッションにも関係がある。つながることは今日明日にでもできるんだよ。つながることによって個々の資質に応じた能力が開花する」というものでした。

 「大いなるもの」につながる方法はたくさんあると思います。
 多くの人が行う神社や仏閣パワースポットへの訪問も、おそらく真摯な気持ちで行えば僕らとそれをつなぐでしょう。
 他にも他者に奉仕するということを、大いなるものへ奉仕する意識で行えば、それもやはり僕らとそれをつなぐでしょう。

 またことさらに神や宇宙という言葉を意識しなくても、「大いなるものの」性質である純粋な愛や正義、創造性などの意識で生きている人はおそらくこのつながりの中でエネルギーを送られています。

 でも基本的には「自分とつながる」と同じように、「意識する」から始まり、理解し、受け入れ、愛するというプロセスを辿ることになると思うのです。その過程のどこかで、あちら側のエネルギーとつながる感覚が自ずから体得されていきます。

 古来からの伝統的な道では、この「大いなるもの」とのつながりを最優先課題とし、自己や日常的、物質的豊かさを捨て去るという方向性が選ばれてきました。

 でも、現代人のスピリチュアリティは、多くの場合その方法とはフィットしません。
 おそらく大きな流れとして、精神性と物質性の統合、大いなるものと自我の共存、というテーマがあるのかもしれません。現代はヒマラヤの奥にこもる覚者がいると同時に、市井の覚者が大勢求められているのです。

 求めて覚者にはなれなくても、「つながってる人」には求めればなれると思います。

 人類のスピリチュアリティの推移を別の例で見てみると、かつては自己犠牲、自分を殺し、他を生かすという行為が美徳でした。現在でもやはりそれは人の胸を打つし、英雄的行為としてみなされます。

 しかし、それを「最高なこと」ではなく、集合的なスピリチュアリティは「他を生かし、自分も生かす」という方向へと推移しているのです。ということは自分を殺し、他を生かすという方向性がこれ以上、必要以上に美化されることは、全体の成長にとって好ましくないからかもしれません。

 なのでこれと同じように多くの人にとって最初から「自分のことなんでどうでもいい、この世界には苦しんでる人がたくさんいる、自分なんか捨てて頑張ろう」という方向性はバランスのとれた道にはならないでしょう。そのように決断しても、何か満たされない心の埋め合わせとなっている可能性が大きいからです。

 だから「自分とつながること」「大いなるものとつながること」このふたつをバランスの取れた形で行っていくことが現代にフィットしたあり方だと思います。

 もちろんその割合は人によって5:5でも、3:7でも、9:1でもかまわないのですが、個人的には「大いなるもの」のためのスペースを心のどこかに少しでも持っていることをオススメしたいです。

 覚醒した存在は大いなるもの10という意識で存在しており、それは大いなるものの他には何もない(あるいはそのほかはイリュージョン)という認識であり、それに基づいた生き方です。

 そこに至っていない僕らがまずそれとつながるためにはまず「意識する」 ことばでもイメージでも

 自分の知性やリアリティを遥かに超えた巨大な存在、秩序を思うことから始まります。

 ポイントはそれが僕らから遠くはなれたものではなく、僕らの人生や生命自体がそれに組み込まれているということでしょう。そしてこの巨大な秩序、生命の織物、宇宙の計画のなかで僕らは人生の役割や存在の意味を与えられていますが、はっきりとはそれを知ってはいないことがほとんどです。

 そのことにより、大いなるものに委ねる、という方向性が生まれます。

 もしも仮に人生が自我の色付けしたあらゆる視点から見て、行き詰っているように見えても、それは本当の行き詰まりではなくある宇宙的プロセスの一部であることは確かです。

 なので自分の「見方」を手放して、その宇宙的プロセスに意識をあわせたときに始めて現れてくる現実があるのです。
 それが神と共に生きる(つながって生きる)というリアリティです。

 僕は決して「大いなるもの」への真摯な探求者とは言えないと思います。
 
 気がついたら「大いなるものに」 バーカバーカと言ってたりします(ごめんなさい)

 それでも学んだことは多くあり、その中でも大事なことのひとつは、不幸や苦しみは外的な状況により起こるというよりも根本的にはその人間の認識に「大いなるもの」がないことにより起こるということです。

 その人の認識に神が出現した途端、状況に関わりなく人は救われるのです。

 そして完全にそのエネルギーと一体化していれば、ホームレス状態でもきっと笑いが止まらないであろうことは確信しています。

 そのような状態への一歩は、「大いなるもの」を思うことから始まります。
 それは小さな一歩だけど、それ以降の歩みと祝福をすべて含んだ一歩です。

 苦しいとき、それに意識を向けて、この出来事の意味は何か、どこへ私を導かれるのですか?と問いかけます。

 答えはあるかもしれないし、ないかもしれない。

 でもきっとそのことによりあなたの心には神と言うスペースが出現するでしょう。

 祈りの意味は、答えが返ってきたり、願いがかなうこと以前に、祈れるということ、それを意識できるということ、その福音にあるからです。



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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/12 10:23

僕らを見つめるまなざし

               「あなたが求めているのは あなたを見ているものである」BY・・・・誰だっけ?



 僕らはいつも他者からの注意と関心、そして承認を求めています。

 と、同時に十分なそれらが自分には与えられていないと思ったり、自分はそれらに値しない、ということを恐れていたりもするのではないでしょうか。

 誰しもが成長する過程で、多くの人が嫌われたり、仲間はずれにされたり、影でののしられたり、社会全体から裁かれるのを目にします。
 そして自分はそんな事にはなりたくない。でもひとつ間違うと、自分も見捨てられ、相手にされなくなるだろうという恐れをも刷り込まれました。
 
 そして時には、大勢の中でスケープゴートを見つけ、陰口や批判をしているときに、「うん、自分は確かに【こちら側】にいる大丈夫だ」という安心感を感じたりするかもしれません。

 と、同時に心のどこかではその安心感が砂上の楼閣のようなものであることも知っています。

 敵や異端者、悪いやつ、ムカつくやつ、ダメなやつを設定して連帯感や安心感、承認感を得ることは結局はそれが無条件の連帯感や承認感でないために、潜在的にはよりいっそう愛されないという恐れをも強化するのです。

 それはこちら側(OKな側、愛される側)とあちら側(NGな側、愛されない側)を設定してしまったがために、生まれる居心地の悪さです。

 誰からも興味と関心を払われなくなることを僕らは恐れます。
 
 そのためにその恐れが大きければ大きいほどに、よりいっそうスケープゴートを探してこちらとあちらを設定したり、他者からどうにかして興味と関心を勝ち得ようとするコントロールドラマに巻き込まれていくのです。

 それほどまでに愛を求める衝動は強烈で、それが満たされないときの恐れも大きいといえるでしょう。

 確か中島みゆきの歌の歌詞に「愛の重さを疑いながら 愛にすべてをさらわれてゆく」というのがありますが(土用波)、これは「愛なんてない」を思って生きても、結局は愛されない恐れに基づいた現実を生きてしまうという、愛に表側からも裏側からも支配されている人のあり方を歌っているのだと僕は解釈していました。(よく考えたら作詞者の意図とは違うかもですが)
 
 結局は問題は愛は人からのみ、それも他者からのみ生じるという集合的な思い込みにあるようにも思えます。

 もしそうならば愛は限られており、結局はカップルや友人関係からあぶれるものが出て、人間関係は限りある愛という「資源」を勝ち得るための過酷な競争になるのです。

 多くの人が両親とのトラウマを生涯抱え続けるのは、子供にとっての絶対者である親の言動はその次元を超えた愛をもってしなければ修復が難しいからだと思います。子供にとってのメンタルなセーフティネットは、社会全体が、君は両親から愛されている、と同時に愛からも愛されている、という認識をもつことではなないかと思うのです。

 その愛は人から発すると同時に、空気中に常に遍満しているようなものです。
 あたかも空気中に、僕らへの関心と興味と、そして愛情が常に充満し、それを僕らが気付かないだけとしたらどうでしょうか?

 もし僕らが、それに気付くことができれば、恐れなく生き、注意と関心を惹くために人をコントロールする必要もないことに気付けるのでしょう。

 僕らはどうしても、愛を言葉や、贈り物や、優しげな行いや、肌のふれあいとして考えます。

 ということは、もしも日常に優しい言葉をかけてくれたり、プレゼントをくれる人がいなかったり、肩に手を置いたり、頭をなでたり、キスをしてくれる人がいなければ・・・そこには愛はないということになってしまいます。

 そして、愛がもらえない私は、価値がないという認識にまで時には至ります。

 でも本当にそうなのでしょうか?

 先日講演会に参加させてもらった、臨死体験後に末期の癌が全快したアニタ・ムアジャーニさん。
 アニータさんは、臨死体験中無条件の愛しか存在しない次元にいた話しを聞かせてくれました。
 その愛が、病を治療させた原因であるとアニータさんは考えているようです。

 直観医療者のクリステル・ナニさんも人は死後無条件の愛の空間に赴くということを著書の中で語っています。

 近年(2012年)全米を中心に注目された脳神経医エベン・アレグザンダー氏の著書「プルーフ・オブ・ヘブン」にもやはり無条件の愛の次元、創造主の次元のことが描かれていますが、この人も大腸菌性の髄膜炎というかなり珍しい病気から危篤状態に陥り、臨死体験を経て奇蹟的な回復を遂げた方のようです。

 その次元では僕らは何をしていても、していなくても、無条件に愛されて存在し、また僕ら自身がその愛のネットワークの一部となりその中で、すべてを愛しているようなのです。

 おそらくは愛は宇宙自体の根源的な構成要素であり、人間の中に気まぐれに現れたり消えたりする、一感情などではないのです。 

 いつの日か愛が、光や重力や原子のように宇宙的な力であることが広く認識される日が来るかもしれません。

 それまでは、愛はヴェールの向こう側でその正体を隠しながら、僕らを操り続けるでしょう。
 
 もしそんな時代が来るまでにまだ時があるとすれば、あたかもすべてが自分を愛しているかのように、空気中に愛が満ちてるかのように日々想像力をもって生きてみるのはどうでしょうか。

 無条件の愛が誰にとってもリアルな時代にいる、というシミュレーション、ごっこ遊びです。

 大きな存在が、あるいは天使が、僕らにいつも語りかけている。

 例えばこんな風に

 「あなたがひとりで元気がないと感じるときに、私達と話していると考えてください。実際、私達はいつもあなたとひとつであり、あなたに話しかけているのです。

 私達に一定の形はありませんが、あなたが愛する形として想ってくださって結構です。
 エンジェルとして、妖精として、マスターとして、好きなアイドルとして・・・なんでもかまいません。
 あなたが愛を感じるということが重要だからです。

 そしてあなたには、絶えることのない注意と関心が注がれています。

 あなたが自分のことをどうでもいいと思ったり、絶望するときでも、あなたは私たちによって、いつも見つめられ、感じられているんです。あなたにはいつも関心を持たれる価値があります。

 なぜならあなた自身が、肉体と時空と自我を経験し愛を表現している私達の一員だからです。

 あなたがこの世界で為そうとしていることを私達はいつも応援しています




 それがリアルであるとき、想像力は、単なる空想ではありません。

 世界が丸いというリアルなイマジネーションがコロンブスの航海を助けたように、もしも神が、愛がリアルであるならばそのイマジネーションは実際に愛とつながる力があるはずです。

 この「ごっこ」を続けていると、時々これは単なる空想じゃないという喜びや安心感、エネルギーの高揚を感じるかもしれません。それは愛がリアルであるということの証なのではないかと思います。

 さて、この記事は、誰かが、あるいは何かが、いつどんな時もものすごく僕らに関心を持っているというのではないかというイマジネーションをもとに数日間書き進めてきましたが、さっきカフェで読み進んだエベン・アレグザンダー氏の「プルーフ・オブ・ヘブン」の中でこんな一節と出会いました。エベン氏は、臨死体験中に体験した創造主を、「オーム」と呼んでいます。ちょうど今日出会った、この記事の趣旨そのものでもあるこのセンテンスを引用し、終わりたいと思います。


 「確かに神は、科学が解明に努めながら明らかにしている、完璧な宇宙をあらわす数字の向こうに姿を潜めている。

 しかし逆説的ではあるが、オームにはそれと同時に豊かな情緒が備わり、その人間味はわれわれ以上であるとさえ言ってもよい。

 オームはわれわれの想像を絶するほどの深さと関心をもって、個々人の置かれている状況を熟知し、共感を寄せている。

 われわれが忘れてしまったものの喪失を承知していて、わずかな間でも神聖なつながりの記憶をなくした状態で生きることがいかに過酷であるかを、よく理解しているからなのだ。」 
                                       エベン・アレグザンダー


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セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/10/07 21:47

10月スケジュール



 10月のヒーリング&カウンセリングスケジュールをアップします。

 カードなどによる現在の状況のリーディングと、ハンズオンヒーリングを行います。 

 アクセスは西武新宿線田無、JR武蔵境駅より

 料金は7000円となります。

 時間は朝10時からだいたい18時頃まで受け付けております。

 ご自宅や宿泊先への出張も可能です。

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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/02 13:52

自分とつながる

 僕が生きるうえで重要だと思うふたつのことがあります。

 ひとつは、自分自身とつながること

 もうひとつは、自分を越えたものとつながることです

 今日は自分自身とつながるとは具体的にどういうことか、書いてみたいと思います。

 「つながる」 とはより具体的に言うと、意識すること、感じること、理解すること、受け入れること、そして愛することです。

 その対極は無意識、感じない、無理解、拒絶、無関心(あるいは憎しみ)ですね。

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 ↑想像力を使い同一人物だとイメージして見よう(笑

 自分自身に対して、これらの態度をとり続けていると、やはりいろいろな心身の不調和が生じやすくなります。

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 人から無視されると感じるとき、もしかすると、自分自身をイチバン無視してるのかもしれません。

 まずは「意識すること」
 これがなければ、理解も受容も愛もうまれないので、すべては「意識する」ということから始まります。

 自分自身のあらゆる側面を意識するために時々時間をとってみます。

 静かな夜中でも、早朝でも、仕事の合間でもよいのですがTVからもスマホからも本からもしばらく離れて自分を感じてみます。

 環境としては、キャンドルなどの静かな明かりと、穏やかな音楽あるいは無音の空間が良いかもしれません。
 要はなるべく外部からの刺激を減らして、僕らの内面のささやきが聞こえるような環境をセッティングします。
 慣れたら真昼の新宿の雑踏の中でもできるかもしれませんね。

 楽な姿勢で座り、目を閉じます。
 ただ、これは決まった手順のある瞑想ではありません。
 どうしなければいけないということもありません。

 強いて言えばルールはただ、あなた自身の気付きでいることです。
 そしてその気付きを必要なら多次元にわたってひろげます。
 五感、思考、感情、夢想・・・

 例えば・・・

 犬になったつもりで耳を澄ましてみましょう。
 遠くから、あるいは近くから
 そこでは、どんな音が聴こえるでしょうか?
 くんくん嗅いでみましょう。そこは、どんな匂いがしますか?
 感じてみましょう。今いるそこは、居心地はいいですか?

 呼吸や体の感覚、そして頭を過ぎる想いや、感情にも気付いて見ます。
 あなたは何を考えていますか?
 今日会った出来事、人と交わした会話、明日の予定でしょうか?
 感情はどうですか
 悲しいですか?うれしいですか?それとも腹が立っていますか?

 体の違和感や、痛み、うずきを感じるでしょうか?
 手足は温かいですか?冷たいですか?
 おなかは減っていますか?
 性的なエネルギーは静かでしょうか、動いているでしょうか?
 何か気がかりが心に引っかかっているでしょうか?

 静けさ、喜び、ワクワク感、周りへの愛、平和、充実感・・・

 その他のポジティブな感情を感じているかもしれません。

 もしそうなら、それらをしばらくじっくり味わって見てください。

 
 自分自身とつながるときに、僕らがパワーをゆずりわたしているものがその妨げとなることがあります。


 それは例えば、他者の世界観や考え方であったり、巨大なメディアのニュースや、権威者の語る言葉などです。

 それらは僕らの現実ではないにも関わらず、僕らの意識に侵入してくる思考の分子(ミーム)です。


 これらの情報とエネルギーは、僕らを自身の身体的経験やリアリティとつながるのを妨げることがあります。

 例えば、ひどい事件や事故が報道されてるニュースを見たとします。

 そのときに起こる脳神経系の興奮により、僕らは、完全に外部志向となり、自分の呼吸や感覚を忘れ、時には自分の望みや、現実も忘れてしまうのです。

 ですがそのようなときこそ実は、内部志向でい続ける必要があるのではないかと思います。

 僕らがそれを「見ていること」、その瞬間も僕らは「呼吸をしていること」などです。

 
 そのような侵入因子がひとりでいるときも、意識内でエフェクトを与えているのに気付いたら、無理にそれを排除することなく「これは自分ではない」と気付きます。

 それらは透明な流れに、混入した色つきの水のようなもので、しばらくは心身の機能にエフェクトしますが、やがて時が過ぎると透明な流れへと戻ります。

 自分の呼吸を感じ、体を感じ、両手に流れる「気」の感覚を感じてください。
 それは思考レベルや感情レベルのエネルギーよりも安定して、常に流れています。
 なので気の次元を意識することにより、思考や感情の次元が安定することもあります。(気の次元は呼吸と深くつながっています。深い呼吸をしましょう)

 そのあなたのエネルギーと息はどんな情報よりも、意味があり、奇蹟的なもの。僕らの生そのものです。

 こんな風に自分の呼吸を感じ、エネルギーを感じ、からだを感じ、想いと感情を感じ、そこに働いている力と生命力を「理解」して「受け入れ」てください。

 どのような醜く見える感情も無下に切り捨てずに、なるべくあなたという意識の広がりの中に存在するのを許してあげてください。それを許せば、僕らはより、広がります。そして広がった分、それにとらわれる度合いも少なくなるでしょう。

 こんな風に自分とつながる静かな時の中で、ふと、「こんなことがしてみたい」「あれについてもっと学びたい」という想い(直観)がさりげなく降りてくるかもしれません。これは僕らが自分を受け入れたことに対する、自分の本質からのお礼のようなものです。

 和解成立

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 それを日々の生活の中で自分のペースで、実行してみましょう。

 
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 最後に、この時空にあなたという肉体と感情と思考、エゴと魂からなる複合体が存在していること、その奇蹟を想ってみてください。それは100年前でも1000年後でもなく、なぜこの時空の一点なのでしょうか?



 宇宙全体に向かって胸を開き、すべての愛するものに愛を送り、その愛が返ってくるのを想います。


 こんな風景の中で自分自身を好きな方法で抱きしめて、「あなたは本当に大事な存在です」と言ってあげてください


    tree.jpg



 宇宙と神、意識の現れである、あなた自身に畏敬の念を捧げて終わります



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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/27 15:53
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