超気持ちいい入浴法 ▼水のヨーガ▼



 とっても気持ちのよいお風呂のはいり方を見つけたので、紹介したいと思います。

 レナード・オァー著「不死の探求」という本からです。

 この本の趣旨をかいつまんで言うと、人間は不死となる、あるいは次元間を行き来できるような肉体を持つことは不可能ではないということです。

 そして著者自身が伝説的なアバターであるババジをはじめ、何人もの齢数百歳を重ねる不死者と会ったことがあると明かしています。

 これは一般的にはちょっと信じがたい主張ですが、僕は死なない人というのは実際におそらく存在しているのではないかと以前より思っています。日月神示でいうところの半霊半物質のボディをもつ人でしょうか。

 ババジ、ジーザス(復活して不死となったと考える)など。

 この本の中では日本ではあまり聞きなれないゴラクナスという不死者が登場します。

 ゴラクナスとは絶対者が、ゴミ捨て場に捨てられた赤ん坊の死体に宿った存在ということらしく「ごみの主」という意味らしい。

 ゴラクナスはほとんど日本語で検索してもヒットしないようですが、数少なく出てきた情報ではゴラクナスはどうやらシルディ・サイババのグルのようです。

 うーん・・ということはなんだか実在性が増しますね。伝説ばかりと言えない様な。

 ネパールのカトマンズにゴラクナス寺院があり、そばには聖火が燃える小屋、ドウーニが立っていると「不死の探求」に書かれていますが、このブログの情報では

 「ワシントンD.C.のアメリカン大学の哲学と宗教の教授、チャールスS.J.ホワイトによれば、シルディ・サイババはグル ゴラクナスのナス伝統に従っていた。「サイババの宗教的習慣はヒンズーとモスリムの慣習を混ぜ合わせていた。、、、彼は小さな使われていないモスクに入り、そこが彼のその後の生涯の住居となった。そこで、彼は火と線香を用いたヒンズーの儀式を行った。彼はナスパンティ ピールの方法でドゥーニでずっと火を燃やし続けた(今日も帰依者が燃やし続けている)。」

 とあります。うーん興味深いですね、このつながり。これを読むとシルディ・サイババがゴラクナスの火の伝統を受け継いで守っていたのは事実のように思われますが。いたんでしょうか、ゴラクナス。というかいるんでしょうか。

 あと不死者といえば

 西洋で伝説的な人ではサンジェルマン伯爵とかも

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   死なないと言ってもディオ・ブランドーとかになったらダメですが。。。
  これは人の血を吸って永遠に生きるパターンです(笑)

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 また割りと近代でもラーマリンガのように大勢がアセンションを目撃したという聖者の記録が残っているので、こういう現象は条件さえ整えば当たり前であるかのように発生すると思うのです。ちょっと前にブログを読んでいただいた方から、日本でも数年前にアセンションした女性がいるという情報をいただいたので、あるいはこの現象は想像以上に身近にあるとも考えられます。(僕が目撃したわけではないので、あくまで聞き伝えによるものですが)

 師匠もたまに、死なない人とか、仙人のような存在はインドとかにいるという話しをします。

 ただ、同時にこういうスーパーナチュラルな存在の情報はものすごくマーヤになるということもよく聴いています。

 重要なことは常識を逸したことに憧れるのではなく、僕らがどれくらい命の根源と同調し、自分自身でいること、愛でいることができるかということだからです。
 そしてそれは往々にして当たり前のものごとの中にあるものです。
 お皿を洗ってるときや、爪を切ってるとき、お笑い番組を見てるときにもあって、
 ヒマラヤのカイラスや、セドナで瞑想してるときだけにあるわけではありません。

 また、永遠の命を垣間見ると火の鳥の我王のように、自分が生きることや死ぬことはどうでもよくなる(=ただ自分の役割を果たす)可能性もあります。

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 なので、やや用心しながらこの本を読んでいたのですが、これはなんか結構感じるものがいいんですよね。

 基本的にヨギ系であり、アドヴァイタ系ではないと思います。
 だから超常現象に拒否反応がある、硬派なアドヴァイタ好きにはウケが悪そうです。
 それでも、ただ神の名前を繰り返すマントラヨーガやジャパヨーガといわれるシンプルな方法を重要なものとしている点などは、とてもポイントを押さえてる感じがします。

 著者は心身を浄化するには地水火風よっつのヨガがあると述べており、これは最近僕が考えてきたことと一致しました。

 大地
 水
 火(太陽)
 風(呼吸、プラーナ)

 などとつながることでエネルギーを高め、安定させることができるわけです。
 アーシングやウォーキングは大地のヨガに該当します。
 滝行、入浴、シュノーケリングなどは水のヨガ。
 サンゲイジングは火のヨガであり、呼吸法は風のヨガです。


 この中で水と風のヨガとして紹介されていた入浴法が以下のものです。


 ①バスタブに水をためる

 ②鼻で呼吸しながら、結合呼吸*のリズムを始める

 ③呼吸しながら、片方の足を水に入れる。

 ④肉体と感情に起きるすべての変化を十分に経験するまで、呼吸を続ける

 ⑤もう片方の足を水に入れ、すべての変化を十分に経験するまで、呼吸を続ける。たとえばからだが突然ほてったり、冷たくなったりする人もいる

 ⑥バスタブの中に座り、変化を十分に経験するまで呼吸を続ける

 ⑦吐く息が軽く、バランスが取れて、開放的になるまで呼吸を続ける

 ⑧首まで水に浸って横たわり、吐く息が完全に軽く、リラックスした状態になるまで呼吸を続ける

⑨頭を後ろに倒してクラウンチャクラ(頭頂部)を水に浸ける。そして、エネルギーの変化をしっかり経験し終えるまで呼吸を続ける

10 額まで水に入れ、鼻と口だけを出す。その姿勢のまま完全にリラックスし、エネルギー体が済んで清らかになり、バランスを取り戻したように感じられるまで呼吸を続ける。そして、自分のエネルギーセンターの位置に気付く。

 11 結合呼吸を続けながら実験として両足を水からだし、エネルギー体の変化に気付く。

 12 この手順を逆にする。頭を水からだし、立ち上がり、片足ずつ水から出る。呼吸は結合させ続ける。

 13 以上の手順を三回繰り返す。


 *結合呼吸というのはリバーシングというセラピーで使う呼吸法で以下のようなもののようです。

 ①短い呼吸を4回する

 ②長い呼吸を一回する

 ③息は鼻から吸って、鼻から出す

 
 ちなみに僕はかなりいい加減にやりました。深い呼吸はしたけど、結合呼吸はしてません。
 三回も出たり入ったりしてません。
 めんどくさいこと嫌い。

 これをいい加減に実践してみて、額の第三の目辺りを水に沈めるあたりから、明らかに意識が変化するのを感じました。

 自然にからだが浮いてきて、耳は水中に沈むために音が聴こえなくなり静かになります。

 すごく気持ちいいーです。

 知らない間に自動的に半瞑想状態になり数十分が過ぎていました。

 基本的にいつもカラスの行水タイプで10分も湯船には入らないことが多いのですが、これだと気持ちよくてあっという間に時間が過ぎます。(ただし顔も沈めるので、お湯はややぬる目がいいかな)

 レナード氏は水の浄化についてこう書いています。

 「水の浄化を行えば、物理的宇宙について単に頭で考えて恐怖をいだくのではなく、その宇宙を直接的に経験する機会を与えられます

 そう、水に浸るという経験は子宮内の原初的な恍惚感(BPM1)とつながっており、その心地よさはおそらく宇宙的経験なのです。

 ずいぶん前にフローティングシェルに入った経験を思い出しました。

 バスタブの中で自然と顔がニヤケていきます。

 ニヤケつつ、最近入浴介護の仕事で訪問している知的障害の人のことも頭に浮かびました。

 その人は服を脱がされてるときや、頭を洗ってるときは全力で嫌そうな顔をするのですが、湯船に入ると瞬時に極楽にいるような表情になります。

 この変わりようがすごくて、最初ちょっとウケてました。

 日によって機嫌とかは微妙に違うと思うのですが、湯船に入ると天国モードになるというのは毎回同じです。

 あー●●さんは、今の僕と同じような気持ちよさをもっとマインドに邪魔されない形で毎回経験していたのか・・・とちょっと思いました。

 久しぶりにかなり深くリラックスできた経験になりました。

 フローティングシェルや、この入浴法はヨガといえどもかなり快感系、解放系であると思います。 

 一方水のヨガには、滝行や、冷水シャワーというのもありこうなってくるとちょっと修行がかって来ます。

 でも朝一で冷たいシャワーを浴びると、「アー今日も仕事かーヤダナ」と言う思いが、冷水のショックにより一瞬でリセットされ、身が引きしまります。

 だからその時はきつくても、事後はかなり爽快になります。

 冷水は「チャクラを洗浄しつつ閉じる」ということなので、満員電車や雑多な人のエネルギーへのディフェンス力をあげるにはもしかすると冷水がよいのかもしれません。

 著者いわく、「苦行のヨーガは、楽しみや慰めのヨーガと同時に行う」ことが重要だと述べています。

 でないと「偏屈になる」らしいです(笑)

 意固地にならないためには、楽しむこととか、心地よいことをすることがかなり大事なんですね~。

 火のヨーガで言えば、楽しいのは日光浴やキャンドル瞑想、まあサンゲイジングくらいで、信徒さんのために火ぶくれを作りながら行われる護摩行や火渡りの行、一日中太陽を見つめて失明した手塚治虫「ブッダ」のナラダッタは火のヨーガを苦行的に行ったことになる。

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 陰謀論が流行ったり、人々が裏の権力者への不満を毒づいたりする世界というのは真実に近づいた世界ではなく、むしろ戦争などに突入する前のピリピリとした世界に近い。

 もちろん、陰謀というのは普通にあると考えますが、そのような世界であるからこそ、楽しみや喜びのヨガというものを実践する必要があるのかもしれません。

 電子レンジが悪い、水道水が、マスコミが、電磁波がいけない、砂糖が、スマホがテレビがいけない、放射能が、と現代は怪しいものをあげればいくらでもあげていける世界です。

 そういうものをすべて切り捨てて生活しようとするといやでも偏屈な意識になりそうになることは個人的に経験しています。
 またそういうものに毒づくことは自分の否定性のはけ口となります。

 まあー「汚染を愛す」くらいの気持ちをちょびっとは持ってはいいのかもしれません。 

 もう一個著者の言葉の引用ですが、


 「霊的浄化の行は少しづつ取り入れるべきだということは、繰り返し述べる価値があります。

 からだが衰弱したり、気分が混乱したり、落込んだり、怒りを感じたり、またそのほか感情が乱れるのを感じたら、霊的浄化のエクササイズはやめ、バランスや安定を回復するまではいつもの習慣に戻るべきです。

 「いつもどおり」に感じられるのは、ひどく病気におかされている状態や汚染されている状態かもしれませんが、自分や他人が死なない限り、そこに戻ってもかまわないのです。



 これなんかは珈琲中毒で、飲酒も喫煙もする僕にとっては福音的な言葉です^^
 

 「豊かな生とはバランスをとることです。地、風、火、水、そして心のバランスを取ることです。

 創造と破壊のバランスをとることです。

 蓄積と分配のバランスをとることです。

 知性と経験のバランスをとることです。

 浄化と汚染のバランスをとることです。

 拡大と縮小のバランスをとることです。

 不易と流行のバランスをとることです

 行為と無為のバランスをとることです。

 活動と静止のバランスをとることです。




 ヨガや修行というのも人生と同じかもしれません。

 生きてて、楽しい経験と、苦しい経験があるのと一緒。

 冷水を浴びることはちょっときつい修行。

 でも温かいお湯につかっても浄化になるとすれば、片意地をはって冷水ばかりを浴び続ける必要はない。

 そして冷水を浴びることの中にもある種の気持ちよさや爽快感がある。

 食べることの中にも、食べないことのなかにも心地よさがある。

 陰陽あいまって完璧であり、陰中にも陽が、陽中にも陰があるんですね。

 
 まあ、堅い話はやめて、とりあえずお風呂に入りましょ~か♪


セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/02 15:33

ロングウォークとアーシング②



 変容期の地球で



 ネパールで大きな地震があり、被害が大きくなっているようです。

 現在地球は、人間で言うと風邪を引いてるような状態にあると思う。

 体温をあげ、せき、くしゃみ、ふるえなどの症状を出すことによって自浄作用を発動させている。

 脈拍も、体温も、血圧も、バイタルは乱高下する。いや、こうなってくるともはや風邪とはいえない。

 極端な暑さや、突発的、集中的な豪雨、雷、夏場の巨大な降雹、竜巻、巨大ハリケーンや台風、大雪、火山の噴火や、地震、磁場の減少、シンクホールなどにみられる異常な地殻変動をみると地球が今まで保っていたホメオスタシスが崩壊しているように見える。これは特に20世紀末から今世紀に入って顕著になった。

 僕が体で感じるのは、地球は僕が子どもの頃の地球ではもはやないということだ。

 地球は病気・・・というか何か、そのシステムを一度リセットさせようとしているか、あるいは人間で言う思春期のころのように急激にそのシステムを変容しようとしているように感じる。

 地球は、宇宙という子宮の中でBPM2に入った。
 生みの苦しみはすでに始まっている。

 そのプロセスが急激で破壊的なものとなるか、あるいは長期に及ぶ比較的穏やかな変化となるかはわからない。
 
 ただ、多くの人が現在の地球は変容期にあると考えているみたいだ。

 こういう時期にあって、必要なことは、ガイアにへばりついていることではないかと僕は思う。

 エネルギー的にも、物理的にも、この惑星に深く根を下ろしていなければ、この変化は僕らを耐え難い状態へと誘いかねない。 
 
 そのためにガイアはGravityを使っているのかもしれない。

 すべてのシステムが腐敗にまみれ、政治がかげり、一人、また一人と平均台の上から脱落していく

 大地に引っ張られ、落ちて落ちて、最後にたどり着くのは、母なる星の土の上だ。

 どうしようもなくなり大地に転がり、土に頬をつけると、大地の中から声が聞こえてくる。

 「さあ、しっかり私にしがみついていなさい、シートベルトをしめた?ジェットコースターが動き出すわよ!!」とガイアは息子達娘達に呼びかけている。

 多くの先住民のシャーマンたちが、ガイアの悲鳴とそして子ども達へのよびかけを聞いている。



 2011年3月11日、東日本大震災が起こったあと、僕は「3・11以降」という記事を書いた。

 それは3・11以前と以後では僕らは違う世界に入ってしまったのだという認識があったからだった。

 3・11以前という世界。
 いろいろな不穏な動きはあったものの、なんちゃってな平和が継続していた世界は、もうあちら側にいってしまった。
 その「あちら側」の世界で僕は来るべき地球規模のシフトを夢想したりしていたが、それはもう「こちら側」となってしまった。
 そんな風に思っていた。
 ACのCMばかりになったテレビや、止まったままのエレベーター、エスカレーター、震度5規模の地震が日常的に起こるような状態が、確かにそうだと感じさせた。
 あれから4年がたち一見してみると、少しづつ時は流れ、穏やかな空気感が戻ってきているようにも見える。
 しかし多くの人が現在の世の中の動きに不安なものを感じているに違いない。
 何かがおかしい、と。
 いつからおかしいのか?
 それはやはり4年前のあの日からだ。
 やはり僕らは3・11というマトリクスにログインしたままなのだ。 
 僕はそんな風に思えてならない。
 平和になったのではなく、僕らは「こちら側」のMATRIX311という仮想現実に慣れつつあるのだと。

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 僕が2011年の3月8日「向こう側」で撮った最後の写真は、自分の裸足の足の写真だった。

 僕は震災前の一週間ほど普通以上に寝つきが悪く、精神状態もテンパリ気味だったので、エネルギーを安定させようと公園ではだし歩きをしたのだった。 


 4月になってからブログににこんな風に書いた。

 
 3月8日、「向こう側」で撮った最後の写真。
 裸足で土や木の根の感覚を感じて歩いた。

 あらゆる矛盾があらわになるにつれて、

 僕ら自身も裸にならねばならなくなるだろう。
 目をそむけていたものと直面したり
 自分自身の嘘や、ごまかしとも向かい合わねばならなくなるかもしれない。
 でも裸の自分自身にほこりを持って、どんなに格好悪く思えても、とりつくろうより美しいことを肝に銘じて生きたいと思う。
 
 人からどう見られても自分の本性を隠さずにいれば、新鮮な空気とともにいられる
 もし裸足で歩けば、少々とげがささろうと、大地がじかに包みこみ支えてくれるように

 裸足で生きる勇気を僕らに・・・・!
 

 そしてMONGOL800の「矛盾の上に咲く花」という歌を貼った。




 矛盾の上に咲く花はまだそこかしこで咲き誇っている。

 いつになれば僕らは大地の上に咲く花に囲まれて生きることが出来るだろう。

 わからないけど

 きっとその始まりは、僕自身が大地の上に立つことから始まるんじゃないかと願っている。


 
 アーシング





 アーシングを知ったのは、これまたエハン塾さんからの情報だった。

 アーシングとは裸足で土の上(もしくは石やコンクリートの上、アスファルトはNG)に30分ほど立つことだ。

 人の体内には過剰な電流が滞っているので、これを大地に流すことで健康状態を大きく改善することができるという。

 アーシングの提唱者クリント・オーバー氏は、室内でアーシングが出来るマットや枕、寝具なども製作、販売しているらしい。

 エハンさんの知人が時差ぼけ防止に、アメリカへ飛行機で行ったとき空港を出るとする向こうの大地にアーシングするとまったく時差ボケの症状に悩まされなかったという話も紹介されていた。 

 天然素材でできた草履だとか、革靴からゴム底の靴という絶縁作用のある靴をはき始めたことが人の健康状態を悪化させている大きな原因だという。

 まあ、アーシングという言葉はなくてもきっと人間は裸足で大地と接するということは何かあると本能的に知っており、だからはだし歩き健康法とかが昔からあったんだと思う。

 僕は過剰電流を流す、という発想はもっていなかったが、アスファルトに対しては昔からすごく違和感ありで、こんな地面ぬりかためちゃダメでしょと常々思っていた。

 なんか大地が呼吸を出来なくなっている、という感じがすごくしていたのだった。多少水はけ悪くて、石ころだらけでも土が露出している道は何かホッとさせるものがある。

 そういうのも地面から<気>のようなものが出ているか、封印されているかによるのかもしれない。

 だからアーシングの考え方によると、大地と僕らの間にはブロックがふたつある。
 ひとつはアスファルトなどの絶縁素材で、もうひとつは僕らが絶縁素材で出来た靴や靴下を常にはいているということだ。
 そして、裸足で大地に触れるということがほぼない生活をしている。

 この動画を見て、僕もさっそくやってみた。

 アパートの庭に裸足で立ってみます。(←たったコレダケ)

 開始後数分でとても気持ちよく、エネルギーが安定してくるのを感じます。
 また気を受けたときに出るような、微妙な体の振動が僕の場合は自然と起こるようでした。
 それほど派手なものではないですが、かなり気持ちはいいです。落ち着きます。

 体内の電気がアースされているかはわからないけど、もしそれが事実なら長時間PCに向ったり、すげーつよい電磁場の近くで仕事する必要のある人はやってみると調子がよくなるかも。


 そういえばサンゲイジングの提唱者は、サンゲイジング時には裸足で土の上に立つことといっていましたが、これをすると確かに太陽からのプラーナと大地からのプラーナをどちらも受け取ることが出来て最高の方法かもしれません。

 ここ一年か二年ほどエネルギーを強化・安定させる方法論を自分なりに模索してきましたが、アーシングはその中でもベスト5に入れておきたい方法です。
 特にこれからの季節はあたたかいので実践しやすい方法です。

 ちなみに残りは


 ●ウォーキング(なるべく空気のいい場所)、トレッキング
 ●節食(あるいは断食)
 ●サンゲイジング、朝日を浴びる
 ●瞑想
 ●呼吸法      
 ●クリーンタイム(情報機器などOFFにして静かに過ごす時間)                  などです。



 生命力とつながる自分なりの方法を持っていることが、これからの時代、結構大事ではないでしょうか。



 アーシングとグラウディング



 アーシングと、スピリチュアルな世界で言われるグラウディングは若干ニュアンスは違う。

 グラウディングとは、エネルギー的に地球とつながること、この物質的次元にしっかり碇を下ろすことなどを意味してると思う。

 僕はグラウデングなんてしなくていいんだもん、と若干馬鹿にしてた時期もあるけど、どうも昨今の流れを見るとグラウディングしろと言われてる感じがする(笑)。
 あるいは個人を越えたユニバーサルな流れなのかもしれないけど。
 それこそガイアのグラビティが僕らを呼んでいるのか。

 それでもグラウディングワークを遊び感覚でやってみたことは今までにも何回かある。

 グラウディングワークはだいたいイメージを使うか、それプラス体の動きが伴う場合もある。

 典型的なものは自分の尾てい骨のあたりからエネルギーの管が伸びて、それが地球のコアとつながっていることをイメージしたりするようなものだ。

 呼吸とともに不要なエネルギーはその管から流れ出し、かわって力強い大地のエネルギーが流れ入ってくる。

 これはこれでいいのだと思うけど、僕としては実際に足を地面につける、ということをしたほうが生々しく、実感を持って大地とつながっているということが感じられる。

 いろんな花や草の匂い、蟻や蜂たちの世界が間近に見えるので、イメージだけのワークよりも僕は体験的なアーシングのほうが好きかもしれない。

 ただイメージだけのワークでもエネルギーとしてつながらないということはないと思うんだけど、僕の今の方向性として体験的なものにより魅力を感じるので、アーシングのやり方に惹かれるのだと思う。

 しかし、人はなぜ、グラウディングなんかをする必要があるのだろうか?

 別に地面から10センチくらい上をふわふわ浮いた人でもいいんじゃないだろうか。

 よくいわれるのはグラウディングはこの世界への影響力や、コミットの強さ、そして生命力に関係するということだ。

 より具体的にいうと、仕事や、お金、物の流れなどをひきつけるにはこの物理的次元にグラウディングしている必要があるというのだ。
 
 もう少し本質的に言うと、グラウディングとはある意味<肉体への受肉の完了>であり、完全に受肉することなしには、僕らはこの3次元世界を完全には生きられない。

 スピリチュアルな比ゆを使うと、この世界に僕らはツアーに来ているのだが、完全にこちら側に着地することを恐れて、ずっとバスの中やホテルの中で過ごしているとも言える。

 グラウディングしていないと、ヘッドトリップが激しくなる。
 この世界よりも頭の中の世界のほうがリアルになるのだ。

 僕らの着地を阻むのは、まずは「恐れ」であるといえる。

 トラウマ反応のひとつとして解離反応があるけど、これは常に体の中にエネルギーが半分くらいしかはいっていない状態だ。

 度重なるトラウマ体験が、肉体の中に存在することを危険だと思わせ、いつも半分くらいからだから抜けた状態が習慣化される。
 曇りガラスの向こうから世界や他者を見ているようで、いつもぼんやりして、時空の感覚も混乱しがちになる。

 恐れがヘッドトリップを加速させ、ヘッドトリップが恐れを生む。
 世界への、人への、身の回りへの恐れ。

 まあ、そんな状態だからこちら側の豊かさとつながりにくいのはある意味当然かもしれない。

 <世界は恐ろしい>のだ。決して、完全にこちら側に着陸してはいけない。
 完全に受肉すると、もっと恐ろしい目に会う可能性がある!
 そのような無意識的な認識がグラウディング、受肉を阻む。

 だから、こうも言える。
 恐れない意識だけが、完全にこの世界に下りてくることができる、と。

 だからきっと、植物たちは、そして4本の足を大地につけて歩く動物たち、常に腹をつけている爬虫類たちはグラウディングしているに違いない。
 彼らには人間ほど恐れにおかされていないため、この世界に完全にいることに躊躇はない。
 生まれたばかりの赤ん坊も、あるいはそうかもしれない。
 肉体が自分ではないことを知ってる存在は、肉体に完全に降りることをいとわない。

 この世界の恐れを知った人間の大人たちだけが、再び大地へと、からだへと戻ってくる必要があるのだ。

 長いことウォーキングを続けて、ひとつ気付いたことがある。

 僕は旅行が好きだから、次はまたインドに行きたいとか、沖縄の離島に行きたいとか夢想することがあったけど、

 なんだ、身の回りでも実際に足を使って歩き回ればたくさんの豊かさや可能性があるじゃないかということだった。

 自宅から数キロ圏内であっても、知らなかったいい場所や、美しい風景がたくさんある。
 一時間ちょっと歩くと小さな飛行場がある。
 滑走路から飛び立つ小型機は、伊豆大島へ向う。
 お昼の太陽を背に立つ僕から見て右手のほうへ、東へ飛んでいくのがわかる。
 海のある方向へ

 いや下手すれば家の軒先にだって。
 庭先にある、植物や、いろんな虫たちの営みがある。
 大地に足をつけて毎日見つめていると、どんどん草の丈が高くなり、蜂が増えていくのがわかる。

 なんだ、旅って、これのことだったんじゃないか。
 見知らぬ風景を見ること。
 自分の足で歩くこと。
 体験することにより、心が喜ぶこと。
 決して遠くへ行くことじゃない。
 山も好きだけど、街は山の裾野だ。そして地球の一部だ。

 つまりこういうことなんだ。

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 すべての場所はつながっている。 

 今僕のいる場所で旅が出来なければ、どこに行っても旅なんか出来ないんじゃないだろうか。

 僕にとっては旅への憧れは、歩かない言い訳でもあったみたいだ。

 そう、本当の旅とはもしかすると、今いる街への旅、日本への旅、地球への旅、大地への旅、そして僕のいるこの場所への、僕自身の命への旅かもしれない。
 地球とからだ、そのふたつにリコネクトすることが、その旅へのパスポートとなるのかもしれない。



 再び変容期の地球で


 もし、この惑星が本格的に変容のための自浄作用を発揮し始めているとするならば、アーシングやグラウディングはその変容期の地球においてどんな役に立つのだろうか。

 世界各地にプレッパーと呼ばれ、来るべき時のために物資を備蓄したりシェルターを作ったり、あるいは自給自足的な共同体を用意している人たちがいます。

 水、食料、土地、ガスマスク、武器、弾薬にいたるまで用意している人がいるでしょう。

 そのようなある種やり過ぎ感さえ漂う物質的な備えと比較するならば、エネルギー的に大地とつながるだけではいかにも心もとないように思われる。

 水はどうする?土地はどうする?マスクは?という話しになる。

 ハリウッドが製作する大スペクタクルカタストロフィー映画でも、いつも助かったり活躍する人々はそういうものの恩恵を受けている。

 あるいは非常時においては、グラディングよりも、電池やラジオの方がよほど役に立つかもしれない。

 でも僕はもっとも本質的には大地や天とのエネルギー的つながり感がもっとも重要な要素だと思うのです。

 なぜかということはうまく説明できません。

 あえて説明しようとすると、このシフトは物理的なシフトであると同時に、やはり精神的なレベルでのシフトであるはずだからです。ハリウッドカタストロフ映画では常に欠落している要素ではありますが、、、日月神示に書かれているような「お土をおろがむ」ようなこころが必要ではないでしょうか。 

 そして、肉体が健康で、プラーナが充実しているという状態はやはりどんな状況でも耐えやすくしてそれを乗り越えやすくしてくれるはずです。
 そして、プラーナは基本的には自然なるものからしかきません。太陽、大地、大気、食物、生命体などからしか来ないのです。
 そのような意味では、天地とつながることが地球変容期における、重要事項であることの説明となるかもしれません。

 まあ、僕としては未来に何かとてつもないことが起こるとか、あるいは今は大変な時代だとことさらに警鐘をならすような記事はあまり書きたくなく、最近はあたかもそういうことはなかったかのようなネタを書くことが結構多いです。
 個人的にも、えぐいことが起こってもあえて、ニュース的なものはシカトするような感じで、生活する傾向にしています。
 地震等の予言が流れても、「あー気のせい気のせい、なんも起こりまへん。富士山も噴火しまへん。漫画でも読みましょ」という感じで。あえて距離をとって、日常的なことにフォーカスしたりします。
 というのは、こういうことは恐れと興奮で脳を刺激させていとも簡単にヘッドトリップに陥り、自分自身のリアリティと絶縁するような類の情報だからです。
 
 でも僕の中ではやはり正直に書くとMATRIX311にいるという認識はなくなっていません。
 だから、こころがざわざわするネタを書くことなく、しかし本格的な地球変容期が訪れたとしても、その用意となるような、楽しく命や生命力を育むような情報をなるべく発信したいと思っていました。

 今後も基本的にはそんな感じで、地球変容期を頭の片隅におきながらも、そんなことは与太話だろのていで、この大地の上にいることを愛して生きたいと思います。



 
セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/04/26 19:18

ロングウォークとアーシング

 

  ここんところ、ロングウォーキングにはまっています。

  それちょっと長いやろ、電車使えよという距離をウォーキングしてしまうことをなんとなくそう呼んでいます。

  自宅近くに多摩湖自転車道という遊歩道があります。

  これは結構素敵なところで 春は桜の花や新緑のトンネルの下を歩けてとても気持ちがよい道です。

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  起点は武蔵野市で、終点は一応西部遊園地駅、だいたい23キロくらいでしょうか。  

  途中で花小金井駅、小平、萩山など西武線の駅を通り、多摩湖に出ます。

  途中の丸亀製麺でさくさくの天ぷらを食べたりも出来ます(笑)

  その道をよく歩いていたりしたのですが、自分は一日にどれくらい歩けるものかということが気になり始め、その限界ラインのようなものを見定めたく20キロから30キロくらいのウォーキングをたまにしてます。

 20キロだったら普通に歩いてだいたい4時間弱くらい?ですね。

 最初は自宅(西東京市)から、日野駅まで歩いて、そこから東中神までぐるっと周り電車で帰りました。

 続いて多摩湖自転車道を多摩湖まで歩き、そこから瑞穂町に出て、JR八高線箱根ヶ崎駅から電車で帰ると言うコース。

 などを歩きましたが、今回は自宅から青梅駅までにチャレンジ!
 少し寄り道しつつ40キロほど歩くことを目標としました。
 なんで40キロかというとフルマラソンの距離を意識してるのでしょう。

 でもただ直線的に最短距離を歩くのはつまらないので、ウォーキングツアー玉川上水の源流を見にいこう!を開催決行することにしました(参加人数一人w)

 玉川上水の横はいつも日常的に通りますが、あまり歴史は知りませんでした。
 歴史的なエピソードとしては太宰治が入水したくらいした知りません。
 そこで調べたところ、1653年に多摩川から江戸市中に飲料水を引くためにのちに庄右衛門・清右衛門ののちに玉川兄弟と呼ばれるようになる2人が工事を請け負ったとのこと。羽村から四谷までの距離で、当時の技術。
 これは数年かかったのかと思いきや、4月着工、11月15日完成ということで七ヶ月ほどでやり遂げたということなので驚きました。

 そこでこの上水の起点となる羽村堰と呼ばれる場所までとりあえず、歩いて、ついでに青梅まで行って見よーというプランです。

 起床六時で、7時に家を出ました。

 多摩湖自転車道もよいのですが、玉川上水沿いの道というのも場所によっては、遊歩道のような感じになっていて木々に囲まれ森林浴気分を味わえる場所もあります。電車の駅で言うと鷹の台とか拝島とかのあたりでしょうか。

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 こういう個人宅を公開してるオープンガーデンもあります。
 なかでうどんとか食べれるみたい。
 この日は生憎まだ開店前。
 次は行ってみたいな~

 拝島近くの上水。下流とかなり趣が異なります。

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 午前11時半頃、JR拝島駅に到着。(20キロくらい)

 拝島駅周辺にも自然が豊かな公園があります。
 そこでランチ、コンビニのり弁当を・・・。


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 13時半頃羽村堰着です。家から出て6時間半ですが、休憩などを省くと歩行時間6時間弱くらいかな。

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 そんな歩いた気がしない。

 玉川兄弟銅像。

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 羽村多摩川の近辺で、チューリップのイベントをやっていました。

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 畑一面にチューリップが咲き乱れ圧巻です。入場料など不要。これすごかった~

 青梅到着15:45 証拠のニャロメ。


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 時間から考えると、歩行距離35キロ~40キロくらいでしょうか。
 40キロの壁を越えたかったんだけど、いまいち不明。
 まーいいか。

 面白かったし^^

 うちに帰ってから疲れがどっと出てこたつに座ってるのもダルクなり、8時ごろに布団を敷いてごろごろしたニャロメ。

 でも翌日筋肉痛などは一切ありませんでした。

 最近10キロ走った翌朝は筋肉痛なったけど、歩くのと走るのでは使う筋肉が違う模様。
 あるいはロングウォーキング慣れしてきたのかも。

 ウォーキングは2011年くらいからよく行ってきました。

 その頃自分の力を取り戻す必要を感じており、気功の本にとりあえず足の筋肉を鍛えることが全身のプラーナの強化につながると書いてあったからです。

 精神的なストレスや感情の滞りも健康状態にもちろん影響すると思いますが、肉体に近いエネルギーの層が分厚く安定していれば、ストレス性の収縮力が体内に侵入してくるのをガードすることができるそうです。基本的に筋肉を動かし、エネルギーを発電することでこのエネルギーの層は分厚くなるのですが、足の筋肉は全身でもっとも大きいためにここを稼動させることがエネルギーの層を分厚くするためにもっとも効率的であるようです。

 悩み事やストレスはメンタルに解決する方法と、別のエネルギーレベルに働きかけることにより解決する方法があります。意味性によって支配されるメンタルな次元から、もっと生命力の根源的なレベルに働きかけることで、とりあえず動物としての生命力を活性化させると意味的な次元はそれがメインではなくなるために、悩みは力を失います。

 大地や動物的な生命力 体で言えば 足 丹田以下 につながる方向性。 

 動くこと 息をすること 飲むこと 食べることなどの根本的活動の気持ちよさがしっかり感じられる状態です。
 
 そしてそのあと、考えても仕方ないものに関してはスルーし、行動が必要なことに関しては行動するということになります。どちらにしてもある程度肉体が活性化してなければ、ストレスにやられやすいという側面はあると思います。

 あと、ウォーキングを長時間するとタバコを吸いたくなくなるという効果があり、喫煙を減らしたいという場合にもよさそうです。おそらく酸素の摂取量が増え、新鮮な空気をたえまなく取り入れているからでしょう。


 1時間から90分くらいはよく歩いていたのですが、今年に入ってから塩沼亮潤阿闍梨の体験が語られた、「大峯千日回峰行」という本を読み、僕の中の何かに火がついたようでした。

 ご存知の方も多いと思いますが、大峯の千日回峰は48キロの山道を毎日15時間かけて歩きます。

 その毎日のスケジュールはすさまじいもので23時半に起床して、午前零時半に出発、歩き続けながら夜明けを迎え午後3時に帰ってくるというものです。それから身の回りの仕事(掃除洗濯)などをして、翌日の準備をし19時に就寝、23時半には起床。数時間寝るとまた出発・・・という繰り返し。これが5月から9月までの期間毎日続きます。

 それが9年間続き1000日の満行となるわけです。

 食事はほとんどおにぎりと水(胃が弱って梅干、お茶類など受け付けないため)だけ。爪がわれ、血尿が出て、行の途中には幻覚を見るといいます。

 全長数メートルのいのししが現れたり、天女が金剛石をくれたりしたそうですが、行も終わりに近づくとそんな体験も消えうせてしまうとか。

 これだけの修行が行われるのは、千日回峰満行後の四無行に耐えられる精神と肉体をつくるためだということです。
 四無行とは、9日間堂にこもり行われる、(寝ない・飲まない・食べない・横にならない)の行。
普通に命が危ない行で、生存確率は半々とも言われているようです。
 行者の心身は生と死のボーダーラインに限りなく近づき、その体からは文字通り死臭が漂うといいます。 
 ちなみに塩沼アジャリのお話しでは、一番つらいのは食べないことでも、寝ないことでもなく、「飲まない」ということらしい。

 こんな激しい行と、のり弁当を食べて、キャンディーをなめながら歩く、僕ちんのウォーキング旅行を比較する気は毛頭ないのですが、この千日回峰の話しが僕の中のプチ修行癖のようなものを刺激したのは確かなようでした。

 
 なぜかあの本が僕の中では、「よし、僕も歩こう」というモチベーションになったのです。

 一日中ずっと歩いてみたいなーと思うようになりました。

 次は12時間~15時間くらいの行程にチャレンジしてみたいです。

 まあトレーニングであると同時に、結構面白いんですよね。ロングウォーク。

 まずお金がかかりません!(←ココ重要) 帰りの電車賃とか食事代くらい。

 そして歩いていると、今まで目に入らなかったものとか、知らなかったことが結構飛び込んでくるんですよね。

 チューリップ畑のイベントとか。オープンガーデンとか。
 
 数十キロという距離を肉体感覚で理解することもできます。

 歩くというのは人にとって根源的な行為なので、自分がそれだけ歩けることを実感することは自分のエネルギーを知り、力の感覚を感じることでもあると思うのです。

 歩き続けるということは体験の連続になります。8時間なら8時間、見知らぬ体験が続きます。まあ、日本の街なのでコンビニがありスーパーがあり似たり寄ったりでもあるのですが、それでもはじめての街はやはり始めての街です。見たことのない風景を見続けるという刺激を脳は受け続けることになります。その刺激が心をリフレッシュさせてくれるという作用があるように思います。

 芭蕉のような旅する俳人や詩人がいるのもそういうことが原因なのかな?とちょっと思いますね。

 先日参加したI師匠の夜の集いで、「M君何かオモロイことない?」と尋ねられ、最近山登ることとか歩くことにはまってますと答えました。


I師匠: 「山登ってんだ?どんな山?」

  灰:「奥多摩のほうの山とか・・・」

  I師匠:「御岳とか、雲取とか・・・」

 灰:「はい、雲取はまだ行ってないけど東京とでは唯一2000メートル越えの山らしいですね」

   歩いたりしてると一番気持ちよくて、今日も赤羽から歩いてきたんですけど・・・

   体を動かして精神的な面を安定させようというのはありますね。」

 I先生:「悪くないよ。あのね、歩くのはね、四国の話ししたのは昨日だっけ?

     八十八箇所のお遍路あるじゃん?あれってお寺に手を合わせて八十八箇所をまわるのがメインじゃないんだよね。歩くのがメインなの。今みたいに車でお寺からお寺に移動するんだったら、あんまり意味がないんだよ。

  お寺からお寺の間に、やっぱりもくもくと歩くじゃん。その黙々と歩いてるときに思考が自分の内面に向いてくる・・・これはマラソンだったり、チャリンコで山走ったりするのでも一緒なんだけど・・・何時間も黙々と自分の内側に向っていくという作業が必要になる。それがスポーツの場合をお遍路の場合では意味が違うじゃない。

 次のお寺からお寺の間で黙々と歩いてるというのはやっぱり、自分の命とか人生とかそういうことを考えるんだよね。その黙々と自分の内側に向かって考えて歩いてることに意味があるんだよ。

 お寺行ってお参りしてるときは意識が外向いてるじゃん?あの仏さん、えらい古そうやなーってこう見てたりだとか、そういう時は全然メディテイティブじゃないんだよね。ところがやっぱ次のお寺に向かって歩き始めたときから10分、20分たつと完全に自分の内側に入っていって、歩いてる記憶がないみたいな(笑)それが大事なんだ。

 灰:「歩きながら考えると違う思考になりますね」

 I師匠「そうそう、マーヤ解きでもなんでもそうなんだけど、内側に向かっていかないとダメだから。だからM君が精神的に不安定だとかいうけど、不安定なのは内側に向いてるからなんだよ。外側にもっと自分を興奮させるようなものがあればね、そっちに気をとられてると、不安定にはならない。

 なんで自分の内側を向くと不安定になるかっていうと、自分の内が確立されてないからね(笑)

 自分の内側が確立されてなくて、内側を向いちゃうと、不安定になるっていうのがあるんだよ。

 だからそれが覚醒するだとか、「わかっちゃう」だったりとかして内面が安定すると、内側に向くことが幸せになってくるっていうことなんだよね。
 
 だから内側を向きつつ安定させるっていう意味で、歩くっていうことはどっちにも属さないの。外に向いてるとも内に向いてるともいえないわけ。外にもある程度気を使いながら、かつ内側も向いてくるから、だから歩くとか巡礼をするとか、歩行瞑想をするとか、っていうことは有効な手段になってくる」

 灰:「あのー大峯山の千日回峰行を読んで奮起させられまして・・・」

 I師匠:「塩ちゃんね。多分あの人の師匠がK寺のGさんだったと思うけど・・・俺はK寺のGさんって言う人と一時とても仲良くしてて、吉野に行ったりとかして電話してさ、院主さん今吉野に来ましたーっていうと、夜になると一升瓶かかえてやってきてさ、飲みましょ、飲みましょつって結局夜明かしで飲んだりとかさ。すごい仲良くしてたの、なんか。」

 でたっ><

 I師匠に自分がいま興味あることとかマイブームを話すと、なんかそのトピックの裏側にすでに控えていましたなんてことがたまにあるけど。ちょっとびっくり。

 それにしても偉いお坊さんとたくさん知り合う縁に恵まれるというのは、多分基本的かつ本質的にI先生がお坊さんだからなんだろうなとちょっと思った。

 I師匠「俺はなんかねー修験宗の偉い人とすっごく仲良くなっちゃう傾向があって、京都のS院てあるじゃん。平安神宮のちょっと上の方。どこだっけあそこ、白川通りと丸田町通りが交わるところだよね。そのS院のMさんと俺と、チベットを旅行したときずっと同室だったの。」

 僕はあまり詳しくないのだが、修験宗はだいたい3つの派があって天台宗系は塩沼さんの金峰山修験宗と、京都S院の修験宗だという。そして真言宗は京都山科の醍醐寺が拠点だという。3つのうちふたつの拠点が京都にあるとは知らなかった。I先生はかつて京都に住んでたことがある。時期的には僕が10代の頃だろうか。

 僕が生まれ育った京都市の岩倉実相院のあたりも仕事で来てたようで、詳しかった。

 しかし

 京都出身やけど、いまだに白川通りとか、丸田町って言われても全然ぴんとこおへんわー
 京都いた頃は、小説とゲームくらいしか興味あらへんかったしなー(せめて京都なまりで)

 また京都に帰ったときにいろいろ歩き回ってみたいと思います。

 師匠の話でもあったけど、歩くことは内側と外側の橋渡しというか、世界とつながる根源的な行為なんだろうなと思いました。

 シンプルですが、セラピー的効果、プラーナ強化効果、メディテーション効果いろいろ複合的に作用します。

 エネルギーのほしい方は是非お試しを♪

 またスピリチュアルな世界でよく言われる、グラウディングやあるいは最近メジャーになってきたアーシングともつながると思いますが、長くなるのでまた日をあらためて書いてみたいと思います。


セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/04/24 12:11

HOW TO LIVE?


  自由の中で、どう生きるか


 joy of not working




 最近読んで面白かった本。

 「働かないってワクワクしない?」は、自由時間をどのように過ごすかについての本です。

 だいぶ前に出版された本ですが、この本のポイントは働いていない時間にこそ人生のエッセンスが存在しているのではないか・・・?と投げかけていることです。仮に失業したり、退職したときにできた膨大な時間をどのように過ごすのがもっとも満足できるかということについて考えています。

 この作者のアーニーさんは、週に数日働きrがつかない月、つまり三月から八月までのアウトドアにもってこいの季節は働かないといううらやましい生活をされているようです。


 僕が最初に膨大な時間に直面したのは、6・3・3の半義務教育を終えて大学に入学したときでした。

 普通僕らは小学生、あるいは3,4歳の幼稚園の頃から生活の枠組みを外側から提供されて育ちます。

 何時から何時は勉強、そして給食やお弁当、昼休み、午後からは体育、部活・・・というような感じで約12年間がたちます。そして時々行われるテストは、どれくらい提供された情報を暗記・応用できるかということを機軸に行われます。

 学校を終え、卒業すると、今度は通常は職場のフレームが待っており、それに基づいて毎日生きていきます。

 大学生活というのは、その合間で比較的自由時間が多い、一種エアポケット的な世界です。
 授業時間もそれほど多くはないので、提供されるフレームが相当ゆるく、個人の裁量に委ねられています。

 いきなりの価値転換をある意味求められるのです。
 しかし、6・3・3の義務教育のあとに、いきなり自由な世界に入っていくということは長年働いた人が急に退職してぼけーっとしてしまうようなリスクも潜んでいます。
 この自由というものに関しての洞察の低さと自主性の欠如が、結局は「適当に遊んですごそう」的な価値観を生み出したりします。
 いきなり骨抜きになっちゃうわけですね。
 学校と、就職の間の長い夏休み的にしか学生生活を捉えていないと、ここには結構なトラップがいくつも潜んでいるように思います。
 「自由」をどう生きるのかというオリエンテーションこそが必要なのかもしれません。

 「働かないって・・・」はそういう自由へのオリエンテーションの教科書になりそうな本です。

 自由に教科書なんていらないっしょ、せっかくノンフレームなんだから好きにすればいいじゃん?とも考えられますが、これは18歳そこそこの人にとってはちょっと酷かもしれません。

 だって僕らは普通、自由をどう生きるか、人生をどう充実させるかという教育ではなく、外側のフレームにいかに自分をはめ込むかという教育しか受けてこないからです。

 「引きこもり」の主な原因のひとつとして、そういった自分力の欠如があるような気がします。

 ノンフレームの時間を充実して過ごすには、ある程度の意志力と自主性、そして自分の深い望みを理解し、それに基づいて生きるということが必要です。
 
 もちろん、時にはだらーっとするのも楽しいですよね。
 好きなときに寝て、起きて、好きなものを食べて、ぼーっとテレビや映画を見て、一日過ごすっていうのも。
 そんな一日があってもいいと思います。
 でも一週間もそんなことをしてるとだらっとするのにも飽きてきます。
 好きなことを自由にすると言われると、往々にして人は、意思を低きに流してダラダラしてしまうという傾向があるようです。そしてこんな毎日むなしいけど、このサイクルから自分で抜け出せないという状態が「引きこもり」的生活の根っこにあります。

 僕は「引きこもり」状態からなんとか意志力を奮い立たせて、本屋さんでバイトを始めた時期がありました。
 2,3ヶ月ほとんど人と話してないような状態も頻繁だったので、最初はかなりレジに立つなんていうことはきつかったのですが、慣れてくるとバイトが与えてくれるフレームの中で過ごすことにより精神的には少し安定しました。そして、新しく入った女子学生に仕事を教えたりすることである種の先輩感すら経験することができたのでした。それは一種の「成功体験」として社会生活に関わる自信にもつながりました。

 こう書くと「ほらねー人はやっぱり仕事をして社会参加をせねばいかんのだよ」という結論になりそうですが、この文章の趣旨はそういうことでもありません、むしろ逆です。

 仕事をして人間的に成長したり、お金を稼いだりということは大事な経験だと思いますが、どうも問題は外側から提供されるフレームのない状態で、僕らが意図も簡単に自分を見失ってしまうということにあるように思うのです。だから多くの人は、仕事がなくなると新たなフレームを求めて就職活動にいそしみますが、これはお金の問題だけではないような気がします。生活の中にフレームがないという不安感がそうさせている部分もあるでしょう。

 ポイントは日本には、外側のフレームに自分をはめ込んだ状態と、だらっとした怠惰な暮らしの間がないことです。
 ウツや自殺率の高さ、就職できなかった学生の自殺などはそれときっと関係があります。

 日本人は社会的圧力にもんのすげー弱いんです。
 DNA的にもそうかも。海外から賞賛される協調性や秩序の負の側面、自我の欠如です。

 就職できなかった、ということは言い換えれば、「就職せずにすんだ」ということですよね。
 価値観を勝手に都合よく書き直せるということが、自分力であり、それは命を守る力なのです。
 何をしていても、生きてる状態が大事だという認識。
 価値観よりも存在を重んじる意識。

 こういうニュースを聞くたびに僕は「就職せずにすんだ」仲間が死んでしまったことへの悲しみを覚えます。
 これは彼らの無知であると同時に、家庭内や社会的圧力の後押しがなければ起こりません。
 ただの認識が、命をここまで左右するのです。
 
 きっと僕が意識だけタイムトラベルをして、昔に戻ったとしても、僕は同じコースを辿って本屋でバイトはしないでしょう。
 懐かしいからちょっとだけその雰囲気を味わってみたいなー
 あの頑固そうな店長の説教を聴いてみたいなーなんて思うかもしれないですが・・・
 今の自分の認識ならば、無理して外に出る必要はないとわかるからです。
 ただ、その頃の自分にとっては外に出て働ける、社会と関われるという自信が必要でした。
 それとどこかに属しているという帰属意識。
 多くの人が帰属意識を、労働の場に求めます。
 この社会で精神的に村八分になる、不適応になるという恐れは意外と単にお金がないということの恐れよりも強いのです。そして、自分としては入りたくない一群に、負けてる感じの一群に分類されてしまうのではないかという恐れですね。

 しかし、この分類の基準自体が外側のフレームであり、自分の命を守るという意識が勝っていれば、それには左右されません。(まー・・お前負けてんなーと言われたら、いい気持ちはしないかもしれないですが)

 このような恐れが、働いていない状態を何かとても陰惨かつ不幸なイメージで彩っているのです。

 でもなら働いている状態がよいイメージで彩られているかというと、そうでもありません。
 よく言うワーキングプアや、ブラック企業など労働にまつわる様々な問題と微妙な景気が職業全般に対するイメージを低下させています。10人に4人が派遣労働ならば、年金や保険料なんて払えません。払うことも出来ますが、そうすると、ほとんど生きるだけになり、将来になかなか希望も持てません。

 夢は正社員!なんていうCMは、個人的にはマジか・・・と思う昨今であります。

 なんで、夢は幸福でいること!にしないのかな。
 夢ってそういう抽象的で、ぼやーっとした感じのほうがよいですよ、きっと。

 多くの人はもしかすると働くのもイヤ、働かないのもイヤ、でも働かないで落ちていくのももっとイヤという意識状態で働いているのかもしれません。これは楽しくありませんよね。

 さてさっきの、 外側のフレームに自分をはめ込んだ状態と、だらっとした怠惰な暮らしの間ですが、

 間、というのは外側からのフレームに依存することなく、100パーセントの自由が与えられても自分の才覚でそこを充実した色で塗ることができる、ということです。そんな才能がある人が、これからの時代幸福に近い場所にいるような気がします。

 僕は幸か不幸か、平均的20代、30代よりもずっと労働時間が少ない生活を送ってきました。
 現在週の労働時間は多くて24時間~28時間くらいでそれを越えると調子がおかしくなります。
 社会保障費までは正直払えません。
 おかげで両親はなかなか安心させてあげられないのですが・・・

 もっとも昔はフルタイム勤務にも何度か挑戦しましたが、どちらも2,3ヶ月でウツ状態がひどくなり離脱しました。
 心療内科にいくとあっさりと坑ウツ薬を処方されましたが、そんなものを飲んで働き続けたくないので、辞めちゃいました。

 お金や生活の安定、帰属意識を求め外側のフレームに自分をはめようとすると、調子が悪くなる。
 そしてまた自分の部屋に振り戻される、ということを繰り返しました。
 そのうち、このノーフレームの空間にこそ何かすべきことがあるのではないか、ここでこそ意識を研ぎ澄ませられるのでは
ないかという結論にいたり、また社会と適度に関わるペースもつかめてきたわけです。
 
 どうも会社というものと相性が合わないようで、会社に毎朝でかける仕事は続かない(もって一年)のですが、お宅に伺うという今の仕事は5年以上続いております。そういうケースもあるわけです。自宅でできる仕事が一番向いてる人もいます。
 だから会社や役所に就職できないからって死んじゃダメ。探せばいいんです。生きる道、生きられる道を。

 まあそんなわけで、自由な時間に何をするか、どういうフレームを自分で作るか、なにをしてると自分は幸福なのかというテーマとはずっと取り組み続けてきました。

 その過程で気がつくと一日3時間くらい対戦型テトリスをしていた日々もありました。
 どうせもうすぐこの文明は崩壊するとか思って、その考えに振り回されていたのですが、それすらも外側からのフレームだったのです。そんな毎日の中で、何が不毛で何が充実か、という感覚がややわかってきました。

 また9・11や3・11のようなことが起これば、恐れに基づいた外側のフレームが優勢になるということも理解できました。
 幼稚園の子どもが何度も地震がまた起こると予言しましたが、ひとつも現実にはなりませんでした。

 だから生きる中で経験することは、何も無駄ではないのでしょう。

 仮にまもなく大災害が起こって死んでしまうとしても、それまではかけがえのない今を幸福に、平和に生きてる実感を味わったほうがよいのです。

 この投稿では、外側からのフレームなしにいかに生きるか、ということについて考えてきたことを少しシェアできればなと思います。


 大切ないくつかのこと



 ①自己理解と受容

 自分の個性、強み、弱み、生まれてきた目的、ミッションなどについて深く気付き、自分マニュアルを作成することです。
 そしてその個性を受け入れ、慈しみます。

 ②ビジョンマップ

 心を喜ばせること、楽しませることについての地図を作成して生きる指針にします。

 ③スピリチュアル&アウェアネス

 人生を振り返り、導きを受けてはいないか調べることを習慣にします。
 自分の人生やシンクロニシティの流れを注意深く観察して、信頼する。
 何を食べるか、どのような本を読むかなどに関して、自分がどう「感じて」いるかという感覚を研ぎ澄ませます。

 ④ダウンシフトする

 あわただしい生活ではなくスローなリズムの省エネ型生活へ切り替えます。
 お金をかせぐことよりも、自由時間を大切にします。

 最後の長期休暇が大学生四回生の夏、その次は60歳の夏だよ!ってなんかおかしくないですかね。

 春と夏は働かないというアーニー・ゼリンスキーさん並みが当然とは言いません。

 でも 

 人生に少なくとも何度か、一月程度休めることがあってもいいんじゃないでしょうか。
 それすらも非常識とされる社会はやはりどこか問題があると思わざるを得ません。

 もしも、体やメンタルな不調があまりにもつらい時は、薬などでごまかしごまかし働くのではなく、休職・退職という選択を優先します。
 経済状況、扶養家族の有無などで一概には言えないことではありますが、収入や世間体よりも、自分の命、健康を守るということを一番に考えます。

 健康を犠牲にしてお父さんは僕を育ててくれたって知るとき、子ども達は本当にうれしいんでしょうか。。。
 自分の命を守ることは、家族のために働くことよりも、本当に男の面子が立たないことなのでしょうか。。。。。

 「お父さんは好きなことをして、僕をなんとか育ててくれた。豊かじゃなかったけど、毎日パパは楽しそうにしていた。」

 思い出としてどっちがいいでしょうか?

 ⑤フレームを相対化する

 すべて外側のフレームは人間がつくったもので、時と場所が異なれば意味をうしないます。
 現代と日本の価値観は一時忘れます。
 アウターフレームの洗脳装置であるテレビを捨てるのもよいでしょう。
 遥か未来人や宇宙人になって自分を見て見ましょう。
 あるいは、イヌイットの長老や、インドの隠者や、オーストラリアのアボリジニなら自分にどう言うかを考えて見ましょう。
 先になくなった知人や親族は自分を見てどう言うでしょう?

 どんなアドバイスが、声が、時を越えた場所から聞こえてくるでしょうか?
 
 その中で、浮かんでくる愛のある答えだけを真実として取り入れます。
 実際それは真実なのです。
 どうしてイメージの中の言葉が、現実の人間の言葉よりも説得力がないと言えるでしょうか。

 また逆に、昭和20年終戦直前、戦争に行きたくなくてどこかに失踪しようかと考えてる若者がいて自分を責めているとすれば、あなたはなんと声をかけるでしょうか?イメージしてみましょう。

 戦争に行け!そして国のために死ね!そう言う人はほぼゼロでしょう。

 いいんだよ、逃げても。

 君の感覚は当然だよって多分言うでしょう。

 でも若い兵隊に優しい僕らが、この現実ではいろんな人を、そして自分を現代のフレームでジャッジしてしまいがちです。

 いつの時代でも、その時代の「当たり前」が命を殺すのです。

 内的なフレームによって生きてる人たちのブログや、本をたくさん読みます。

 あるいは海外を実際に旅して、異なったアウターフレームに触れてみます。

 例えばインドでは、男性同士が仲良く手をつないで歩いていますが、これは別にゲイのひとたちじゃありません。一種の友愛の表現としてこういうスキンシップがあります。

 日本で男同士がお手つないで歩いてたらおかしいですが、これってどちらが正しいという問題じゃありませんね。

 こういうアウターフレームの違いを肌身で感じることが自由でいられる秘訣のひとつだと感じています。

 アウターフレームは異なるという認識→より深いインナーフレームの確立

 海外ではなくても、国内でも可能ですね。



 ⑥何かになろうとするのではなく、自然に自分らしく生きること




 このようなことがポイントとなってくるように思われます。


セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/03/13 13:37

マイクロスリープ・メディテーション



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  誰でも仕事中などに一瞬ウトウトして、ハッと目を覚ますとすごく頭がすっきりしていたという経験があると思います。

  こういう束の間の睡眠は「マイクロスリープ」と呼ばれているらしいです。

  普通人間は数日間睡眠を断たれると、意識に障害が出始め、怒りっぽくなったり何かに集中するのが困難になります。
 
  でも稀に何日間もの断眠実験に挑戦して、成功する人がいます。
  ネットでさくっと検索してまず出てくるのは、264時間、11日間の断眠に成功したランディ・ガードナー少年の記録です。
  このような長期の不眠に成功する人は、マイクロスリープをうまく利用しているのでは?という説があります。

  ギネスなどの記録の場合、もちろん立会人はいるでしょうし、横になって眠ることは不可能です。

  でもマイクロスリープは数秒~十数秒単位でも起こり、多分追い詰められると立ったままでも起こります。
  ということは厳密に外から見て、その人が寝てるか寝てないかを判定するのはすごく難しいですよね。
  脳波で計測することは出来るかもしれないけど、瞑想の熟練者の中には目覚めたままでシータ波やデルタ派の領域に入る人もいるでしょう。

  一見外から見てわからないほどの睡眠でも、集中力を回復し、気分を安定させるパワーがあるからこそ、マイクロスリープだけで何日間も過ごせるのだと思います。

 だからどうも気分が落ち着かない、もやっとする場合には気を紛らわせようといろいろするよりも目を閉じて静かにしてるほうがいい場合があります。すると必要ならマイクロスリープが起こり、瞬時に意識がリセットされます。

 僕もずいぶんマイクロスリープ(早く言うと居眠り)の恩恵にあずかっています。

 このような充電間はいったいどこからくるのか、脳科学的にはいろいろ説明があるのでしょうがスピリチュアル的にあるいは意識学的にいうとどういう現象なのかということに興味があります。

 というのはそれが起こるときには、ある種別の世界の力により助けられてるような感覚を伴うからです。
 うーん、言い換えると別の世界に一瞬行くことにより・・・とも言えるでしょうか。
 多分実際、行ってると思うんですけどね。

 小規模なゲシュタルト崩壊、シャーマニックな意識の転換のようなものがあのリフレッシュ感の正体では?と思うのです。

 僕はよくマイクロスリープに陥る瞬間を観察します。
 マイクロスリープ・メディテーションです。

 するとまず、意識がボーっとしてきて、ゼロの状態と僕が呼んでる状態になってきます。
 さっきまで気にかかってたこととか引っかかってたことが徐々にどうでもよくなり、手放されてる感じ。
 続いてさらに深まると見当識が喪失されます。
 まだ合理的な思考は目覚めているので、部屋にいるというのはわかってはいるのですがそのリアリティが薄れてゆき、自分の肉体やアイデンティティーも遠ざかり、<誰でもない感>を味わいます。

 次に、まったく状況設定の異なる現実に意識が引き込まれるのがわかります。
 通常<夢>と呼ばれるものですね。
 これは現実とまったく異なるストーリーとロジックを持っているのですが、眠りのある瞬間において意識がそちらの現実に置き換わってしまうポイントがあります。
 ここで観察をやめるとそのまま<夢>の論理に飲み込まれていくのですが、さらにしつこく観察を続けると僕の場合は、夢のロジックと現実のロジックを何度もいったりきたりします。人によっては覚醒夢に移行できる人もいるかもしれませんが、僕の場合はあまりそれは起こりません。

 でも、現実から見て非現実があっというまに現実になっていくということが面白いのです。
 シャーマンはこれを意識的におこなうことができます。(目覚めたまま、別の現実に入っていく)
 誰でもこれを、現実を非現実化するという作業を毎晩繰り返しています。

 面白いですよね~~

 僕から見れば、夢の原因とか分析よりも、この現実がゆらぐという現象こそが夢の神秘だと思います。

 胡蝶の夢・・・うつしよは夢、夜の夢こそまこと という発想も出て当然。

 このようなゼロの状態になることと、まったく別の世界に入ることが、あのリフレッシュ感の正体なのでは?と思います。
 真我のほうから瞬間的にエネルギーが流れ込むのかもしれません。

 人が眠る理由をエネルギー補給と考えると、眠らないマスターがいるのは、彼らは覚醒状態でそのエネルギーを常に補給できるからなのでしょう。

 このときに必要な情報も流れ込むことがあります。

 やはり眠りは脳科学だけでは解明できない謎があります。
 パラレルな現実というものを設定しない限り謎が解けないのは<死>おなじで、眠りと死はかなりイコールではないでしょうか。シータ波やデルタ派という脳波は、脳波のフラット、つまり死に近い脳波であり、この物理的次元の拘束からかなり解放された脳波です。そのため、<死>による知覚の拡大に近いものがある。

 夢になくなった方が登場するのは、それが彼らのいる帯域と共通した脳波だからでしょう。

 つまり僕らは毎晩、死んでるわけです(もしかすると毎瞬、かもしれません)

 インドの聖者ラマナ・マハリシは「お前さんは毎晩寝ているのに、どうして死ぬのを怖がってるんだい?」と言っています。
 
 不眠はある意味で、心配事などによる神経系の覚醒が原因で、覚醒時のフォーカスポイントがバラバラになるのを許容できないという状態です。問題が大きく、そしてリアルなので、その問題から意識をそらすことができなくなります。

 しかし実は、このゲシュタルト崩壊状態を許容し、別の現実に移行することを許せば、そこに答えや状況を耐えやすくするエネルギーがあるのです。

 通常は、ひとつの現実しか見えていない、というのが僕らの苦痛の原因のひとつではないでしょうか。

 これが問題解決よりも、しばしば単にリラクゼーションすることが有効な所以でしょう。
 瞑想はこれを意識的に起こそうとします。
 完全に眠りに陥ることなく睡眠時のシータ派やデルタ派の多い状態になることが、瞑想の結果起こります。

 でもそれは実は特殊な脳波ではなく、誰でも体験していることなのです。
 
 うたたねを意識的に行うとそれがわかります。

 オススメ♪

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セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/03/01 11:14

季節性情動障害とサンゲイジング



 毎年、秋はプチウツな日々が多く、からだも低調になることが多いです。

 僕の場合は10月終わり~12月中旬くらいの一月半くらいが特に落込む傾向がありました。

 気分的にだけではなく、風邪もかなり引きやすくなったりしました。

 これはどうも季節性情動障害(冬季うつ ウィンターブルーとも)という症状のようで、結構経験する人は多いようです。

 季節性情動障害とは?

 「日中に太陽光を浴びるとセロトニンという物質が作られる。セロトニンは、脳から分泌される睡眠ホルモンであるメラトニンの原料となる。太陽の光が少ない冬の期間はセロトニン減少が起きメラトニンが十分に生成されない。メラトニンには、季節のリズム、睡眠・覚醒リズム、ホルモン分泌のリズムといった 概日リズム(サーカディアンリズム)を調整する作用があるのだが、これが不足することで体調をきたすというわけだ。
 
 イギリス国民の20%がこの病にかかるという。また、10%のフィンランド人が季節性情動障害を患っているが、フロリダ州ではたった1.4%しかいない。これは、気候環境と季節性情動障害が密接に関連していることの証明である。

 1980年まで季節障害は正式な病気として扱われていなかった。「寒さが苦手な人が泣き言を言っているだけ」と言う解釈が主流だった。

 季節性情動障害に一番多い年齢層は18歳から30歳までで、女性は男性よりも3倍多い。また、寝つきが悪い人に多いと言われている。特に症状がひどくなるのが12月~2月にかけてである。一般的には3月末になればほとんど良くなるのだが、人によっては5月にずれこむ場合もある。


 一般に気分の落ち込み 過眠(寝ても寝ても眠い) 過食 などの症状があり、原因は基本的には秋から冬にかけて日照時間が減ることによるセロトニンレベルの低下にあるようです。

 だから、こういう時はその気分に振り回された状態で、重要な決断などはしないほうがよいですね。
 
 毎年秋が来るとやや戦々兢々としてたのですが、去年はいつもよりもかなり好調に過ごすことができました。

 多分、早起きして朝日を浴びに行く習慣があったので、不足しがちな太陽エネルギーをそれで補えていたのだと思います。

 ネイティブアメリカンのシャーマン、ローリングサンダーの本で朝日は一日でもっともメディスンパワー(治癒的エネルギー)が強いというのを読んだのがきっかけでした。

 

 冬季ウツの対処には他にも、セロトニンをつくるトリプトファンやビタミンB6を含む食事を多く取ったり、サプリで補ったり、運動や投薬などいろいろ手段があるようですが、根本的原因が光不足なわけなので、やはり光で補うというのが本質的な解決のような気もします。

 サンゲイジングもよいのではないかと思いました。

 
 サンゲイジングを長期間行った人は、睡眠時間が減ってエネルギッシュに活動できる時間が増えるという現象がおこるようですが、これは、秋ウツによる倦怠感、過眠などとは真逆の状態です。(不食や小食によっても睡眠時間が減るという話しがある)

 僕は去年サンゲイジングをやってたわけではないのですが、太陽に祈ったり、手をかざしたりしてる間、目からかなりの光が入り、自然的にサンゲイジングをやってたのかもしれないと思いました。

 その結果例年より好調だったのか?
 
 あと休みの日は数時間野外で本を読んだり、音楽を聞きながら日を浴びてごろごろするのも効きます。

 サンゲイジングはもちろん、無茶なやり方をすると目を悪くするリスクもあるので注意が必要ですが、日の出・日没の一時間以内の太陽光線は肉眼で見つめても問題のないものになっているとサンゲイジングの専門家で、NASAの監督下で130日間の不食をやりとげたヒラ・ラタン・マネク氏は考えているようです。

でも秋ウツの改善には必ずしも太陽を凝視する必要はありません、
 お困りの方は、是非朝日を浴びにいってみてください♪



セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/11/13 19:16

直観と<境界線>


  
  タロットカードの中で内なる直観を表すのは、2番の「女教皇」だとされています。

 jyokyoukou.jpg

 根源から、あるいは内なる自己からの宣託を告げる彼女は、すべての人の中に存在しています。

 僕が思うに、自分は霊感もないし、まるっきりそういう能力はないという思い込みの強い人も、虫の知らせ的なシグナルによって行動を左右されているのです。

 もともと人間の心臓には未来をある程度事前に察する能力があるようです。

 これは科学的な環境で設定された実験ですが、ランダムにいろいろな画像が現れるモニターの前に被験者を座らせて心臓の活動を観察すると、爬虫類の攻撃や災害の画像などが表示される数秒前に心臓の波形に乱れが起こるのです。

 以下の動画に実験の撮影があります。(英語です)56分頃~

 


 次に何の画像が現れるかは被験者はもちろん、実験の監督者も知らないので、この場合、被験者の心臓のみがもっとも未来に通じていたということになるのではないでしょうか。

 「女教皇」はもしかすると、僕らのハートのあたりにいるのかもしれませんね。
 そこには頭脳とは別の、知性と情報のセンターがあるのです。

 だから、これらは人が思うほど特殊な能力ではありません。

 ただ内なる指針とでも呼べるような感覚です。

 僕の場合は、直観的に、この本を読むべきだということがわかったり、本の装丁や著者の名前によってそのエネルギーが感じられるということはよくあります。なぜかわからないですが、好きな本は著者の名前の響き自体がとても魅力的にひきつけてくるのです。そして本自体が生き物のように、愛らしさを放っています。間違って踏んでしまうと、生き物をふんずけたように「あ、ごめん」と謝りそうになります。

 これとは逆に、手に取るのもちょっと躊躇する、部屋に置いておきたくないという本もやはりたくさんあります。

 それは腐った食べ物や枯れた植物を部屋において置きたくないという感じと似ています。

 こんな風に直観は、おそらく誰もが知らないうちに使っている明確に定義されていない、五感以外の感覚ではないかと思うのです。そして、人によって直観の働きやすい分野、そうでない分野があるんじゃないでしょうか。

 そして自分の人生の生き方に関わる局面でもやはり直観は僕らにささやきかけてきます。

 ある意味でいうと、本当に自分らしく生きるには直観的に生きるしかないわけです。
 
 というのは、自分が何を仕事とするか、趣味とするか、喜びとするか、どういうライフスタイルを送るか、何を食べるか、などということに関して、内なる指針に従わねば、外なる指針に流されるしかないからです。
 
 外なる指針ののわかりやすい例が、メディアによって意図的に起こされる流行や、ブーム、カリスマ占い師のアドバイス、生まれ育った家族の価値意識、あるいはその時代全体を支配する集合的な価値意識などです。

 多勢を支配する外なる指針と、自分のスピリットの出す指針の食い違いが少なければいいのかもしれませんが、内なる指針と外なる指針のギャップが大きいほど人はその葛藤を封じ込めるか、「少し浮いた人」として生きる勇気を持つかという選択に迫られる場合もあると思います。

 でも実際は自分に正直であればあるほど、周りにも貢献できるのです。
 自分に不正直であればそれだけ、自分のギフトを内側に封印してしまい、その抑圧されたギフトの創造的エネルギーが逆に心身を攻撃します。

 自分の直観に正直であることは、一人でいれば、割と簡単に思えますが、誰か別の人がからむと少し複雑になってきます。

 「境界線」をひくことと、「直観」の関係もそのひとつです。

 よくセラピーの分野では健全な境界線を引くことの大切さが語られます。

 境界線は、僕と、あなたの間にある、個としての分水嶺です。

 境界線を引くとは簡単にいうならば、それぞれが独自の価値観を持っているということを認め、必要以上にそこに干渉しないということ、また人のプライベートな空間やエネルギーを尊重し、そこに入り込み過ぎないこと、そして自分自身についても人から侵犯されることを黙認しないこと、などです。

 境界線がぐちゃぐちゃになるということは、家族やカップルの間でよく起こります。
 当然といえば当然ですが、密な関係ほどどこまでが自分でどこからが他人なのかわからなくなります。

 それは「一体感」、よいことのようにも思われがちですが、健全な境界線のない関係は決してよいものではありません。
 
 それは「愛」ではありません。

 極端な例がユニティの名の下に、みな同じ服を着て、同じような笑い方をする宗教集団のような形態です。
 ないことにされた境界線は、しばしば、組織の外部を敵対的なものとして設定することにより外在化されますが、これが良く起こるカルト内での社会へのパラノイアなのです。

 また国が混沌とするときに起こる、ナショナリズムなのです。

 これが家庭内で起こると、いつも何かのトラブルに全体が振り回されていたり、どこまでが自分の感情でどこまでが人の感情かはっきりしないような纏綿型家族ができあがります。

 この中で人は暗黙に問題意識や信念体系を共有しますが、それが自分のものだと思い込んでいます。

 このような家庭内では常に人の境界線を越えてしまうのが常習となっている人がおり、またテリトリーに踏み込まれ心に干渉されることが常習となっている人がいます。同属としての意識と慣れが<個>の存在のユニークさを、無視してしまうのです。

 直観と、境界線の関係はいくつかの簡単な例で説明できます。

 まず直観は自分のスピリットから、あるいは<根源>から来るものなので、境界線が脆弱であまりにも外側の信念やエネルギー、情報に振り回されていると、それに気付くことができません。
 直観を受け取るには、女教皇が座っているような静寂の空間が必要なのです。

 また直観を感じていても、それを人に表現できるだけの強さがなければ、関係性の中でそれは埋もれてしまいます。

 例えば、僕は一人の時間がある程度ないとかなり疲弊するタイプなので、疲れているときにパートナーとも話すことが難しいことがあります。
 でもそれを押して会話を続けることがよくあったのですが、そうするとそれがストレスになり、イライラし始め、相手にもそれが伝わり、雰囲気がピリピリするということを何回か経験しました。

 今は、ひとりでいたい時は画用紙で作った「一人にしてね」プレートをドアにかけたり、いろいろ工夫してややスムーズになりました。そして僕も、相手が疲れているときは一人の空間をなるべく尊重するようにしています。

 これは境界線は維持したいけど、嫌われたくないというようなジレンマが起こるポイントでもありますが、基本的には「無理をしない」ということが長い目で見るといい結果を生むようです。

 また例えば、友人からどこへ遊びに行こうと誘いがあった場合も、気乗りがしなければ、失礼がないように断ったほうがいいんだと思います。
 いやいや、付き合うよりも例えば、僕がそこで断ることにより、彼にはまた別の可能性が生まれるからです。
 友達を大事にするとは、ある意味では「友達とは、今日は遊ばない」ということにもなりうるわけですね。(また別の日に会う約束をしてもいい)

 ところが相手の反応が気になる人は、ここで自分の感覚にふたをして、出かけていって、楽しくない思いをしがちです。
 自分の感覚よりも、表面的な承認を得ることを優先してしまうんですね。

 相手の話にあわせすぎて、いつも聞き役になってしまうという人は、会話の中で自分の感覚を表現する練習をするといいかもしれません。これは僕もよく意識することです。

 介護の仕事などで、最初は自分の感覚を殺すということを意識し、相手の話を聴くこと、あわせることだけをしていましたが、「自分を殺す」というのはどんなときでもそれほどよろしくないことだと気付きました。

 なぜなら自分を殺すことは、遠回りに「相手を殺す」ということでもあるからです。

 自分の境界線を侵された違和感や怒りを押し殺し続けることは、相手にも付けとなって回ってくる場合があります。
 人のフィールドに干渉するという傾向を当然のものとして受け入れることで、それを常習化させてしまうからです。

 それを回避するには多くの場合、「ちょっと疲れてきた」「休ませてください」「少し一人にして」などというだけで十分です。

 どんな時でも「自分を生かす」ほうがいいのです。

 それはどんな時も自己主張をしまくることとはちょっと違います。
 
 相手のエネルギーに巻き込まれすぎないこと。

 どんな時も、自分のリズムとともにいること、呼吸とともにあること、自分の愛と共にあることで、それが人とのかかわりの中にあるときでも僕らが直観を受け取れるスペースを確保してくれるように思います。

 社会や他者から孤立することなく、女教皇の座るような静寂のスペースとともいられることが理想ですね。



セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/04 13:02

大いなるものとつながる


  前々回は「自分とつながる」ことについて書いてみましたが、今回はもうひとつの重要事項「大いなるものとつながる」ことについて書いてみます。

 神、宇宙、愛や叡智、高次の自己

 なんと呼んでもいいのですが、古来より人は人の知の及ばない実在を直観的に感知して来ました。

 太陽や月、星のめぐり、生命系の複雑さと秩序、それらにはある種の「知性」が内在しているとしか思えなかったからです。自然科学が還元主義的な手法により、すべての生命現象を偶然や自然淘汰で説明しようと試みても、やはり自分に正直に人生や宇宙を見ればそこにはある秩序や知性が息づいていることに気付かざるを得ないと思います。

 僕が思うには、すべての存在はその「大いなるもの」のエネルギーにより生かされているので、ある意味ではすべての存在は「大いなるもの」とすでにひとつにつながっていることは確かです。

 でも、重要なことはそれが僕らにとっての「知」に、より確かな認識となり、リアリティとなるということなのです。 
 「大いなるもの」により生かされているということと、それを知っていることとの間にはやはり違いがあるのです。

 なぜなら「大いなるもの」と個々の認識を通じてつながることが、個々の心の救いや、エネルギー、愛、知恵を受け取るパイプラインを築くことになるからです。

 先週師匠の夜の集いに参加したとき、「つながることとわかること(覚醒することの違いはなんですか?」という質問が参加者の方からありましたが、師匠の答えでは、

つながることは大前提、でもものすごくつながっていても、わからないということはある。わかるかわからないかはその人の人生のミッションにも関係がある。つながることは今日明日にでもできるんだよ。つながることによって個々の資質に応じた能力が開花する」というものでした。

 「大いなるもの」につながる方法はたくさんあると思います。
 多くの人が行う神社や仏閣パワースポットへの訪問も、おそらく真摯な気持ちで行えば僕らとそれをつなぐでしょう。
 他にも他者に奉仕するということを、大いなるものへ奉仕する意識で行えば、それもやはり僕らとそれをつなぐでしょう。

 またことさらに神や宇宙という言葉を意識しなくても、「大いなるものの」性質である純粋な愛や正義、創造性などの意識で生きている人はおそらくこのつながりの中でエネルギーを送られています。

 でも基本的には「自分とつながる」と同じように、「意識する」から始まり、理解し、受け入れ、愛するというプロセスを辿ることになると思うのです。その過程のどこかで、あちら側のエネルギーとつながる感覚が自ずから体得されていきます。

 古来からの伝統的な道では、この「大いなるもの」とのつながりを最優先課題とし、自己や日常的、物質的豊かさを捨て去るという方向性が選ばれてきました。

 でも、現代人のスピリチュアリティは、多くの場合その方法とはフィットしません。
 おそらく大きな流れとして、精神性と物質性の統合、大いなるものと自我の共存、というテーマがあるのかもしれません。現代はヒマラヤの奥にこもる覚者がいると同時に、市井の覚者が大勢求められているのです。

 求めて覚者にはなれなくても、「つながってる人」には求めればなれると思います。

 人類のスピリチュアリティの推移を別の例で見てみると、かつては自己犠牲、自分を殺し、他を生かすという行為が美徳でした。現在でもやはりそれは人の胸を打つし、英雄的行為としてみなされます。

 しかし、それを「最高なこと」ではなく、集合的なスピリチュアリティは「他を生かし、自分も生かす」という方向へと推移しているのです。ということは自分を殺し、他を生かすという方向性がこれ以上、必要以上に美化されることは、全体の成長にとって好ましくないからかもしれません。

 なのでこれと同じように多くの人にとって最初から「自分のことなんでどうでもいい、この世界には苦しんでる人がたくさんいる、自分なんか捨てて頑張ろう」という方向性はバランスのとれた道にはならないでしょう。そのように決断しても、何か満たされない心の埋め合わせとなっている可能性が大きいからです。

 だから「自分とつながること」「大いなるものとつながること」このふたつをバランスの取れた形で行っていくことが現代にフィットしたあり方だと思います。

 もちろんその割合は人によって5:5でも、3:7でも、9:1でもかまわないのですが、個人的には「大いなるもの」のためのスペースを心のどこかに少しでも持っていることをオススメしたいです。

 覚醒した存在は大いなるもの10という意識で存在しており、それは大いなるものの他には何もない(あるいはそのほかはイリュージョン)という認識であり、それに基づいた生き方です。

 そこに至っていない僕らがまずそれとつながるためにはまず「意識する」 ことばでもイメージでも

 自分の知性やリアリティを遥かに超えた巨大な存在、秩序を思うことから始まります。

 ポイントはそれが僕らから遠くはなれたものではなく、僕らの人生や生命自体がそれに組み込まれているということでしょう。そしてこの巨大な秩序、生命の織物、宇宙の計画のなかで僕らは人生の役割や存在の意味を与えられていますが、はっきりとはそれを知ってはいないことがほとんどです。

 そのことにより、大いなるものに委ねる、という方向性が生まれます。

 もしも仮に人生が自我の色付けしたあらゆる視点から見て、行き詰っているように見えても、それは本当の行き詰まりではなくある宇宙的プロセスの一部であることは確かです。

 なので自分の「見方」を手放して、その宇宙的プロセスに意識をあわせたときに始めて現れてくる現実があるのです。
 それが神と共に生きる(つながって生きる)というリアリティです。

 僕は決して「大いなるもの」への真摯な探求者とは言えないと思います。
 
 気がついたら「大いなるものに」 バーカバーカと言ってたりします(ごめんなさい)

 それでも学んだことは多くあり、その中でも大事なことのひとつは、不幸や苦しみは外的な状況により起こるというよりも根本的にはその人間の認識に「大いなるもの」がないことにより起こるということです。

 その人の認識に神が出現した途端、状況に関わりなく人は救われるのです。

 そして完全にそのエネルギーと一体化していれば、ホームレス状態でもきっと笑いが止まらないであろうことは確信しています。

 そのような状態への一歩は、「大いなるもの」を思うことから始まります。
 それは小さな一歩だけど、それ以降の歩みと祝福をすべて含んだ一歩です。

 苦しいとき、それに意識を向けて、この出来事の意味は何か、どこへ私を導かれるのですか?と問いかけます。

 答えはあるかもしれないし、ないかもしれない。

 でもきっとそのことによりあなたの心には神と言うスペースが出現するでしょう。

 祈りの意味は、答えが返ってきたり、願いがかなうこと以前に、祈れるということ、それを意識できるということ、その福音にあるからです。



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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/12 10:23

僕らを見つめるまなざし

               「あなたが求めているのは あなたを見ているものである」BY・・・・誰だっけ?



 僕らはいつも他者からの注意と関心、そして承認を求めています。

 と、同時に十分なそれらが自分には与えられていないと思ったり、自分はそれらに値しない、ということを恐れていたりもするのではないでしょうか。

 誰しもが成長する過程で、多くの人が嫌われたり、仲間はずれにされたり、影でののしられたり、社会全体から裁かれるのを目にします。
 そして自分はそんな事にはなりたくない。でもひとつ間違うと、自分も見捨てられ、相手にされなくなるだろうという恐れをも刷り込まれました。
 
 そして時には、大勢の中でスケープゴートを見つけ、陰口や批判をしているときに、「うん、自分は確かに【こちら側】にいる大丈夫だ」という安心感を感じたりするかもしれません。

 と、同時に心のどこかではその安心感が砂上の楼閣のようなものであることも知っています。

 敵や異端者、悪いやつ、ムカつくやつ、ダメなやつを設定して連帯感や安心感、承認感を得ることは結局はそれが無条件の連帯感や承認感でないために、潜在的にはよりいっそう愛されないという恐れをも強化するのです。

 それはこちら側(OKな側、愛される側)とあちら側(NGな側、愛されない側)を設定してしまったがために、生まれる居心地の悪さです。

 誰からも興味と関心を払われなくなることを僕らは恐れます。
 
 そのためにその恐れが大きければ大きいほどに、よりいっそうスケープゴートを探してこちらとあちらを設定したり、他者からどうにかして興味と関心を勝ち得ようとするコントロールドラマに巻き込まれていくのです。

 それほどまでに愛を求める衝動は強烈で、それが満たされないときの恐れも大きいといえるでしょう。

 確か中島みゆきの歌の歌詞に「愛の重さを疑いながら 愛にすべてをさらわれてゆく」というのがありますが(土用波)、これは「愛なんてない」を思って生きても、結局は愛されない恐れに基づいた現実を生きてしまうという、愛に表側からも裏側からも支配されている人のあり方を歌っているのだと僕は解釈していました。(よく考えたら作詞者の意図とは違うかもですが)
 
 結局は問題は愛は人からのみ、それも他者からのみ生じるという集合的な思い込みにあるようにも思えます。

 もしそうならば愛は限られており、結局はカップルや友人関係からあぶれるものが出て、人間関係は限りある愛という「資源」を勝ち得るための過酷な競争になるのです。

 多くの人が両親とのトラウマを生涯抱え続けるのは、子供にとっての絶対者である親の言動はその次元を超えた愛をもってしなければ修復が難しいからだと思います。子供にとってのメンタルなセーフティネットは、社会全体が、君は両親から愛されている、と同時に愛からも愛されている、という認識をもつことではなないかと思うのです。

 その愛は人から発すると同時に、空気中に常に遍満しているようなものです。
 あたかも空気中に、僕らへの関心と興味と、そして愛情が常に充満し、それを僕らが気付かないだけとしたらどうでしょうか?

 もし僕らが、それに気付くことができれば、恐れなく生き、注意と関心を惹くために人をコントロールする必要もないことに気付けるのでしょう。

 僕らはどうしても、愛を言葉や、贈り物や、優しげな行いや、肌のふれあいとして考えます。

 ということは、もしも日常に優しい言葉をかけてくれたり、プレゼントをくれる人がいなかったり、肩に手を置いたり、頭をなでたり、キスをしてくれる人がいなければ・・・そこには愛はないということになってしまいます。

 そして、愛がもらえない私は、価値がないという認識にまで時には至ります。

 でも本当にそうなのでしょうか?

 先日講演会に参加させてもらった、臨死体験後に末期の癌が全快したアニタ・ムアジャーニさん。
 アニータさんは、臨死体験中無条件の愛しか存在しない次元にいた話しを聞かせてくれました。
 その愛が、病を治療させた原因であるとアニータさんは考えているようです。

 直観医療者のクリステル・ナニさんも人は死後無条件の愛の空間に赴くということを著書の中で語っています。

 近年(2012年)全米を中心に注目された脳神経医エベン・アレグザンダー氏の著書「プルーフ・オブ・ヘブン」にもやはり無条件の愛の次元、創造主の次元のことが描かれていますが、この人も大腸菌性の髄膜炎というかなり珍しい病気から危篤状態に陥り、臨死体験を経て奇蹟的な回復を遂げた方のようです。

 その次元では僕らは何をしていても、していなくても、無条件に愛されて存在し、また僕ら自身がその愛のネットワークの一部となりその中で、すべてを愛しているようなのです。

 おそらくは愛は宇宙自体の根源的な構成要素であり、人間の中に気まぐれに現れたり消えたりする、一感情などではないのです。 

 いつの日か愛が、光や重力や原子のように宇宙的な力であることが広く認識される日が来るかもしれません。

 それまでは、愛はヴェールの向こう側でその正体を隠しながら、僕らを操り続けるでしょう。
 
 もしそんな時代が来るまでにまだ時があるとすれば、あたかもすべてが自分を愛しているかのように、空気中に愛が満ちてるかのように日々想像力をもって生きてみるのはどうでしょうか。

 無条件の愛が誰にとってもリアルな時代にいる、というシミュレーション、ごっこ遊びです。

 大きな存在が、あるいは天使が、僕らにいつも語りかけている。

 例えばこんな風に

 「あなたがひとりで元気がないと感じるときに、私達と話していると考えてください。実際、私達はいつもあなたとひとつであり、あなたに話しかけているのです。

 私達に一定の形はありませんが、あなたが愛する形として想ってくださって結構です。
 エンジェルとして、妖精として、マスターとして、好きなアイドルとして・・・なんでもかまいません。
 あなたが愛を感じるということが重要だからです。

 そしてあなたには、絶えることのない注意と関心が注がれています。

 あなたが自分のことをどうでもいいと思ったり、絶望するときでも、あなたは私たちによって、いつも見つめられ、感じられているんです。あなたにはいつも関心を持たれる価値があります。

 なぜならあなた自身が、肉体と時空と自我を経験し愛を表現している私達の一員だからです。

 あなたがこの世界で為そうとしていることを私達はいつも応援しています




 それがリアルであるとき、想像力は、単なる空想ではありません。

 世界が丸いというリアルなイマジネーションがコロンブスの航海を助けたように、もしも神が、愛がリアルであるならばそのイマジネーションは実際に愛とつながる力があるはずです。

 この「ごっこ」を続けていると、時々これは単なる空想じゃないという喜びや安心感、エネルギーの高揚を感じるかもしれません。それは愛がリアルであるということの証なのではないかと思います。

 さて、この記事は、誰かが、あるいは何かが、いつどんな時もものすごく僕らに関心を持っているというのではないかというイマジネーションをもとに数日間書き進めてきましたが、さっきカフェで読み進んだエベン・アレグザンダー氏の「プルーフ・オブ・ヘブン」の中でこんな一節と出会いました。エベン氏は、臨死体験中に体験した創造主を、「オーム」と呼んでいます。ちょうど今日出会った、この記事の趣旨そのものでもあるこのセンテンスを引用し、終わりたいと思います。


 「確かに神は、科学が解明に努めながら明らかにしている、完璧な宇宙をあらわす数字の向こうに姿を潜めている。

 しかし逆説的ではあるが、オームにはそれと同時に豊かな情緒が備わり、その人間味はわれわれ以上であるとさえ言ってもよい。

 オームはわれわれの想像を絶するほどの深さと関心をもって、個々人の置かれている状況を熟知し、共感を寄せている。

 われわれが忘れてしまったものの喪失を承知していて、わずかな間でも神聖なつながりの記憶をなくした状態で生きることがいかに過酷であるかを、よく理解しているからなのだ。」 
                                       エベン・アレグザンダー


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セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/10/07 21:47

10月スケジュール



 10月のヒーリング&カウンセリングスケジュールをアップします。

 カードなどによる現在の状況のリーディングと、ハンズオンヒーリングを行います。 

 アクセスは西武新宿線田無、JR武蔵境駅より

 料金は7000円となります。

 時間は朝10時からだいたい18時頃まで受け付けております。

 ご自宅や宿泊先への出張も可能です。

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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/02 13:52

自分とつながる

 僕が生きるうえで重要だと思うふたつのことがあります。

 ひとつは、自分自身とつながること

 もうひとつは、自分を越えたものとつながることです

 今日は自分自身とつながるとは具体的にどういうことか、書いてみたいと思います。

 「つながる」 とはより具体的に言うと、意識すること、感じること、理解すること、受け入れること、そして愛することです。

 その対極は無意識、感じない、無理解、拒絶、無関心(あるいは憎しみ)ですね。

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 ↑想像力を使い同一人物だとイメージして見よう(笑

 自分自身に対して、これらの態度をとり続けていると、やはりいろいろな心身の不調和が生じやすくなります。

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 人から無視されると感じるとき、もしかすると、自分自身をイチバン無視してるのかもしれません。

 まずは「意識すること」
 これがなければ、理解も受容も愛もうまれないので、すべては「意識する」ということから始まります。

 自分自身のあらゆる側面を意識するために時々時間をとってみます。

 静かな夜中でも、早朝でも、仕事の合間でもよいのですがTVからもスマホからも本からもしばらく離れて自分を感じてみます。

 環境としては、キャンドルなどの静かな明かりと、穏やかな音楽あるいは無音の空間が良いかもしれません。
 要はなるべく外部からの刺激を減らして、僕らの内面のささやきが聞こえるような環境をセッティングします。
 慣れたら真昼の新宿の雑踏の中でもできるかもしれませんね。

 楽な姿勢で座り、目を閉じます。
 ただ、これは決まった手順のある瞑想ではありません。
 どうしなければいけないということもありません。

 強いて言えばルールはただ、あなた自身の気付きでいることです。
 そしてその気付きを必要なら多次元にわたってひろげます。
 五感、思考、感情、夢想・・・

 例えば・・・

 犬になったつもりで耳を澄ましてみましょう。
 遠くから、あるいは近くから
 そこでは、どんな音が聴こえるでしょうか?
 くんくん嗅いでみましょう。そこは、どんな匂いがしますか?
 感じてみましょう。今いるそこは、居心地はいいですか?

 呼吸や体の感覚、そして頭を過ぎる想いや、感情にも気付いて見ます。
 あなたは何を考えていますか?
 今日会った出来事、人と交わした会話、明日の予定でしょうか?
 感情はどうですか
 悲しいですか?うれしいですか?それとも腹が立っていますか?

 体の違和感や、痛み、うずきを感じるでしょうか?
 手足は温かいですか?冷たいですか?
 おなかは減っていますか?
 性的なエネルギーは静かでしょうか、動いているでしょうか?
 何か気がかりが心に引っかかっているでしょうか?

 静けさ、喜び、ワクワク感、周りへの愛、平和、充実感・・・

 その他のポジティブな感情を感じているかもしれません。

 もしそうなら、それらをしばらくじっくり味わって見てください。

 
 自分自身とつながるときに、僕らがパワーをゆずりわたしているものがその妨げとなることがあります。


 それは例えば、他者の世界観や考え方であったり、巨大なメディアのニュースや、権威者の語る言葉などです。

 それらは僕らの現実ではないにも関わらず、僕らの意識に侵入してくる思考の分子(ミーム)です。


 これらの情報とエネルギーは、僕らを自身の身体的経験やリアリティとつながるのを妨げることがあります。

 例えば、ひどい事件や事故が報道されてるニュースを見たとします。

 そのときに起こる脳神経系の興奮により、僕らは、完全に外部志向となり、自分の呼吸や感覚を忘れ、時には自分の望みや、現実も忘れてしまうのです。

 ですがそのようなときこそ実は、内部志向でい続ける必要があるのではないかと思います。

 僕らがそれを「見ていること」、その瞬間も僕らは「呼吸をしていること」などです。

 
 そのような侵入因子がひとりでいるときも、意識内でエフェクトを与えているのに気付いたら、無理にそれを排除することなく「これは自分ではない」と気付きます。

 それらは透明な流れに、混入した色つきの水のようなもので、しばらくは心身の機能にエフェクトしますが、やがて時が過ぎると透明な流れへと戻ります。

 自分の呼吸を感じ、体を感じ、両手に流れる「気」の感覚を感じてください。
 それは思考レベルや感情レベルのエネルギーよりも安定して、常に流れています。
 なので気の次元を意識することにより、思考や感情の次元が安定することもあります。(気の次元は呼吸と深くつながっています。深い呼吸をしましょう)

 そのあなたのエネルギーと息はどんな情報よりも、意味があり、奇蹟的なもの。僕らの生そのものです。

 こんな風に自分の呼吸を感じ、エネルギーを感じ、からだを感じ、想いと感情を感じ、そこに働いている力と生命力を「理解」して「受け入れ」てください。

 どのような醜く見える感情も無下に切り捨てずに、なるべくあなたという意識の広がりの中に存在するのを許してあげてください。それを許せば、僕らはより、広がります。そして広がった分、それにとらわれる度合いも少なくなるでしょう。

 こんな風に自分とつながる静かな時の中で、ふと、「こんなことがしてみたい」「あれについてもっと学びたい」という想い(直観)がさりげなく降りてくるかもしれません。これは僕らが自分を受け入れたことに対する、自分の本質からのお礼のようなものです。

 和解成立

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 それを日々の生活の中で自分のペースで、実行してみましょう。

 
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 最後に、この時空にあなたという肉体と感情と思考、エゴと魂からなる複合体が存在していること、その奇蹟を想ってみてください。それは100年前でも1000年後でもなく、なぜこの時空の一点なのでしょうか?



 宇宙全体に向かって胸を開き、すべての愛するものに愛を送り、その愛が返ってくるのを想います。


 こんな風景の中で自分自身を好きな方法で抱きしめて、「あなたは本当に大事な存在です」と言ってあげてください


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 宇宙と神、意識の現れである、あなた自身に畏敬の念を捧げて終わります



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 ヒーリングセッション再開しています。

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セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/27 15:53

☆ヒーリングセッション再開します☆


  先日ブログでお知らせしましたとおりハンズオンヒーリングと、プチカウンセリングによる個人セッションを再開します。
  近いうちにホームページや専用ブログを開設しようと思いますが、一足お先にこちらでお知らせさせていただきます♪


  内容

  ◆プチカウンセリング(約30~45分)



  現在気になっていることや、お悩み、心身の不調などあればお話しをうかがいます。
  特に問題はないという場合、スピリチュアルなトピックなどについての雑談など、こういう世界に関する疑問などありましたら僕が経験した範囲内でお答えいたします。

  身体エネルギーの強化、心身の安定、自分自身の本質とつながること、自分を愛すこと、外側に与えているパワーを取り戻すこと、刷り込まれた信念体系から自由になることなどを意図してセッションを行います。 

 補助的にカードリーディングで今起こっている現象の裏側でテーマとなっているものを探すことを行います。その他必要に応じたテクニックを使用します。



 ◆ハンズオンヒーリング(約45分)

 セラピストを媒体として微細な生命エネルギーを流し、深いリラクゼーションと肉体の活性化の感覚を体験していただきます。

よく言われることですが、粗大なレベルの思考と感情に支配されているほど生命力、自然治癒力は阻害され神経系や肉体に負担がかかります。このヒーリングではより静かで微細な振動領域に意識を誘導するため、深いリラックスや生命力とのリコネクトが起こりやすくなります。

 人生に体当たりで挑んでいくときに少し考えて見ます。
 ちょっと待てよ、あそこに見える人生ってのはもしかして蜃気楼かもしれない。
 蜃気楼だと体当たりしたらすり抜けてこっちが怪我しちゃいますよね。

 微細なパターンで現実を見ると、100の問題と見えていたことが30くらいになったり、あるいはまったく問題ですらなかったことに気付きます。というのは微細な思考は問題を透過していくX線のようなものだからです。通常の思考は可視光線で、粗大な物体を透過できずに、影を作ります。もっとも微細な思考は問題を作れません。

 人生に見境なく体当たりするでのではなく、時には合気道の達人のように力を抜いて立ち、するりと身をかわすことにより苦痛の多い粗大なパターンより抜け出して、より微細な現実を生きることになります。

 粗大なパターン→ 頭から常に離れない問題、イメージあり 白か黒か あれかこれか 考えすぎて何がなんだかわかりま            せん ~すべきだからする 君は絶対~すべきだ 24時間反省モード 自分と他人のあら捜しが止まらない

 微細なパターン→ あ、、、忘れてた  どっちでもいい  どうでもいい なんとなく・・・ 楽しいから~してみよう うれしいから~する  まあ・・・いいか! こうも言えるし ああも見えるねえ、、、雲みたいで面白いね つまり (この世界はイリュージョン それなら本当の自分、愛から生きよう) という感じ つかみ所のないウナギのような感じ

 通常僕らは粗大なレベル(現実が確定的 ストレス状態)←→微細なレベル(現実が不確定 夢など)の間を揺れ動いています。どちらがダメというわけではなく、どちらを生きてもいいのですが、基本的には粗大なレベルほど心身は緊張し、微細なレベルではゆるみます。

 僕はかつてこのヒーリングに触れることにより、外的条件には左右されない「無条件の喜び」「安心感」があることを知りました。
 生命力は普遍的に存在しているので、友人もなく ひきこもっていてもそれを感じることはできます。どのような過去を送ってきたかも関係ありません。

 客観的時空間に刻まれてあるようにみえる外的条件はおいといて、まず生命力とつながることにより癒しが生まれ、結果として日常生活の豊かさも生まれると僕は信じています。「飢えた自分」ではなく「満ち足りた自分」が行動するからです。このセッションはその生命感覚と深いリラクゼーションを感じていただくことが目標です。

 セッションはハンズオン=手を軽く置く 離す の繰り返しで患部のもみほぐしなどはありません。セラピストの手がかなり熱くなることに驚かれる方が多いです。

 今まで施術させていただいた方は大体一回目から何かを感じられる方が多く、好評いただきました。 
 (その場での変化は少なくとも、翌日以降に反応が大きくなる方もいます)


 主な体験例

 ■ 白い光が渦を巻いてるのが見えた 
 ■ まぶたの裏側にたくさんの色があらわれた
 ■ 翌日に自分の呼吸が急に深くなるのを感じた。トラウマがよみがえり一時つらかったが、元気になった
 ■ 目の炎症が病院で言われたよりも早く治った
 
 セッション中意識の変成が起きる場合もあり、深い瞑想状態を体験していただける可能性もあります。
 本来の生命としての喜びを感じていただくことを意図します。
 自然災害や社会の変動も大きい時代ですが、自分の内側に平和が存在する感覚を少しでも実感いただければ幸いです。

 「情報」と「エネルギー」の双方から変化をサポートするために、カウンセリングとエネルギーワークをセットで行います。


 ◆お飲み物♪ 

 お水、もしくはハーブティー。
 ご希望の方に体を陽性に保つメニュー 梅生番茶をお出しします♪(しょうがと梅干の入ったお茶)すっきりしますよ


 ◆料金

 プチカウンセリングと、ハンズオンヒーリングのセットで時間は約90分、料金は7000円です。
 (どちらか片方だけ希望という場合5000円となります。時間は約60分)
 時間はだいたいの目安とお考えください。セッションの状況次第で無料延長いたします。

 ◆場所

 都内西東京市です。最寄り駅は西武線田無、花小金井になります。(中央線武蔵境からバスでもアクセス可)ご予約いただいたかたに、詳しい場所と連絡先番号などをおしらせいたします♪
 小金井公園徒歩すぐです。セッションの帰りに是非ぶらっとお散歩をオススメ 自然は最高のヒーラー

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 ◆出張

 都内や近隣、日程が合えば全国のご自宅に出張いたします。
 宿泊先ホテルなどへの出張も可能です。料金は7000円+こちら最寄り駅からの交通費となります!


 ◆セラピストprofile

 

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Koo(はいたか)

 ♂70パーセント
 ♀30パーセント

 乙女座 A型
 エニアグラムTYPE4
 KIN222 磁気の白い風
 京都府出身
 高知大学卒

幼い頃よりなぜか不思議な世界に強く惹かれる

大学時代長期にわたるひきこもりを経験し、心身の癒しやこの世界の真理を求め始める

 子供時代への退行ヒプノセラピーなどを体験

 しかし社会に適応させることを主に意図するヒプノセラピストに違和感を覚え始めていた頃  
 日にタバコ三箱を灰にするシャーマン的占い師であり元祖オネエ系セラピスト、R氏と出会う

 セクシャリティに関する悩みなどを相談し ありのままの自分を受容することを学ぶ

 前世療法などを体験し 「こちらであなたを呼んでいるものがある」というR氏の勧めで 2002年 東京へ生活の場を移す

 同年 PHIヒーリングのM氏よりエネルギーアチューメントを受ける

 以後 ヒーリングセッション 前世療法セッションを縁ある方に行う

 R氏の紹介で知った 親父ギャグを交えたノンストップ超絶トークで真理を伝える世にも類稀なる覚者I先生とお会いし 根源的なリアリティについて教えを受ける

 瞑想の会、リトリートなどに参加 根源の愛のすばらしさをちらりと垣間見る

 生命の源を愛しつつ この仮想現実世界を肯定し マーヤ(インドの言葉で幻想・イリュージョン)と共に生きる大切さを学ぶ

 現在は在宅介護ヘルパーをして人間について学びつつ、ブログでスピリチュアルな情報や自作の詩等を発信中


 好きなこと:カラオケ 山歩き 書くこと 料理 ぼーっと考え事をすること 雨の音 波の音 空

 好きな食べ物:うどん ラーメン 冷奴 玄米 

 好きなお酒:果汁割り泡盛

 好きな動物: 猫  鯨 

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 ◆スケジュール

 セッション可能日時については、こちらのカレンダーのご確認をお願いいたします。(現在予定調整中、随時記入していきます) カレンダー上に10:00と表示されますが、10:00~18:00までのご希望枠で大丈夫です。

 
 ◆セッション申し込み

  お申し込みはお手数ですが 以下のスケジュールをご確認の上こちら にメールお願いいたします。

  hxaxixtxaxkxa yahoo.co.jp  (hxaxixtxaxkxa と yahooの間に@を入れて送信ください)  

  (もしくはブログ右側のお問い合わせフォームより)
  ご不明な点もご遠慮なくお問い合わせください!

  それでは、こころよりお待ちしております


 




セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/09 15:07

変わらない原点




昨夜、以前記事にも書いたアニータ・ムアジャーニさんのイブニングセミナーに出てきました。

 定員550名のホールの席のかなりの部分が埋まり、関東近郊だけでなく、国内の遠隔地や、中国からわざわざいらっしゃったという方もいたようでインターナショナルな雰囲気の強い講演会でした。

 著書の「DYING TO BE ME(喜びから人生を生きる!)」がすばらしく、今も読み返していますが、実物のアニータさんはとても落ち着いていて力強く見えました。多分気やエネルギーの流れが見える人には、相当重心が定まっているように見えるのではないでしょうか。

 でも質疑応答が始まると、参加者への心遣いや謝意の表し方がとても、やわらかく見ていてとても気持ちのいいものでした。

 僕が、アニータさんの本に惹かれたのは、深い理解に基づいた「自分を愛する」ということの大切さが徹底して書かれているからでもありますが、このことはずっと20代の頃からの僕のテーマでもありました。ちょうどスピリチュアルなことや、癒しの小道を歩き始めたときに、「そのままの自分を愛しなさい」というメッセージをいろんなところからもらったのです。

 それは僕にとっては決して簡単ではありませんでした。
 でも、自分を愛す、と決めることでいろんな現実が展開していったということも確かなことでした。

 今朝早く目が覚めて、昔書いた文章の結末部分のことを思い出しました。
 まだI師匠にも会う前・・・ちょうどスピリチュアルな小道を歩き始めた時に書いたものです。
 20代の頃、今から10年ほど前に書いたものですが、自分にとって重要なことはすでにその中に出ているなと思い、ここにもう一度出して見ることにします。
 特に、自分を愛するということに関しては、今読んでも「うんうん、そうだよね、間違ってない」と感じられました。

 詳細は追って告知しますが、以前、僕はEGG HOUSEというホームページでヒーリングセッションを行っていました。近々それを再開したいと思っています。以下の文章はそのホームページに掲載していたものです。(若干加筆修正)
 
 全体部分は、そのうち別ブログにアップしようと思います。

 ヒーリングセッションを再開するとすれば、いかに書いたようなことをお伝えできるようなものにしたいと願っています。





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                       終章 エピローグ・プロローグ


「たとえば、もしその領域に理性の剣なくして赴けば、心はそれに囚われてしまう。また共感の聖杯なしにはいりこむと、ハートを失ってしまう。さらに直観という杖なしでアプローチすると、そこに既に辿り着いていることも気付かぬままに、ドアの前で何十年も立ちつくしてしまうことになりかねない。自分は今、バスを待っているのだとか、部屋から部屋へどこかに置き忘れたタバコを捜しているのだとか、TV番組をみているとか、どうにでも解釈できるわけのわからない本を読んでいる最中なのだと思い込みながら・・・・。
 (チャペル・ペララス)はこのようにトリッキーなのだ。」
                  ロバート・アントン・ウィルソン著 『コズミックトリガー』より



                   ∽  L  O  V  E


 それから・・・又色々なことがありました。
 
 7月に僕は又実家に帰りました。入院していた祖母が危険な状態になったからです。 

 母は毎日病院に泊まり込んでいました。
 鎮痛剤では痛みが抑えられなくなり、モルヒネが打たれました。
 その翌々日の午後、病院から電話があり、父と母僕が駆けつけたときにはもうなくなっていました。
 僕は涙は出ませんでした。 
 
 葬儀の前日の夜、僕は弟と父と三人で式場に泊まり込んでいました。
 父が思い出話を始めました。父が高校生の頃、雨の日に祖母が傘を学校まで届けに行ったことがあったそうです。
 父が校舎を出ると自転車に傘が引っかけてあり、それと一緒に間違いだらけの文字で「傘持ってきた」 と書かれたメモがあったそうです。父はそのメモを今でも持っていると言っていました。僕は父がそのような感傷的な話をするのが以外でした。
 葬儀の当日。父は喪主の挨拶をしている途中言葉を詰まらせていました。僕は父に感情を見せて欲しくはありませんでした。なぜか、父が感情的に決壊するのを見るのは恐ろしくもあったからです。
 火葬場へ向かう車の中でみんなが泣いていました。「涙を流すな!マシンになるんやー!」といつもいっているユウも泣いていました。気が付くと僕も泣いていました。
 頭の中では今は祖母はずっとずっと心地よい世界にいるから、泣くのはおかしいと思いながらも。 

 その後東京に帰ってきてから、ひとつの体験をしました。

 その体験の中でずっと僕は「自我・神・宇宙・快と苦」などのキーワードについて考えていました。そして家族のことを思い、祖母のことを思いました。
 ぽっくりと死ぬのが幸運で、苦しみが長引くのは運が悪いと誰しも思います。
 母も「あれだけ毎日勤行してたのにな~。可哀相に」といっていました。
 僕はもし、祖母がぽっくりと亡くなったらどうであったろうかと考えてみました。
 その場合、おそらく、僕が実家に帰り、長いこと家族とともに過ごすという時間はなかったでしょう。そのほかにも色々な出来事が起こらなかったはずです。少なくとも僕にとっては祖母の病気と死が家族との癒着剤として働いたのは否めないことです。
 そして、それは本当に偶然であったのかと考えてみたのです。
 ここからは妄想の世界です。
 祖母も顕在意識のレベルではそんな苦痛はごめんだったはずです。
 ですがここにより高いハイヤーセルフ的な概念を仮定すればどうでしょうか。
 誰のなかにも高次の自己が、自我を超越した意志が働いています。
 愛・神・全体性・と呼ばれるものと繋がっている僕らは、これらの意志によって無意識的に行動を選択しているのかも知れません。
 現実の祖母はぼけていて、話せなくて、トイレも行けなかったのに、目に見えないレベルでは、もしかしたら家族のために肉体を苦しめる、という道を選んでいたのかも知れない、と考えてみたのです。
 僕はその妄想のなかでありがとう、ありがとう、ありがとう。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と言い続けました。
 祖母がそうではなくても、そのようなことはきっと頻繁に起こってるのではないかと思ったのです。

 それが直観であるか妄想であるか僕は知りません。  

見かけで人を裁いては行けない。誰もが目に見える以上の存在なのだから。その人がなぜ、どういう理由でそのような存在を選択しているのか、誰も、本人さえも知りはしないのだから。」と僕は呟いていました。

 どこから見ても、普通のおばちゃんが道ばたでぼーっと突っ立っていることがものすごくこの世界にとって必要かも知れないのです。誰がちがうと言えるでしょうか?普通の人間にはそのおばちゃんのぼーっとした顔とださい格好しか見えないのです。

 「愛は、自我をゲームのコマや仮面として自由に使える。でも自我は愛を自由には出来ない

 と僕はまた呟きました。これが本当なら面白いことです。
 自我の中には既に愛や神がしみ通っているわけです。
 それは既に愛によって利用され、動かされているかも知れないのです。
 「動かされたいな・・・・面白いな・・・。」と僕は思いました。

 カップラーメンの中のとうもろこしの粒は自らが命であることを語り、
 ろうそくの炎は限りなく明晰に燃え
 鏡の中の自分の瞳は輝いている。
 僕は、僕らは美しいと思える。

 そんな夜がありました。




                 ∽ D E A T H


 8月に入って又苦痛のサイクルがやってきました。世界中が苦痛のかたまりみたいに感じられました。

 いったい苦しみの多いこの世界において、健康な心ってなんなんでしょうか?

 本屋でふと手にした本に書かれた病気の人の苦しみが僕の生きる理由さえ奪っていくような気がするのは、僕が不幸だから何でしょうか?

 もし僕が幸福なら不幸は目に入らなくなるのでしょうか?わかりません。「ヴァリス」を書かせたのはディックの狂気なのでしょうか?正気を越えた純粋さと、正しさなのでしょうか?ただ僕は善人であるよりは透明人間でいたいと思うだけです。自意識のない快楽追求者に僕は憧れます。いいことが快楽になるまで、僕はボランティアは多分しません。 

 そして今度は僕自身が「擬似的に」死の恐怖を経験しました。

 世界が遠ざかっていくとき、何も助けになるようなものはありませんでした。

 テレビはいつも通りの番組を流しているだけです。

 思わず何かに祈ってました。

 そして、その地点からいつもの日常を見返したとき、自分が間違った生き方をしているように思いました。
 たった一滴の水の意味も、たった一粒のトウモロコシの意味も、僕はとらえきれず、しかもそれによって生かされてます。 そして自分の体・・・これも、「自分の」というよりも、ひとつの生き物として慈しまないと可哀相だと思いました。 
 なのに僕は死のうとしてるのかもしれない。だから今こんな風に、横たわって化学物質で神経をスパークさせている。
 ずっと自分がキライだった。みんな僕をキライだとしか思えなかった。みんな怖かった。
 嫌悪と恐れが今この現実に僕を導いた。そしてそう遠くないところには死が口をあけてるように見えました。

 「生きなきゃ・・・・ダメだよ。」そう言ってくれる誰かを自分は求めていたことに気付きました。

 でも、そのとき僕の周りには誰もいませんでした。
 真っ暗な夜が、窓の外にあるだけでした。
 だから僕は夜が明けるまで、自分自身に言い続けました。

 「愛してるよ、生きていいんだよ、幸せになってもいいんだよ」と。

  僕はジョン・レノンのイマジンを想います。「想像してご覧・・・全ての人が今日の為に生きてるんだって・・」死と対置した生を思うときこのフレーズが蘇ります。
 奇妙なことに「死」は余計な執着やマインドの不平不満をばっさりと切り落とし、生を浄化し、現在を輝かせるという効能も持っているのです。それは生の敵ではなく生のパートナーでもあると思います。
 その向こうにはいっぱいのお茶や、吹き抜ける風が全ての幸福の源泉であるような、禅のような世界があるのではないでしょうか? 
 
 「知覚の扉が浄化されれば、物みなその無限の姿をあらわさん」                                 ウィリアム・ブレイク


                          ∇ W O R L D


 僕はかつてもっと純粋な世界に住んでいました。
 
 子供の頃に描いた「世界」のイメージを僕は覚えています。そこはとんがり屋根の家や塔が立ち並ぶとても平和で魅力的な世界でした。

 ノストラダムスの予言を初めて知ったときにとても怖かったのを覚えています。

 でもそれから10年も経つと、僕は終末予言を読み半ばそれを待っている自分を発見しました。
 こんな世界はつぶれてなくなった方がいいような気がしていました。こんな世界・・・というのはこの地球のことではなく、この地球上に生きている人間や社会(日本や西欧社会の)のありようが嫌だったのです。
 もちろん僕には現実の一部しか見えていなかったのですが、確かに一部は見えていたと思います。

 そしてその世界の後には本当の世界が来ると思っていました。たとえそれが廃墟と青空に過ぎなくても。
 
 でもそんなことを考えながらも、響いてくる物音や目に映る風景は今よりも鮮やかでした。
 
 雨が降ると窓を開けて、思い出せそうで思い出せない、かすかなイメージをいつも見つめようとしてました。何がそうさせるのかは全くわからないけど、自然の物音やアスファルトに落ちた雨の匂いは胸を苦しくさせました。ずっとそれらを捕らえようとしていた気がします。

 純粋さを失うことが大人になることだと言います。

 でもそれはもう一度取り戻すことが出来るはずです。

 今の社会が忘れてるもののひとつはそれです。

 純粋さ・世界・生命への畏怖の念を・童心を取り戻す術を忘れていること。

 子供にとっては不幸な世界です。彼らは成長するに連れ永遠に死ぬしかないのですから

 それは「幼児性」とは違います。我が儘だとか自己本位だとかそれは子供の一面に過ぎません。
 「幼児性」が起こす事件なんてよく言いますが、本当の意味で大人になりきれていない子供だけの社会なら、もっとここはましな世界でしょう。
 犯罪を起こすのは歪められ・虐げられてきた子供です。
 
 僕はもう一度あのような世界をみたいと思います。
 生きていくためには、お金もいるし、10年後の心配とかそんな物がつきまとうけど・・・結局僕が最終的に求めるのは、幼い頃とは又違った方法で純粋さを取り戻し、この世界を・宇宙を肯定しなおすこと、それ以外にはあり得ないような気がします。
 世界を思い出すこと 

 神秘を経験すること

 愛を知ること

 ハイになること

 僕は宇宙を想い出すために生きます。 


 そしてそのためのキーは、僕にとっては自分の存在を肯定し、愛し、信頼するということでした。

 この世界で生きて、幸福になってもいいと言うことを自分に許すことでした。
 スピリチュアルな世界への興味や関わりは色々な形で起こります。
 そしてそこに入っていく人の多くが「グラウディング」大地と繋がると言うことが出来ていないと言われています。
 これは僕の課題でもあります。
 つまり、肉体や他者や大地との間にエネルギーブロックがあるのだと思います。
 そのために霊的な世界との接触を求めるのです。 
 確かにスピリチュアルな世界はより、高次の世界かもしれません。
 しかし、今僕らが生きているのはこの世界です。
 この世界との絆である肉体的な生命や、自分自身、そして自然との間にブロックがあれば、ここで充実した時間を過ごすことは出来ないでしょう。
 なぜなら、苦しみとは「分離したリアリティ」だからです。
 
 なぜ、禁欲的修行僧は不幸なのか、
 なぜ大富豪が虚無感に襲われるのか、
 なぜ人間の目先の欲望を追求した西洋文明が行き詰まっているのか、
 なぜずっとひとりぼっちでいると苦しいのか、
 なぜ多重人格が生まれるのか、
 そして、なぜ「本当の自分」を探そうとするのか?

 これらの答えは全て「分離したリアリティ」と関係があります。

  そして幸福とは「統一・エネルギーの広がり」です。

 だからイチバン身近にある分離、「自分が嫌い」という、自分と自分との分離を癒す、その為にも、自分を愛することが必要なんです。
 

 だから・・・
  

 まずは自分、大切にしよ?
  
 一番近くにあるものだから、一番大切にしてあげてね。
 
 全てはその後でいいよ。

 なんでかっていうとそれはあらゆるもののはじまりだから。
 
 愛されていない自分がするおこない、と愛されている自分がするおこないは違うんだよ。
  
 だから、自分を愛情で包んであげよ? 
 
 自分の存在の根っこを愛情で包んでみよ?
 
 その体で、その心で、 生きることを許してあげよ?

 僕が心の一番根っこにいるから、君はもう生きていいかどうかなんて悩まなくてもいいよ

 僕が君を支えるよ

 僕は誰の中にもいる生きる意志・肯定と愛だから。

 君だけのために君の中にいるから 


 僕がずっと・永遠に、君の味方だから 


 この辛気くさい文章を書き始めたときにイメージしたのは、もんもんとした男の書いたものを読んで、「ああーこんなやつもいるんだな。俺の方がましだな」とか「この人私と同じことで悩んでるんだな」とか感じて、孤独の慰みになるようなものを書こうとしました。
 
 でも書き進むに連れて、あれもこれも入れていったので、多くの人が共感できる内容にはならなかったかも知れません。でも多分この中のなにかには共感していただける方もいらっしゃるでしょう。

 というのは人は誰でも分離の幻想の中で、愛を求めている、神だからです。
 その点で、すべてはイコールであり、僕はただ孤独や恐れの中にやや多くの時間を過ごしてきたというだけなのです。

 例えどのような悩みや問題を抱えていても、僕らは一人ではないのだと思います。
 
 僕自身も書き始めた頃とはまた少し変わりました。
 狭い部屋に閉じこもり、もんもんとしていた自分が、その部屋のドアを少し開けて
 親元を離れ東京に住んで見ました、人の肌の温もりを知り、自分の苦痛だけではなく、他者の苦痛のためにも苦しみました。
 そして愛と死の深みをちらりと、覗き込みました。
 
 なんだかすごく凝縮した時の流れの中を生きているような気がするときがあります。  

 今世界的に急速に古い価値観が崩壊し、新しいことが始まろうとしています。

 「終わりなき日常」なんかではありません。
 「日常」という言葉の意味さえもが変わる時代に僕たちはいる・・・そんな気がします。
 それはきっと、少し感性を働かせれば誰にでもわかることです。

 この世界に溶け込めないと言うこと、それは次の世界に向けて投げ出されているからかもしれません。
 何もない空っぽの部屋から・・・僕よりももっと有用で、もっともっと有能な人たちがたくさん現れてくると思います。
 あなたがどんな場所にいようと、どれだけ自分をいじめ、嫌い、憎み、死にたいと思おうと、あなた達は不適応者じゃありません。
 というか不適応者なんかいません。それはファシズムの言葉です。
  
 あなたたちは強さと純粋さの故に、そこで、そうしているのかもしれないから。

 まずは10秒でもいいから、そう信じてみませんか?
 んでもって・・一緒に明日を好きになれればいいですね!

                 
                    あなたがあなたでいられますように


 August 2002 haitaka
セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/31 16:16

Somatic experience(ソマティック・エクスペリエンス)④



 三回目のSEセッションの記録。5月16日(金)。
 セッションメインではなく導入と世間話しでの気付き。

 ピーター・リヴァインの本の話しをして、どこが印象深かったですか?とたずねられて、「興奮と不安を切り離す」という箇所がすごくよかったと話した。

 それに対してセラピストのHさん、神戸でのセミナーの模様などを教えていただいた。

 「私も改めて学んだのは、興奮するということが楽しいことと結びついていればいいんですけど、、怖いとか嫌だとか、死の恐怖じゃないですけど、そういうものと結びついてる場合があってどっちも大きな神経系の興奮の<山>なんですよね。だからスタジアムでサッカーを応援するとかすごく楽しいはずのところへ行っても、その状態はある意味トラウマのときの状態と同じなので、交感神経的には、がたがたがたと調子が悪くなったり、怖いことを思い出したり、逆にフリーズして動けなくなっちゃうとか。

 だからSEのセッションの時はなるべくなだらかにこのS字、サインカーブが出るように神経ちゃんをもっていくというのが大事みたい。

 そう、だから巷でちょっとはやっている何かを蹴るとかぶったたくとか、大きい声を出すとか、そういうカタルシスワークも一時アメリカですごくはやったんですけど、それもやっぱり大きい<山>を作ってしまうのでよくないっていわれ始めてて。。

 アメリカで一時はやったんですよ、DVの被害にあった女の人が男の人をボコスコにしちゃうっていう、そういう。男の人は防具みたいなのをつけて「OH・・・」なんてやられぱなし。で、女性は「やってやったぜ」みたいにすごいすっきりするんだけどそれはすごく大きな<山>なので、そのあとはすごく落ち込んだり、だから最近は最先端の科学ではよくないってことになっていて。

 だから美しいS字カーブを描くセッションをするということが大切だと、今回改めて学んできたので・・


 「おだやかであるほどいいっていう感じですか?」
 
 「そうなんですよね~ Less is more っていうんですよね。より少ないと、より多くが得られるみたいな。ピーターの言葉でね。

 こないだのセッションでKさんの脳幹はひたすら走ったんでしょうね、山に向かって。だからちょっとそのあとのリアクションが大きかったのかな。

 それは落ち着いたので、成功だったと思うんですけど

 より深い落ち着きに戻していくって言うことを今回はやんなきゃなーと思っていました
。」


 こないだは、わけのわからない恐怖世界に接触して、途中でストップをかけてもらったセッションだった。
 そのあとものすごい怒りが湧いてきて、困惑した。

 今回は3回目

 この日は朝から寝不足気味で、ちょっとイライラしてる。

 SEは、まず、いい感覚としっかりつながってからトラウマの渦と接触するという方法を毎回おこなうけど、その日は心地よい体験を呼び出しにくかった。

 

 感覚的に もわもわ + ぼけー + イラ って感じでいいイメージングが難しい。


 「ある意味そのもやーっていうのがね今日はもうフリーズ入ってるのかもしれないですね」とHさん。

 フリーズっていうのは、きっとトラウマ構成4要素の、過覚醒・狭窄・解離・凍りつきの四つ目、凍りつき反応と何か関係があるのだと思う。

 「どうしたものですかね、フリーズするといいものも探せないしイメージしづらいんですよねぇ

 「いやー今日は朝からこんなだったので、無理じゃないかなと思ってたんですけどw」

 「うん、本当ね、今日は無理ッすねそっから入るのはw」

 「まーなくはなかったんですけどね。楽しいことは・・」


 「うーんそうでも、大丈夫よ、無理しないで

 ・・・じゃあKさんが最近マイブームで読んでる本とか、面白いこととかなんかあります?」


 と質問され、なぜか真っ先に、レンタルして読んでいた森田まさのり作の漫画「べしゃり暮らし」が頭に浮かんだ。

 そのあと対話は意外な展開を見せる。
 
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 「芸人をテーマにした漫画なんですけど、それが面白くて最近よく読んでましたね。」

 「へ~それは、なに、下積みの極貧生活みたいな?

 「うーん、そうですね高校のときのお笑い好き仲良しの2人が、だんだんメジャーになってデビューするまでを描いたみたいな感じで、あの~『ろくでなしブルース』ってご存知ですか?」

 「ううん(^_^)

 「あははwまあ結構有名な漫画家の作品で、それを読んでると、自分は全然そんなことやったことないんですけど・・・演劇をやってたことが昔あって、舞台で何かを表現するときの興奮みたいなものが伝わってくる感じがして、これは気持ちいいだろうなって感情移入していました。」

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 「あ~!なるほどね、Kさんもお芝居されるんですね。

 「いや、やってたたってほどでは学生の時2年くらいですけど」

 「でもステージに立ったときの高揚感っていうのは味わったんですね。」

 「そうですね、それはよかったかと」

 「そうですか、すばらしいですね。ステージに立ったときの高揚感が体の中に今でも住んでいるとしたらどこいらへんに住んでますかね~?

 僕は体の中にその高揚感を探して見た。

 「いや、もう「全身」っていう感じが」 そう言うと 大きな感情の波がこみあげてきて言葉が少し詰まった。

 「そうなんだ!その高揚感がエネルギーだとすると色とか、形とかどんな感じですかね

 「エネルギーに満ちたような・・・色・・・ちょっと表現しづらいんですけど、やっぱりちょっと覚醒するようなそういう感じ、非日常的な感じですね」

 ゴールドの、燃えるような形状?

 「なんだろうそれは観客の視線を感じるから? 拍手とか

 「それも大きいと思いますね、あとウケたりとか、見てる人に何か感動を与えられるって言うことが

 「感動を与えたいっていう感じ?」

 「っていうのはあると思います。」

 「じゃあKさんがめちゃくちゃ感動した!っていうのある?本でも映画でも

 と質問され、これもなぜかわからないが「ショーシャンクの空に」が頭に浮かんだ。好きな映画はほかにもいっぱいあるんだけど。

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 Hさんは知らないようだったので、その内容を説明した。

 「ステーブン・キング原作の映画なんですけど・・・無実の罪で刑務所に入れられた人が脱走して、自由を手に入れて本当の人生を手にいいれるていうような話です。

 「本当の人生を生きる・・・みたいなのが・・あっでも今閃いた。・・・・私が勝手に解釈して色つけちゃいけないけど、Kさんも無実の罪で刑務所に入れられてたから、脱走して本当の人生が生きたいと思ったんじゃない?やっぱり。

 だって自分で選んだり、こうしてくださいっていったわけじゃないのに、そういう状況のところにもう生活していて・・・罪もないのに。である意味その以前のひきこもりっていうのも無実の罪で収監されてるようなものよね


 「そうですね・・・で、まあ学校には行けなかったんですけど、自然の中に行くのは好きだったので、一週間に一度くらい自転車で海まで行ったりとか。映画の中でも脱走して、最後に海の近くでホテルを作ってそこで囚人仲間と働くみたいなシーンで終わるんですよね。海っていうのが自分にとってすごく自由のシンボルみたいな部分はあります」

 「なるほど・・ではちょっと目を閉じて見ましょうか。そのホテルは海辺のちょっと小高い場所にあるような感じ?

 と、これくらいからまた目を閉じてのセッションが再開されることになったけど、

 この頃にはもやーという感じやイライラした感じは消えて、シャキっとした感覚に置き換わっていた。
 「べしゃり暮らし」からステージに立つ感覚、そしてショーシャンクの空と、高知の海のイメージ 
 きっと会話を通じて、なにげなくリソースとコンタクトさせてもらったということだと思うけど、僕にとって意外だったのは、公園を歩くとか、きれいな風景を見るとかいうある種静的なリソースではなく、舞台に立つ感覚なんていうずっと以前に忘れ去っていた高揚感が、意識を変えてくれたことだった。

 それは自分の中では完全に水面下に沈んだ過去のアイデンティティだったけど、そこで経験した感覚は今でもどこかに残っていて、意識をビビッドな質に転換してくれるのだった。
 


 リソースと、ソース



 マイク・マクナマス著の「ソース」という本がある。
 分類するとすると自己啓発系のジャンルに入るのだろうか。
 機関車の絵がキュートで好きだ。(著者が汽車好きだったことによる)

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 この本の言わんとしていることは、人生はワクワクすること、喜びを感じることをどんどんすることで力付き好転してゆくということだ。
 そういう考え方は精神世界や、自己啓発系ではそれほど珍しくないだろうと思うけど、「ソース」がユニークなのは、ワクワクすることをすべて同時に行うように呼びかけていることだ。簡単にいうと、歌を歌うこと、絵を描くこと、ボランティア活動、将棋が好きなら、どれかを切り捨てることなくそのすべてに同じような情熱をかけて楽しむことが大事だという。
 それによってシナジー効果が起こり、人生がダイナミックに動いていくという。
 私見では、喜びを感じることをする、それを生きるというのは至極まっとうな生き方だと思うけど、「ソース」の同時実行という考え方にはちょっと疑問符をつけていた。
 それは僕の実体験でブログに書いたこともあるけど、「ソース」を実践してみて、過活動(過覚醒)になりすぎて夜中にがばっと目を覚ました経験があったりするからだ。
 冒頭のHさんの話に書いたように「興奮」がトラウマと結びついている人は、きっと、そこまで一日を活動的には行動できない。OFFの時間、ニュートラルな時間をたっぷりとらなければ神経システムが飽和状態になってしまう。あと、そんなにあわただしく生きたくない、だらーっと、のんびりしてたいという人だっていると思う。

 でもこの考え方に抵抗するほかのいくつかの理由があることに気づいた。

 そのひとつはマインドの特化したいという性質、指導者を決めたいという性質ではないかと思う。

 よく「自分探し」で本当の自分を探す、となると誰もがイメージするのは特定のひとつの仕事、ひとつの趣味、ひとつのテーマである。

 人は普通、あるエネルギー、価値観・信念、行動パターンで形成されたメインパーソナリティを持っている。

 それによって

 社交的な人、内省的な人、なんとなく面白い人、などの見た目のキャラクターと、

 「私はこういう人だ」という自己同一性が確立される。

 そのメインパーソナリティの周囲には、メインより却下されたり忘れ去られたいくつものエネルギー、感覚、衝動、価値体系がコロイド化した状態で取り巻いている。

 メインパーソナリティは外部からの条件付けで形作られる部分が大きいと思う。

 例えばある能力をほめられた経験を持つ子供はそれをメインパーソナリティの部分として取り込む可能性が大きい。
 よりよく評価されたり、成功体験としてのリソースが多い局面を自分だとみなすように人は条件付けされる。
 別の言い方をすると、生存に適した自己、家族や社会との折り合いがつきやすい自己、そういった役割的自己や、職業的自己と強く同一化して、それ以外のエネルギーはメインに制圧・無視された形で水面下で眠っている。
 この構造があまりに硬直的な場合(メインを狭く限りすぎてる場合)、人は自分でも制御できないような感情や感覚に振り回されたり、内的な衝動を他者に投影しやすい。

 例えば僕の場合は、スピリチュアルなパーソナリティが結構力を持っているけど、これは宇宙や人生の根源を知りたいという衝動、高次の力とつながりたいという衝動、瞑想やアウェアネスを好む衝動、スピリチュアルなものを追求することがとても価値ある生き方だという信念などからなっている。理想とする人物はやはりどこかスピリチュアルな存在を思い描く。

 ところがこれはもっと昔、20世紀末(笑)は、いまだコロイド化してるサブパーソナリティだった。自分が何か宇宙の広がりのようなもの、海のようなかわらないもの、を求めているということはわかっていたけど、それをスピリチュアルという言葉では表現できず、むしろカルト教団の起こした事件などもあり、スピリチュアルなことに興味を持つことはアブナイことだとかなり思い込んでいた。その頃理想化する人物は、さめた視線や日常を越えた想像力を持つ「作家」だった。

 そのひとつの理由は、周りに生きた人間で、そういう世界に興味を持つ人がひとりもいなかったことが大きな原因でもある。
 ところがネットを始め、東京に来て、そういう世界に興味を持つ「生きて動いてる」人たちとたくさん出会い、共鳴しあったり、自分の感覚を認められることにより、コロイド化してるエネルギーの中からスピリチュアルな人格がよりはっきりと出てきたのだ。
 ということでここでも外部からの条件付け、他者との相互作用が大きな力を持っている。

 ところがスピリチュアルなパーソナリティというのはひとつ間違うと、暴君的で、鼻持ちならないものにもなりうる。
 それは自分は特殊だと思い込んだり、何もかもわかってると思い込んだり、俗的なものをとかく批判しやすい。(それはスピリチュアリティではないんだけど)
 スピリチュアルなものはある種究極的な事柄であるために、人格がそれと同化するとどうしてもそのような効果が生まれてくるのだ。

 それは、ひとつ間違うと残りのすべてを「皆殺し」にする。
 「皆殺し」が言いすぎなら、多面的な残りの自己すべてを水面下に封印しようとする。

 スピリチュアルな人のほかに、自分の中では援助者や、外面的に一見落ち着いた内省的キャラクターは力を持っている。
 僕に会って「いやーなんておしゃべりな人だ」と思う人はまずいない(と思う)。
 昔はよく「お前、なんか喋れ」といわれることがあった。それくらい無口で暗い時期もあった。
 ところが驚いたことに10歳前後のときのビデオフィルムを見直してみると、僕はテレビレポーターの真似をして、あちこち飛び跳ねながらうざいくらいに喋りまくっている。
 
 このうるさい子供はどこにいったんだろうか?

 きっと、内省的なキャラが育つうちに水面下に押し込まれたけど、エネルギーとしてはまだ生きているんだろうと思う。
 僕が割りとお笑いが好きで芸人さんに惹かれる部分があるのは、そういう水面下のエネルギーと共鳴するからかもしれない。
 演劇をしたのも、そういう喋りたがりで目立ちたがりの自分がいるからだ。

 となると面白い仮定が出来上がる。
 実は僕はスピリチュアルな人ではなくて、芸人や、レポーターのなり損ねではないかという仮説だ(笑)。
 たまたまどのエネルギーと衝動がメインパーソナリティとして凝固したかというだけの話であるならば、絶対的にスピリチュアルがメインで、芸人あるいは「うるさい子供」がサブだとは言い切れないような気がしてくる。
 以前、だちょうクラブとジャングルを探検してるというアホな夢を見て、「あー楽しかった」とすっきり目が覚めたことがあった。
 ところで、なんでだちょう倶楽部?と思ったけど。

 ソースのプログラムが役に立つ可能性は、どこにいったのかわからない「うるさい子供」のようなエネルギーをもう一度すくいあげて、メインに統合できるという心理学的次元にもあるのではないかと思う。

 別に一生スピリチュアル一辺倒でいったって悪くはないんだろうけど、できたら僕はこの「うるさい子供」ともう一度合体したい。そして彼がどういう気持ちではしゃいでいたかを思い出してみたい。

 好きなことをすべてする、という発想だとかならずそういう水面下のエネルギーと接触して再発見する機会ができるというのは確かだと思う。

 それらのすべてが僕らが自分ではないとして却下したエネルギー、生命力とつながってる可能性がある。



 3回目のSEセッションのはじめに思わぬところからリソースとつながれた経験から考えると、それってとっても意味があることかもしれない。



 ということで、近々NSCに願書を出すことにしました!(嘘)

 初コンビなのに安定感があって気に入った漫才↓
 

 サンドイッチマン富沢VSフット後藤

 



 

セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/16 23:16

Somatic experience(ソマティック・エクスペリエンス)③


 SEセッション二回目以降の記録
 
現在、三回体験。

 興味深いことがあればアップして行こうと思いますが、効果を確認しつつ、心を整理しつつなのでかなり時間差レポートになると思います。

 *比較的に内面さらしてるので期間限定記事となるかも・・・・


 ■SEその後


 一回目のSEセッション(4月初旬)のあとエネルギーの高まりを感じた。
 次の日は5時半ごろ目が覚めてしまったけど、よくある目覚めの重苦しさはなく、胸が躍るような感覚があった。
 「木々の形はそのままで喜びの表現なんだ」というような言葉が浮かび、また二度寝することもないかという気になり、早朝の公園を散策にいった。

 その日は自分にしては活動的にいろんなことをした。活動しすぎてラインを超えてしまったのか、夕方ごろにはなんか熱っぽくなっていた。
 夜寝ると「ハッ」と驚いたような驚愕反応で一度目を覚ましたけど、すぐに寝付く。翌日仕事なので安定剤を半錠飲んで・・だけど。

 SEの影響かどうか微妙な部分もあるけど、重要なものを見つけたという感覚はとても強かったので、翌日二回目のセッション予約メールを出した。
 仕事もいつもよりも心の余裕があって、コミュニケーションもやや力がぬけてるように思えた。
 夜も更けて仕事が暇になってくると、SEのセッションや、そのトラウマ理論のことで頭がいっぱいになってきた。
  
 明らかに自分の生きづらさの根本はこの持続する内的過覚醒にもとづく慢性的緊張、苦痛にあった。
 精神状態でも、経済的にも、人間関係でも、僕の人生はいつも外的にはギリギリ感が強かったけど、これは明らかに、内的ギリギリ感(つまり常時警戒態勢の)の反映に過ぎず、苦しみの原因ではなく、むしろ結果だったのだ。

 頭ではすべては起こるべきタイミングに、完璧に起こってるとわかってるが、強烈な感情が次々に湧いてくる。

 でも、恒常的になってるこのある種の緊張状態が良くなるという可能性を考えても、どこか、そんなうまい話あるか、なんてささやく部分がある。
 
 心身の安定へのささやかな希望さえも、どうせ無理かも・・・何も変わらない、とか、そのまま受け入れ苦しむ必要があるとか、そんなことはやめて神だけを追求せよとか、そのうち癒しなんて言ってられない時代が来るとかって思う、実人生への期待値が下がった自分にある種驚いた。

 というかこの思考パターンの重さに気付いた。

 怒りの感情はSE的には、大歓迎ということになるらしい。
 興奮レベルは高い位置にあるけど、少なくともそれを越えてエネルギーが凍り付いてるというわけではないからだ。
 怒り大歓迎といわれるとちょっと安心するけど、問題は人といてそれが出るときかな。怒りが強くなりすぎると、僕はそのエネルギーで凍り付いてしまい、自分自身でそれを解除することがなかなかできない。誰かがお湯かけてくれるの「待ち」のめんどくさい状態になる。この解凍がセルフでできるようになったらいいんだけどな。そのための一歩はまず、どれくらい不条理な怒りでも自分でしっかり「感じる」ってことなんだろう。

 ということで「怒り」をしっかり感じてやろうと決意。


 ■二回目のSEセッション



 2回目のSEセッション(4月中旬)もとても興味深かった。

 今回はストレートに、僕の恐怖の中核をテーマにしてセッションが進んだ。

 「怖くなりすぎたら目を開けてください」と事前に言われた。

 誘導に従い徐々にイメージを感じ、深めていくと、すぐ苦手な雰囲気、黒い悪の気配に飲み込まれ

 「あーちょっと気持ち悪くなってきました、目あけていいですか」と

 即効でギブ(T_T)/~~~  (笑)

 激しい呼吸法はしてないのに両手がじんじん痺れてるし、頭の後ろも痺れ感が

 これは神経系のエネルギーが放出しているってことらしい。なにか見てはいけないものの直前まで行き、その気配におののきすぐにUターンしてきたみたいな感じ。

 ホラースポットの廃病院に見物に行ったはいいが、近づくにつれその禍々しさに圧倒され門柱くぐる前に引き返しました・・みたいな。
 きびすを返すその寸前、暗い窓のあたりに見てはいけないものの姿がちらっと見えてしまいました。。。みたいな。

 なんだこりゃ・・この感じは・・・こんなものいつか直面できるのかって思ったけど。

 でもHさんによると、パンパンになった風船から少しづつ空気を抜いていくのがセッションの目的なので、一見中断したみたいだけど今のでも、エネルギーが抜けてるということ。「1ミリづつふたを開けていきましょう」と言われた。

 少しづつ少しづつ、このプレッシャーを弱めていけば深く感じるところまで入れるし、入れるようになってそこを懐中電灯で照らしたらただの粗大ごみ置き場でしたとかそういう感じのものらしい。その段階では、トラウマは分解され力を失ってるから。でも一度にふたをあけようすると、そのトラウマエネルギーに圧倒されるから注意が必要とのこと。 

 SEでは、トラウマの領域と、リソース(資源)の領域(自分にとって心地よい体感覚)の間を交互に往復しエネルギーを解放していく。

 リソースの渦と、トラウマの渦の相互作用によってふたつの力が統合される。というのがSEの主要なセオリーのひとつだ。

 リソースの体感が、トラウマの解放・統合をサポートしてくれるという。

 僕は昔からリラクゼーションなどで心地いい体感を感じるのが苦手だ。きれいなイメージを思い浮かべても、ビジュアルとして見えるだけで現実感が感じられないというか、そこにいる喜び、楽しさがなかなか感じられない。マインドの働きがリラックスを邪魔する、拒絶する。今回のセッションでも自覚していたその傾向を指摘された。

 不安になるのは得意なのだが・・・

 この、すぐバッドトリップできる能力、何かに生かせないものか・・・


 木漏れ日の森をイメージするけど、やはりなかなかその世界の現実感と接触できない。

 さっきの恐ろしい世界と、この世界を対比すると、ここはとても美しく思える。そのことを伝えると

 「どちらに行きたいですか?」

 そりゃきれいな世界に行きたい。
 でも現実感があるのはまださっきの恐怖世界だ。

 「それが体の感じてる現実なんですね」とHさん。

 そのままリソースを探っていくと、胸の中にある生き物がいるイメージが出てきた。その生き物がいとおしくてなぜか少し泣きそうになった。

 心地いい感覚がゆっくりとひろがってきた。この生き物のことを考えると、さっきの恐怖世界の感覚が遠のいていった。
 うれしさ、よろこびがあらわれる。

 とても不思議だった。これがリソースの感覚?
 もともと僕の中にあったのか。

 最後のほう誘導されることに疲れてきたのか体感的には左胸の辺りにイライラ感が脈動し始めた。

 言っていいのかどうか少し迷うが、「あの・・・ちょっとイライラしてきました」と伝えた。

 「大丈夫ですよ。その感情はとてもウェルカムなので。やっと出てきてくれましたかっていう感じですから。その感覚が次回以降のテーマになるかもしれません」と。

 表層的には、疲れたとかでイライラしてると思っても、誘導によってフェルトセンス(常に移り変わっていく感情・体感覚・イメージなどを総合した概念)を見ていくと、別の内的なエネルギーとつながってることがわかってきたので、なるほどと思う。
 
 以上セッションのごく一部。

 前回はすっきり感と共にセッションが終わったけど、今回は地下世界をのぞき見た動揺がまだ残っていて、頭痛もした。
 すごくいろんな世界を旅して疲れた。
 でも駅まで歩き、ホームで電車を待つころになると、気持ちがいい覚醒感覚が意識に浸透してきた。
 夜は不安を感じることが多いけど、線路に降る雨の線がなんかきれに見えた。
 またインドにでも行って、どっかの駅でこんな風に雨を見ながら電車を待ってみたいなと思った。

 SEちょっと癖になりそうだ。
 
 自分の感じる感覚を、それがなんであれ尊重してもらえることが心地よい。

 あんまこれに依存してもなと思うが、当初の予定通りとりあえず3回は受けて見ようと思う。

 セッション翌日、動画サイトでやりすぎ都市伝説をぼーっと見てる。
 怖い話し系が多くて、こういうの見てるの久しぶりだなと考えてると、もしかして昨日のセッションと関係あるのかなと思った。
 フェルトセンスで体験したトラウマ世界はどっちかというとこういう超自然の恐怖系だったからだ。うん、そうこの不気味ーな体感が似てるような・・・
 ただリヴァイン博士によると、トラウマがイメージに置き換わるときに、そういう形になることもあるようなので、必ずしも現実に体験したイメージかどうかはわからないみたいだ。



 ■ 二回目のセッション後 <4月中旬以降~>

 相変わらず激しい感情の表出は続いてるけど、なんか知覚の範囲が広くなったような印象がある。
 気のせいかな?
 今まで、ここにこんなのあったっけ?という感じとか、ああ、この幼稚園の先生は毎朝門の前に立って一人一人にハイタッチしたりして「おはよう」って声かけてるんだなーとか。
 大変だなー、でもそれくらい子供が好きなんだろうなとか。
 いつもの道を散歩しててもいろんな刺激が新鮮に見える。
 
 非常時に生体がする反応のひとつとして「狭窄」というサバイバルのために知覚を狭めるというのがあるけど、そういう知覚の限定が少し緩んだのかとも思う。

 激しい怒りが出てきたときに、解放する方法のひとつを教えてもらった。

 タオルを横にし適当な分厚さに折りたたんでその上部を握る。そして、ぎゅーっと力を込めて、ゆっくりゆるめる。また力を込めて、ゆるめる・・・・これを何度か繰り返す。
 
 これは神経系に負荷をかけないで怒りを表出させるためによいらしい。

 まあ普通に生きてたら誰でも一度や二度は家具や壁をぼこって凹ましたりしたことあると思うけど(え・・・ないかな?)、こういうことをするとそのあとスッキリするかもしれないけど、なんか暴力的になったことによって余計気持ちが昂ぶったり、ある種の恥の感覚が強くなったりする。自分が怪我をすることもあるだろうし、なにかその激しさが自分自身のどこかをきづつけてるような気もする。

 このタオルを使ったやり方だと、穏やかに表出させるということを脳に学習させる意味でもよいらしい。

 これを何度かやってると悲しさと一緒に涙も出てくる。
 怒りと悲しみがセットになってることはフェルトセンスで見ていけば、わかることだけど、このやり方も穏やかだから悲しみも感じられるのかも。
 怒りに任せて枕ぼこぼこにするとかだと怒りオンリーになっちゃう可能性がある。

 
 ■リソースの渦とトラウマの渦



 二回目のセッションから一週間ほど経って(4月下旬)、感情の出方がさらに激烈になってきた。

 こんなに一日中怒ってるのはあまり経験したことがなかったので、ある意味興味深いけど、あまり続くとちょっと衰弱する。怒り疲れ(~_~;)

 頭がおかしくなるような感覚があるくらい底なしに湧きあがってくる。

 これだけのものがあったことに戸惑いつつ、自分で驚く。

 基本的に感情は感じつくすのがいいとは言うけど、SEの本にも圧倒されたら注意を別のことに向けることを勧めているので、この状態はさすがに感じすぎだと思い、タオルに怒りをぶつけるのもやめて走ったり、ストレッチをして体を動かすことに意識を移した。

 うーんそれにしてもタオルを握りながら「このバ~カ~ヤロウ」って呟くくらいいいと思うんだけど、それくらいでも結構罪の意識を感じたり、こんなことしてて次に相手と会ったときにぎくしゃくしないか、スピリチュアル的にこれはいいもんだろうかと気にする部分があり・・・どんだけ良い子ちゃんやってるのかと思った。

 ずっと基本的には感情を押さえつけ、コントロールすることで対処していた。だからそれを出すのは本当に不本意ながら切れてしまった時が多かったから、切れるだいぶ前からこうやって怒りを表現するというのは新鮮だ。

 それにそのほうが人に迷惑がかかりにくい。

 結局相手は、エネルギーを投影した仮の標的になってるだけだから本当の意味では憎んでいないことが多いんだと思う。ただそれをわかるためには、その怒りをトータルに感じたり、ひそかに放出させるということが必要だ。念が飛んでいかないことを祈りながら。

 ただあまりに頭がマッドな状態で、プラクティショナーの方にも「その怒りをひとりで感じつくすことはお勧めしません」と言われ、かわりに「心地よさ」を意識的に感じることを勧められた。ありのままに感情・感覚を感じるのと平行して、ここちよい体感覚を意識するようにする。

 ここちよい体感覚はおそらくSEの考え方で<リソース>と呼ばれるもので、生命エネルギーを巻き込んだトラウマの渦の解放と統合には、リソースの渦が重要な役割を果たすと考えられている。それは自然の中を散歩してさわやかに、広がったような「感覚」とか、夕日や朝日を見てその美しさに感動した「感覚」とかお風呂に入って気持ちよかった「感覚」とかとにかくここちよい「感覚」であることが大事みたいだ。体感覚の希薄な難しい理論や理屈は、きっと脳の新しい部分に属するので原始的な脳の部位が喋る言葉とは異なる。

 リソースをふくらませることが、セッションにもいい効果をもたらすらしい。

 頭が感覚や感情と切り離されて空転している状態が多いので、このここちよい感覚を感じつくすというのも新鮮だ。

 普通現代人は理性が優勢だから、ある程度は頭が感覚や感情と切り離されている。
 よくあるたとえでいくと、動物は体感覚で生きているので調子が悪くなるとエサを控えたりするけど、体感覚ではなくマインドのパターンにとらわれている人間は、体が食事を嫌がっていても食べ続け、飲み続け、タバコを吸い続ける。体がそれを欲していなくても、心がそれを望んでいなくても、自動的に回転するマインドパターンの輪の中に閉じ込められてしまうのだ。この閉鎖系が人の生命力と可能性を大幅に限定しているもののひとつじゃないかと思う。

 リソースを感じていると、本当に体や心が喜んでいるものと、そうでないものの見分けもつくようになるかもしれない。

 トラウマエネルギーは神経系の収縮で、リソースは拡大だ。
 リソースの拡大力が、トラウマの収縮力を中和する。

 以下トラウマの渦とリソースの渦にヒントを得た考えで、ちょっとSEの理論外の話になるけど、<収縮する渦>と、<拡大する渦>というのは癒しや人生の出来事を考えるときとてもいいモデルになるような気がする。
 人生の総合的バランス度は、このふたつの渦の勢いの均衡によるとも言えるのではないだろうか。
 収縮する渦の方が勢力が強いと、人生はやはりつらいもの、耐え忍ぶもの、ひとつ間違えば地獄のようなものになる。
 拡大する渦のほうが強ければ、人生はつらいことはあるが生きるに値するもの、喜びに満ちたものにもなりうる。

 収縮する渦は、本来、拡大発散する生命エネルギーを巻き込み、脳神経系や細胞レベルに「帯電」する。
 それは危険時においてサバイバルのために起動し、生命エネルギーを凝縮するためのものだ。
 収縮する渦のとらせる姿勢は筋肉を硬直させ、首や肩に力を入れさせる。
 恐れや怒り、悲しみというエネルギーがリアルなのはおそらく肉体に「帯電」しているからだ。
 もしかするとそれは電子機器に異常さえ起こすかもしれない。
 それに対して拡大の渦は、拡散し、よろこびを放射する。
 拡大の渦のとらせる姿勢を象徴化すると、両手を広げ胸を開いたような姿勢と、全身のリラックスだ。
 その渦は、エネルギーを帯電させるのではなく、放電している。

 収縮の渦は人生を耐えがたいものにもするが、収縮の渦の巨大さに対応した拡大の渦が、それとバランシングするために潜在的に形成される。
 それがきっと、どんな状況でも人に希望を与えるもの=Spirituarityだ。
 きっとそれが顕在化することもあれば、そうならないこともあるだろう。
 でも潜在的には、収縮の大きさと比例した拡大の渦が同時的に作られるのではないだろうか。

 つまり巨大な恐怖を抱えているということはチャンスであり、預金残高のようなものなのだ
 記憶喪失で換金の仕方を忘れてしまった外貨貯蓄と言ったほうが近いだろうか。
 収入は30万くらいあるけどその大半が自動的に外貨に投資されて、手元に残る日本円は10万くらいで、しかもどうしたら日本円にできるかわからなくなってしまい貧乏を余儀なくさせられてるような。
 あるいは買い込んだゴールドを常にリュックでしょって歩いているので、なにをするにも疲れて働くこともできなくなった状態。

 そんな風に巨大な収縮は、巨大なよろこびをはらんでいるし、巨大な闇は、おそらく光の卵なのだと思う。


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  「収縮」を換金した時の、映画「ショーシャンクの空」 アンディ・デュフレーン

  「希望はいいものだよ 多分最高のものだ いいものは決して滅びない

 I hope I can make it across the border.
 I hope to see my friend, and shake his hand. I hope the Pacific is as blue as it has been in my dreams.
  I hope
.

 どうか無事国境を越えられますように。どうか友と再会しやつと握手ができますように。どうか太平洋が夢の中で見たのと同じように濃いブルーでありますように。それが私の望み(希望)だ。

  ショーシャンクの原作 S・キングの「刑務所のリタヘイワース」より

セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/19 22:12

Somatic experience(ソマティック・エクスペリエンス)②



 ■定位反応と太陽電磁波



 リヴァイン博士の本を読んでいて、すごく気付くことが多かった概念のひとつに「定位反応」というものがある。

 「定位反応」とは著書の説明によると次のようなものだ。


 広い草原を楽しくぶらついていて、突然視界の隅に影が動いたと想像して見てください。
 あなたはどう反応するでしょうか?
 本能的に、あなたのそれまでの動きは止まります。あなたは少しかがんだ姿勢をとるかもしれませんし、自律神経系が活発になると心拍数もあがるでしょう。このつかの間の「停止」反応の後、あなたの目は大きく開かれます。影がどこにありなんであるかを見極めるために、意志とは無関係にあなたの頭は影の方向を向きます。自分の筋肉をかんじて見ましょう。筋肉はなにをしているでしょうか?

 あなたの首、背中、脚、そして足の筋肉が、体の向きを変えるため同時に働き、あなたの身体は本能的に伸び上がります。周囲全体を広く見渡そうとしてあなたの目は細くなり、骨盤と頭は水平に動きます。あなたの内的状態はどうなっていますか?影を見たことに対して自分の中で漠然と感じたり気付いたりすることはほかにあるでしょうか?ほとんどの人は警戒と集中を感じ、影が何なのか知りたいと思うでしょう。知りたいという欲求を刺激する興奮と期待があるかもしれません。起こりうる危険の感覚も存在するかもしれません。

 (中略)

偉大なロシアの生理学者イワン・パブロフは、彼の記念碑的研究である動物の条件付けの中でこうした定位反応について説明しています。彼はこの反応に固有の特徴を「shto eta takoe」反射と呼びました。これを文字通りに訳すのならば「それは何?」反射ということになります。しかし、より正確に言えば「あれは何だ」「ここではなにが起きてるんだ」「やっこさん、どうなってるんだい!」といったその反応に内在する驚きと好奇心を強調した意味になります。この二重反応(反応+欲求)は定位行動の主な特徴として広く知られています。人間やほかの動物にとって期待、驚き、警戒、好奇心、そして危険を察知する力は、こうした定位複合体から生じる、運動的、知覚的な気付きの現われです。



現象の正体を突き止め、認識しようとする定位反応はすべての動物にとって必要不可欠なものだけど、トラウマを受けた人の中ではこの定位反応があだとなっている。

トラウマ反応のひとつに
 


■過度の警戒 



がある。

通常、 定位反応→外的危険の認知→覚醒

となり、脅威が去ると覚醒レベルは下がるので、定位反応も終わる。

しかし過去のトラウマより起こる余剰エネルギーによって内的過覚醒→強迫的な定位反応(過度の警戒) が起こり、24時間体制の警戒モードに入ってしまう。


 過度の警戒は、危険に初めて対応するときに起こる過覚醒が、拡大された強迫的な定位反応を引き起こすときに起こります。このゆがんだ定位反応は非常に逆らいがたいため、人はたとえ外にある何かに対してではなく、内的な覚醒に対して反応しているときでさえ、危険の原因がなんであるか突き止めずにはいられないという気持ちに取り付かれるのです。

 覚醒が継続するとき(解放するのがあまりに恐ろしいため)、私たちはジレンマに陥ります。危険のもとを探さずにはいられない気持ちがしますが、その衝動は内的に発生したものであり、たとえ外の危険を突き止めたとしても、内的な覚醒は引き続きそこにあるため、その強迫的な過度の警戒状態は消えません。私たちはその危険のもとをしつこく見つけようとし(それはどこにあるのか)、それを特定しようとします(それは何なのか)。なぜならその探索こそが、神経系が覚醒したときに原始的定位反応が行うようにプログラムされていることだからです。問題は、多くの場合、実際の危険は何も見つからないことです。




 いつもその場にそぐわないほど強迫的な「危険はどこにあるのか?」「危険は何か?」あるいは「敵はどこにいるのか?」「敵は誰か?」反応が起こる。

 もちろんその場合、過度の警戒と暴走した定位反応の原因は単に内的過覚醒であるために、客観的な危機は存在しない。

 でもトラウマ反応下にあり、その認識がない人は、「いや外的危険あるいは敵があるはずだ」という認識からおりられず、常にびくびくしていたり、怯えていたり、危険情報を探し回ったり、身近な人間や近隣に対して敵意を投影したりするのだと思う。自分がうっとおしい(不快な覚醒感)のは「あいつのせいだ」あるいは「あの危険のせいだ」という特定ができれば、仮の安堵感を得ることができるからだ。しかしそれをそのまま行動化すると関係は壊れてしまう。

 トラウマを負っている人は、神経系覚醒レベルのベースラインが高いので、例えばコーヒー二杯飲んだ、とか最近性エネルギーが蓄積されている(むらむらしている)というようなことでも過覚醒、過度の警戒モードに入ってしまう。

 それだけではない。リヴァイン博士の本ではふれられていないけど、自然のエネルギーの影響もきっとある。
 満月、新月、低気圧、台風、寒暖の変化、太陽フレアに伴う電磁波、地殻変動前のエネルギー変異、未知の宇宙エネルギー・・・こういったものにもベースラインが高いPTSDの人は影響され、容易に限界値を越え、うつ、怒り、緊張、不眠、そわそわ、テンパリというモードに入ってしまうはずだと推測する。精神が不安定な人は満月になるとおかしくなる(Lunatic)とか、春は変な人が増えるとかっていうのはその現象を言ってる。

 神経系がタフで、回復力があって、余裕がなければ、あらゆる神経を刺激するエネルギーが飛び交いまくるこの世は、とかく生きつらいのだ。

 またこういう状態の人は、「なまず」的な役割を自然と果たしてしまう可能性があり、地震の前に体調が必ず崩れるというような人もいるのではないだろうか。体感で地震を予知できるような人の多くはかなりベースラインが高いのではないか。

 僕自身、太陽フレアの影響(他の自然現象全般も)をすごく受けやすいことは前から気付いていた。
 このことがわかる前は、きっと大規模フレアのたびに過覚醒状態になり、定位反応が活発になったはずだけど、危険の原因はみつからなかったはずだ。
 それは結構ストレスになる。内的に覚醒し自動的に警戒モードに入るのに、目に見える危険は見つからない。このジレンマがひどい場合は誰かに喧嘩をふっかけるかもしれない。フレア増大事に起きる事件や事故は、その強迫的な歪んだ定位反応の結果かもしれないと思う。
 
 「太陽のせいで人を殺した」というカミュの「異邦人」主人公ムルソーの不条理な言葉は、実は相当切実な意味を持っている。
 人は自然現象によってひそかにもたらされる過覚醒に対して、ゆがんだ定位反応と行動化を起こしてしまうことがある。が、それらの行動の理由はまったく理解される枠組みがない。エネルギーにやられていたことが原因のひとつとはみなされず、社会人として不適切なふるまい、みんな我慢してるのにお前何やってんだ?というようなことで切り捨てられる。切り捨てられれば当然本当の理由は理解されない。
 
 でもこの反応はもう少し社会全体が、自身や宇宙に対するアウェアネスを深められれば克服できるはずなのだ。

 ただ意志と忍耐だけで、システムに適応するのではなく、本当の意味での自己理解や他者理解、自然への理解があれば。

 天体マーヤのエフェクトがあると知ったあとは、「うーん、この調子悪さはまたフレアが起こってそう・・・!」と予測すると結構その通りだったりということがあるようになった。

 現在の活動状況はこのページで確認→http://swnews.jp/

 まだCクラス連発くらいならいけど、中規模のMクラス、大規模のXクラスとかが長期間続くと眠りが浅くなり、かなり頭もおかしくなりやすい。
 が、「フレアのせい」と認識すると危険を探す定位反応はいったん安心するので、少し救いになる。まったく原因がわからない焦燥感とか過覚醒ほど気持ちの悪いものはない。
 統合失調症などでも、かなりものすごい過覚醒が脳内で起こるので、それが敵に狙われていたり監視されているという妄想(ゆがんだ定位反応の結果)につながるのかもしれない。
 狂気の閉じ込めているエネルギーは本当にものすごいのだ。
 生きようとする根源的なエネルギーが姿を変えたものだから。

 ということで自分が自然エフェクトにもてあそばれやすいということはわかってたけど、そもそもの常時興奮レベルを下げるという発想はなかった。

 
 なぜそこまで太陽の爆発で興奮するのか?

 この体質はなにに起因するのか?

 どうすれば普通に生きて行く安定感が得られるのか?(一生このままなのか?)という謎が解けなかったのだった。



 でもSEの考え方に出会い、このエネルギー状態をシフトできる可能性が具体的に見えてきた。
 きっともともとエネルギーには敏感に反応してしまうほうなのだと思うけど、PTSD反応がそれを耐え難いレベルにまで高めてるような気がする。


 だから僕は自分のエネルギーバランスを変えるものすべてに対して、注意深くなってしまった。

 
 睡眠時間、食事、飲み物、性、職場環境、人間関係、ひとりでいられる時間、読む本、見るDVD、自然現象・・・・
 
 
 まあ神経過敏でなければ自分がこれだけ多種多様な現象の影響を受けてるってことに、気付かなかったかもしれない。

 んで、かなり引きこもりがちな生活をするようになった。

 僕は一種の修道生活をしていて、ここは修道院かと思っていたけど、どうやらPTSD避難用シェルター、回復施設でもあったのかも(笑)

 トラウマは人間のもっとも強い生命力が形を変えたものであるため敬意をもって扱う必要があるとリヴァイン博士は書いている。


 ならば敬意をもってトラウマ神 様を拝まねば 
 トラと馬が合体した姿の神様かな?(笑
 しかし日本語ってすごいね。トラウマってある意味、虎と馬が合体したものだもんなー。狩るものと狩られるものの相互作用。
 その正体は動物としての僕らの根源的パワーそのもの。


 自分の生命の力を敬い、トラウマが与えてくれた知恵を大事にしたい。



セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/24 17:57

Somatic experience(ソマティック・エクスペリエンス)

 一昨年、個人リーディングをしてもらったHさんのところでSEセッションを受けてきた。

 個人リーディング記事→オーラリーディング in あざみ野


 一年ほど前から気にはなっていたのだが、なかなか重い腰があがらず、時間が流れていった。

 でもこれは僕にとって、とても重要な情報だった。
 今回のセッションで強くそれを感じた。

 Hさんのところではトラウマ開放メソッドとして他にTREも行っているということだけど、SEが気になっていたのは、Hさんに強く勧められてたこともあるけど、その神経系やトラウマに関する理論的な部分が自分の体験とぴったり符号していたからだった。

 SEは(somatic experience ソマティックエクスペリエンス)の略で、身体的経験というような意味合いになる、神経学者でもあるピーター・リヴァイン博士が主にトラウマを解放するために開発したセラピー技法だ。

 その概略を書いてみると、人の神経系には周知の通り交感神経と副交感神経がある。交感神経が活性化すると人は適度な集中状態や、目覚め、あるいは緊張状態になる。副交感神経優位になるとリラックス、くつろいだモード、眠りなどに近づく。

 交感神経の適度な興奮は仕事への集中などに必要だ。だから僕らは夜更かししすぎて眠い次の日なんかには、コーヒーを飲んででも交感神経を奮い立たせてオフィスに向かおうとする。

 しかし交感神経の興奮には上限値がある。
 極度のストレス状態、強盗に襲われる、災害に直面する、DVにさらされる、などでは交感神経のメーターはマックスに近くなり、人はいわゆるfight or flight状態、「戦うか、逃げるか」という行動に備えて呼吸を早くし、アドレナリンを放出する。
 生体としての僕らはそのような作用によって、緊急事態をサバイブするように設定されているのだ。

 しかし、交感神経の興奮はそれがマックスで、それ以上になると別の反応を示す。かたまる、気絶する、現実から解離するという反応だ。これもある種の防衛反応で仮死状態になることによって外敵をスルーするという最後の戦術なのかもしれない。

 動物の場合は気絶しても、危険がさるとまた何事もなかったように餌を探しに行ったりするが、人間の場合その交感神経の緊張、蓄積されたエネルギーは解放されないままに残る。動物の場合のように、簡単にリセットすることができないのだ。

 この神経系に蓄積されたエネルギー、そのことによって起こる慢性的な交感神経の緊張状態、これがよく言われるPTSD・トラウマ反応の正体らしい。

 「トラウマとは神経系に蓄積されたエネルギーである

 PTSDのない普通な状態は、何か突発的なストレスがあっても、時間がたてば平静な状態に戻る。わかりやすく書くと交感神経の基底値を0限界値を100とすると、会社で顧客にクレームをつけられて60まであがっても、昼休みにおいしいものを食べたり、まあ遅くても夜になってお風呂に入ったりすれば0近くまで落ちる。というこれが平常の状態。

 しかし、人生において何度もPTSD的経験を体験してきた人は交感神経の興奮値が高い状態のまま止めおかれている。いわばその時のショックがリセットされていない。何もなくとも常に70くらいの状態にあるのだ。

 だから、20くらいのイヤなこと、道でけつまづくとか、高校生が電車ででかい声でしゃべっててうるさい、とか、ドアがバタンと大きい音で閉まるとか、それくらいでも戦うか逃げるか状態に入ってしまう。戦うか逃げるか状態では心拍数が上昇し、呼吸は速くなり、筋肉は過度に緊張し、おさえがきかなければきっと怒鳴りつけたりしてしまうだろう。

 だから傍目にはちょっと人間として危ない人に映ってしまう。でも生体にとっては、動物としての僕らにとってはそこにはすでに70の危険があったから、30の刺激でその閾値を越えて戦闘か逃走モードに入るのはまったく不自然な行動ではないのである。

 また戦うか逃げるか状態を越えてしまい、スイッチが切れた状態、(じっとして動かない(うつ)、解離状態、ひどい時には失神)にもたやすく入ってしまう。

 通常の神経系の興奮レベルをベースラインというらしいけど、PTSD反応を持つ人はこのベースラインが高止まりしているらしい。

 そのPTSDによって上昇したままのベースライン(神経系の興奮レベル)を、蓄積されたエネルギーを解放・統合することにより低下させていくのがSEらしい。


 僕はこの話しを去年Hさん主催の自己成長のためのワークショップで聴いて、すごく自分の心身の状態がよくわかった。空理空論ではなく、自分の体験とすべてが符合するからだ。
 僕自身もかなりベースラインが高止まりしてることが理解できた。

 何度か自分の死を意識させられる体験や、また家族内でのDVを間接的に目撃したりしてることなどが原因かもしれない。

 そこのところはわからないけど、きっと僕は少なくとも10年以上はそういう状態で過ごしてきたと思う。


 リヴァイン博士はPTSDは、危機に直面したときに生体が起こす次の4つの要素を核にして症状が形成されていくという。

 ■過覚醒 (動悸や速い呼吸、動揺、睡眠困難、緊張、筋肉の震え、駆け巡る思考、不安発作)
 ■狭窄   (身体的な血管や筋肉、姿勢の収縮と、危機に対してだけ集中するために知覚範囲が狭くなる)
 ■解離   (内的感覚気付きの継続の崩壊、時空と知覚の歪みが生じる。軽いものは空想に没入してる状態、重いものは、多重人格障害。苦しみから逃れるために体や感覚から離脱する反応。見当識障害、記憶が飛ぶ、記憶喪失、ひどい物忘れ、起こっている現象の否認を伴うこともある)
 ■無力感に伴う凍りつき

 
 トラウマによる具体的な症状には次のようなものがある。

 ■過度の警戒(常に用心していること)
 ■侵入的イメージやフラッシュバック
 ■光、音に対する極端な過敏症
 ■多動
 ■過剰な驚愕反応
 ■悪夢
 ■唐突な気分変調 例 怒りの爆発 かんしゃく 恥の感覚
 ■ストレスに対する能力の減少(容易かつ頻繁にストレスで疲弊してしまう)
 ■睡眠困難
 ■回避行動(特定の状況を避ける)
 ■危険な状況にひきつけられる
 ■頻繁に泣く
 ■過剰な、あるいは減退した性行動
 ■記憶喪失、健忘症
 ■他人を愛し、慈しみ、親密になることができない
 ■死ぬこと、気が狂うこと、早死にすることにたいする恐怖
 ■ものごとに打ち込めなくなる
 ■慢性疲労 非常に低い身体エネルギー
 ■免疫障害や甲状腺機能不全などの内分泌障害
 ■心身症 特に頭痛、首や背中の痛み ぜんそく 消化器系の病気 けいれん性結腸 重い月経前症候群 
 ■うつ 今にも悪いことが起きそうな予感
 ■孤立感 疎外感 孤独 生きるしかばね
 ■人生に対する興味の減退
 
 最後になるほど、PTSDの症状が進行した状態で現れる傾向があるという。
 このリストにたくさんあてはまる場合は、神経系が余剰のエネルギーを抱えている、つまりトラウマを負ってる可能性を疑ったほうがいいと思います。

 トラウマ反応下の典型的な苦しみ

 「私は、何もかもが怖い。朝ベッドから起き上がるのも怖い。家から出るのも怖い。死ぬのが怖くてたまらない・・いつの日か死ぬことが怖いのではなく、あと数分のうちに死んでしまうような気がするのだ。私は怒りが怖い・・・自分の怒りも他人の怒りも。そこに怒りが存在していないときですら恐ろしい。私は拒絶され、見捨てられるのが怖い。私は成功するのも、失敗するのも怖い。私は胸が痛いし、毎日手足にしびれや震えを感じる。生理痛のような鈍い痛みから激しい痛みまで、ほとんど毎日のようにひどい激痛がある。ほとんどいつも、どこかが痛い。これ以上生き続けられないような気がする。頭痛がする。常に不安だ。息が苦しくて、心臓がドキドキして、自分がどこにいるのかわからずにパニックになる。いつも寒くて、口が渇いている。ものを飲み込むのがつらい。生きる気力も熱意もないし、なにか達成しても満足感はまったくない。毎日圧倒され、混乱し、喪失感を味わい、無力で、絶望している。私は、怒りとうつの爆発をコントロールできない。

 ここまでひどくはないけどこの多くがすごくよくわかる。

 特にあと数分のうちに死んでしまいそうな気がするってことは、とてもたくさん経験した。

 トラウマを負う理由は人様々だけど一般的には次のようなものがある。
 またこのような状況下でもトラウマを負わずに切り抜ける人もいるし、一見ほんのささいな出来事がトラウマとして神経系に残る場合もある。PTSD反応の重い、軽いはどういう出来事を経験したかではなく、どれくらいの負荷が神経系に残っているかが問題となる。

 ○戦争 自然災害 犯罪に巻き込まれる 交通事故 落下や転倒 溺れる 病気 医療処置 困難な出産 愛する人を失う ペットロス パワハラ セクハラ いじめ DV 親からの言葉や暴力による虐待  ニグレクト ドラッグ 身近な人の死を目撃する 家庭内の暴力を目撃する 家族がバラバラになる体験 


 災害や事故のような巨大なひとつのショックで生じたPTSDではなく、生育歴などいくつもの複合的な要素がからみあって発生しているPTSD的状態を「複雑性トラウマ」と言い、僕の場合もおそらくそれに該当するのではないかということを言われた。

 以前は頻繁に何度も、夜中に目を覚まし、「今にも死ぬ」という恐怖に突き動かされてもしもの時に救急車を呼ぶため携帯だけをもって、何度も真っ暗な夜の中へ飛び出して落ち着くまでながいこと歩き回った。

 騒がしいオフィスで働いてた頃は、職場で何もかも嫌で体が動かない麻痺状態や、唐突にこみ上げる怒りを抑えきれずキレてそのまま飛び出したとか、そういうことも二、三度あったし、友達にキレて怒鳴りつけるとかっていうことが20代最初くらいからたまに起こるようになった。普段冷静に見えるのでかなり怯えられる。 

 特にある程度のストレスがある状態で、さらにいらいらすることがあると、限界値を越えて制御不能になてしまうことがある。そうなると僕はキレるか(戦う)その場を去る(逃げる)かの反応をせざるを得ない。僕にとってその場を離れる、ということは自分の怒りが暴発するのを防ぐ手段でもあった。

 人といると神経が高ぶりすぎることが多いので、介護の仕事とかが続いたり、外に出かけなければならない用事が続くなどのストレスが多い時ほど、プライベートな時間、一人でいられる時間は本当に命綱だ。

 単に一人が好き、とかではなくそれがなければ自分を保てない。
 神経の興奮レベルを沈める時間が必要になる。

 そこのところを人に説明するのがすごく難しい。

 実家に帰ってさえ、しっかりした自分の空間とプライバシーが確保されていないと耐えられずやはり飛び出してしまったことがある。

 そういうことがあると、そのたびに自分は人間としてどこか決定的にダメなんだという激しい自己否定にも苦しんだ。そしてこの不快な緊張から逃れるためにアルコールやドラッグにも頼った。そのドラッグでまた基底値をあげるような恐怖体験もするわけだけど・・・
 アルコールは不快な過覚醒状態による緊張感を沈めてくれるのでつい頼ってしまう。

 今ではずいぶんパニックや、唐突な怒りの爆発は減った。でも得体の知れない緊張感と警戒感はもう僕の毎日の中で完全に日常の一部になっている。何か張り詰めているかあるいは、睡眠も浅いので、夜中に目が覚めてなかなか眠れず次の日はぼーっとしてるかでとても安定した状態が長期にわたって続きにくい。だから収入はもっと欲しいけど、仕事も安易に増やせない。行きももどりもできない煉獄のような場所で宙吊りになってる感覚をたまに感じる。わかってくれる人は少ないけど、バランスが崩れることが僕には何より恐ろしいのだ。

 Hさんははむしろキレてよかったと言う。
 キレるってことは、交感神経上限値の手前、戦うか逃げるか反応によって起こるわけだから、そこをキレないでずっと耐えしのいでいると限界値を超えて重度の鬱状態に移行する可能性があるかららしい。すぐにキレる危ない人か、もしくは鬱で固まってるかどちらも微妙な選択だけど、自分自身のメンタルヘルスだけで言えば溜め込み続けるよりもキレた方がましってことになるのかもしれない。相手には申し訳ないが。

 この神経系に関する考え方は、僕の自尊心を回復させてくれるものだった。
 それなら自分を許せる。
 そしてこのメカニズムがわかれば、それだけでも救いがある。

 こういう状態の僕にとって、今まで生きていく上で理性とか意志だけが頼みの綱だった。常に感情がテンパって張り詰めてることが多いから、人とコミュニケーションするにも、仕事をやりとげるにも、理性によって抑制をかけなければすべてがぐちゃぐちゃになってしまうという恐怖がある。だから平常はよくクールだとか、落ち着いてるとか、穏和な癒し系的印象をもたれることもある。

 が、それは僕が現実と軽く解離しつつブレーキングしてることが多いからだと思う。
 多くの場合、僕は単に耐えてきた。
 巨大な怒りや絶望感を制御するのは本当に、内的なエネルギーを疲弊させる。

 その理性や意志で状況をコントロールしようとしてたことが、感情との間にまた断絶を生んでいたように思う。今後は今まで以上に、泣いたり、笑ったり、喜んだり、怒ったりする自分を大事にしたいと思う。

 SEセッションにすごく手ごたえを感じたので、SEについて、トラウマについてピーター・リヴァイン博士が書いた本もさっそく取り寄せて読んで見たが・・・

 この本は・・・ 本っっ当にすばらしかった!!

 自分自身が経験してきたことと何もかもが符合し、いろんな形をしたパズルの断片がひとつの絵になる感覚があまりに強く、深呼吸しながら読む必要がある感じだ。誰かの命を救う可能性を十分に秘めた本だと思う。

 本を読んでいてひとりでに涙が滲んできた箇所がある。

 それは博士がナンシーというクライアントにリラクゼーション誘導をしようとしていたときのエピソードだ。



 最初のセッションで私が未熟にも、まったくの善意から彼女をリラックスに導こうとしたとき、ナンシーはひどい不安発作に襲われました。彼女は麻痺し、呼吸ができないように見えました。彼女の心臓は激しく鼓動し、次にはほとんど止まってしまったようでした。私は非常に驚きました。私は地獄のふたを開けてしまったのでしょうか。我々はともに地獄のような状況に入り込んでしまいました。
 
 私自身も激しい恐怖を感じながら、それでもなんとか自分を保っていたとき、私の目の前に、虎が襲い掛かってくる幻が一瞬浮かびました。その体験に押されて、私は大声で叫んでいました。「あなたは大きな虎に襲われています。向ってくる虎をみてごらんなさい。あの木に向かって走りなさい、さあ、木に登って逃げて!」驚いたことにナンシーの足は走る動作をして震え始めました。彼女が血も凍るような叫び声を上げたので、通りがかった警官が何事かと立ち寄ったほどでした。彼女は小刻みに震えだし、やがて大きく震え、最後は痙攣するように激しく体を震わせてすすり泣きました。


 彼女はこのセッションをきっかけに快方に向った。
 このナンシーという女性は、幼い時に手術中の麻酔状態でトラウマを受けるような恐ろしい体験をした。
 その体験は脅威が迫ってるのに動けない、という状態に彼女を閉じ込めていてて、その時のエネルギーがパニック発作や広場恐怖症の原因になっていたというのだ。
 普通動物は、危険を感じたときにFight or Flight反応を起こし、逃げようとする。でも麻酔下のナンシーにはそれができなかった。
 そのときに蓄積されたエネルギーを解放するのに「虎」のイメージが、新たなる生命の危機が役に立ったのだ。その「虎」が彼女を逃走させ、手術時には逃げられなかったため蓄積された生命エネルギーを解放した。

 今では私は、彼女の回復を媒介したのは、子供時代の扁桃腺手術のドラマティックな再体験と感情的カタルシスではなく、彼女が受身で凍りついた硬直反応から、活発で成功した逃走へと抜け出したときに体験したエネルギーの放出だったことを知っています。虎のイメージが彼女の本能的で敏感に反応する自己を目覚めさせたのでした。私がナンシーの体験から得たもうひとつの深い洞察は、脅威の面前で人を成功に導く力は癒しにも役立つということです。これは体験の最中だけでなく、体験から何年も経ったあとでも同じです。

 「心と体をつなぐトラウマ・セラピー」より

 それにしても、このような状況で「虎が出ました!!」なんていう誘導をしちゃうリヴァイン博士の判断は何か神がかっている。博士の内的英知が促したのか、天使が虎のビジョンを吹き込んだのだろうか。どちらにしろ、どこかシャーマニックで普通の医療的な判断ではとっさにできない選択だ。

 僕が感動したのは、ナンシーが逃走に成功したということもあるけど、それを助けたのが「虎」であること。多くの人にとっての脅威でしかない動物であることだった。僕も時々も虎に襲われるという夢を見る。僕にとってもある種恐怖の象徴だ。

 その恐ろしい「虎」が僕が逃げたかったときに逃げ、戦いたかったときに戦えたことを思い出させ、恐れの中で凍り付いていた僕の命を、躍動の中へ解放してくれるのである。そのことを想うと光と闇が融合していくような深い感動を感じる。

 僕もナンシーのように自分の両足で地面を蹴って力いっぱい安全な場所まで逃げ出したかった記憶があるのかもしれない。

 多くの人にとって、脅威それ自体ではなく、自分の生命を尊厳を守るために戦えなかったという記憶、逃げられなかったという記憶(抑制された攻撃性や、逃走本能)が生命エネルギーを制限する問題となっているのだ
 「虎」はそれを解放してくれる。

 この本の原題は、「Waking the tiger 」<虎の目覚め>である。(虎を目覚めさせる・・かな?)
 それはきっと戦ったり、逃げたりする躍動的な動物としての僕らの目覚めでもある。

 硬直していた仮死状態から、逃走と戦闘反応への目覚め、それは感動的なことだ。
 動けないという状態よりも、命の躍動がそこにはあるからだ。

 SEを受けてみて、この枠組みをどのように神様的なことや意識の探求と統合させればいいのかちょっと迷っている部分がある。

 I先生のリトリートなどに行っても、集団宿泊のストレスなどで夜中に一種の、ここがどこかわからないっていう解離状態を起こし飛び起きたことがある(限界値越えちゃった状態)。神のエネルギーがあるはずなのにどうしてこういうことが起きるのかと思った。
 どうして、神様を強く念じたり、バキバキになったらそのあとパニックぽくなるのか意味がわからなかったけど、交感神経が限界超えちゃってたのだ。

 マーヤが全部原因という風に認識していたけど、その枠組みだけだとこのメカニズムの詳細がわからない。
 自分の生き辛さや心の状態について深く学ぶためにはもっと別の枠組みが必要だった。


 他にも、たとえば一度に好きなことをすべてやりなさい、みたいな自己実現系の本を読み、その通りに実行しようとして調子がおかしくなったってこともあった。これも、交感神経は楽しいことやおもしろいことでも跳ね上がり(スポーツ観戦やライブなどでも)、常にベースラインが高ければ容易にそれを越えてしまうと考えればつじつまが合う。

 楽しければいいってことでもないし、神様のことを考え続けていればいいってわけでもない。神経系のバランスを上手に保つことが僕にとっては重要で、その方法は人によって状況によって、まったく違うのである。楽しいことを全部するってこと自体が楽しくないこともある。


 楽しいから楽しいにきまってるだろ
 神だから一番すごいにきまってるだろ

 というロジックではなく、体感覚みたいなものがおしえる方向をもっと大事にした方がいいのかもしれない。

 簡単なことだけど、これがわかるまで結構時間がかかった気がする。

 スペースまほろばのN先生のブレスワークを受けたときに言われた、「幼いときにつらい経験をしてる人ほど、大いなるものにふれそうなときそれがとても恐ろしいものに思えてしまうみたいなんです」という言葉も、この神経系の仕組みとどこかでつながってくるのかもしれない。源からのエネルギーは意識を覚醒させる。

  源からのエネルギーっていうのは、意識を覚醒させるのがメインでいわゆるヒーリングエネルギーとはまた別のものなんだろうか。これはずっと前から考えてたことだけど。それが意識を現象世界を越えさせるってことだけに働くなら、やっぱり別物ってことになる。

 覚醒反応というのは、神経学的に言うと危機に対するリアクションとして、身体にその準備をさせるために起こる。ピーター・リヴァイン博士の著作にあったたとえでいうと、高さ100メートルの断崖絶壁を見ろしていると想像したときに体に起こるような反応だ。この危機状態での「覚醒」と、スピリチュアルな教えで語られる<覚醒>はもちろん意味合いが異なる。しかし、源からのエネルギーも、そして同じくPTDS反応下でも、同じような「眠れなくなる」というような作用が起こることを考えると何かしら共通点があるように思われる。

 僕の推測だけど、幼い頃からの経験などで、交感神経が慢性的にエマージェンシーにあるとき、その源からのエネルギーの覚醒作用が神経系にとって負荷になりすぎる(恐ろしく感じる)ということなのだろうか。
 PTSD反応下の人はやはり生体エネルギーが変動するセックスや、カフェインなどの興奮物質も、リラクゼーションさえも回避するようになることから考えるとこの推測は的外れでもないような気がする。そのような状態の人は恐怖に取り囲まれていて、エネルギーや意識がシフトするどのような変化も受け入れられないのである。
 
 源のエネルギーによって、ハートが開いたり、特殊な意識状態になったりってことがあったことも確かだ。でもその状態でも基本的に僕の日常は張りつめていた。昨日バキバキだと思ったら、今日はコンビニで固すぎるフランクフルトのことで思いっきりクレームを付けてましたなんて頃もあった。

 思うに、よりスピリットや意識に近い領域で起こる体験は肉体に近いレベルにはなんの変化も起こさないってこともあるのかもしれない。スピリットのレベルでものすごく成熟してたり、目覚めてる存在が寝たきりになってたりということは十分にある。覚醒してる存在が、コンビニでクレームつけることがあるかは知らないけど(笑)

 源からのエネルギー、その恩寵によって、僕が変わってないと言えばきっと嘘になるし、かといってすべてが癒されうまくいくようになったと言っても嘘になる。

 もし自分の意識だけを救済しようとするなら、PTSDだって関係ないのだろうか。僕にはわからない。
 肉体がどれだけひどい病にかかっていても人の意識は覚醒する。
 でも例えば、戦争体験によってトラウマを負って自他への暴力に悩んでるようなひどいPTSDの人がいきなり覚醒できるかは謎だし、覚醒したらその神経系レベルの反応が治癒するのかも謎だ。


 僕の経験では、PTSD反応下では焦燥感は強いけど、本当の意味で人生を俯瞰的に見て前向きに思考するということはできない。
 今日を乗り切るのに精一杯で、なりゆきまかせか、刹那的になる。

 ただその状態は常にエマージェンシーなわけだから、生か死か、人生とは、宇宙とは何か、ということにも思考が向く。

 客観的には、こいつ特になにも起こってないのになにを深刻になってるんだと思われるかもしれないけど、神経系がそのような状態から緩まないんだから仕方ない。深刻になりたくてなってるわけじゃないのだ。

 思考のスイッチをオフにできない。
 止めたくても、そのような思考が止まらなくなる状態がある。
 幾晩も、夜中に目を覚まし考え疲れるまで考えてから、僕は眠った。
 死刑囚がいやでもそのような思考になるのと原理的には同じなのだ。

 「明日はいよいよ死刑だから、体調を整えるためゆっくり眠るように・・・!」なんて看守さんに言われても無理な話し。

 ある意味でそれは究極的なものに近い状態でもある。
 V・E・フランクルが「夜と霧」で書いてるように、世界大戦中のユダヤ人収容所のような極限状態において精神的な目覚めを体験するような人がいるからだ。その人たちがリラックスしていたとはとても思えない。
 交感神経系が限界値に近い状態で起こる解離反応も、言葉を変えれば「幽体離脱」になったりもする。
 このように考えればPTSD反応もあながち人間経験のひとつとして否定すべきものでもないかもしれない。
 
 確かなことは神様ごとだけではなく、自分の癒しにも積極的に関わるように僕は<設定>されてるようだ。今までこのブログでも癒し系の記事と、求道系の記事をどちらも書いてきた。

 僕の生き辛さの理由についてもすべては<必然>、<設定>、<カルマ>、<マーヤ>あるいは<みこころ>だと思うけど、その成分の正体が近年少しづつクリアになってきたようだ。HSPだとか、PTSD反応だとか、そのマーヤの成分がよりはっきり見えてきた。

 「これはオレンジジュースだよ」とざっくりしか認識してなかったものが、その中に、果汁、とか甘味料、とか香料とか入ってるのがわかってくるように。そのそれぞれの成分や、その性質が見えてきた。

 基本的に<源>の恩寵に限界はなく、どんなことでも起こりうるし、僕のトラウマをあっという間にリセットすることだって出来るんだろうけど、なんだか僕はこういうことをしっかりプロセスを追って体験・あるいは勉強したほうがいいような設定みたいだ。

 これらすべてが意味があって起こっていて、いつかすべてがまとまることを僕は願ってるし、すべては源から流れきてることも信じていたいと思う。

 SEのセッション内容については、個人的すぎるため詳しく書くのは控えるけど、フォーカシングのような感情を体の中に位置的に特定し誘導によってそれらを見ていく方法と、これが肝だと思うけど自分の肉体を動かすことにより神経系のエネルギーを放出するようなテクニックがあったということだけ書いておく。ソマティックという言葉どおり精神性だけに偏らない、体感的な部分が多いことが気に入った。感情が、実際の肉体的な痛みなどと連動していて、体感と感情はわけられないということがよくわかる体験だった。


 ピーター・リヴァイン博士の著作は震災や事故あるいは生育歴で負った「複雑性トラウマ」で不安や、パニック発作などつらい状態を抱えてる人には是非一読を勧めたい↓
 絶対に重要な気付きがあると思います!

 
 waking the tiger

 「正直に言うと、私がこれまで立ち会った癒しの奇蹟の数々は、否定しがたいより高次の叡智と秩序の現れそのものなのです。宇宙の秩序をもたらす本質的な自然の叡智が存在すると言ったほうがいいかもしれません。それはどんな個人の歴史よりもはるかに強力なものです。有機体はこうした法則に従い、想像可能なもっともおぞましい体験の中さえも通り抜けて生きます。もし宇宙に神や叡智や虎がいなければ、こんなことがどうして起こりうるのでしょう。
 
 トラウマ反応を克服した人はしばしば、その後の自分の生活には動物的な面とスピリチュアルな側面の両方が存在すると話します。彼らはより自然になり、健全な自己主張や喜びを表現することへの抵抗が少なくなります。彼らは自分が動物であるという体験に共鳴しやすくなると同時に、自分がさらに人間らしくなったと感じます。トラウマが変容するとき、癒しが与えてくれる贈り物のひとつは、命に対する子供のような畏敬の念です
。」

 「Waking the Tiger -Healing Trauma」 BY Peter A Levine 1997


セラピー&ヒーリング | トラックバック(0) | 2014/04/17 22:21

Spirits never die


 祖母が亡くなったのはもうずいぶん前のことになるけど、いまだに夜中に不安な夢を見て目が覚めることがある。祖母が痴呆状態になり、体も少しづつ衰弱していくとき僕は近くでその様子を見ていた。

 今にして思えば、祖母の見守りや食事の用意をするということを毎日していた数ヶ月の短い期間が、いまの仕事の内容とかなりかぶっているのは不思議な感じがする。

 でも決して僕は愛情たっぷりに介護の手伝いをしていたわけではなかった。どちらかというとそれは面倒くさいルーチンだったと言ったほうが正確だろう。いつ、激しい痙攣様の発作を起こすかわからない祖母の状態が怖かったし、次第に家族のこともわからなくなり、話しが出来なくなっていくにつれて祖母の人格自体が消滅していくような感覚だった。

 祖母がまだ生命を保ってそこにいるということは十分わかっていたけど、コミュニケーションが出来ないということが、そこに寝ているのはもう祖母ではない、という感覚に陥らせた。もう少し状態が悪くなってからは、早く肉体から解放されて楽になって欲しいと思うことも珍しくなかった。

 結局祖母は、寝たきりになってから半年と少しほどで亡くなった。

 そんな日々の記憶がいまだに夢になってよみがえってくる。

 不安と重苦しいフィーリングで胸のあたりが苦しくなる。

 死別は確かに悲しいものだし、傷を残すことが多いけど、家族の死がトラウマとなるかどうかはその死をみながどのように受け止めて認識しているのかということと関係があるように思う。

 そこに闇と混沌の力、破壊されていく脳や、肉体、人格だけを見るのか、

 あるいは肉体や人格がどうなろうともそれでもなお輝いているはずのスピリットの存在を現実としてみることができるのかによってそれは変わってくる。

 不安と暗闇のこの苦しいフィーリングは、僕の認識がいまだに、死をただの混沌や破壊としてのみ考えているその箇所から生じていて、でもそれは実は幻想なのかもしれないと思った。

 というのはその不安や暗闇を、まるごと反転させるような経験を僕はその祖母の旅立ちのあとにしたはずだったからだ。

 その経験のなかで、僕は祖母のスピリットはあの痴呆状態や寝たきりの状態の中でも、愛と知性を厳然と保って状況に働きかけていたということを知ったはずだった。

 そのスピリットの愛と知性が、いつ肉体を離れるのかということもつかさどり、そのタイミングには僕らへの気遣いがあったように思う。

 このスピリットと、日常の意識、マインド、自我とは通常わかたれている。
 だから僕らは自分自身のスピリットの愛と知性を無意識のうちに実行するということが多い。
 自我は、このスピリットのレベルの愛と知によって浸透され、動かされている。

 死とは、おそらく、僕らのこの日常の自我とスピリットが融合してひとつになるということでもあるのかもしれない。

 スピリットは死なない。

 例え、肉体的障害などで会話がうまくできなくても、昏睡状態でも、そこには彼のスピリットが厳然と存在している。そう認識することのみが、病や死や、狂気があふれる世界の中でもスピリットの光を認められる術なのだ。

 僕が、周りも大変だし、本人もつらいだろうから早く楽になって欲しいと考えたのは多分間違っていた。

 それは、どんな状態であれひとりの人がそこに生きて存在している、そしてそのことによって発生するパワーと学び、それを与えようとしてくれているスピリットの愛を、「いらない」と思うことだったのだ。  

 おそろしく性格にかたよりのある人であっても、その人のスピリットは別の次元ですべてを知っていて「すまない」と思っているということもあるのだろう。

 自分自身の生をマインドの基準で推し量って「いらない」とか「つまらない」と思うときも人は、自分のスピリットが見えなくなっている。

 僕らがその存在に気づくとき、スピリットもそれに気づく。
 僕らが動物や、人や、自分自身や、あらゆる生命のスピリットを見つめると、彼らも僕らを見つめ返す。

 認識とは相互作用的に発生する、現実の場だ。

 その認識に心を開くとき、スピリットの光はこの世界に下ろされ、癒しと許しの可能性が顕れる。

 すべての死と病に関する傷が、不滅のスピリットの輝きにより癒されますように。

 そう祈りながら目を閉じると、眠りに落ちる前に朝日のような大きな光が近づいてくるのが見えた。


     
                                  2013 11 21







セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/05 10:36

愛というコイン (変わり者にとって神の愛がいかに重要かの考察)


 どんな個性を持っていても、性癖を持っていても、ハンディキャップやどんな過去を持っていても
 自分を無条件に受け入れ愛することがより幸せに生きていくための秘密だ。


 でも、自分を愛することが時に困難なのは、集合的社会意識の中でマイノリティに属する人たちである。


 人は良かれ悪しかれ社会的動物なので、自己の自己への感情は、他者の自己への感情に依存している。
 自分が自分を見る視線は、他者が自分を見る視線にある程度規定されている。
 

 だから同質である事、一緒であることの中には安心感があり、異質であることには常に不安がある。
 拒絶される不安、後ろ指を指される不安、愛されない、軽蔑される、嫌われると言う不安だ。
 それは特に日本のような文化では顕著であると言われる。
 基本的に同じようなDNAの集合体で、移民もそれほどいない。
 ということは同質性が当たり前なことで、異質性があること自体が、異質な事態である。
 そのような文化は異質性とコミュニケートして、双方が共存共栄していくという試練にさらされていない分だけ、
 異質性には不寛容なところがあるのかもしれない。
 
 察するということ、「あ~わかります」という暗黙の共感は同じような同質性の基盤に立っているからこそ可能なことで、異質なもの同士が理解しあうためにはそこには必ず、葛藤や、ぶつかり合いが生じてくるような気がする。擬似的な同質性の上でわかったふりをし合っていればなんの衝突も生まれないかもしれないが、そこにはまた理解も生まれない。

 欧米の文化がディベートに裏打ちされているのは、異質性同士を言葉によって橋渡ししなければならないという、必然性があったためだろう。あるいはそれが言葉による異質性への攻撃に傾き勝ちではあったとしても、異質性自体に無自覚であるという社会風土で育たなかった異質な「他」への洗練された理解も生まれているように思う。
 
 社会的な集合意識の中で異質な存在となりやすい人。

 ホームレス
 僧
 障害者(心身のハンディキャップを持つ人)
 性的マイノリティ(ホモセクシャル、レズビアン、トランスジェンダー・・・その他)
 ニート
 引きこもり
 不登校
 犯罪者
 アーティスト 
 物書き  
 外国人
 (そういう制度がある国では)被差別階級の人

 その人が自分の中にある何に異質性を感じているかはある意味、重要ではなく、問題はその「何か」によって自分を無条件に受け入れることが難しくなっていることだ。

 なぜ難しいかと言うと、自分の「何か」に対して他者が、社会意識が「NO」といってると思えるからだ。
 (実際はそれも幻想なんだけど)

 「私は私を愛している」と言うとき、「でもあの人が」とか「でも社会が」「世間が」「親が」とか外の存在がブレーキをかけるように感じるから。特に集合意識の中でマイノリティである場合は、そのプレッシャーを非常に重く感じるかもしれない。

 だからマイノリティはマイノリティ同士で集まったり、話し合ったりすることで自分たちが決して一人ではないことを確かめ、そのような同質性の場にいることを自己肯定のよすがにすることもできる。


 そういうピアカウンセリング的な場は、すごく癒しになるとは確かだと思うし大事だけど、そこに依存しすぎると結局はそういう形の『社会意識』による束縛となる。マイノリティの集団という社会構造の中で、自己の価値がどのようなものかという差異化と比較がまた始まるからだ。『社会意識』とは結局、他者の目に依存することにより成立しているものだ。

 宗教的な団体、スピリチュアルな集いでも普通はそういう『社会意識』が存在している。


 僕の場合、自分を愛することが癒しや、ハッピーに生きていくということに関して重要だということはずいぶん前から気づいていたし、自分のテーマだと思ってるけど、やっぱり社会意識のプレッシャーというものをとても感じるところでもあった。

 自分の異質性にもとても悩んでた。

 ピアカウンセリングに参加したことはないけど、いろんな人と会うことで、この人とこういうところは異質だけど、こういうところは同質だなと共感したりすることで、自分を受け入れやすくなった部分はやはりある。


 でもやはり、自己愛の基盤と言うのは神的な意識、神の愛なのだ。


 神の愛を受け入れるときに、社会意識による制限を越えて、どんな自分も、ありのままを愛せるのではないかと思う。  



 神の愛は、今の、僕らを、そのありのままのすべての性質とともに、完全に愛している。



 神の愛というか、神への愛と言うか・・・・それがなかったら僕はもっと自己否定の中でつぶれていたかもしれない。


 神の愛があるからこそ、どのような異質さを抱える人でも、社会意識を超えて、自分を愛することができる。
 マイノリティの意識が強い人ほど、神の愛のありがたさがわかるような部分がある。
 なぜなら社会意識が自己肯定の頼みにならないことが身にしみているからだ。
 


 僕らにとってまず一番最初に重要なのは、自己と他者の関係や、自己と社会の関係ではなく、

 僕らがどれくらい自分を愛するか、そして僕らがどれくらい神を愛するかという

 僕らと「愛」との関係なのだと思う。 
 

                無条件の自己愛=神の愛(神との愛)


 自分を愛しにくいと感じる人は、神を愛したり、神の愛を感じることをお勧めするし、神を愛せないと思う人は自分を愛することをお勧めしたいと思う。それもできないと思う人は、何でも愛せるものを愛せばいいし、自分がどう思おうと愛してるものによって僕らはすでに生きているのだから、僕らを今生かしているそのものを愛すればいいような気がする。


 だから僕のテーマのひとつはありのままの「自己愛」だと思うけど、それは裏を返すと神の愛なしには成り立たないものなのだ。
 今となって思うとそれは僕が人と違う部分や、孤独に苦しんだから気づけたことだった。



 愛というコインの裏表はそんな構造になっている。




セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/13 14:35

類型と『傷』

 1月からたまに、去年スピリチュアルリーディングをしてもらったHさんのサロンで、カウンセラー養成のワークショップみたいなのに参加している。→この記事参照

 前回は、ADHDやアスペルガーなどの発達障害、それに境界性人格障害について少し勉強した。

 その内容については以前PSW(精神保健福祉士)の勉強をしてた時に学んだことと結構かぶっていたんだけど、

 驚いたのはワークショップの資料にHさん自身が幼い時からADHDで大変苦労されたことが書かれていたことだった。

 ADHDは、発達障害(生まれつきの脳の機能障害のようなもの)の一種で特徴的な症状としては、いつも落ち着きがなくそわそわしていて、やらないといけないことに集中できない。児童の場合は、授業中じっと座ってられない。思いつきで行動しその影響がどこにどのように出るのか事前に考慮できない。やるべきことを先延ばしにして仕事が溜まっていく。共感能力に難がある場合があり、本意ではないのに相手を怒らせてしまったりしやすい、その結果孤立しやすい、などがある。

 Hさんは国際的な同時通訳者として活躍したり、セラピストとしてもいろいろな活動をされてるのでとても意外に感じられた。
 なんでもセラピストとして必要なコミュニケーションスキルなどは、後天的に意志の力で学習していったということだった。
 
 僕は身内にも、また知人にも精神障害や発達障害っぽい人が何人かいて、ここでまたHさんのお話しを聴き、そうとう自分は精神の機能不全、その結果の適応障害に縁があるのだな~(^_^;)と思った。

 僕自身も、軽く自閉的なプログラムが入っていて、学校や職場に適応しづらかったりすることがあるので、ここでその話しをまた聴くということは、自分の体質をもっともっと受容して、その特質を生かすほうに考えた方がいいのかなと思った。 

 もう10年くらい前、癒しに興味を持ち始めた頃、最初にあったスピリチュアルヒーラーに、

 「あなたの苦しみの原因について次に会う時までに瞑想しておきます」と言われ、結構期待していたのだが、次会った時に

 「・・・・体質ですね」と言われ、「えっ、それだけ(-_-;)」と若干がっかりしたことがあった。なんかごまかされてるような気もしたのだが今から思えば、ある意味的を得た答えだった。

 その頃僕には自分が生きづらいのは「癒されていないから」で、色々なヒーリングやセラピーを受ければ、きっと楽に、そして幸せになれるに違いないという発想しかなかった。だから前世とか、幼少時のトラウマとか何か変更可能な要因にしてくれないと、「体質・・・」なんてそこで話しが終わっちゃうじゃん、と思った。

 でも有名なバーニーの祈りにこういうものがある。


 神よ、

 変えることのできるものについて、
 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
 変えることのできないものについては、
 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
 そして、
 変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
 識別する知恵を与えたまえ。



 「体質」は基本的に変えられないものである。それは「傷」ではないからだ。

 この生を生きる上で、神に与えられたか、自分で設定した基本プログラム。

 ある種の特異な「体質」によっては多くの苦痛が生まれるので、人はそれを否定したい、あるいは「治療」してしまいたくなる。 
 でも必要なのは、まずはそれを冷静に受け入れ、認めること、その体質で生きてきた自分を労ってあげることだと思う。そうすればその体質に特有の長所であるとか、今までよりも楽に生きる術も見えてくると思うからだ。
 「体質」は変えられないが、その体質への理解や、反応を変えることができる。
 変えられないものへの自分の反応を変えられることこそが、スピリットの自由さの証だと思う。

 一方、『傷』は治療することができる。それは体質というハードウェアを撹乱する、外部からのウィルスのようなものだからだ。
 深い傷もあり、浅い傷もあるからその全てが生きている間に治療できるかはわからない。
 生きていれば新たに傷を負う可能性もあり、むしろ、傷を負っているというのがこの世界を生きる存在にとって普通の姿でさえあるのかもしれない。

 わかりやすい『傷』としては災害や、事故、戦争体験、DVなどのトラウマによって陥るPTSDがある。

 これは傷の中でも、より生理的な反応が強く出るし、普通の生活にはっきりと支障が出る。

 眠れない、辛い記憶のフラッシュバック、不安の発作、神経過敏で怒りっぽくなる、抑鬱状態などだ。

 Hさんのワークショップで、トラウマに対応したエクササイズがあるという情報を教えてもらった。

 TRE(Trauma release exersise)という名前で、デイビッド・バーセリ博士という人物が開発したものだ。
 博士自身、深刻な戦争体験から重度のPTSDになり、正気を失いそうな状態から回復した経歴を持つ。
 TREはトラウマを思い出したり、メンタルに働きかけるセラピーではなく、からだの筋肉→脳へ働きかけることによってトラウマ反応を解放・リセットしていくという作用があるようだ。 

 TREの話しを聴いて、僕がたまになる夜中に飛び起きてしまうような症状というのは、かなりPTSDに近い色合いだし、より生理的なレベルで症状化してしまったものには肉体レベルから働きかけるものの方が効果的ではないかと思い本を買ってみた。

 バーセリ博士の本は、地福寺和尚さんのライブではないが、この世界はどんなことが起こっても不思議じゃないという考えを表明しているあたり、「うまくいく」だけを強調するスピリチュアル本と違い信頼できる感じがした。紛争の地を転々とし、多くの悲劇を見てきた中で開発されたエクササイズなので、実用的でしか有り得ないのかも。確かに未来に何が起きるかはわかったものじゃないけど、でも「今・この瞬間」のよろこびを台無しにしている傷を開放すれば少なくとも、この瞬間与えられている平和や穏やかな日常をしっかり受け止められるということを教えてくれる本でもある。

  現時点でどの程度自分のエネルギーが解放されてるのかわからないけど、とてもリラックスできるので、これは結構いいんじゃないかと思う。
      ↓↓↓
 





 「体質」ということに話しを戻すと、ADHDやアスペルガーに始まり、人の心身のハードウェアの性質を現す多くの類型がある。
 エンパス(人のエネルギーに共鳴しやすい)や、HPS(小さな刺激でも動揺しやすい)というのもあるし、スピリチュアル系になるとインディゴチルドレン(普通と異なった感性を持つ進化した子供たち)とか、ウォークイン(宇宙人の魂を持つ人)なんていうのもある。

 こういう類型論が役に立つのは、あ~ADHDだったのか、とか、インディゴチルドレンだったのかとか、
 宇宙人だったのか(((o(*゚▽゚*)o)))思うことで、自分の状態を受け入れやすくなるし、もしそういうひとつの類型についての本を読めば、より自分の個性についての理解や、対処の方法を学ぶことができるという点だろう。
 
 あと、自分は一人じゃなかった、地球上にはアスペルガーやADHDの仲間がたくさんいる!と感じられることも、こういう類型によるくくりに自分を入れるメリットだと思う。
 もちろん、これには現実離れした類型に自分を入れて自己満足したり(私は光の戦士の転生、課長は元魔族だ!とか(^O^)←極端)、類型に「甘える」ことによって逆に狭いアイデンティティにとらわれるというリスクもある。
 類型論というのは、より深い自己理解や、自己受容に用いられる場合にのみ役立つのだろう。

 しかしそれは擬似的なマニュアルだ。
 「私」のすべてはそこには書かれていない。
 言わば僕らは他に類似品のない宇宙で一台のバイオコンピュータで、出回っているのは「僕らに少し似た機種のマニュアル」でしかないのだ。それらを利用することはできるが、それらにとらわれると、あなただけにしかないシークレット機能を見逃してしまうかもしれない。


 でもそれら擬似マニュアルをうまく利用すれば、自分の個性への理解がより緻密になっていく。するとどこからがウィルスでどこからがハードウェアか、どこをアップグレードするかが少しづつはっきりしてくるように思う。 



セラピー&ヒーリング | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/03/18 21:17
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