今さらですが、EFT






  トラウマの治療として、SE(somatix experience)の記事を以前書きましたが、10年くらい前から結構浸透しているEFT(emotional freedom teqnique)についてはなんとなく知ってるもののあまり興味はありませんでした。

 今回、「人はどうして死にたがるのか」というヘビーなタイトルの本を読んでいたところ、タッピングについて書かれている部分があり、興味を持ったのです。

 この方は自衛隊でずっとカウンセリングをされてきた方で、希死念慮がともなう深刻なうつのケースも多く、経験されてきたようです。
 この本に書かれていたうつのメカニズムの説明「うつは本来生命を守る、怒り・悲しみ・不安などの感情がいっせいに誤作動を起こしている状態」もすごくしっくりくるものでした。




 それだけに、こういう立場の人でさえ、ちょっと著書の中で紹介したくなるEFTには何かあるのではないかと思い、調べてみました。

 EFTのやり方は今ではネットで検索するといくらでも出てくると思いますが、拍子抜けするくらいシンプルなものです。
 苦しい感情、症状などを言語化しながらからだの特定のポイントを中指でとんとんたたき続けるだけです。

 これだけのことで非常に重いトラウマや、からだの症状から解放される人がたくさんいるみたいです。

 ちょっとEFTの2ch掲示板を見てみましたが、なんとなく批判的コメントが多そうな2chでも肯定的見解が多かったのが印象的でした。

 プロのヒプノセラピストの人でも、メインはヒプノでもサブ的にEFTを取り入れている人は多そうです。

 ただ「人はどうして死にたがるのか」には、これが向いてない人もいて、必ずしも万人に有効と言うわけではないので効果がない場合は忘れてくださいと書かれています。でもなんとなくざーっとネットでみた限りでは、実践すればやった人の半数以上はなにかいい影響がありそうなそんなイメージのある療法かなと思いました。

 僕の場合は、気になる感情にフォーカスして、鎖骨したのポイントをもむだけでもかなり感情が動くのを感じました。

 CBSでもEFTにより退役軍人のトラウマが劇的に好転したケースをニュースでとりあげていて驚きました。
 



 ウーピーが、飛行機恐怖症を克服したエピソードもあったりして、、、いやー想像以上にワールドワイドですね、タッピング。
 野球選手までベンチでタッピングって・・・いつのまにこんな世界になってたんだ。こんな光景あること知りませんでしたが。 ツボを叩くだけなので少なくとも血行はよくなるでしょうし、お金もかからないので、やってみても損はない方法ですよね。





セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/21 19:15

Radioupdate & 引き寄せ系書籍 人生はシュレディンガーの猫もとい、チョコレートの箱 


  今年の1月某日に収録したトークをアップロードしました。

  人生の目的と使命について


 

  index
  
 ■例えば、グラハム・ハンコックの使命はなんだろう?
 ■「想像すると見えてくる」
 ■ホテルのナイトシフトで救われた「魂の目的」
 ■ブレナン系ヒーラーKimさんのこと
 ■行っていることはすべて使命の断片
 ■魂に刻まれていく印象
 ■言葉のバトン~人生は巡る輪のように~
 ■ミーム 
 ■人生のコアにある花が開く年に


↑のお題ともつながるテーマですが、ここのところ、引き寄せ系の本をよく読んでいます。

 別に神と悟りにしか興味のない硬派なスピリチュアリストを気取っていたわけじゃないですが、このジャンルは割と敬遠してた部分がありました。

   しかし何気なく表紙にひかれてこの本を購入してから、続けて何冊か読むことになりました。

  
   

 僕は本を買うときは直感的に買うことが多いです、あんまり特定のジャンルを体系的に読んだりはしません。タイトルとか、筆者の名前とか、にスイッチを押されることも多いですが、今回のスイッチONはこの装丁の感じでしたね~。

 『引き寄せ思想』で語られることが、わかりやすくまとめられています。
 『引き寄せ思想』とは、類を友を呼ぶ、波動が共鳴しあう、思考が現実化するというような考え方で最近では「ザ・シークレット」のブレイクで有名になったものです。

 ↓この本も有名です↓以前マイミクさんに教えてもらい買いました。流し読みしただけだったのですが、また熟読してみました。

 

 思考が物理的現実と関係性を持っているのは100パーセント間違いないですが、それはどの程度なのか。また今体験している現実にどの程度自分の意思が反映しているのかということに関して様々な考え方があります。↑の本は現実は100パーセント思考の反映だと言います。これを引き寄せの過激派、あるいは左翼と呼びましょう(笑)

 せっかくサヨクを設定したので、引き寄せのウヨクも設定しておきます。↓

 

 右翼は「すべては神の意志であり、何もぼくらはやっていなとい」う古来からの思想です。
 引き寄せなどはなく、すべては与えられるだけであり、100パーセント僕らは神からのお恵みにより生きていると言う考え。
 バガバッドギータなどにもみられます。

 僕はやや右翼よりなところがあるので、エイブラハムは面白かったけど、ちょっとなーというところがあり、バランスをとるために前から気になっていたヨガナンダの成功哲学を買ってみました。



 これはかなりしっくりくる部分がありました。やはり伝統的なヨガの体系で修行してきた偉人なので、カルマや神の意志ということも含めての引き寄せ思想、あるいは成功哲学となっています。

 エイブラハムはカルマとか前世とか「そんなの関係ねー!」(古っ)という態度でした。

 威勢はいいけど、個人的にはそれもなーどうかなーっていう

 20世紀初頭に書かれてるのでちょっと時代を感じる部分もありますが、現代でも十分応用できる考えに思います。ウヨクの要素もあるけど、左もはいっており双方に受け入れられやすいのではないでしょうか。

 ただ残念ながら引き寄せ好きな女子とかは、あえてヨガナンダには行かないでしょうね・・・・

 ↓そして古典となっているこの本↓




 この本はエネルギーが自分と合わないのか、なんかちょっとだけしんどいです。携帯版のくせに重くて分厚い!全部読んでません。
 でもさすがに成功哲学の源流だけあり、興味深い箇所はたくさんあります。

 名前だけはもちろん知ってましたが、著者のナポレオンヒルが、鉄道王のカーネギーより依頼されて25年も成功者への調査の上に執筆したというのは知りませんでした。ただ成功バイブルなので、内容がもうすでにいろんなところへ流出してるんですよね。潜在意識とか、アファメーションとか。僕としては、カーネギーと著者との関係をはじめとするこの本の成り立ちにより興味をそそられました。20世紀アメリカの基盤を築いた鉄道王がこういうことに興味を持っていたというのは考えさせられます。

 思想的には・・・左なんですが、さすがにキリスト教国家の本ですし多少右も入ってますね。

 富や豊かさを求める場合、多少は左的要素があったほうが元気にはなります。100パーセント神のお恵み待ち状態よりも、自分の思考を整えて行動すれば希望があるかも?と考えたほうがモチベーションはアップします。右をベースに考えても神の意志により、自分の想念が現実に影響することを知らされる、ということはあると思うんですよね。「天は自ら助けるものを助ける」という格言のように。

 ちょっと面白かったのでふざけ気味に右と左にたとえてみました。どちらが真実かと悩んだり、どちらが真実だと言い切るのは政治的発言と同じくアブナイかもしれませんね~。ある時は右(神の意志)、ある時は左(自分の創造)でいいんじゃないでしょうか。ノンポリの日和見ぐにゃぐにゃで行こうと思いますよ、僕は。

 そして僕の好きなフォレストガンプの言葉が過ぎります。

 「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで中身は分からない」

 Life was like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get

 「僕にはわからない・・・皆運命があるのか、それとも風に乗ってただ彷徨ってるだけなのか?

       たぶんその両方だろう。両方が同時に起こっているんだ」

I don’t know if we each have a destiny, or if we’re all just floating around accidental-like on a breeze. But I think maybe it’s both.Maybe both are happening at the same time





セラピー&ヒーリング | コメント(3) | トラックバック(0) | 2016/02/11 13:17

SADサーフィン:冬季ウツとの付き合い方


 早くも11月になり、肌寒い日が多くなってきましたね。

 今日は朝から空は一面ミルク色で、冷たい雨が降っています。

 この季節になると、いつもテンションが下降気味になっていきます。

 前から自覚していましたが、僕はSAD(seasonal affective disorder)日本語で言う冬季うつの気があるようです。SADは秋から冬にかけて、気力の低下や、感情の不安定、睡眠過多、食欲の変動、ひきこもりなどの症状をしめすことです。 

 たぶん20代から症状が強くなり、SADの概念がないころはひたすらその不調にかなり振り回されていました。
 ここのところは「秋はヤバイ」ということを学習していますので、自分なりにセルフコントロールしたり、半分修行みたいなこともしたり(水かぶったり)することで、やや付き合い方はわかってきましたが、それでも明らかに春や夏とテンションが違うことは否めません。

 今年はいろいろ環境の変化も合間って10月はなかなか大変でしたが、何かのヒントになるかと講談社から出ている「季節性うつ病」<ノーマン・E・ローゼンタール著>という本を読んでみました。

  


  それで思ったことなんかをいくつか書いてみようと思うのですが・・・

 まずSADの原因は、秋冬の日照時間と日照量の減少が原因と考えられています。

 簡単に言うと、光の減少が人間の脳に作用して、春夏とはまったく違う生化学的変化を起こしている状態、と言えるのでしょうか。

 それは一言で言うとセロトニンの減少ということになるようです。

 セロトニンは安心感や、集中力、感情の安定などを司る神経伝達物質で最近は一般にも有名になってますね。
 それが減ってしまうとSAD特有のさまざまな症状が出てくるようなのです。

 セロトニンはドーパミンやノルアドレナリンなどの伝達物質を調整する作用もあるようで、セロトニンの減少によりドーパミン、ノルアドレナリンが暴走し快楽的な依存行動に走らせたり、キレやすくさせたりもするみたいです。

 僕の場合は、やる気が低下するとともに、感情がコントロールできなくなる、忍耐力がなくなるという傾向がでてくることに気づいていました。普段なら何気なくスルーできるようなイライラにひっかかり、「なんだこのヤロー!」となってしまい、その後うつ状態になるとかそんなことが何度かあったような気がします。

 11月ごろになんかのヒーリングを受けに行って「あなた死神みたいな顔してるわよ」(どんな顔?)とか言われたこともあります。

 まー「それセラピストが言う言葉か~」とも思ったのですが。
 僕の感覚としては非常にひからびてたので、そう見えてもおかしくなかったかもしれません。

 10月下旬、11月から12月冬至前くらいが結構きつい時期でしょうか。
ハロウィンの飾り付けやイベントを見ると、闇の季節が近づいたようでまじめに戦々恐々としそうになります。
 SADの人は11月~2月、3月くらいまで症状が強い人も多いらしいです。
 
 でも僕の場合、1月になり毎日日が伸びて行ってるのがわかるとそれだけでかなり明るい気持ちになるし、梅も咲いたりしますから2月は寒いけどそれほどつらくはないかなーと思いますね。
 来月は3月だ~と思うだけで、結構うれしくなったりするもんです。そして春分~夏至くらいまでがもっともテンション的には高いと感じます。

 you tubeに動画出してみようとかいう発想は春だからこそ思いついたのかもって感じです。
 今はあまりしゃべる気がしません(笑)

  ということで久しぶりに長々と書いています。 

  なんだかSADに関しては、東京に来てからのほうが過酷な感じもします。

  SADは日照時間と関係してるので一般に高緯度地域のほうがより、発症しやすいと言われます。そうすると東南アジア、オセアニアより、ヨーロッパのほうが患者さんが多くなるわけですね。

 日本でも東北地方は自殺率の高さで有名です。

 ただ、日照量も関係するので、低緯度でも冬場に曇天が多い地域ではやはりSADは発生するようです。

 しかし、単純に日照時間だけで考えた時に、本日2015年11月2日JAPAN TOKYO北緯35度の日の出は6:03分
 日の入りは16:46分です。昼の長さは10時間43分です。

 これが僕の出身のKYOTO(同じく北緯35度)の場合、

 日の出:06:18
 日の入り17:03

 昼間→10時間45分 

 このへんあまり変化はないようですが、突然九州に飛ぶと、

 たとえば

 KAGOSHIMA北緯31度 の場合

 日の出:6:34
 日の入り:17:28

 昼間→10時間54分

 OKINAWA 北緯26度は

 日の出:6:38
 日の入り:17:47
 
 昼間→11時間9分です。

 沖縄は東京より日の出は30分ほど遅いですが、日の入りが一時間ほど遅く、この時期でも17時47分、18時前でも明るいですね。東京は最近17時過ぎると真っ暗です。悲しい><まさにS・A・D(^^;

 逆に北海道根室 北緯43度は 

 日の出5:53
 日の入り:16:09

 10時間16分という短さ・・・

 うーん美しい自然と地平線、「北の国から」にあこがれる部分はありますが、僕は北国には住めそうにありません。

 関西圏に生まれて東京に行くとわずかながら高緯度に行くわけであり、生まれた時に刻まれた体内リズムと微妙に違うサイクルへの適応を迫られるのか?とも思ったりしました。さらに6年ほどさらに南の高知にも住んでたし・・

 たとえば東京と鹿児島は緯度にすればわずか4度の差ですが、これだけ違うとSADの発症率は4パーセントほど増えてくるようです。

 「季節性うつ病」の資料によると、全人口に対するSAD、準SADあわせた発症率は、北緯35-40度のネバダ、ユタ、コロラドなどで19.7パーセントに対し30-35度のアリゾナ、ニューメキシコ、テキサスでは14.2パーセントとなっています。

 これだけ読むと、なるべく早くハワイ(ホノルル 北緯21度 11月の昼間→11時間20分)に移住したい気持ちでいっぱいになりますが、実際SADには転地療法や冬季のバカンスが効果が大きいようです。

 といっても実際に移住したり、旅行には行くには時間・お金の制約がある場合が多いです。 
 さらに旅行の効果は一時的になりやすい。
 
 そこでこの「季節性うつ病」ではSADの治療は光治療を中心として紹介されていました。

 光治療は冬季に不足する日照量を照明装置の光を浴びることによって補うものです。
 現在ではこのような装置も市販されています↓↓↓





 これは多分かなり効果はありそうですが、やや高価なことと、なるべくヨーギ的に、自然や自分の活力だけで好転させるほうが好きな方には、以下のような方法も効果があるようです。


 ■断眠、早起き
 ■とにかく野外で太陽光を浴びる、照明を多くする 
 ■運動、筋トレ
 ■呼吸法
 ■瞑想
 ■セロトニンの原料となる炭水化物などを少し多めにとる
 

 今回、僕はまた日の出を連続して3日ほど見にゆき、そのエネルギーをもらいました。
 それ以後6時半には起きる生活を続けており、最初の谷間ははどうにか乗り切った感があります。
 ここ2年くらい、冬場はよくやってるんですが、朝の太陽はいつ見ても気持ちがよいです。
 体の不調や、だるさはつらいものですが、冬になると太陽のありがたさがわかるのはいいですよね。
 闇が多ければ、その間のわずかな光を人はとらえようと努力をするものだと思います。
 

 我々はSADの患者の光に対する感受性が健常者よりも弱く、そのために冬季にはより強い光を必要とするのではないかと考えた。最近のダン・レオン博士による国立精神保健研究所の研究では、その逆かもしれない。
 SADの患者は、暗い部屋の中で弱い光を健常者よりもすばやく見つけることができるのである。この環界の光により敏感であるという点は、私の臨床的な観察とも一致する。私の経験ではSADの患者は環界の光の質の非常に敏感なのである。しかしながら、健常者よりも環界の光に敏感な患者たちが、それにもかかわらずより強い光を必要とするというこのパラドックスは、科学的にはまだ解決されていない。


                                           季節性うつ病(223ページより)




 SADの人たちの光感受性は実は高く、暗闇の中で光ってるものを発見しやすいそうです。
 光感受性が高い人が、光不足になるというパラドックスがあるそうですが、中にはその季節の変化によって起こるこころの波をアーティストとして生かしているという人もいます。
 ここに至って過敏性は一種の力や、創造性にもかわるわけですが、本の最後にそんな芸術家の例が紹介されていてとても勇気付けられました。

 
 ロバートは物語を語るとき、目に入る光の量を調節する。自分の気分を調節して、それを聞くものの心にも伝えようとするかのように。物語の中で暗闇について語るときには、彼は目を閉じて手探りするようだ。光について語るときには、彼は目を開き光を見つめる。この物語の、そして他の冬の物語のもっともドラマティックな瞬間は、暗い風景の中に突然予期されずに現れる強い光とともにやってくる。光と光の引き起こす化学反応に飢え切っていた眼球の中の受容体が、暗闇から突然現れた光りに反応して化学物質をあふれ出させ、感覚の洪水を起こすのではないだろうか。

 ロバートはこうして彼の生活の実例をほんの少し見せてくれた。彼が数時間のうちに語ってくれた四十年間の生涯について思い返すと、私は彼の最初の思い出にこころ打たれる。
 弟の誕生日のケーキの上のろうそくの炎を見つめている三歳のころの思い出である。わずか三歳にして暗い日の光の魅力にとりつかれていたのだ。

 ロバートの話を聞きながら、私はこの本の中のすべての人のことを考えていた。暗いニューイングランドの田舎道を疲れ、悲しみ、クッキー(クッキーは彼女のうつを和らげる)を求めて車でいくペギー、寒い冬の日に学校を休むアラン、もとは疲れ切って約束を守れないほどだったが、今は自信に満ちて光治療機を売って歩くニール、夏の昼下がりに野の花を摘むジェシカ、そして、今、冬の旅の物語を、暗闇からあふれ出す光を語っているロバート。
 これらの人々は光と闇への並外れた感受性によって、我々の世界についてまた我々のそれに対する反応について、我々が気づかずに通り過ぎてしまったかもしれない何事かを語っているのである。


 日の出を求めて真冬の早朝に太陽を見に行ったからこそ見れた、霜が朝日に輝く美しさや、太陽がからだを温める感覚を思い出します。


       geshi.jpg

セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/02 17:13

自己表現と『聴き手コンプレックス』について


 こんにちは、記事ではご無沙汰中のはいたか鳥です。

 このところ気がつくとラジオのアップデートだけを更新していました。

 なんでこうなったのか。思い返してみると、好きな本や詩の朗読を音声ファイルで出してみようかという計画は前からあったのですが。

 去年の暮れくらいでしょうか。時々お世話になっているセラピールームへ行く途中録音したヘッセの「デミアン」の朗読を聴きなおしていました。そうしてると、誰か他からもらうメッセージよりも何かその文章の中に、自分の声の中に心の深いところを振動させる何かがあることに気づいたのでした。

 そんなこんなで生きるうえでのヒントは、外側の権威やマインドが志向する「いと高きもの」だけにあるのではなく、自分が本当に愛するものの中に(その時の僕にはデミアンの一節だったわけですが)、そして声となって現れている自分の波動の中にあるのではないかと改めて思った次第でした。 

 ということで、自分の肉声で愛するものについて語ってみたいという衝動が高まってきました。
 ICレコーダーに向かって朗読やアドリブでなんか話したりということを続けました。

 だいたい一月くらい録っては聞き、まあまあ形になってると思われるものは動画ファイルに編集してアップするという作業をしてきました。その過程で結構多くのことに気付きました。

 話し方の癖とか、まあそういうのもあるんですけど、大きいのは『声』での表現に自分が思ってた以上になにかブロックがあるという気づき。

 あんなべらべら喋りやがってなに言ってんだと思われるかもしれませんが、あれはICレコーダー君という理想的な聴き手がいるので出来たことではあります。

 ブロックのひとつはどうやら「恥ずかしい」という感覚、「不安」という感覚、などですがどうも自己表現全般に対して「恥」の感覚が強いようです。そして言葉を発するということ自体に何かとても怯えている部分があるようでした。なのでRADIOは、あえて恥をさらすという実験的な意味合いをも持っています。

 まあこういう方多いかと思いますが、僕はほんの一言二言でも、相当気をすり減らしながらこれでよいのか迷いながら発しており「何気なく話す」ということが割りと苦手なのです。

 そのため落ち着いて慎重な人に見られることも多いですが、会話を楽しんだり打ち解けたりするのがながらく苦手でもあり、人と会ったあとに「あーあの言葉は傷つけなかっただろうか」とか「不愉快にさせ怒りを買っていないか」なんて煩悶することは昔から日常ちゃめしごとでありました

 人と会ったあとその時の会話が頭を何度も何度も駆け巡り、言った言葉や言ったほうがよかった言葉が反響し、眠れなくなってしまうのです。

 というほど自分自身の表現には自身がなく、迷いが多いということだと思います。

 でもですねーだいたいアドリブで話してみて、聴きなおしてみると、やや自信がもてたという面はちょっとあるかもしれません。

 ↓この動画はそんな体験から自己表現に関することについて話してみました↓
 

    




 聴き手コンプレックスというのは僕の造語ですが、なんか人と会うと相手の話ばかり聴いて全然喋ってないなあ、悩みや愚痴を聞きすぎて疲れるなあ もう誰にも会いたくないなあ みんなきっと私のこと(話し)はどうでもいいんだなあ なんていう思考に陥りやすい人のことです。

 僕は昔からそういう心境になることが多々あり、頑張ってよく傾聴をしてると、「なんか喋れよ」と言われることもありました。
 そういうときたいてい僕は聴き疲れと、人疲れ、相手の存在に圧倒されることにより頭もぽけーっとして口を開くことが出来なくなっているのでした。そういう時はよく「でさ、さっきのあれはどうなったの?」とか「質問をする」ということによりその場をしのぐことが多いです。

 どうも「黙れ」というサインと「喋れ」というメッセージがダブルバインド的に混乱を引き起こしているような部分があるようです。
 これはおそらく多くの人がかかえる状態でもあり、意外と表現者として生まれた人にこそその症状が強く、ミッションを全うするためにはそれを克服する必要がある場合も多いと思います。

 そのように自己表現が抑圧される原因は何か、そこからの解放の道筋はどのようなものかなどについて考えてみました。 
 「恥じ」の感覚が表現をブロックすること、そして人間関係によって発生するブロックだけではなく、そもそも日本の教育システムにそれを助長する側面があるのではということ、恥じと芸人、自己表現の根源は何か?などがテーマとなってます。

 会話は相手とのフィードバックであり、繊細で気の弱い人はどうしてもリアクションが少しでも悪かったり、不快にさせたと認識するとあっというまに黙るか、相手のペースに合わせて傾聴モードになるという傾向があります。

 人見知り、コミュニケーション不全の原因のひとつは反応を気にしすぎること、そして反応をネガティブに解釈してしまう癖によって、他者とのフィードバックが怖くなることによるのかもしれません。

 それならば、まず自分自身や人間以外とフィードバックループを創ってみるという手もあるのです。

 表現エネルギーは、創造エネルギーの一部であり、あらゆる創造性と同じく取り扱いに注意を要するものです。
 暴走させても、抑圧させてもよくなく、穏やかな道筋をつけてやる必要がある。
 特に生まれもって創造性のエネルギーに突き動かされてる人は、よりいっそう、その扱い方を学ぶ必要がありそうです。
 
 悲しい犯罪などは非常に粗野で破壊的なかたちで行われてしまった自己表現という側面もあるかと思います。

 なのですべての人が自分の表現エネルギーを創造的に流すということは、世界全体のためでもあるのでしょう。

 僕らの内側で生まれ出ることを、誰かに聞かれることを待っている「声」

 それは自我を押し通し、主張する表現だけではなく、「私たち」からの『声』、叡智からの、未来からの『声』かもしれないからです。 

 
    


 

セラピー&ヒーリング | コメント(4) | トラックバック(0) | 2015/07/04 12:08

ファスティングで思い出す、コーヒーと砂糖の日々 ■地のヨーガ■



ここのところまた断食熱が高じてきたので、たまに半断食ぽいことをしています。

 普通の食事は一日いちどだけにして、あと一食はこういう感じのフルーツサラダ盛りにしたりだとか、あるいは玄米と味噌汁のみにしたりとか。あるいは食べないとか。

 150505_1304~01

 大根、ニンジン、レタスのサラダ、オレンジ、ナッツ 豆乳

 150521_1353~01

 りんご ベビーリーフ 雑穀 ナッツ 豆乳 いなご(笑 物産展で買った。まずくはない) 


 おろしだけで一日過ごす半断食もしてみました。

    150518_1301~01


 野菜と果物のみはからだが軽くなりかなり気持ちがよいのです。
 
 さすがにいきなり夕方までまるっきり何も口にしないと若干フラッとしましたが、これも要は慣れなのかもしれません。

 効果としては体が軽いということと、心が穏やかになる、イライラしにくくなる、不安感が軽減するということを実感しています。感覚、特に嗅覚が鋭敏になり、犬になったような気分を一度味わいました
  
 食べることや食べないことに思いを馳せていて、思い出したのは、以前学生時代、メンタル的にかなり調子が悪かったときの食生活でした。

 毎朝、必ず、缶コーヒー(砂糖入り)を一本飲んでいたことを思い出したのです。

 3白の害と言われるように、精製された白砂糖はあまりからだによろしくないとされています。
 
 僕は基本どちらかというと辛党で、辛いラーメンだとかカレー、スナック類はついつい買ってしまうことがあるけど、スイーツに取り付かれたことはありません。

 たまに食べる分にはおいしいので、出されたり、もらったものは食べるけどあまり積極的に買い求めることはありません。特に洋菓子系はここのとこ苦手になりました。

 最近、半断食をしてたころ、職場でロールケーキを出してもらったのですが、半分も食べないうちに胃の辺りがかなり気持ち悪くなってきたので、さすがに残しました。なんとなく洋菓子系は重たくなるというのは以前から気付いていたのですが、あまりに強烈に反応が出たので、これはちょっとよろしくないなとそれ以来あまり買わなくなりました。

 そんな僕ですが、砂糖を唯一積極的に摂るのは珈琲を飲むときです。
 ブラックでも飲めますが、やっぱ多少甘味があるほうが珈琲に関しては好きです。
 
 きび砂糖を小さいスプーンに二杯くらい入れて、豆乳かミルクを多少加えてから飲みます。

 でも学生の頃は自分でコーヒーを入れるという発想は皆無で、僕の中ではコーヒーとは缶コーヒーを意味していました。
 缶コーヒーのCMを見すぎた影響かもしれませんが、「ていうか、自分で入れたのなんてうまくないでしょ、プロが作ったこっちが本物でしょ」くらいの勢いでした。
 
 毎朝、目が覚めると近所の自販機にコーヒーを買いにいくというのが日課でした。
 多いときには一日に2本くらい大量の砂糖が入った缶コーヒーを飲んでました。

 今から思えばちょっとひ~な感じですが、缶コーヒーを飲むと、もやっとウツ気味だった頭が急速に目覚め、高速で回転を始めいろいろな考えが次々に浮かびテンションがあがります。それで病み付きになったのでしょう。

 不安と落ち込みが続く日日だったので、この朝の缶コーヒーに自然と頼るようになりました。
 缶コーヒーなしで一日を始めるのがなんとなく不安になり、それで毎朝目が覚めると自販機に直行するようになったのです。

 どのような物質の影響かはわからないけど、缶コーヒーと家でいれるコーヒーはどうもその性質がまったく違う別物の飲料に思えます。

 サイフォンコーヒーもそれなりに覚醒効果はあるけど、缶コーヒーよりはかなりマイルドなあげ方をします。
 一方、僕のやや過敏な体質もあるかもしれませんが、缶コーヒーはなにか薬物的なまでに脳と神経にエフェクトします。
 大量の砂糖とカフェインの相乗作用かもしれません。
 あるいは他に入ってる物質の作用もあるのでしょうか。

 とにかく朝缶コーヒーを飲むと、僕のマインドは急速に高揚して、ノートになにか書きまくったり、自転車でその辺を走り回ったりするけど、午後になるとまた急に落ち込みイライラしがちになります。

 おなかが減ると、いつも以上に心が不安定になるんだろうと思い、イライラし始める前になるべく早く昼食を摂るようにしていました。

 大量の砂糖を一気に取り込むと、血糖値が上昇します。
 すると、これに対して血糖値をさげるインシュリンが分泌され、一気に血糖値がさがります。
 すると、低血糖時にでるアドレナリンなどの人をイライラさせる物質が分泌されるようです。

 今にして思うと、僕はおなかが減ってイライラしていたというよりも、缶コーヒーを飲んだ副作用としての低血糖状態を経験していたのかもしれないと思います。昼食になにか食べると、それがもとに戻り、落ち着いたのかもしれません。

 これはきっと麻薬なども同じだと思うけど、外側の物質の影響で急激な興奮を引き起こすと、その後急激な落ち込みが必ず起こります。

 砂糖とインシュリンにより血糖値が乱高下することにあわせて、おそらく脳神経系の働きも乱高下し、それはメンタル的には躁鬱、不安、イライラなどの症状としてあらわれるのでしょう。

 夜に眠れないことが多く、それもありお酒をよく限界まで、部屋がひとりでに回るレベルまで飲むようになりました。
 その翌日は午後一時起床とかになり、またダルイので缶コーヒーを買いに行きます(笑)。
 そうすると、僕のマインドは急速に覚醒し・・(以下∞ループ)

 現在ではほとんどコーヒーはサイフォンでいれるけど、缶コーヒーをたまに飲むとやはり「キターーーっ」って感覚になります。まあいいんですけどね、いろんなアイデア出ることもあるし。

 ただ、ちょこっと強烈過ぎて、合法ドラッグとまではいかないものの、大学生の頃の僕のようにこれで中毒状態になって不安定になる人もいるかなという気はする。

 コーヒーと砂糖となんかの物質のトリプル効果にはなかなかエグイものがあります。

 半断食などをたまにするようになり、あー僕の10代、20代はかなり化学物質によってかき乱されていたなと思います。
 うーん、あまり生きる意志がなかったですからね。
 生活力がないというか、内面に閉じこもっており、衣食住の基本的要素にあまり興味がもてませんでした。
 逆にダサい感じもしてたかもしれません。
 でも、「基盤」である衣食住や肉体に無頓着すぎるとやはりそこに足をすくわれます。 

 どうしても思ってしまうのは、あの頃の自分に少なくとも今の自分くらいの食事や運動と、メンタルなコンディションとの間の関係性に関する理解とかがあれば、あそこまで自分を虐待はしなかったのにな~ということです。

 大学生になり、一人暮らしを始める10代とか20代の人たちにはまず、そのような知識をこそ、大学なりどこかで教えられるべきなのではないかと思います。衣食住をいきなり自分だけでアレンジしろというのはちょっと酷な部分があります。

 例えば18の頃の僕は、毎日3食食べないとマジでヤバイと思い込んでいました。
 朝ごはんを抜くとか怖くて出来なかったですが、現在はもう6年くらいは朝ごはんはほとんど食べていません。
 それが何で出来たかというと、そんな食べなくても大丈夫かも?という知識が入ってきたから実践できたわけです。

 どちらかというとヤバイのは食べないことよりも食べ過ぎることと、ヤバイものを入れるということです。

 そしてその入れてるものの性質を知らないということかもしれません。
 
 むしろ一定期間食べないということは、自分のからだを知る上で、生涯の内に少なくとも複数回は実行したほうがよいことだと感じます。その期間は現代日本では欠落している「ビジョンクエスト」の期間ともなり得ます。ネイティブアメリカンの伝統では人生の大切な節目にはしばしば断食する習慣があるようです。

 断食、ファスティングはからだに与える治癒力や美容、ダイエットがとりあげられがちですが、もともと60年ほど前ロシアの病院で絶食療法が本格的に研究・適用されたのは精神病院だったみたいです。様々な精神疾患の患者さんが劇的な回復を見たことから研究されるようになったそうです。

 

 10分10秒あたりから~

 「絶食5日目から患者の悲観的態度が薄れ目を開けるようになった。10日目歩き始めた。まだ話はしない。15日目、患者は枕元に置かれたジュースを飲み散歩に出かけた。社会生活への復帰の道を歩み始めた。・・・このように回復した患者の例は注目に値しました。精神疾患が絶食で治癒したのです。ニコラエフ医師は奇跡的とも思われる効果に驚き、絶食の研究を続け、発展させました。

 絶食は精神疾患だけではなく、患者の人格全体に影響を与えます。・・・絶食すると覚醒作用と抗うつ作用が現れます。
効果としてあげられるのは絶食1週目に意識が鮮明になること、アシドーシス(断食により一時的に酸性の体質になる時期。倦怠感や頭痛が起こる。2~3日目)が終わると落ち着きを取り戻すこと、そして食事を再開した週にはウツの症状が軽くなることです
。」

 確かに脳神経系への影響はかなりあるような気がします。
 僕もニンジンや大根おろしだけで一日を過ごすと、肉体の力の回復を感じるとともに、夢見状態で鮮明で美しいビジョンが浮かびました。
 専門家ではないので詳しい仕組みはわかりませんが、ドーパミンやらセロトニンやらの脳内物質、脳の中の創造性や活力、心の強さと関係する部分に影響するのかもしれません。

 もし今年の春から進学や就職で一人暮らしを始める人がいたら、マクロビやローフードなどの食養やファスティングに関する本は生きる知恵として是非読んで欲しいなと思いました。

 以下、とても参考になった本。

 














 *アマゾンアソシエイトに参加しています。上のバナーで購入いただくと管理人の懐が若干うるおいます。よろしくお願いいたします


セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/05/24 13:25

超気持ちいい入浴法 ▼水のヨーガ▼



 とっても気持ちのよいお風呂のはいり方を見つけたので、紹介したいと思います。

 レナード・オァー著「不死の探求」という本からです。

 この本の趣旨をかいつまんで言うと、人間は不死となる、あるいは次元間を行き来できるような肉体を持つことは不可能ではないということです。

 そして著者自身が伝説的なアバターであるババジをはじめ、何人もの齢数百歳を重ねる不死者と会ったことがあると明かしています。

 これは一般的にはちょっと信じがたい主張ですが、僕は死なない人というのは実際におそらく存在しているのではないかと以前より思っています。日月神示でいうところの半霊半物質のボディをもつ人でしょうか。

 ババジ、ジーザス(復活して不死となったと考える)など。

 この本の中では日本ではあまり聞きなれないゴラクナスという不死者が登場します。

 ゴラクナスとは絶対者が、ゴミ捨て場に捨てられた赤ん坊の死体に宿った存在ということらしく「ごみの主」という意味らしい。

 ゴラクナスはほとんど日本語で検索してもヒットしないようですが、数少なく出てきた情報ではゴラクナスはどうやらシルディ・サイババのグルのようです。

 うーん・・ということはなんだか実在性が増しますね。伝説ばかりと言えない様な。

 ネパールのカトマンズにゴラクナス寺院があり、そばには聖火が燃える小屋、ドウーニが立っていると「不死の探求」に書かれていますが、このブログの情報では

 「ワシントンD.C.のアメリカン大学の哲学と宗教の教授、チャールスS.J.ホワイトによれば、シルディ・サイババはグル ゴラクナスのナス伝統に従っていた。「サイババの宗教的習慣はヒンズーとモスリムの慣習を混ぜ合わせていた。、、、彼は小さな使われていないモスクに入り、そこが彼のその後の生涯の住居となった。そこで、彼は火と線香を用いたヒンズーの儀式を行った。彼はナスパンティ ピールの方法でドゥーニでずっと火を燃やし続けた(今日も帰依者が燃やし続けている)。」

 とあります。うーん興味深いですね、このつながり。これを読むとシルディ・サイババがゴラクナスの火の伝統を受け継いで守っていたのは事実のように思われますが。いたんでしょうか、ゴラクナス。というかいるんでしょうか。

 あと不死者といえば

 西洋で伝説的な人ではサンジェルマン伯爵とかも

070114_210901.jpg


   死なないと言ってもディオ・ブランドーとかになったらダメですが。。。
  これは人の血を吸って永遠に生きるパターンです(笑)

omaeha.jpg



 また割りと近代でもラーマリンガのように大勢がアセンションを目撃したという聖者の記録が残っているので、こういう現象は条件さえ整えば当たり前であるかのように発生すると思うのです。ちょっと前にブログを読んでいただいた方から、日本でも数年前にアセンションした女性がいるという情報をいただいたので、あるいはこの現象は想像以上に身近にあるとも考えられます。(僕が目撃したわけではないので、あくまで聞き伝えによるものですが)

 師匠もたまに、死なない人とか、仙人のような存在はインドとかにいるという話しをします。

 ただ、同時にこういうスーパーナチュラルな存在の情報はものすごくマーヤになるということもよく聴いています。

 重要なことは常識を逸したことに憧れるのではなく、僕らがどれくらい命の根源と同調し、自分自身でいること、愛でいることができるかということだからです。
 そしてそれは往々にして当たり前のものごとの中にあるものです。
 お皿を洗ってるときや、爪を切ってるとき、お笑い番組を見てるときにもあって、
 ヒマラヤのカイラスや、セドナで瞑想してるときだけにあるわけではありません。

 また、永遠の命を垣間見ると火の鳥の我王のように、自分が生きることや死ぬことはどうでもよくなる(=ただ自分の役割を果たす)可能性もあります。

gaou.jpg




 なので、やや用心しながらこの本を読んでいたのですが、これはなんか結構感じるものがいいんですよね。

 基本的にヨギ系であり、アドヴァイタ系ではないと思います。
 だから超常現象に拒否反応がある、硬派なアドヴァイタ好きにはウケが悪そうです。
 それでも、ただ神の名前を繰り返すマントラヨーガやジャパヨーガといわれるシンプルな方法を重要なものとしている点などは、とてもポイントを押さえてる感じがします。

 著者は心身を浄化するには地水火風よっつのヨガがあると述べており、これは最近僕が考えてきたことと一致しました。

 大地
 水
 火(太陽)
 風(呼吸、プラーナ)

 などとつながることでエネルギーを高め、安定させることができるわけです。
 アーシングやウォーキングは大地のヨガに該当します。
 滝行、入浴、シュノーケリングなどは水のヨガ。
 サンゲイジングは火のヨガであり、呼吸法は風のヨガです。


 この中で水と風のヨガとして紹介されていた入浴法が以下のものです。


 ①バスタブに水をためる

 ②鼻で呼吸しながら、結合呼吸*のリズムを始める

 ③呼吸しながら、片方の足を水に入れる。

 ④肉体と感情に起きるすべての変化を十分に経験するまで、呼吸を続ける

 ⑤もう片方の足を水に入れ、すべての変化を十分に経験するまで、呼吸を続ける。たとえばからだが突然ほてったり、冷たくなったりする人もいる

 ⑥バスタブの中に座り、変化を十分に経験するまで呼吸を続ける

 ⑦吐く息が軽く、バランスが取れて、開放的になるまで呼吸を続ける

 ⑧首まで水に浸って横たわり、吐く息が完全に軽く、リラックスした状態になるまで呼吸を続ける

⑨頭を後ろに倒してクラウンチャクラ(頭頂部)を水に浸ける。そして、エネルギーの変化をしっかり経験し終えるまで呼吸を続ける

10 額まで水に入れ、鼻と口だけを出す。その姿勢のまま完全にリラックスし、エネルギー体が済んで清らかになり、バランスを取り戻したように感じられるまで呼吸を続ける。そして、自分のエネルギーセンターの位置に気付く。

 11 結合呼吸を続けながら実験として両足を水からだし、エネルギー体の変化に気付く。

 12 この手順を逆にする。頭を水からだし、立ち上がり、片足ずつ水から出る。呼吸は結合させ続ける。

 13 以上の手順を三回繰り返す。


 *結合呼吸というのはリバーシングというセラピーで使う呼吸法で以下のようなもののようです。

 ①短い呼吸を4回する

 ②長い呼吸を一回する

 ③息は鼻から吸って、鼻から出す

 
 ちなみに僕はかなりいい加減にやりました。深い呼吸はしたけど、結合呼吸はしてません。
 三回も出たり入ったりしてません。
 めんどくさいこと嫌い。

 これをいい加減に実践してみて、額の第三の目辺りを水に沈めるあたりから、明らかに意識が変化するのを感じました。

 自然にからだが浮いてきて、耳は水中に沈むために音が聴こえなくなり静かになります。

 すごく気持ちいいーです。

 知らない間に自動的に半瞑想状態になり数十分が過ぎていました。

 基本的にいつもカラスの行水タイプで10分も湯船には入らないことが多いのですが、これだと気持ちよくてあっという間に時間が過ぎます。(ただし顔も沈めるので、お湯はややぬる目がいいかな)

 レナード氏は水の浄化についてこう書いています。

 「水の浄化を行えば、物理的宇宙について単に頭で考えて恐怖をいだくのではなく、その宇宙を直接的に経験する機会を与えられます

 そう、水に浸るという経験は子宮内の原初的な恍惚感(BPM1)とつながっており、その心地よさはおそらく宇宙的経験なのです。

 ずいぶん前にフローティングシェルに入った経験を思い出しました。

 バスタブの中で自然と顔がニヤケていきます。

 ニヤケつつ、最近入浴介護の仕事で訪問している知的障害の人のことも頭に浮かびました。

 その人は服を脱がされてるときや、頭を洗ってるときは全力で嫌そうな顔をするのですが、湯船に入ると瞬時に極楽にいるような表情になります。

 この変わりようがすごくて、最初ちょっとウケてました。

 日によって機嫌とかは微妙に違うと思うのですが、湯船に入ると天国モードになるというのは毎回同じです。

 あー●●さんは、今の僕と同じような気持ちよさをもっとマインドに邪魔されない形で毎回経験していたのか・・・とちょっと思いました。

 久しぶりにかなり深くリラックスできた経験になりました。

 フローティングシェルや、この入浴法はヨガといえどもかなり快感系、解放系であると思います。 

 一方水のヨガには、滝行や、冷水シャワーというのもありこうなってくるとちょっと修行がかって来ます。

 でも朝一で冷たいシャワーを浴びると、「アー今日も仕事かーヤダナ」と言う思いが、冷水のショックにより一瞬でリセットされ、身が引きしまります。

 だからその時はきつくても、事後はかなり爽快になります。

 冷水は「チャクラを洗浄しつつ閉じる」ということなので、満員電車や雑多な人のエネルギーへのディフェンス力をあげるにはもしかすると冷水がよいのかもしれません。

 著者いわく、「苦行のヨーガは、楽しみや慰めのヨーガと同時に行う」ことが重要だと述べています。

 でないと「偏屈になる」らしいです(笑)

 意固地にならないためには、楽しむこととか、心地よいことをすることがかなり大事なんですね~。

 火のヨーガで言えば、楽しいのは日光浴やキャンドル瞑想、まあサンゲイジングくらいで、信徒さんのために火ぶくれを作りながら行われる護摩行や火渡りの行、一日中太陽を見つめて失明した手塚治虫「ブッダ」のナラダッタは火のヨーガを苦行的に行ったことになる。

03_05.png


 陰謀論が流行ったり、人々が裏の権力者への不満を毒づいたりする世界というのは真実に近づいた世界ではなく、むしろ戦争などに突入する前のピリピリとした世界に近い。

 もちろん、陰謀というのは普通にあると考えますが、そのような世界であるからこそ、楽しみや喜びのヨガというものを実践する必要があるのかもしれません。

 電子レンジが悪い、水道水が、マスコミが、電磁波がいけない、砂糖が、スマホがテレビがいけない、放射能が、と現代は怪しいものをあげればいくらでもあげていける世界です。

 そういうものをすべて切り捨てて生活しようとするといやでも偏屈な意識になりそうになることは個人的に経験しています。
 またそういうものに毒づくことは自分の否定性のはけ口となります。

 まあー「汚染を愛す」くらいの気持ちをちょびっとは持ってはいいのかもしれません。 

 もう一個著者の言葉の引用ですが、


 「霊的浄化の行は少しづつ取り入れるべきだということは、繰り返し述べる価値があります。

 からだが衰弱したり、気分が混乱したり、落込んだり、怒りを感じたり、またそのほか感情が乱れるのを感じたら、霊的浄化のエクササイズはやめ、バランスや安定を回復するまではいつもの習慣に戻るべきです。

 「いつもどおり」に感じられるのは、ひどく病気におかされている状態や汚染されている状態かもしれませんが、自分や他人が死なない限り、そこに戻ってもかまわないのです。



 これなんかは珈琲中毒で、飲酒も喫煙もする僕にとっては福音的な言葉です^^
 

 「豊かな生とはバランスをとることです。地、風、火、水、そして心のバランスを取ることです。

 創造と破壊のバランスをとることです。

 蓄積と分配のバランスをとることです。

 知性と経験のバランスをとることです。

 浄化と汚染のバランスをとることです。

 拡大と縮小のバランスをとることです。

 不易と流行のバランスをとることです

 行為と無為のバランスをとることです。

 活動と静止のバランスをとることです。




 ヨガや修行というのも人生と同じかもしれません。

 生きてて、楽しい経験と、苦しい経験があるのと一緒。

 冷水を浴びることはちょっときつい修行。

 でも温かいお湯につかっても浄化になるとすれば、片意地をはって冷水ばかりを浴び続ける必要はない。

 そして冷水を浴びることの中にもある種の気持ちよさや爽快感がある。

 食べることの中にも、食べないことのなかにも心地よさがある。

 陰陽あいまって完璧であり、陰中にも陽が、陽中にも陰があるんですね。

 
 まあ、堅い話はやめて、とりあえずお風呂に入りましょ~か♪


セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/02 15:33

ロングウォークとアーシング②



 変容期の地球で



 ネパールで大きな地震があり、被害が大きくなっているようです。

 現在地球は、人間で言うと風邪を引いてるような状態にあると思う。

 体温をあげ、せき、くしゃみ、ふるえなどの症状を出すことによって自浄作用を発動させている。

 脈拍も、体温も、血圧も、バイタルは乱高下する。いや、こうなってくるともはや風邪とはいえない。

 極端な暑さや、突発的、集中的な豪雨、雷、夏場の巨大な降雹、竜巻、巨大ハリケーンや台風、大雪、火山の噴火や、地震、磁場の減少、シンクホールなどにみられる異常な地殻変動をみると地球が今まで保っていたホメオスタシスが崩壊しているように見える。これは特に20世紀末から今世紀に入って顕著になった。

 僕が体で感じるのは、地球は僕が子どもの頃の地球ではもはやないということだ。

 地球は病気・・・というか何か、そのシステムを一度リセットさせようとしているか、あるいは人間で言う思春期のころのように急激にそのシステムを変容しようとしているように感じる。

 地球は、宇宙という子宮の中でBPM2に入った。
 生みの苦しみはすでに始まっている。

 そのプロセスが急激で破壊的なものとなるか、あるいは長期に及ぶ比較的穏やかな変化となるかはわからない。
 
 ただ、多くの人が現在の地球は変容期にあると考えているみたいだ。

 こういう時期にあって、必要なことは、ガイアにへばりついていることではないかと僕は思う。

 エネルギー的にも、物理的にも、この惑星に深く根を下ろしていなければ、この変化は僕らを耐え難い状態へと誘いかねない。 
 
 そのためにガイアはGravityを使っているのかもしれない。

 すべてのシステムが腐敗にまみれ、政治がかげり、一人、また一人と平均台の上から脱落していく

 大地に引っ張られ、落ちて落ちて、最後にたどり着くのは、母なる星の土の上だ。

 どうしようもなくなり大地に転がり、土に頬をつけると、大地の中から声が聞こえてくる。

 「さあ、しっかり私にしがみついていなさい、シートベルトをしめた?ジェットコースターが動き出すわよ!!」とガイアは息子達娘達に呼びかけている。

 多くの先住民のシャーマンたちが、ガイアの悲鳴とそして子ども達へのよびかけを聞いている。



 2011年3月11日、東日本大震災が起こったあと、僕は「3・11以降」という記事を書いた。

 それは3・11以前と以後では僕らは違う世界に入ってしまったのだという認識があったからだった。

 3・11以前という世界。
 いろいろな不穏な動きはあったものの、なんちゃってな平和が継続していた世界は、もうあちら側にいってしまった。
 その「あちら側」の世界で僕は来るべき地球規模のシフトを夢想したりしていたが、それはもう「こちら側」となってしまった。
 そんな風に思っていた。
 ACのCMばかりになったテレビや、止まったままのエレベーター、エスカレーター、震度5規模の地震が日常的に起こるような状態が、確かにそうだと感じさせた。
 あれから4年がたち一見してみると、少しづつ時は流れ、穏やかな空気感が戻ってきているようにも見える。
 しかし多くの人が現在の世の中の動きに不安なものを感じているに違いない。
 何かがおかしい、と。
 いつからおかしいのか?
 それはやはり4年前のあの日からだ。
 やはり僕らは3・11というマトリクスにログインしたままなのだ。 
 僕はそんな風に思えてならない。
 平和になったのではなく、僕らは「こちら側」のMATRIX311という仮想現実に慣れつつあるのだと。

110308_1531~01


 僕が2011年の3月8日「向こう側」で撮った最後の写真は、自分の裸足の足の写真だった。

 僕は震災前の一週間ほど普通以上に寝つきが悪く、精神状態もテンパリ気味だったので、エネルギーを安定させようと公園ではだし歩きをしたのだった。 


 4月になってからブログににこんな風に書いた。

 
 3月8日、「向こう側」で撮った最後の写真。
 裸足で土や木の根の感覚を感じて歩いた。

 あらゆる矛盾があらわになるにつれて、

 僕ら自身も裸にならねばならなくなるだろう。
 目をそむけていたものと直面したり
 自分自身の嘘や、ごまかしとも向かい合わねばならなくなるかもしれない。
 でも裸の自分自身にほこりを持って、どんなに格好悪く思えても、とりつくろうより美しいことを肝に銘じて生きたいと思う。
 
 人からどう見られても自分の本性を隠さずにいれば、新鮮な空気とともにいられる
 もし裸足で歩けば、少々とげがささろうと、大地がじかに包みこみ支えてくれるように

 裸足で生きる勇気を僕らに・・・・!
 

 そしてMONGOL800の「矛盾の上に咲く花」という歌を貼った。




 矛盾の上に咲く花はまだそこかしこで咲き誇っている。

 いつになれば僕らは大地の上に咲く花に囲まれて生きることが出来るだろう。

 わからないけど

 きっとその始まりは、僕自身が大地の上に立つことから始まるんじゃないかと願っている。


 
 アーシング





 アーシングを知ったのは、これまたエハン塾さんからの情報だった。

 アーシングとは裸足で土の上(もしくは石やコンクリートの上、アスファルトはNG)に30分ほど立つことだ。

 人の体内には過剰な電流が滞っているので、これを大地に流すことで健康状態を大きく改善することができるという。

 アーシングの提唱者クリント・オーバー氏は、室内でアーシングが出来るマットや枕、寝具なども製作、販売しているらしい。

 エハンさんの知人が時差ぼけ防止に、アメリカへ飛行機で行ったとき空港を出るとする向こうの大地にアーシングするとまったく時差ボケの症状に悩まされなかったという話も紹介されていた。 

 天然素材でできた草履だとか、革靴からゴム底の靴という絶縁作用のある靴をはき始めたことが人の健康状態を悪化させている大きな原因だという。

 まあ、アーシングという言葉はなくてもきっと人間は裸足で大地と接するということは何かあると本能的に知っており、だからはだし歩き健康法とかが昔からあったんだと思う。

 僕は過剰電流を流す、という発想はもっていなかったが、アスファルトに対しては昔からすごく違和感ありで、こんな地面ぬりかためちゃダメでしょと常々思っていた。

 なんか大地が呼吸を出来なくなっている、という感じがすごくしていたのだった。多少水はけ悪くて、石ころだらけでも土が露出している道は何かホッとさせるものがある。

 そういうのも地面から<気>のようなものが出ているか、封印されているかによるのかもしれない。

 だからアーシングの考え方によると、大地と僕らの間にはブロックがふたつある。
 ひとつはアスファルトなどの絶縁素材で、もうひとつは僕らが絶縁素材で出来た靴や靴下を常にはいているということだ。
 そして、裸足で大地に触れるということがほぼない生活をしている。

 この動画を見て、僕もさっそくやってみた。

 アパートの庭に裸足で立ってみます。(←たったコレダケ)

 開始後数分でとても気持ちよく、エネルギーが安定してくるのを感じます。
 また気を受けたときに出るような、微妙な体の振動が僕の場合は自然と起こるようでした。
 それほど派手なものではないですが、かなり気持ちはいいです。落ち着きます。

 体内の電気がアースされているかはわからないけど、もしそれが事実なら長時間PCに向ったり、すげーつよい電磁場の近くで仕事する必要のある人はやってみると調子がよくなるかも。


 そういえばサンゲイジングの提唱者は、サンゲイジング時には裸足で土の上に立つことといっていましたが、これをすると確かに太陽からのプラーナと大地からのプラーナをどちらも受け取ることが出来て最高の方法かもしれません。

 ここ一年か二年ほどエネルギーを強化・安定させる方法論を自分なりに模索してきましたが、アーシングはその中でもベスト5に入れておきたい方法です。
 特にこれからの季節はあたたかいので実践しやすい方法です。

 ちなみに残りは


 ●ウォーキング(なるべく空気のいい場所)、トレッキング
 ●節食(あるいは断食)
 ●サンゲイジング、朝日を浴びる
 ●瞑想
 ●呼吸法      
 ●クリーンタイム(情報機器などOFFにして静かに過ごす時間)                  などです。



 生命力とつながる自分なりの方法を持っていることが、これからの時代、結構大事ではないでしょうか。



 アーシングとグラウディング



 アーシングと、スピリチュアルな世界で言われるグラウディングは若干ニュアンスは違う。

 グラウディングとは、エネルギー的に地球とつながること、この物質的次元にしっかり碇を下ろすことなどを意味してると思う。

 僕はグラウデングなんてしなくていいんだもん、と若干馬鹿にしてた時期もあるけど、どうも昨今の流れを見るとグラウディングしろと言われてる感じがする(笑)。
 あるいは個人を越えたユニバーサルな流れなのかもしれないけど。
 それこそガイアのグラビティが僕らを呼んでいるのか。

 それでもグラウディングワークを遊び感覚でやってみたことは今までにも何回かある。

 グラウディングワークはだいたいイメージを使うか、それプラス体の動きが伴う場合もある。

 典型的なものは自分の尾てい骨のあたりからエネルギーの管が伸びて、それが地球のコアとつながっていることをイメージしたりするようなものだ。

 呼吸とともに不要なエネルギーはその管から流れ出し、かわって力強い大地のエネルギーが流れ入ってくる。

 これはこれでいいのだと思うけど、僕としては実際に足を地面につける、ということをしたほうが生々しく、実感を持って大地とつながっているということが感じられる。

 いろんな花や草の匂い、蟻や蜂たちの世界が間近に見えるので、イメージだけのワークよりも僕は体験的なアーシングのほうが好きかもしれない。

 ただイメージだけのワークでもエネルギーとしてつながらないということはないと思うんだけど、僕の今の方向性として体験的なものにより魅力を感じるので、アーシングのやり方に惹かれるのだと思う。

 しかし、人はなぜ、グラウディングなんかをする必要があるのだろうか?

 別に地面から10センチくらい上をふわふわ浮いた人でもいいんじゃないだろうか。

 よくいわれるのはグラウディングはこの世界への影響力や、コミットの強さ、そして生命力に関係するということだ。

 より具体的にいうと、仕事や、お金、物の流れなどをひきつけるにはこの物理的次元にグラウディングしている必要があるというのだ。
 
 もう少し本質的に言うと、グラウディングとはある意味<肉体への受肉の完了>であり、完全に受肉することなしには、僕らはこの3次元世界を完全には生きられない。

 スピリチュアルな比ゆを使うと、この世界に僕らはツアーに来ているのだが、完全にこちら側に着地することを恐れて、ずっとバスの中やホテルの中で過ごしているとも言える。

 グラウディングしていないと、ヘッドトリップが激しくなる。
 この世界よりも頭の中の世界のほうがリアルになるのだ。

 僕らの着地を阻むのは、まずは「恐れ」であるといえる。

 トラウマ反応のひとつとして解離反応があるけど、これは常に体の中にエネルギーが半分くらいしかはいっていない状態だ。

 度重なるトラウマ体験が、肉体の中に存在することを危険だと思わせ、いつも半分くらいからだから抜けた状態が習慣化される。
 曇りガラスの向こうから世界や他者を見ているようで、いつもぼんやりして、時空の感覚も混乱しがちになる。

 恐れがヘッドトリップを加速させ、ヘッドトリップが恐れを生む。
 世界への、人への、身の回りへの恐れ。

 まあ、そんな状態だからこちら側の豊かさとつながりにくいのはある意味当然かもしれない。

 <世界は恐ろしい>のだ。決して、完全にこちら側に着陸してはいけない。
 完全に受肉すると、もっと恐ろしい目に会う可能性がある!
 そのような無意識的な認識がグラウディング、受肉を阻む。

 だから、こうも言える。
 恐れない意識だけが、完全にこの世界に下りてくることができる、と。

 だからきっと、植物たちは、そして4本の足を大地につけて歩く動物たち、常に腹をつけている爬虫類たちはグラウディングしているに違いない。
 彼らには人間ほど恐れにおかされていないため、この世界に完全にいることに躊躇はない。
 生まれたばかりの赤ん坊も、あるいはそうかもしれない。
 肉体が自分ではないことを知ってる存在は、肉体に完全に降りることをいとわない。

 この世界の恐れを知った人間の大人たちだけが、再び大地へと、からだへと戻ってくる必要があるのだ。

 長いことウォーキングを続けて、ひとつ気付いたことがある。

 僕は旅行が好きだから、次はまたインドに行きたいとか、沖縄の離島に行きたいとか夢想することがあったけど、

 なんだ、身の回りでも実際に足を使って歩き回ればたくさんの豊かさや可能性があるじゃないかということだった。

 自宅から数キロ圏内であっても、知らなかったいい場所や、美しい風景がたくさんある。
 一時間ちょっと歩くと小さな飛行場がある。
 滑走路から飛び立つ小型機は、伊豆大島へ向う。
 お昼の太陽を背に立つ僕から見て右手のほうへ、東へ飛んでいくのがわかる。
 海のある方向へ

 いや下手すれば家の軒先にだって。
 庭先にある、植物や、いろんな虫たちの営みがある。
 大地に足をつけて毎日見つめていると、どんどん草の丈が高くなり、蜂が増えていくのがわかる。

 なんだ、旅って、これのことだったんじゃないか。
 見知らぬ風景を見ること。
 自分の足で歩くこと。
 体験することにより、心が喜ぶこと。
 決して遠くへ行くことじゃない。
 山も好きだけど、街は山の裾野だ。そして地球の一部だ。

 つまりこういうことなんだ。

 150421_1129-01.jpg

 すべての場所はつながっている。 

 今僕のいる場所で旅が出来なければ、どこに行っても旅なんか出来ないんじゃないだろうか。

 僕にとっては旅への憧れは、歩かない言い訳でもあったみたいだ。

 そう、本当の旅とはもしかすると、今いる街への旅、日本への旅、地球への旅、大地への旅、そして僕のいるこの場所への、僕自身の命への旅かもしれない。
 地球とからだ、そのふたつにリコネクトすることが、その旅へのパスポートとなるのかもしれない。



 再び変容期の地球で


 もし、この惑星が本格的に変容のための自浄作用を発揮し始めているとするならば、アーシングやグラウディングはその変容期の地球においてどんな役に立つのだろうか。

 世界各地にプレッパーと呼ばれ、来るべき時のために物資を備蓄したりシェルターを作ったり、あるいは自給自足的な共同体を用意している人たちがいます。

 水、食料、土地、ガスマスク、武器、弾薬にいたるまで用意している人がいるでしょう。

 そのようなある種やり過ぎ感さえ漂う物質的な備えと比較するならば、エネルギー的に大地とつながるだけではいかにも心もとないように思われる。

 水はどうする?土地はどうする?マスクは?という話しになる。

 ハリウッドが製作する大スペクタクルカタストロフィー映画でも、いつも助かったり活躍する人々はそういうものの恩恵を受けている。

 あるいは非常時においては、グラディングよりも、電池やラジオの方がよほど役に立つかもしれない。

 でも僕はもっとも本質的には大地や天とのエネルギー的つながり感がもっとも重要な要素だと思うのです。

 なぜかということはうまく説明できません。

 あえて説明しようとすると、このシフトは物理的なシフトであると同時に、やはり精神的なレベルでのシフトであるはずだからです。ハリウッドカタストロフ映画では常に欠落している要素ではありますが、、、日月神示に書かれているような「お土をおろがむ」ようなこころが必要ではないでしょうか。 

 そして、肉体が健康で、プラーナが充実しているという状態はやはりどんな状況でも耐えやすくしてそれを乗り越えやすくしてくれるはずです。
 そして、プラーナは基本的には自然なるものからしかきません。太陽、大地、大気、食物、生命体などからしか来ないのです。
 そのような意味では、天地とつながることが地球変容期における、重要事項であることの説明となるかもしれません。

 まあ、僕としては未来に何かとてつもないことが起こるとか、あるいは今は大変な時代だとことさらに警鐘をならすような記事はあまり書きたくなく、最近はあたかもそういうことはなかったかのようなネタを書くことが結構多いです。
 個人的にも、えぐいことが起こってもあえて、ニュース的なものはシカトするような感じで、生活する傾向にしています。
 地震等の予言が流れても、「あー気のせい気のせい、なんも起こりまへん。富士山も噴火しまへん。漫画でも読みましょ」という感じで。あえて距離をとって、日常的なことにフォーカスしたりします。
 というのは、こういうことは恐れと興奮で脳を刺激させていとも簡単にヘッドトリップに陥り、自分自身のリアリティと絶縁するような類の情報だからです。
 
 でも僕の中ではやはり正直に書くとMATRIX311にいるという認識はなくなっていません。
 だから、こころがざわざわするネタを書くことなく、しかし本格的な地球変容期が訪れたとしても、その用意となるような、楽しく命や生命力を育むような情報をなるべく発信したいと思っていました。

 今後も基本的にはそんな感じで、地球変容期を頭の片隅におきながらも、そんなことは与太話だろのていで、この大地の上にいることを愛して生きたいと思います。



 
セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/04/26 19:18

ロングウォークとアーシング

 

  ここんところ、ロングウォーキングにはまっています。

  それちょっと長いやろ、電車使えよという距離をウォーキングしてしまうことをなんとなくそう呼んでいます。

  自宅近くに多摩湖自転車道という遊歩道があります。

  これは結構素敵なところで 春は桜の花や新緑のトンネルの下を歩けてとても気持ちがよい道です。

 40-tamakojitensyadiu.jpg



  起点は武蔵野市で、終点は一応西部遊園地駅、だいたい23キロくらいでしょうか。  

  途中で花小金井駅、小平、萩山など西武線の駅を通り、多摩湖に出ます。

  途中の丸亀製麺でさくさくの天ぷらを食べたりも出来ます(笑)

  その道をよく歩いていたりしたのですが、自分は一日にどれくらい歩けるものかということが気になり始め、その限界ラインのようなものを見定めたく20キロから30キロくらいのウォーキングをたまにしてます。

 20キロだったら普通に歩いてだいたい4時間弱くらい?ですね。

 最初は自宅(西東京市)から、日野駅まで歩いて、そこから東中神までぐるっと周り電車で帰りました。

 続いて多摩湖自転車道を多摩湖まで歩き、そこから瑞穂町に出て、JR八高線箱根ヶ崎駅から電車で帰ると言うコース。

 などを歩きましたが、今回は自宅から青梅駅までにチャレンジ!
 少し寄り道しつつ40キロほど歩くことを目標としました。
 なんで40キロかというとフルマラソンの距離を意識してるのでしょう。

 でもただ直線的に最短距離を歩くのはつまらないので、ウォーキングツアー玉川上水の源流を見にいこう!を開催決行することにしました(参加人数一人w)

 玉川上水の横はいつも日常的に通りますが、あまり歴史は知りませんでした。
 歴史的なエピソードとしては太宰治が入水したくらいした知りません。
 そこで調べたところ、1653年に多摩川から江戸市中に飲料水を引くためにのちに庄右衛門・清右衛門ののちに玉川兄弟と呼ばれるようになる2人が工事を請け負ったとのこと。羽村から四谷までの距離で、当時の技術。
 これは数年かかったのかと思いきや、4月着工、11月15日完成ということで七ヶ月ほどでやり遂げたということなので驚きました。

 そこでこの上水の起点となる羽村堰と呼ばれる場所までとりあえず、歩いて、ついでに青梅まで行って見よーというプランです。

 起床六時で、7時に家を出ました。

 多摩湖自転車道もよいのですが、玉川上水沿いの道というのも場所によっては、遊歩道のような感じになっていて木々に囲まれ森林浴気分を味わえる場所もあります。電車の駅で言うと鷹の台とか拝島とかのあたりでしょうか。

    150419_0934~01



 こういう個人宅を公開してるオープンガーデンもあります。
 なかでうどんとか食べれるみたい。
 この日は生憎まだ開店前。
 次は行ってみたいな~

 拝島近くの上水。下流とかなり趣が異なります。

 150419_1156~01



 午前11時半頃、JR拝島駅に到着。(20キロくらい)

 拝島駅周辺にも自然が豊かな公園があります。
 そこでランチ、コンビニのり弁当を・・・。


 150419_1325~01

 150419_1323~01




 13時半頃羽村堰着です。家から出て6時間半ですが、休憩などを省くと歩行時間6時間弱くらいかな。

 150419_1345~01



 そんな歩いた気がしない。

 玉川兄弟銅像。

 150419_1345~02


 羽村多摩川の近辺で、チューリップのイベントをやっていました。

 150419_1404~01

 畑一面にチューリップが咲き乱れ圧巻です。入場料など不要。これすごかった~

 青梅到着15:45 証拠のニャロメ。


 150419_1545~01



 時間から考えると、歩行距離35キロ~40キロくらいでしょうか。
 40キロの壁を越えたかったんだけど、いまいち不明。
 まーいいか。

 面白かったし^^

 うちに帰ってから疲れがどっと出てこたつに座ってるのもダルクなり、8時ごろに布団を敷いてごろごろしたニャロメ。

 でも翌日筋肉痛などは一切ありませんでした。

 最近10キロ走った翌朝は筋肉痛なったけど、歩くのと走るのでは使う筋肉が違う模様。
 あるいはロングウォーキング慣れしてきたのかも。

 ウォーキングは2011年くらいからよく行ってきました。

 その頃自分の力を取り戻す必要を感じており、気功の本にとりあえず足の筋肉を鍛えることが全身のプラーナの強化につながると書いてあったからです。

 精神的なストレスや感情の滞りも健康状態にもちろん影響すると思いますが、肉体に近いエネルギーの層が分厚く安定していれば、ストレス性の収縮力が体内に侵入してくるのをガードすることができるそうです。基本的に筋肉を動かし、エネルギーを発電することでこのエネルギーの層は分厚くなるのですが、足の筋肉は全身でもっとも大きいためにここを稼動させることがエネルギーの層を分厚くするためにもっとも効率的であるようです。

 悩み事やストレスはメンタルに解決する方法と、別のエネルギーレベルに働きかけることにより解決する方法があります。意味性によって支配されるメンタルな次元から、もっと生命力の根源的なレベルに働きかけることで、とりあえず動物としての生命力を活性化させると意味的な次元はそれがメインではなくなるために、悩みは力を失います。

 大地や動物的な生命力 体で言えば 足 丹田以下 につながる方向性。 

 動くこと 息をすること 飲むこと 食べることなどの根本的活動の気持ちよさがしっかり感じられる状態です。
 
 そしてそのあと、考えても仕方ないものに関してはスルーし、行動が必要なことに関しては行動するということになります。どちらにしてもある程度肉体が活性化してなければ、ストレスにやられやすいという側面はあると思います。

 あと、ウォーキングを長時間するとタバコを吸いたくなくなるという効果があり、喫煙を減らしたいという場合にもよさそうです。おそらく酸素の摂取量が増え、新鮮な空気をたえまなく取り入れているからでしょう。


 1時間から90分くらいはよく歩いていたのですが、今年に入ってから塩沼亮潤阿闍梨の体験が語られた、「大峯千日回峰行」という本を読み、僕の中の何かに火がついたようでした。

 ご存知の方も多いと思いますが、大峯の千日回峰は48キロの山道を毎日15時間かけて歩きます。

 その毎日のスケジュールはすさまじいもので23時半に起床して、午前零時半に出発、歩き続けながら夜明けを迎え午後3時に帰ってくるというものです。それから身の回りの仕事(掃除洗濯)などをして、翌日の準備をし19時に就寝、23時半には起床。数時間寝るとまた出発・・・という繰り返し。これが5月から9月までの期間毎日続きます。

 それが9年間続き1000日の満行となるわけです。

 食事はほとんどおにぎりと水(胃が弱って梅干、お茶類など受け付けないため)だけ。爪がわれ、血尿が出て、行の途中には幻覚を見るといいます。

 全長数メートルのいのししが現れたり、天女が金剛石をくれたりしたそうですが、行も終わりに近づくとそんな体験も消えうせてしまうとか。

 これだけの修行が行われるのは、千日回峰満行後の四無行に耐えられる精神と肉体をつくるためだということです。
 四無行とは、9日間堂にこもり行われる、(寝ない・飲まない・食べない・横にならない)の行。
普通に命が危ない行で、生存確率は半々とも言われているようです。
 行者の心身は生と死のボーダーラインに限りなく近づき、その体からは文字通り死臭が漂うといいます。 
 ちなみに塩沼アジャリのお話しでは、一番つらいのは食べないことでも、寝ないことでもなく、「飲まない」ということらしい。

 こんな激しい行と、のり弁当を食べて、キャンディーをなめながら歩く、僕ちんのウォーキング旅行を比較する気は毛頭ないのですが、この千日回峰の話しが僕の中のプチ修行癖のようなものを刺激したのは確かなようでした。

 
 なぜかあの本が僕の中では、「よし、僕も歩こう」というモチベーションになったのです。

 一日中ずっと歩いてみたいなーと思うようになりました。

 次は12時間~15時間くらいの行程にチャレンジしてみたいです。

 まあトレーニングであると同時に、結構面白いんですよね。ロングウォーク。

 まずお金がかかりません!(←ココ重要) 帰りの電車賃とか食事代くらい。

 そして歩いていると、今まで目に入らなかったものとか、知らなかったことが結構飛び込んでくるんですよね。

 チューリップ畑のイベントとか。オープンガーデンとか。
 
 数十キロという距離を肉体感覚で理解することもできます。

 歩くというのは人にとって根源的な行為なので、自分がそれだけ歩けることを実感することは自分のエネルギーを知り、力の感覚を感じることでもあると思うのです。

 歩き続けるということは体験の連続になります。8時間なら8時間、見知らぬ体験が続きます。まあ、日本の街なのでコンビニがありスーパーがあり似たり寄ったりでもあるのですが、それでもはじめての街はやはり始めての街です。見たことのない風景を見続けるという刺激を脳は受け続けることになります。その刺激が心をリフレッシュさせてくれるという作用があるように思います。

 芭蕉のような旅する俳人や詩人がいるのもそういうことが原因なのかな?とちょっと思いますね。

 先日参加したI師匠の夜の集いで、「M君何かオモロイことない?」と尋ねられ、最近山登ることとか歩くことにはまってますと答えました。


I師匠: 「山登ってんだ?どんな山?」

  灰:「奥多摩のほうの山とか・・・」

  I師匠:「御岳とか、雲取とか・・・」

 灰:「はい、雲取はまだ行ってないけど東京とでは唯一2000メートル越えの山らしいですね」

   歩いたりしてると一番気持ちよくて、今日も赤羽から歩いてきたんですけど・・・

   体を動かして精神的な面を安定させようというのはありますね。」

 I先生:「悪くないよ。あのね、歩くのはね、四国の話ししたのは昨日だっけ?

     八十八箇所のお遍路あるじゃん?あれってお寺に手を合わせて八十八箇所をまわるのがメインじゃないんだよね。歩くのがメインなの。今みたいに車でお寺からお寺に移動するんだったら、あんまり意味がないんだよ。

  お寺からお寺の間に、やっぱりもくもくと歩くじゃん。その黙々と歩いてるときに思考が自分の内面に向いてくる・・・これはマラソンだったり、チャリンコで山走ったりするのでも一緒なんだけど・・・何時間も黙々と自分の内側に向っていくという作業が必要になる。それがスポーツの場合をお遍路の場合では意味が違うじゃない。

 次のお寺からお寺の間で黙々と歩いてるというのはやっぱり、自分の命とか人生とかそういうことを考えるんだよね。その黙々と自分の内側に向かって考えて歩いてることに意味があるんだよ。

 お寺行ってお参りしてるときは意識が外向いてるじゃん?あの仏さん、えらい古そうやなーってこう見てたりだとか、そういう時は全然メディテイティブじゃないんだよね。ところがやっぱ次のお寺に向かって歩き始めたときから10分、20分たつと完全に自分の内側に入っていって、歩いてる記憶がないみたいな(笑)それが大事なんだ。

 灰:「歩きながら考えると違う思考になりますね」

 I師匠「そうそう、マーヤ解きでもなんでもそうなんだけど、内側に向かっていかないとダメだから。だからM君が精神的に不安定だとかいうけど、不安定なのは内側に向いてるからなんだよ。外側にもっと自分を興奮させるようなものがあればね、そっちに気をとられてると、不安定にはならない。

 なんで自分の内側を向くと不安定になるかっていうと、自分の内が確立されてないからね(笑)

 自分の内側が確立されてなくて、内側を向いちゃうと、不安定になるっていうのがあるんだよ。

 だからそれが覚醒するだとか、「わかっちゃう」だったりとかして内面が安定すると、内側に向くことが幸せになってくるっていうことなんだよね。
 
 だから内側を向きつつ安定させるっていう意味で、歩くっていうことはどっちにも属さないの。外に向いてるとも内に向いてるともいえないわけ。外にもある程度気を使いながら、かつ内側も向いてくるから、だから歩くとか巡礼をするとか、歩行瞑想をするとか、っていうことは有効な手段になってくる」

 灰:「あのー大峯山の千日回峰行を読んで奮起させられまして・・・」

 I師匠:「塩ちゃんね。多分あの人の師匠がK寺のGさんだったと思うけど・・・俺はK寺のGさんって言う人と一時とても仲良くしてて、吉野に行ったりとかして電話してさ、院主さん今吉野に来ましたーっていうと、夜になると一升瓶かかえてやってきてさ、飲みましょ、飲みましょつって結局夜明かしで飲んだりとかさ。すごい仲良くしてたの、なんか。」

 でたっ><

 I師匠に自分がいま興味あることとかマイブームを話すと、なんかそのトピックの裏側にすでに控えていましたなんてことがたまにあるけど。ちょっとびっくり。

 それにしても偉いお坊さんとたくさん知り合う縁に恵まれるというのは、多分基本的かつ本質的にI先生がお坊さんだからなんだろうなとちょっと思った。

 I師匠「俺はなんかねー修験宗の偉い人とすっごく仲良くなっちゃう傾向があって、京都のS院てあるじゃん。平安神宮のちょっと上の方。どこだっけあそこ、白川通りと丸田町通りが交わるところだよね。そのS院のMさんと俺と、チベットを旅行したときずっと同室だったの。」

 僕はあまり詳しくないのだが、修験宗はだいたい3つの派があって天台宗系は塩沼さんの金峰山修験宗と、京都S院の修験宗だという。そして真言宗は京都山科の醍醐寺が拠点だという。3つのうちふたつの拠点が京都にあるとは知らなかった。I先生はかつて京都に住んでたことがある。時期的には僕が10代の頃だろうか。

 僕が生まれ育った京都市の岩倉実相院のあたりも仕事で来てたようで、詳しかった。

 しかし

 京都出身やけど、いまだに白川通りとか、丸田町って言われても全然ぴんとこおへんわー
 京都いた頃は、小説とゲームくらいしか興味あらへんかったしなー(せめて京都なまりで)

 また京都に帰ったときにいろいろ歩き回ってみたいと思います。

 師匠の話でもあったけど、歩くことは内側と外側の橋渡しというか、世界とつながる根源的な行為なんだろうなと思いました。

 シンプルですが、セラピー的効果、プラーナ強化効果、メディテーション効果いろいろ複合的に作用します。

 エネルギーのほしい方は是非お試しを♪

 またスピリチュアルな世界でよく言われる、グラウディングやあるいは最近メジャーになってきたアーシングともつながると思いますが、長くなるのでまた日をあらためて書いてみたいと思います。


セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/04/24 12:11

HOW TO LIVE?


  自由の中で、どう生きるか


 joy of not working




 最近読んで面白かった本。

 「働かないってワクワクしない?」は、自由時間をどのように過ごすかについての本です。

 だいぶ前に出版された本ですが、この本のポイントは働いていない時間にこそ人生のエッセンスが存在しているのではないか・・・?と投げかけていることです。仮に失業したり、退職したときにできた膨大な時間をどのように過ごすのがもっとも満足できるかということについて考えています。

 この作者のアーニーさんは、週に数日働きrがつかない月、つまり三月から八月までのアウトドアにもってこいの季節は働かないといううらやましい生活をされているようです。


 僕が最初に膨大な時間に直面したのは、6・3・3の半義務教育を終えて大学に入学したときでした。

 普通僕らは小学生、あるいは3,4歳の幼稚園の頃から生活の枠組みを外側から提供されて育ちます。

 何時から何時は勉強、そして給食やお弁当、昼休み、午後からは体育、部活・・・というような感じで約12年間がたちます。そして時々行われるテストは、どれくらい提供された情報を暗記・応用できるかということを機軸に行われます。

 学校を終え、卒業すると、今度は通常は職場のフレームが待っており、それに基づいて毎日生きていきます。

 大学生活というのは、その合間で比較的自由時間が多い、一種エアポケット的な世界です。
 授業時間もそれほど多くはないので、提供されるフレームが相当ゆるく、個人の裁量に委ねられています。

 いきなりの価値転換をある意味求められるのです。
 しかし、6・3・3の義務教育のあとに、いきなり自由な世界に入っていくということは長年働いた人が急に退職してぼけーっとしてしまうようなリスクも潜んでいます。
 この自由というものに関しての洞察の低さと自主性の欠如が、結局は「適当に遊んですごそう」的な価値観を生み出したりします。
 いきなり骨抜きになっちゃうわけですね。
 学校と、就職の間の長い夏休み的にしか学生生活を捉えていないと、ここには結構なトラップがいくつも潜んでいるように思います。
 「自由」をどう生きるのかというオリエンテーションこそが必要なのかもしれません。

 「働かないって・・・」はそういう自由へのオリエンテーションの教科書になりそうな本です。

 自由に教科書なんていらないっしょ、せっかくノンフレームなんだから好きにすればいいじゃん?とも考えられますが、これは18歳そこそこの人にとってはちょっと酷かもしれません。

 だって僕らは普通、自由をどう生きるか、人生をどう充実させるかという教育ではなく、外側のフレームにいかに自分をはめ込むかという教育しか受けてこないからです。

 「引きこもり」の主な原因のひとつとして、そういった自分力の欠如があるような気がします。

 ノンフレームの時間を充実して過ごすには、ある程度の意志力と自主性、そして自分の深い望みを理解し、それに基づいて生きるということが必要です。
 
 もちろん、時にはだらーっとするのも楽しいですよね。
 好きなときに寝て、起きて、好きなものを食べて、ぼーっとテレビや映画を見て、一日過ごすっていうのも。
 そんな一日があってもいいと思います。
 でも一週間もそんなことをしてるとだらっとするのにも飽きてきます。
 好きなことを自由にすると言われると、往々にして人は、意思を低きに流してダラダラしてしまうという傾向があるようです。そしてこんな毎日むなしいけど、このサイクルから自分で抜け出せないという状態が「引きこもり」的生活の根っこにあります。

 僕は「引きこもり」状態からなんとか意志力を奮い立たせて、本屋さんでバイトを始めた時期がありました。
 2,3ヶ月ほとんど人と話してないような状態も頻繁だったので、最初はかなりレジに立つなんていうことはきつかったのですが、慣れてくるとバイトが与えてくれるフレームの中で過ごすことにより精神的には少し安定しました。そして、新しく入った女子学生に仕事を教えたりすることである種の先輩感すら経験することができたのでした。それは一種の「成功体験」として社会生活に関わる自信にもつながりました。

 こう書くと「ほらねー人はやっぱり仕事をして社会参加をせねばいかんのだよ」という結論になりそうですが、この文章の趣旨はそういうことでもありません、むしろ逆です。

 仕事をして人間的に成長したり、お金を稼いだりということは大事な経験だと思いますが、どうも問題は外側から提供されるフレームのない状態で、僕らが意図も簡単に自分を見失ってしまうということにあるように思うのです。だから多くの人は、仕事がなくなると新たなフレームを求めて就職活動にいそしみますが、これはお金の問題だけではないような気がします。生活の中にフレームがないという不安感がそうさせている部分もあるでしょう。

 ポイントは日本には、外側のフレームに自分をはめ込んだ状態と、だらっとした怠惰な暮らしの間がないことです。
 ウツや自殺率の高さ、就職できなかった学生の自殺などはそれときっと関係があります。

 日本人は社会的圧力にもんのすげー弱いんです。
 DNA的にもそうかも。海外から賞賛される協調性や秩序の負の側面、自我の欠如です。

 就職できなかった、ということは言い換えれば、「就職せずにすんだ」ということですよね。
 価値観を勝手に都合よく書き直せるということが、自分力であり、それは命を守る力なのです。
 何をしていても、生きてる状態が大事だという認識。
 価値観よりも存在を重んじる意識。

 こういうニュースを聞くたびに僕は「就職せずにすんだ」仲間が死んでしまったことへの悲しみを覚えます。
 これは彼らの無知であると同時に、家庭内や社会的圧力の後押しがなければ起こりません。
 ただの認識が、命をここまで左右するのです。
 
 きっと僕が意識だけタイムトラベルをして、昔に戻ったとしても、僕は同じコースを辿って本屋でバイトはしないでしょう。
 懐かしいからちょっとだけその雰囲気を味わってみたいなー
 あの頑固そうな店長の説教を聴いてみたいなーなんて思うかもしれないですが・・・
 今の自分の認識ならば、無理して外に出る必要はないとわかるからです。
 ただ、その頃の自分にとっては外に出て働ける、社会と関われるという自信が必要でした。
 それとどこかに属しているという帰属意識。
 多くの人が帰属意識を、労働の場に求めます。
 この社会で精神的に村八分になる、不適応になるという恐れは意外と単にお金がないということの恐れよりも強いのです。そして、自分としては入りたくない一群に、負けてる感じの一群に分類されてしまうのではないかという恐れですね。

 しかし、この分類の基準自体が外側のフレームであり、自分の命を守るという意識が勝っていれば、それには左右されません。(まー・・お前負けてんなーと言われたら、いい気持ちはしないかもしれないですが)

 このような恐れが、働いていない状態を何かとても陰惨かつ不幸なイメージで彩っているのです。

 でもなら働いている状態がよいイメージで彩られているかというと、そうでもありません。
 よく言うワーキングプアや、ブラック企業など労働にまつわる様々な問題と微妙な景気が職業全般に対するイメージを低下させています。10人に4人が派遣労働ならば、年金や保険料なんて払えません。払うことも出来ますが、そうすると、ほとんど生きるだけになり、将来になかなか希望も持てません。

 夢は正社員!なんていうCMは、個人的にはマジか・・・と思う昨今であります。

 なんで、夢は幸福でいること!にしないのかな。
 夢ってそういう抽象的で、ぼやーっとした感じのほうがよいですよ、きっと。

 多くの人はもしかすると働くのもイヤ、働かないのもイヤ、でも働かないで落ちていくのももっとイヤという意識状態で働いているのかもしれません。これは楽しくありませんよね。

 さてさっきの、 外側のフレームに自分をはめ込んだ状態と、だらっとした怠惰な暮らしの間ですが、

 間、というのは外側からのフレームに依存することなく、100パーセントの自由が与えられても自分の才覚でそこを充実した色で塗ることができる、ということです。そんな才能がある人が、これからの時代幸福に近い場所にいるような気がします。

 僕は幸か不幸か、平均的20代、30代よりもずっと労働時間が少ない生活を送ってきました。
 現在週の労働時間は多くて24時間~28時間くらいでそれを越えると調子がおかしくなります。
 社会保障費までは正直払えません。
 おかげで両親はなかなか安心させてあげられないのですが・・・

 もっとも昔はフルタイム勤務にも何度か挑戦しましたが、どちらも2,3ヶ月でウツ状態がひどくなり離脱しました。
 心療内科にいくとあっさりと坑ウツ薬を処方されましたが、そんなものを飲んで働き続けたくないので、辞めちゃいました。

 お金や生活の安定、帰属意識を求め外側のフレームに自分をはめようとすると、調子が悪くなる。
 そしてまた自分の部屋に振り戻される、ということを繰り返しました。
 そのうち、このノーフレームの空間にこそ何かすべきことがあるのではないか、ここでこそ意識を研ぎ澄ませられるのでは
ないかという結論にいたり、また社会と適度に関わるペースもつかめてきたわけです。
 
 どうも会社というものと相性が合わないようで、会社に毎朝でかける仕事は続かない(もって一年)のですが、お宅に伺うという今の仕事は5年以上続いております。そういうケースもあるわけです。自宅でできる仕事が一番向いてる人もいます。
 だから会社や役所に就職できないからって死んじゃダメ。探せばいいんです。生きる道、生きられる道を。

 まあそんなわけで、自由な時間に何をするか、どういうフレームを自分で作るか、なにをしてると自分は幸福なのかというテーマとはずっと取り組み続けてきました。

 その過程で気がつくと一日3時間くらい対戦型テトリスをしていた日々もありました。
 どうせもうすぐこの文明は崩壊するとか思って、その考えに振り回されていたのですが、それすらも外側からのフレームだったのです。そんな毎日の中で、何が不毛で何が充実か、という感覚がややわかってきました。

 また9・11や3・11のようなことが起これば、恐れに基づいた外側のフレームが優勢になるということも理解できました。
 幼稚園の子どもが何度も地震がまた起こると予言しましたが、ひとつも現実にはなりませんでした。

 だから生きる中で経験することは、何も無駄ではないのでしょう。

 仮にまもなく大災害が起こって死んでしまうとしても、それまではかけがえのない今を幸福に、平和に生きてる実感を味わったほうがよいのです。

 この投稿では、外側からのフレームなしにいかに生きるか、ということについて考えてきたことを少しシェアできればなと思います。


 大切ないくつかのこと



 ①自己理解と受容

 自分の個性、強み、弱み、生まれてきた目的、ミッションなどについて深く気付き、自分マニュアルを作成することです。
 そしてその個性を受け入れ、慈しみます。

 ②ビジョンマップ

 心を喜ばせること、楽しませることについての地図を作成して生きる指針にします。

 ③スピリチュアル&アウェアネス

 人生を振り返り、導きを受けてはいないか調べることを習慣にします。
 自分の人生やシンクロニシティの流れを注意深く観察して、信頼する。
 何を食べるか、どのような本を読むかなどに関して、自分がどう「感じて」いるかという感覚を研ぎ澄ませます。

 ④ダウンシフトする

 あわただしい生活ではなくスローなリズムの省エネ型生活へ切り替えます。
 お金をかせぐことよりも、自由時間を大切にします。

 最後の長期休暇が大学生四回生の夏、その次は60歳の夏だよ!ってなんかおかしくないですかね。

 春と夏は働かないというアーニー・ゼリンスキーさん並みが当然とは言いません。

 でも 

 人生に少なくとも何度か、一月程度休めることがあってもいいんじゃないでしょうか。
 それすらも非常識とされる社会はやはりどこか問題があると思わざるを得ません。

 もしも、体やメンタルな不調があまりにもつらい時は、薬などでごまかしごまかし働くのではなく、休職・退職という選択を優先します。
 経済状況、扶養家族の有無などで一概には言えないことではありますが、収入や世間体よりも、自分の命、健康を守るということを一番に考えます。

 健康を犠牲にしてお父さんは僕を育ててくれたって知るとき、子ども達は本当にうれしいんでしょうか。。。
 自分の命を守ることは、家族のために働くことよりも、本当に男の面子が立たないことなのでしょうか。。。。。

 「お父さんは好きなことをして、僕をなんとか育ててくれた。豊かじゃなかったけど、毎日パパは楽しそうにしていた。」

 思い出としてどっちがいいでしょうか?

 ⑤フレームを相対化する

 すべて外側のフレームは人間がつくったもので、時と場所が異なれば意味をうしないます。
 現代と日本の価値観は一時忘れます。
 アウターフレームの洗脳装置であるテレビを捨てるのもよいでしょう。
 遥か未来人や宇宙人になって自分を見て見ましょう。
 あるいは、イヌイットの長老や、インドの隠者や、オーストラリアのアボリジニなら自分にどう言うかを考えて見ましょう。
 先になくなった知人や親族は自分を見てどう言うでしょう?

 どんなアドバイスが、声が、時を越えた場所から聞こえてくるでしょうか?
 
 その中で、浮かんでくる愛のある答えだけを真実として取り入れます。
 実際それは真実なのです。
 どうしてイメージの中の言葉が、現実の人間の言葉よりも説得力がないと言えるでしょうか。

 また逆に、昭和20年終戦直前、戦争に行きたくなくてどこかに失踪しようかと考えてる若者がいて自分を責めているとすれば、あなたはなんと声をかけるでしょうか?イメージしてみましょう。

 戦争に行け!そして国のために死ね!そう言う人はほぼゼロでしょう。

 いいんだよ、逃げても。

 君の感覚は当然だよって多分言うでしょう。

 でも若い兵隊に優しい僕らが、この現実ではいろんな人を、そして自分を現代のフレームでジャッジしてしまいがちです。

 いつの時代でも、その時代の「当たり前」が命を殺すのです。

 内的なフレームによって生きてる人たちのブログや、本をたくさん読みます。

 あるいは海外を実際に旅して、異なったアウターフレームに触れてみます。

 例えばインドでは、男性同士が仲良く手をつないで歩いていますが、これは別にゲイのひとたちじゃありません。一種の友愛の表現としてこういうスキンシップがあります。

 日本で男同士がお手つないで歩いてたらおかしいですが、これってどちらが正しいという問題じゃありませんね。

 こういうアウターフレームの違いを肌身で感じることが自由でいられる秘訣のひとつだと感じています。

 アウターフレームは異なるという認識→より深いインナーフレームの確立

 海外ではなくても、国内でも可能ですね。



 ⑥何かになろうとするのではなく、自然に自分らしく生きること




 このようなことがポイントとなってくるように思われます。


セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/03/13 13:37

マイクロスリープ・メディテーション



P3060085.jpg



  誰でも仕事中などに一瞬ウトウトして、ハッと目を覚ますとすごく頭がすっきりしていたという経験があると思います。

  こういう束の間の睡眠は「マイクロスリープ」と呼ばれているらしいです。

  普通人間は数日間睡眠を断たれると、意識に障害が出始め、怒りっぽくなったり何かに集中するのが困難になります。
 
  でも稀に何日間もの断眠実験に挑戦して、成功する人がいます。
  ネットでさくっと検索してまず出てくるのは、264時間、11日間の断眠に成功したランディ・ガードナー少年の記録です。
  このような長期の不眠に成功する人は、マイクロスリープをうまく利用しているのでは?という説があります。

  ギネスなどの記録の場合、もちろん立会人はいるでしょうし、横になって眠ることは不可能です。

  でもマイクロスリープは数秒~十数秒単位でも起こり、多分追い詰められると立ったままでも起こります。
  ということは厳密に外から見て、その人が寝てるか寝てないかを判定するのはすごく難しいですよね。
  脳波で計測することは出来るかもしれないけど、瞑想の熟練者の中には目覚めたままでシータ波やデルタ派の領域に入る人もいるでしょう。

  一見外から見てわからないほどの睡眠でも、集中力を回復し、気分を安定させるパワーがあるからこそ、マイクロスリープだけで何日間も過ごせるのだと思います。

 だからどうも気分が落ち着かない、もやっとする場合には気を紛らわせようといろいろするよりも目を閉じて静かにしてるほうがいい場合があります。すると必要ならマイクロスリープが起こり、瞬時に意識がリセットされます。

 僕もずいぶんマイクロスリープ(早く言うと居眠り)の恩恵にあずかっています。

 このような充電間はいったいどこからくるのか、脳科学的にはいろいろ説明があるのでしょうがスピリチュアル的にあるいは意識学的にいうとどういう現象なのかということに興味があります。

 というのはそれが起こるときには、ある種別の世界の力により助けられてるような感覚を伴うからです。
 うーん、言い換えると別の世界に一瞬行くことにより・・・とも言えるでしょうか。
 多分実際、行ってると思うんですけどね。

 小規模なゲシュタルト崩壊、シャーマニックな意識の転換のようなものがあのリフレッシュ感の正体では?と思うのです。

 僕はよくマイクロスリープに陥る瞬間を観察します。
 マイクロスリープ・メディテーションです。

 するとまず、意識がボーっとしてきて、ゼロの状態と僕が呼んでる状態になってきます。
 さっきまで気にかかってたこととか引っかかってたことが徐々にどうでもよくなり、手放されてる感じ。
 続いてさらに深まると見当識が喪失されます。
 まだ合理的な思考は目覚めているので、部屋にいるというのはわかってはいるのですがそのリアリティが薄れてゆき、自分の肉体やアイデンティティーも遠ざかり、<誰でもない感>を味わいます。

 次に、まったく状況設定の異なる現実に意識が引き込まれるのがわかります。
 通常<夢>と呼ばれるものですね。
 これは現実とまったく異なるストーリーとロジックを持っているのですが、眠りのある瞬間において意識がそちらの現実に置き換わってしまうポイントがあります。
 ここで観察をやめるとそのまま<夢>の論理に飲み込まれていくのですが、さらにしつこく観察を続けると僕の場合は、夢のロジックと現実のロジックを何度もいったりきたりします。人によっては覚醒夢に移行できる人もいるかもしれませんが、僕の場合はあまりそれは起こりません。

 でも、現実から見て非現実があっというまに現実になっていくということが面白いのです。
 シャーマンはこれを意識的におこなうことができます。(目覚めたまま、別の現実に入っていく)
 誰でもこれを、現実を非現実化するという作業を毎晩繰り返しています。

 面白いですよね~~

 僕から見れば、夢の原因とか分析よりも、この現実がゆらぐという現象こそが夢の神秘だと思います。

 胡蝶の夢・・・うつしよは夢、夜の夢こそまこと という発想も出て当然。

 このようなゼロの状態になることと、まったく別の世界に入ることが、あのリフレッシュ感の正体なのでは?と思います。
 真我のほうから瞬間的にエネルギーが流れ込むのかもしれません。

 人が眠る理由をエネルギー補給と考えると、眠らないマスターがいるのは、彼らは覚醒状態でそのエネルギーを常に補給できるからなのでしょう。

 このときに必要な情報も流れ込むことがあります。

 やはり眠りは脳科学だけでは解明できない謎があります。
 パラレルな現実というものを設定しない限り謎が解けないのは<死>おなじで、眠りと死はかなりイコールではないでしょうか。シータ波やデルタ派という脳波は、脳波のフラット、つまり死に近い脳波であり、この物理的次元の拘束からかなり解放された脳波です。そのため、<死>による知覚の拡大に近いものがある。

 夢になくなった方が登場するのは、それが彼らのいる帯域と共通した脳波だからでしょう。

 つまり僕らは毎晩、死んでるわけです(もしかすると毎瞬、かもしれません)

 インドの聖者ラマナ・マハリシは「お前さんは毎晩寝ているのに、どうして死ぬのを怖がってるんだい?」と言っています。
 
 不眠はある意味で、心配事などによる神経系の覚醒が原因で、覚醒時のフォーカスポイントがバラバラになるのを許容できないという状態です。問題が大きく、そしてリアルなので、その問題から意識をそらすことができなくなります。

 しかし実は、このゲシュタルト崩壊状態を許容し、別の現実に移行することを許せば、そこに答えや状況を耐えやすくするエネルギーがあるのです。

 通常は、ひとつの現実しか見えていない、というのが僕らの苦痛の原因のひとつではないでしょうか。

 これが問題解決よりも、しばしば単にリラクゼーションすることが有効な所以でしょう。
 瞑想はこれを意識的に起こそうとします。
 完全に眠りに陥ることなく睡眠時のシータ派やデルタ派の多い状態になることが、瞑想の結果起こります。

 でもそれは実は特殊な脳波ではなく、誰でも体験していることなのです。
 
 うたたねを意識的に行うとそれがわかります。

 オススメ♪

 P3060086.jpg



セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/03/01 11:14

季節性情動障害とサンゲイジング



 毎年、秋はプチウツな日々が多く、からだも低調になることが多いです。

 僕の場合は10月終わり~12月中旬くらいの一月半くらいが特に落込む傾向がありました。

 気分的にだけではなく、風邪もかなり引きやすくなったりしました。

 これはどうも季節性情動障害(冬季うつ ウィンターブルーとも)という症状のようで、結構経験する人は多いようです。

 季節性情動障害とは?

 「日中に太陽光を浴びるとセロトニンという物質が作られる。セロトニンは、脳から分泌される睡眠ホルモンであるメラトニンの原料となる。太陽の光が少ない冬の期間はセロトニン減少が起きメラトニンが十分に生成されない。メラトニンには、季節のリズム、睡眠・覚醒リズム、ホルモン分泌のリズムといった 概日リズム(サーカディアンリズム)を調整する作用があるのだが、これが不足することで体調をきたすというわけだ。
 
 イギリス国民の20%がこの病にかかるという。また、10%のフィンランド人が季節性情動障害を患っているが、フロリダ州ではたった1.4%しかいない。これは、気候環境と季節性情動障害が密接に関連していることの証明である。

 1980年まで季節障害は正式な病気として扱われていなかった。「寒さが苦手な人が泣き言を言っているだけ」と言う解釈が主流だった。

 季節性情動障害に一番多い年齢層は18歳から30歳までで、女性は男性よりも3倍多い。また、寝つきが悪い人に多いと言われている。特に症状がひどくなるのが12月~2月にかけてである。一般的には3月末になればほとんど良くなるのだが、人によっては5月にずれこむ場合もある。


 一般に気分の落ち込み 過眠(寝ても寝ても眠い) 過食 などの症状があり、原因は基本的には秋から冬にかけて日照時間が減ることによるセロトニンレベルの低下にあるようです。

 だから、こういう時はその気分に振り回された状態で、重要な決断などはしないほうがよいですね。
 
 毎年秋が来るとやや戦々兢々としてたのですが、去年はいつもよりもかなり好調に過ごすことができました。

 多分、早起きして朝日を浴びに行く習慣があったので、不足しがちな太陽エネルギーをそれで補えていたのだと思います。

 ネイティブアメリカンのシャーマン、ローリングサンダーの本で朝日は一日でもっともメディスンパワー(治癒的エネルギー)が強いというのを読んだのがきっかけでした。

 

 冬季ウツの対処には他にも、セロトニンをつくるトリプトファンやビタミンB6を含む食事を多く取ったり、サプリで補ったり、運動や投薬などいろいろ手段があるようですが、根本的原因が光不足なわけなので、やはり光で補うというのが本質的な解決のような気もします。

 サンゲイジングもよいのではないかと思いました。

 
 サンゲイジングを長期間行った人は、睡眠時間が減ってエネルギッシュに活動できる時間が増えるという現象がおこるようですが、これは、秋ウツによる倦怠感、過眠などとは真逆の状態です。(不食や小食によっても睡眠時間が減るという話しがある)

 僕は去年サンゲイジングをやってたわけではないのですが、太陽に祈ったり、手をかざしたりしてる間、目からかなりの光が入り、自然的にサンゲイジングをやってたのかもしれないと思いました。

 その結果例年より好調だったのか?
 
 あと休みの日は数時間野外で本を読んだり、音楽を聞きながら日を浴びてごろごろするのも効きます。

 サンゲイジングはもちろん、無茶なやり方をすると目を悪くするリスクもあるので注意が必要ですが、日の出・日没の一時間以内の太陽光線は肉眼で見つめても問題のないものになっているとサンゲイジングの専門家で、NASAの監督下で130日間の不食をやりとげたヒラ・ラタン・マネク氏は考えているようです。

でも秋ウツの改善には必ずしも太陽を凝視する必要はありません、
 お困りの方は、是非朝日を浴びにいってみてください♪



セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/11/13 19:16

直観と<境界線>


  
  タロットカードの中で内なる直観を表すのは、2番の「女教皇」だとされています。

 jyokyoukou.jpg

 根源から、あるいは内なる自己からの宣託を告げる彼女は、すべての人の中に存在しています。

 僕が思うに、自分は霊感もないし、まるっきりそういう能力はないという思い込みの強い人も、虫の知らせ的なシグナルによって行動を左右されているのです。

 もともと人間の心臓には未来をある程度事前に察する能力があるようです。

 これは科学的な環境で設定された実験ですが、ランダムにいろいろな画像が現れるモニターの前に被験者を座らせて心臓の活動を観察すると、爬虫類の攻撃や災害の画像などが表示される数秒前に心臓の波形に乱れが起こるのです。

 以下の動画に実験の撮影があります。(英語です)56分頃~

 


 次に何の画像が現れるかは被験者はもちろん、実験の監督者も知らないので、この場合、被験者の心臓のみがもっとも未来に通じていたということになるのではないでしょうか。

 「女教皇」はもしかすると、僕らのハートのあたりにいるのかもしれませんね。
 そこには頭脳とは別の、知性と情報のセンターがあるのです。

 だから、これらは人が思うほど特殊な能力ではありません。

 ただ内なる指針とでも呼べるような感覚です。

 僕の場合は、直観的に、この本を読むべきだということがわかったり、本の装丁や著者の名前によってそのエネルギーが感じられるということはよくあります。なぜかわからないですが、好きな本は著者の名前の響き自体がとても魅力的にひきつけてくるのです。そして本自体が生き物のように、愛らしさを放っています。間違って踏んでしまうと、生き物をふんずけたように「あ、ごめん」と謝りそうになります。

 これとは逆に、手に取るのもちょっと躊躇する、部屋に置いておきたくないという本もやはりたくさんあります。

 それは腐った食べ物や枯れた植物を部屋において置きたくないという感じと似ています。

 こんな風に直観は、おそらく誰もが知らないうちに使っている明確に定義されていない、五感以外の感覚ではないかと思うのです。そして、人によって直観の働きやすい分野、そうでない分野があるんじゃないでしょうか。

 そして自分の人生の生き方に関わる局面でもやはり直観は僕らにささやきかけてきます。

 ある意味でいうと、本当に自分らしく生きるには直観的に生きるしかないわけです。
 
 というのは、自分が何を仕事とするか、趣味とするか、喜びとするか、どういうライフスタイルを送るか、何を食べるか、などということに関して、内なる指針に従わねば、外なる指針に流されるしかないからです。
 
 外なる指針ののわかりやすい例が、メディアによって意図的に起こされる流行や、ブーム、カリスマ占い師のアドバイス、生まれ育った家族の価値意識、あるいはその時代全体を支配する集合的な価値意識などです。

 多勢を支配する外なる指針と、自分のスピリットの出す指針の食い違いが少なければいいのかもしれませんが、内なる指針と外なる指針のギャップが大きいほど人はその葛藤を封じ込めるか、「少し浮いた人」として生きる勇気を持つかという選択に迫られる場合もあると思います。

 でも実際は自分に正直であればあるほど、周りにも貢献できるのです。
 自分に不正直であればそれだけ、自分のギフトを内側に封印してしまい、その抑圧されたギフトの創造的エネルギーが逆に心身を攻撃します。

 自分の直観に正直であることは、一人でいれば、割と簡単に思えますが、誰か別の人がからむと少し複雑になってきます。

 「境界線」をひくことと、「直観」の関係もそのひとつです。

 よくセラピーの分野では健全な境界線を引くことの大切さが語られます。

 境界線は、僕と、あなたの間にある、個としての分水嶺です。

 境界線を引くとは簡単にいうならば、それぞれが独自の価値観を持っているということを認め、必要以上にそこに干渉しないということ、また人のプライベートな空間やエネルギーを尊重し、そこに入り込み過ぎないこと、そして自分自身についても人から侵犯されることを黙認しないこと、などです。

 境界線がぐちゃぐちゃになるということは、家族やカップルの間でよく起こります。
 当然といえば当然ですが、密な関係ほどどこまでが自分でどこからが他人なのかわからなくなります。

 それは「一体感」、よいことのようにも思われがちですが、健全な境界線のない関係は決してよいものではありません。
 
 それは「愛」ではありません。

 極端な例がユニティの名の下に、みな同じ服を着て、同じような笑い方をする宗教集団のような形態です。
 ないことにされた境界線は、しばしば、組織の外部を敵対的なものとして設定することにより外在化されますが、これが良く起こるカルト内での社会へのパラノイアなのです。

 また国が混沌とするときに起こる、ナショナリズムなのです。

 これが家庭内で起こると、いつも何かのトラブルに全体が振り回されていたり、どこまでが自分の感情でどこまでが人の感情かはっきりしないような纏綿型家族ができあがります。

 この中で人は暗黙に問題意識や信念体系を共有しますが、それが自分のものだと思い込んでいます。

 このような家庭内では常に人の境界線を越えてしまうのが常習となっている人がおり、またテリトリーに踏み込まれ心に干渉されることが常習となっている人がいます。同属としての意識と慣れが<個>の存在のユニークさを、無視してしまうのです。

 直観と、境界線の関係はいくつかの簡単な例で説明できます。

 まず直観は自分のスピリットから、あるいは<根源>から来るものなので、境界線が脆弱であまりにも外側の信念やエネルギー、情報に振り回されていると、それに気付くことができません。
 直観を受け取るには、女教皇が座っているような静寂の空間が必要なのです。

 また直観を感じていても、それを人に表現できるだけの強さがなければ、関係性の中でそれは埋もれてしまいます。

 例えば、僕は一人の時間がある程度ないとかなり疲弊するタイプなので、疲れているときにパートナーとも話すことが難しいことがあります。
 でもそれを押して会話を続けることがよくあったのですが、そうするとそれがストレスになり、イライラし始め、相手にもそれが伝わり、雰囲気がピリピリするということを何回か経験しました。

 今は、ひとりでいたい時は画用紙で作った「一人にしてね」プレートをドアにかけたり、いろいろ工夫してややスムーズになりました。そして僕も、相手が疲れているときは一人の空間をなるべく尊重するようにしています。

 これは境界線は維持したいけど、嫌われたくないというようなジレンマが起こるポイントでもありますが、基本的には「無理をしない」ということが長い目で見るといい結果を生むようです。

 また例えば、友人からどこへ遊びに行こうと誘いがあった場合も、気乗りがしなければ、失礼がないように断ったほうがいいんだと思います。
 いやいや、付き合うよりも例えば、僕がそこで断ることにより、彼にはまた別の可能性が生まれるからです。
 友達を大事にするとは、ある意味では「友達とは、今日は遊ばない」ということにもなりうるわけですね。(また別の日に会う約束をしてもいい)

 ところが相手の反応が気になる人は、ここで自分の感覚にふたをして、出かけていって、楽しくない思いをしがちです。
 自分の感覚よりも、表面的な承認を得ることを優先してしまうんですね。

 相手の話にあわせすぎて、いつも聞き役になってしまうという人は、会話の中で自分の感覚を表現する練習をするといいかもしれません。これは僕もよく意識することです。

 介護の仕事などで、最初は自分の感覚を殺すということを意識し、相手の話を聴くこと、あわせることだけをしていましたが、「自分を殺す」というのはどんなときでもそれほどよろしくないことだと気付きました。

 なぜなら自分を殺すことは、遠回りに「相手を殺す」ということでもあるからです。

 自分の境界線を侵された違和感や怒りを押し殺し続けることは、相手にも付けとなって回ってくる場合があります。
 人のフィールドに干渉するという傾向を当然のものとして受け入れることで、それを常習化させてしまうからです。

 それを回避するには多くの場合、「ちょっと疲れてきた」「休ませてください」「少し一人にして」などというだけで十分です。

 どんな時でも「自分を生かす」ほうがいいのです。

 それはどんな時も自己主張をしまくることとはちょっと違います。
 
 相手のエネルギーに巻き込まれすぎないこと。

 どんな時も、自分のリズムとともにいること、呼吸とともにあること、自分の愛と共にあることで、それが人とのかかわりの中にあるときでも僕らが直観を受け取れるスペースを確保してくれるように思います。

 社会や他者から孤立することなく、女教皇の座るような静寂のスペースとともいられることが理想ですね。



セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/04 13:02

大いなるものとつながる


  前々回は「自分とつながる」ことについて書いてみましたが、今回はもうひとつの重要事項「大いなるものとつながる」ことについて書いてみます。

 神、宇宙、愛や叡智、高次の自己

 なんと呼んでもいいのですが、古来より人は人の知の及ばない実在を直観的に感知して来ました。

 太陽や月、星のめぐり、生命系の複雑さと秩序、それらにはある種の「知性」が内在しているとしか思えなかったからです。自然科学が還元主義的な手法により、すべての生命現象を偶然や自然淘汰で説明しようと試みても、やはり自分に正直に人生や宇宙を見ればそこにはある秩序や知性が息づいていることに気付かざるを得ないと思います。

 僕が思うには、すべての存在はその「大いなるもの」のエネルギーにより生かされているので、ある意味ではすべての存在は「大いなるもの」とすでにひとつにつながっていることは確かです。

 でも、重要なことはそれが僕らにとっての「知」に、より確かな認識となり、リアリティとなるということなのです。 
 「大いなるもの」により生かされているということと、それを知っていることとの間にはやはり違いがあるのです。

 なぜなら「大いなるもの」と個々の認識を通じてつながることが、個々の心の救いや、エネルギー、愛、知恵を受け取るパイプラインを築くことになるからです。

 先週師匠の夜の集いに参加したとき、「つながることとわかること(覚醒することの違いはなんですか?」という質問が参加者の方からありましたが、師匠の答えでは、

つながることは大前提、でもものすごくつながっていても、わからないということはある。わかるかわからないかはその人の人生のミッションにも関係がある。つながることは今日明日にでもできるんだよ。つながることによって個々の資質に応じた能力が開花する」というものでした。

 「大いなるもの」につながる方法はたくさんあると思います。
 多くの人が行う神社や仏閣パワースポットへの訪問も、おそらく真摯な気持ちで行えば僕らとそれをつなぐでしょう。
 他にも他者に奉仕するということを、大いなるものへ奉仕する意識で行えば、それもやはり僕らとそれをつなぐでしょう。

 またことさらに神や宇宙という言葉を意識しなくても、「大いなるものの」性質である純粋な愛や正義、創造性などの意識で生きている人はおそらくこのつながりの中でエネルギーを送られています。

 でも基本的には「自分とつながる」と同じように、「意識する」から始まり、理解し、受け入れ、愛するというプロセスを辿ることになると思うのです。その過程のどこかで、あちら側のエネルギーとつながる感覚が自ずから体得されていきます。

 古来からの伝統的な道では、この「大いなるもの」とのつながりを最優先課題とし、自己や日常的、物質的豊かさを捨て去るという方向性が選ばれてきました。

 でも、現代人のスピリチュアリティは、多くの場合その方法とはフィットしません。
 おそらく大きな流れとして、精神性と物質性の統合、大いなるものと自我の共存、というテーマがあるのかもしれません。現代はヒマラヤの奥にこもる覚者がいると同時に、市井の覚者が大勢求められているのです。

 求めて覚者にはなれなくても、「つながってる人」には求めればなれると思います。

 人類のスピリチュアリティの推移を別の例で見てみると、かつては自己犠牲、自分を殺し、他を生かすという行為が美徳でした。現在でもやはりそれは人の胸を打つし、英雄的行為としてみなされます。

 しかし、それを「最高なこと」ではなく、集合的なスピリチュアリティは「他を生かし、自分も生かす」という方向へと推移しているのです。ということは自分を殺し、他を生かすという方向性がこれ以上、必要以上に美化されることは、全体の成長にとって好ましくないからかもしれません。

 なのでこれと同じように多くの人にとって最初から「自分のことなんでどうでもいい、この世界には苦しんでる人がたくさんいる、自分なんか捨てて頑張ろう」という方向性はバランスのとれた道にはならないでしょう。そのように決断しても、何か満たされない心の埋め合わせとなっている可能性が大きいからです。

 だから「自分とつながること」「大いなるものとつながること」このふたつをバランスの取れた形で行っていくことが現代にフィットしたあり方だと思います。

 もちろんその割合は人によって5:5でも、3:7でも、9:1でもかまわないのですが、個人的には「大いなるもの」のためのスペースを心のどこかに少しでも持っていることをオススメしたいです。

 覚醒した存在は大いなるもの10という意識で存在しており、それは大いなるものの他には何もない(あるいはそのほかはイリュージョン)という認識であり、それに基づいた生き方です。

 そこに至っていない僕らがまずそれとつながるためにはまず「意識する」 ことばでもイメージでも

 自分の知性やリアリティを遥かに超えた巨大な存在、秩序を思うことから始まります。

 ポイントはそれが僕らから遠くはなれたものではなく、僕らの人生や生命自体がそれに組み込まれているということでしょう。そしてこの巨大な秩序、生命の織物、宇宙の計画のなかで僕らは人生の役割や存在の意味を与えられていますが、はっきりとはそれを知ってはいないことがほとんどです。

 そのことにより、大いなるものに委ねる、という方向性が生まれます。

 もしも仮に人生が自我の色付けしたあらゆる視点から見て、行き詰っているように見えても、それは本当の行き詰まりではなくある宇宙的プロセスの一部であることは確かです。

 なので自分の「見方」を手放して、その宇宙的プロセスに意識をあわせたときに始めて現れてくる現実があるのです。
 それが神と共に生きる(つながって生きる)というリアリティです。

 僕は決して「大いなるもの」への真摯な探求者とは言えないと思います。
 
 気がついたら「大いなるものに」 バーカバーカと言ってたりします(ごめんなさい)

 それでも学んだことは多くあり、その中でも大事なことのひとつは、不幸や苦しみは外的な状況により起こるというよりも根本的にはその人間の認識に「大いなるもの」がないことにより起こるということです。

 その人の認識に神が出現した途端、状況に関わりなく人は救われるのです。

 そして完全にそのエネルギーと一体化していれば、ホームレス状態でもきっと笑いが止まらないであろうことは確信しています。

 そのような状態への一歩は、「大いなるもの」を思うことから始まります。
 それは小さな一歩だけど、それ以降の歩みと祝福をすべて含んだ一歩です。

 苦しいとき、それに意識を向けて、この出来事の意味は何か、どこへ私を導かれるのですか?と問いかけます。

 答えはあるかもしれないし、ないかもしれない。

 でもきっとそのことによりあなたの心には神と言うスペースが出現するでしょう。

 祈りの意味は、答えが返ってきたり、願いがかなうこと以前に、祈れるということ、それを意識できるということ、その福音にあるからです。



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■






 個人ヒーリングセッション、お申し込み受け付けています。

 お気軽にブログ右側問い合わせフォーム、もしくはメールにてお問い合わせください。 

 Mail: hxaxixtxaxkxa yahoo.co.jp (yahooの前に@を入れて送ってください)

 詳しくは ヒーリングセッション再開しました もご参照ください!

 心よりお待ちしております☆



セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/12 10:23

僕らを見つめるまなざし

               「あなたが求めているのは あなたを見ているものである」BY・・・・誰だっけ?



 僕らはいつも他者からの注意と関心、そして承認を求めています。

 と、同時に十分なそれらが自分には与えられていないと思ったり、自分はそれらに値しない、ということを恐れていたりもするのではないでしょうか。

 誰しもが成長する過程で、多くの人が嫌われたり、仲間はずれにされたり、影でののしられたり、社会全体から裁かれるのを目にします。
 そして自分はそんな事にはなりたくない。でもひとつ間違うと、自分も見捨てられ、相手にされなくなるだろうという恐れをも刷り込まれました。
 
 そして時には、大勢の中でスケープゴートを見つけ、陰口や批判をしているときに、「うん、自分は確かに【こちら側】にいる大丈夫だ」という安心感を感じたりするかもしれません。

 と、同時に心のどこかではその安心感が砂上の楼閣のようなものであることも知っています。

 敵や異端者、悪いやつ、ムカつくやつ、ダメなやつを設定して連帯感や安心感、承認感を得ることは結局はそれが無条件の連帯感や承認感でないために、潜在的にはよりいっそう愛されないという恐れをも強化するのです。

 それはこちら側(OKな側、愛される側)とあちら側(NGな側、愛されない側)を設定してしまったがために、生まれる居心地の悪さです。

 誰からも興味と関心を払われなくなることを僕らは恐れます。
 
 そのためにその恐れが大きければ大きいほどに、よりいっそうスケープゴートを探してこちらとあちらを設定したり、他者からどうにかして興味と関心を勝ち得ようとするコントロールドラマに巻き込まれていくのです。

 それほどまでに愛を求める衝動は強烈で、それが満たされないときの恐れも大きいといえるでしょう。

 確か中島みゆきの歌の歌詞に「愛の重さを疑いながら 愛にすべてをさらわれてゆく」というのがありますが(土用波)、これは「愛なんてない」を思って生きても、結局は愛されない恐れに基づいた現実を生きてしまうという、愛に表側からも裏側からも支配されている人のあり方を歌っているのだと僕は解釈していました。(よく考えたら作詞者の意図とは違うかもですが)
 
 結局は問題は愛は人からのみ、それも他者からのみ生じるという集合的な思い込みにあるようにも思えます。

 もしそうならば愛は限られており、結局はカップルや友人関係からあぶれるものが出て、人間関係は限りある愛という「資源」を勝ち得るための過酷な競争になるのです。

 多くの人が両親とのトラウマを生涯抱え続けるのは、子供にとっての絶対者である親の言動はその次元を超えた愛をもってしなければ修復が難しいからだと思います。子供にとってのメンタルなセーフティネットは、社会全体が、君は両親から愛されている、と同時に愛からも愛されている、という認識をもつことではなないかと思うのです。

 その愛は人から発すると同時に、空気中に常に遍満しているようなものです。
 あたかも空気中に、僕らへの関心と興味と、そして愛情が常に充満し、それを僕らが気付かないだけとしたらどうでしょうか?

 もし僕らが、それに気付くことができれば、恐れなく生き、注意と関心を惹くために人をコントロールする必要もないことに気付けるのでしょう。

 僕らはどうしても、愛を言葉や、贈り物や、優しげな行いや、肌のふれあいとして考えます。

 ということは、もしも日常に優しい言葉をかけてくれたり、プレゼントをくれる人がいなかったり、肩に手を置いたり、頭をなでたり、キスをしてくれる人がいなければ・・・そこには愛はないということになってしまいます。

 そして、愛がもらえない私は、価値がないという認識にまで時には至ります。

 でも本当にそうなのでしょうか?

 先日講演会に参加させてもらった、臨死体験後に末期の癌が全快したアニタ・ムアジャーニさん。
 アニータさんは、臨死体験中無条件の愛しか存在しない次元にいた話しを聞かせてくれました。
 その愛が、病を治療させた原因であるとアニータさんは考えているようです。

 直観医療者のクリステル・ナニさんも人は死後無条件の愛の空間に赴くということを著書の中で語っています。

 近年(2012年)全米を中心に注目された脳神経医エベン・アレグザンダー氏の著書「プルーフ・オブ・ヘブン」にもやはり無条件の愛の次元、創造主の次元のことが描かれていますが、この人も大腸菌性の髄膜炎というかなり珍しい病気から危篤状態に陥り、臨死体験を経て奇蹟的な回復を遂げた方のようです。

 その次元では僕らは何をしていても、していなくても、無条件に愛されて存在し、また僕ら自身がその愛のネットワークの一部となりその中で、すべてを愛しているようなのです。

 おそらくは愛は宇宙自体の根源的な構成要素であり、人間の中に気まぐれに現れたり消えたりする、一感情などではないのです。 

 いつの日か愛が、光や重力や原子のように宇宙的な力であることが広く認識される日が来るかもしれません。

 それまでは、愛はヴェールの向こう側でその正体を隠しながら、僕らを操り続けるでしょう。
 
 もしそんな時代が来るまでにまだ時があるとすれば、あたかもすべてが自分を愛しているかのように、空気中に愛が満ちてるかのように日々想像力をもって生きてみるのはどうでしょうか。

 無条件の愛が誰にとってもリアルな時代にいる、というシミュレーション、ごっこ遊びです。

 大きな存在が、あるいは天使が、僕らにいつも語りかけている。

 例えばこんな風に

 「あなたがひとりで元気がないと感じるときに、私達と話していると考えてください。実際、私達はいつもあなたとひとつであり、あなたに話しかけているのです。

 私達に一定の形はありませんが、あなたが愛する形として想ってくださって結構です。
 エンジェルとして、妖精として、マスターとして、好きなアイドルとして・・・なんでもかまいません。
 あなたが愛を感じるということが重要だからです。

 そしてあなたには、絶えることのない注意と関心が注がれています。

 あなたが自分のことをどうでもいいと思ったり、絶望するときでも、あなたは私たちによって、いつも見つめられ、感じられているんです。あなたにはいつも関心を持たれる価値があります。

 なぜならあなた自身が、肉体と時空と自我を経験し愛を表現している私達の一員だからです。

 あなたがこの世界で為そうとしていることを私達はいつも応援しています




 それがリアルであるとき、想像力は、単なる空想ではありません。

 世界が丸いというリアルなイマジネーションがコロンブスの航海を助けたように、もしも神が、愛がリアルであるならばそのイマジネーションは実際に愛とつながる力があるはずです。

 この「ごっこ」を続けていると、時々これは単なる空想じゃないという喜びや安心感、エネルギーの高揚を感じるかもしれません。それは愛がリアルであるということの証なのではないかと思います。

 さて、この記事は、誰かが、あるいは何かが、いつどんな時もものすごく僕らに関心を持っているというのではないかというイマジネーションをもとに数日間書き進めてきましたが、さっきカフェで読み進んだエベン・アレグザンダー氏の「プルーフ・オブ・ヘブン」の中でこんな一節と出会いました。エベン氏は、臨死体験中に体験した創造主を、「オーム」と呼んでいます。ちょうど今日出会った、この記事の趣旨そのものでもあるこのセンテンスを引用し、終わりたいと思います。


 「確かに神は、科学が解明に努めながら明らかにしている、完璧な宇宙をあらわす数字の向こうに姿を潜めている。

 しかし逆説的ではあるが、オームにはそれと同時に豊かな情緒が備わり、その人間味はわれわれ以上であるとさえ言ってもよい。

 オームはわれわれの想像を絶するほどの深さと関心をもって、個々人の置かれている状況を熟知し、共感を寄せている。

 われわれが忘れてしまったものの喪失を承知していて、わずかな間でも神聖なつながりの記憶をなくした状態で生きることがいかに過酷であるかを、よく理解しているからなのだ。」 
                                       エベン・アレグザンダー


 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



 ヒーリングセッション再開しました 

 お気軽にブログ右側問い合わせフォーム、もしくはメールにてお問い合わせください。 

 Mail: hxaxixtxaxkxa yahoo.co.jp (yahooの前に@を入れて送ってください)
 

セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/10/07 21:47

10月スケジュール



 10月のヒーリング&カウンセリングスケジュールをアップします。

 カードなどによる現在の状況のリーディングと、ハンズオンヒーリングを行います。 

 アクセスは西武新宿線田無、JR武蔵境駅より

 料金は7000円となります。

 時間は朝10時からだいたい18時頃まで受け付けております。

 ご自宅や宿泊先への出張も可能です。

 お気軽にブログ右側問い合わせフォーム、もしくはメールにてお問い合わせください。 

 Mail: hxaxixtxaxkxa yahoo.co.jp (yahooの前に@を入れて送ってください)

 詳しくは ヒーリングセッション再開しました もご参照ください!

 心よりお待ちしております☆


141002_1414~01





セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/10/02 13:52

自分とつながる

 僕が生きるうえで重要だと思うふたつのことがあります。

 ひとつは、自分自身とつながること

 もうひとつは、自分を越えたものとつながることです

 今日は自分自身とつながるとは具体的にどういうことか、書いてみたいと思います。

 「つながる」 とはより具体的に言うと、意識すること、感じること、理解すること、受け入れること、そして愛することです。

 その対極は無意識、感じない、無理解、拒絶、無関心(あるいは憎しみ)ですね。

kenka.jpg

 ↑想像力を使い同一人物だとイメージして見よう(笑

 自分自身に対して、これらの態度をとり続けていると、やはりいろいろな心身の不調和が生じやすくなります。

 20130219093145_5122c7f1bf4ee.jpg

 人から無視されると感じるとき、もしかすると、自分自身をイチバン無視してるのかもしれません。

 まずは「意識すること」
 これがなければ、理解も受容も愛もうまれないので、すべては「意識する」ということから始まります。

 自分自身のあらゆる側面を意識するために時々時間をとってみます。

 静かな夜中でも、早朝でも、仕事の合間でもよいのですがTVからもスマホからも本からもしばらく離れて自分を感じてみます。

 環境としては、キャンドルなどの静かな明かりと、穏やかな音楽あるいは無音の空間が良いかもしれません。
 要はなるべく外部からの刺激を減らして、僕らの内面のささやきが聞こえるような環境をセッティングします。
 慣れたら真昼の新宿の雑踏の中でもできるかもしれませんね。

 楽な姿勢で座り、目を閉じます。
 ただ、これは決まった手順のある瞑想ではありません。
 どうしなければいけないということもありません。

 強いて言えばルールはただ、あなた自身の気付きでいることです。
 そしてその気付きを必要なら多次元にわたってひろげます。
 五感、思考、感情、夢想・・・

 例えば・・・

 犬になったつもりで耳を澄ましてみましょう。
 遠くから、あるいは近くから
 そこでは、どんな音が聴こえるでしょうか?
 くんくん嗅いでみましょう。そこは、どんな匂いがしますか?
 感じてみましょう。今いるそこは、居心地はいいですか?

 呼吸や体の感覚、そして頭を過ぎる想いや、感情にも気付いて見ます。
 あなたは何を考えていますか?
 今日会った出来事、人と交わした会話、明日の予定でしょうか?
 感情はどうですか
 悲しいですか?うれしいですか?それとも腹が立っていますか?

 体の違和感や、痛み、うずきを感じるでしょうか?
 手足は温かいですか?冷たいですか?
 おなかは減っていますか?
 性的なエネルギーは静かでしょうか、動いているでしょうか?
 何か気がかりが心に引っかかっているでしょうか?

 静けさ、喜び、ワクワク感、周りへの愛、平和、充実感・・・

 その他のポジティブな感情を感じているかもしれません。

 もしそうなら、それらをしばらくじっくり味わって見てください。

 
 自分自身とつながるときに、僕らがパワーをゆずりわたしているものがその妨げとなることがあります。


 それは例えば、他者の世界観や考え方であったり、巨大なメディアのニュースや、権威者の語る言葉などです。

 それらは僕らの現実ではないにも関わらず、僕らの意識に侵入してくる思考の分子(ミーム)です。


 これらの情報とエネルギーは、僕らを自身の身体的経験やリアリティとつながるのを妨げることがあります。

 例えば、ひどい事件や事故が報道されてるニュースを見たとします。

 そのときに起こる脳神経系の興奮により、僕らは、完全に外部志向となり、自分の呼吸や感覚を忘れ、時には自分の望みや、現実も忘れてしまうのです。

 ですがそのようなときこそ実は、内部志向でい続ける必要があるのではないかと思います。

 僕らがそれを「見ていること」、その瞬間も僕らは「呼吸をしていること」などです。

 
 そのような侵入因子がひとりでいるときも、意識内でエフェクトを与えているのに気付いたら、無理にそれを排除することなく「これは自分ではない」と気付きます。

 それらは透明な流れに、混入した色つきの水のようなもので、しばらくは心身の機能にエフェクトしますが、やがて時が過ぎると透明な流れへと戻ります。

 自分の呼吸を感じ、体を感じ、両手に流れる「気」の感覚を感じてください。
 それは思考レベルや感情レベルのエネルギーよりも安定して、常に流れています。
 なので気の次元を意識することにより、思考や感情の次元が安定することもあります。(気の次元は呼吸と深くつながっています。深い呼吸をしましょう)

 そのあなたのエネルギーと息はどんな情報よりも、意味があり、奇蹟的なもの。僕らの生そのものです。

 こんな風に自分の呼吸を感じ、エネルギーを感じ、からだを感じ、想いと感情を感じ、そこに働いている力と生命力を「理解」して「受け入れ」てください。

 どのような醜く見える感情も無下に切り捨てずに、なるべくあなたという意識の広がりの中に存在するのを許してあげてください。それを許せば、僕らはより、広がります。そして広がった分、それにとらわれる度合いも少なくなるでしょう。

 こんな風に自分とつながる静かな時の中で、ふと、「こんなことがしてみたい」「あれについてもっと学びたい」という想い(直観)がさりげなく降りてくるかもしれません。これは僕らが自分を受け入れたことに対する、自分の本質からのお礼のようなものです。

 和解成立

 pics_haibin1013_1221784814.jpg


 それを日々の生活の中で自分のペースで、実行してみましょう。

 
 ngc1097.jpg



 最後に、この時空にあなたという肉体と感情と思考、エゴと魂からなる複合体が存在していること、その奇蹟を想ってみてください。それは100年前でも1000年後でもなく、なぜこの時空の一点なのでしょうか?



 宇宙全体に向かって胸を開き、すべての愛するものに愛を送り、その愛が返ってくるのを想います。


 こんな風景の中で自分自身を好きな方法で抱きしめて、「あなたは本当に大事な存在です」と言ってあげてください


    tree.jpg



 宇宙と神、意識の現れである、あなた自身に畏敬の念を捧げて終わります



         140502_1224~01





■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



 ヒーリングセッション再開しています。

 お申し込みは、ブログ右側問い合わせフォームよりお願いいたします。




セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/27 15:53

☆ヒーリングセッション再開します☆


  先日ブログでお知らせしましたとおりハンズオンヒーリングと、プチカウンセリングによる個人セッションを再開します。
  近いうちにホームページや専用ブログを開設しようと思いますが、一足お先にこちらでお知らせさせていただきます♪


  内容

  ◆プチカウンセリング(約30~45分)



  現在気になっていることや、お悩み、心身の不調などあればお話しをうかがいます。
  特に問題はないという場合、スピリチュアルなトピックなどについての雑談など、こういう世界に関する疑問などありましたら僕が経験した範囲内でお答えいたします。

  身体エネルギーの強化、心身の安定、自分自身の本質とつながること、自分を愛すこと、外側に与えているパワーを取り戻すこと、刷り込まれた信念体系から自由になることなどを意図してセッションを行います。 

 補助的にカードリーディングで今起こっている現象の裏側でテーマとなっているものを探すことを行います。その他必要に応じたテクニックを使用します。



 ◆ハンズオンヒーリング(約45分)

 セラピストを媒体として微細な生命エネルギーを流し、深いリラクゼーションと肉体の活性化の感覚を体験していただきます。

よく言われることですが、粗大なレベルの思考と感情に支配されているほど生命力、自然治癒力は阻害され神経系や肉体に負担がかかります。このヒーリングではより静かで微細な振動領域に意識を誘導するため、深いリラックスや生命力とのリコネクトが起こりやすくなります。

 人生に体当たりで挑んでいくときに少し考えて見ます。
 ちょっと待てよ、あそこに見える人生ってのはもしかして蜃気楼かもしれない。
 蜃気楼だと体当たりしたらすり抜けてこっちが怪我しちゃいますよね。

 微細なパターンで現実を見ると、100の問題と見えていたことが30くらいになったり、あるいはまったく問題ですらなかったことに気付きます。というのは微細な思考は問題を透過していくX線のようなものだからです。通常の思考は可視光線で、粗大な物体を透過できずに、影を作ります。もっとも微細な思考は問題を作れません。

 人生に見境なく体当たりするでのではなく、時には合気道の達人のように力を抜いて立ち、するりと身をかわすことにより苦痛の多い粗大なパターンより抜け出して、より微細な現実を生きることになります。

 粗大なパターン→ 頭から常に離れない問題、イメージあり 白か黒か あれかこれか 考えすぎて何がなんだかわかりま            せん ~すべきだからする 君は絶対~すべきだ 24時間反省モード 自分と他人のあら捜しが止まらない

 微細なパターン→ あ、、、忘れてた  どっちでもいい  どうでもいい なんとなく・・・ 楽しいから~してみよう うれしいから~する  まあ・・・いいか! こうも言えるし ああも見えるねえ、、、雲みたいで面白いね つまり (この世界はイリュージョン それなら本当の自分、愛から生きよう) という感じ つかみ所のないウナギのような感じ

 通常僕らは粗大なレベル(現実が確定的 ストレス状態)←→微細なレベル(現実が不確定 夢など)の間を揺れ動いています。どちらがダメというわけではなく、どちらを生きてもいいのですが、基本的には粗大なレベルほど心身は緊張し、微細なレベルではゆるみます。

 僕はかつてこのヒーリングに触れることにより、外的条件には左右されない「無条件の喜び」「安心感」があることを知りました。
 生命力は普遍的に存在しているので、友人もなく ひきこもっていてもそれを感じることはできます。どのような過去を送ってきたかも関係ありません。

 客観的時空間に刻まれてあるようにみえる外的条件はおいといて、まず生命力とつながることにより癒しが生まれ、結果として日常生活の豊かさも生まれると僕は信じています。「飢えた自分」ではなく「満ち足りた自分」が行動するからです。このセッションはその生命感覚と深いリラクゼーションを感じていただくことが目標です。

 セッションはハンズオン=手を軽く置く 離す の繰り返しで患部のもみほぐしなどはありません。セラピストの手がかなり熱くなることに驚かれる方が多いです。

 今まで施術させていただいた方は大体一回目から何かを感じられる方が多く、好評いただきました。 
 (その場での変化は少なくとも、翌日以降に反応が大きくなる方もいます)


 主な体験例

 ■ 白い光が渦を巻いてるのが見えた 
 ■ まぶたの裏側にたくさんの色があらわれた
 ■ 翌日に自分の呼吸が急に深くなるのを感じた。トラウマがよみがえり一時つらかったが、元気になった
 ■ 目の炎症が病院で言われたよりも早く治った
 
 セッション中意識の変成が起きる場合もあり、深い瞑想状態を体験していただける可能性もあります。
 本来の生命としての喜びを感じていただくことを意図します。
 自然災害や社会の変動も大きい時代ですが、自分の内側に平和が存在する感覚を少しでも実感いただければ幸いです。

 「情報」と「エネルギー」の双方から変化をサポートするために、カウンセリングとエネルギーワークをセットで行います。


 ◆お飲み物♪ 

 お水、もしくはハーブティー。
 ご希望の方に体を陽性に保つメニュー 梅生番茶をお出しします♪(しょうがと梅干の入ったお茶)すっきりしますよ


 ◆料金

 プチカウンセリングと、ハンズオンヒーリングのセットで時間は約90分、料金は7000円です。
 (どちらか片方だけ希望という場合5000円となります。時間は約60分)
 時間はだいたいの目安とお考えください。セッションの状況次第で無料延長いたします。

 ◆場所

 都内西東京市です。最寄り駅は西武線田無、花小金井になります。(中央線武蔵境からバスでもアクセス可)ご予約いただいたかたに、詳しい場所と連絡先番号などをおしらせいたします♪
 小金井公園徒歩すぐです。セッションの帰りに是非ぶらっとお散歩をオススメ 自然は最高のヒーラー

 131119_0640~01

 ◆出張

 都内や近隣、日程が合えば全国のご自宅に出張いたします。
 宿泊先ホテルなどへの出張も可能です。料金は7000円+こちら最寄り駅からの交通費となります!


 ◆セラピストprofile

 

haitaka2.jpg


Koo(はいたか)

 ♂70パーセント
 ♀30パーセント

 乙女座 A型
 エニアグラムTYPE4
 KIN222 磁気の白い風
 京都府出身
 高知大学卒

幼い頃よりなぜか不思議な世界に強く惹かれる

大学時代長期にわたるひきこもりを経験し、心身の癒しやこの世界の真理を求め始める

 子供時代への退行ヒプノセラピーなどを体験

 しかし社会に適応させることを主に意図するヒプノセラピストに違和感を覚え始めていた頃  
 日にタバコ三箱を灰にするシャーマン的占い師であり元祖オネエ系セラピスト、R氏と出会う

 セクシャリティに関する悩みなどを相談し ありのままの自分を受容することを学ぶ

 前世療法などを体験し 「こちらであなたを呼んでいるものがある」というR氏の勧めで 2002年 東京へ生活の場を移す

 同年 PHIヒーリングのM氏よりエネルギーアチューメントを受ける

 以後 ヒーリングセッション 前世療法セッションを縁ある方に行う

 R氏の紹介で知った 親父ギャグを交えたノンストップ超絶トークで真理を伝える世にも類稀なる覚者I先生とお会いし 根源的なリアリティについて教えを受ける

 瞑想の会、リトリートなどに参加 根源の愛のすばらしさをちらりと垣間見る

 生命の源を愛しつつ この仮想現実世界を肯定し マーヤ(インドの言葉で幻想・イリュージョン)と共に生きる大切さを学ぶ

 現在は在宅介護ヘルパーをして人間について学びつつ、ブログでスピリチュアルな情報や自作の詩等を発信中


 好きなこと:カラオケ 山歩き 書くこと 料理 ぼーっと考え事をすること 雨の音 波の音 空

 好きな食べ物:うどん ラーメン 冷奴 玄米 

 好きなお酒:果汁割り泡盛

 好きな動物: 猫  鯨 

cat_24.jpg

 ◆スケジュール

 セッション可能日時については、こちらのカレンダーのご確認をお願いいたします。(現在予定調整中、随時記入していきます) カレンダー上に10:00と表示されますが、10:00~18:00までのご希望枠で大丈夫です。

 
 ◆セッション申し込み

  お申し込みはお手数ですが 以下のスケジュールをご確認の上こちら にメールお願いいたします。

  hxaxixtxaxkxa yahoo.co.jp  (hxaxixtxaxkxa と yahooの間に@を入れて送信ください)  

  (もしくはブログ右側のお問い合わせフォームより)
  ご不明な点もご遠慮なくお問い合わせください!

  それでは、こころよりお待ちしております


 




セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/09 15:07

変わらない原点




昨夜、以前記事にも書いたアニータ・ムアジャーニさんのイブニングセミナーに出てきました。

 定員550名のホールの席のかなりの部分が埋まり、関東近郊だけでなく、国内の遠隔地や、中国からわざわざいらっしゃったという方もいたようでインターナショナルな雰囲気の強い講演会でした。

 著書の「DYING TO BE ME(喜びから人生を生きる!)」がすばらしく、今も読み返していますが、実物のアニータさんはとても落ち着いていて力強く見えました。多分気やエネルギーの流れが見える人には、相当重心が定まっているように見えるのではないでしょうか。

 でも質疑応答が始まると、参加者への心遣いや謝意の表し方がとても、やわらかく見ていてとても気持ちのいいものでした。

 僕が、アニータさんの本に惹かれたのは、深い理解に基づいた「自分を愛する」ということの大切さが徹底して書かれているからでもありますが、このことはずっと20代の頃からの僕のテーマでもありました。ちょうどスピリチュアルなことや、癒しの小道を歩き始めたときに、「そのままの自分を愛しなさい」というメッセージをいろんなところからもらったのです。

 それは僕にとっては決して簡単ではありませんでした。
 でも、自分を愛す、と決めることでいろんな現実が展開していったということも確かなことでした。

 今朝早く目が覚めて、昔書いた文章の結末部分のことを思い出しました。
 まだI師匠にも会う前・・・ちょうどスピリチュアルな小道を歩き始めた時に書いたものです。
 20代の頃、今から10年ほど前に書いたものですが、自分にとって重要なことはすでにその中に出ているなと思い、ここにもう一度出して見ることにします。
 特に、自分を愛するということに関しては、今読んでも「うんうん、そうだよね、間違ってない」と感じられました。

 詳細は追って告知しますが、以前、僕はEGG HOUSEというホームページでヒーリングセッションを行っていました。近々それを再開したいと思っています。以下の文章はそのホームページに掲載していたものです。(若干加筆修正)
 
 全体部分は、そのうち別ブログにアップしようと思います。

 ヒーリングセッションを再開するとすれば、いかに書いたようなことをお伝えできるようなものにしたいと願っています。





△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼


                       終章 エピローグ・プロローグ


「たとえば、もしその領域に理性の剣なくして赴けば、心はそれに囚われてしまう。また共感の聖杯なしにはいりこむと、ハートを失ってしまう。さらに直観という杖なしでアプローチすると、そこに既に辿り着いていることも気付かぬままに、ドアの前で何十年も立ちつくしてしまうことになりかねない。自分は今、バスを待っているのだとか、部屋から部屋へどこかに置き忘れたタバコを捜しているのだとか、TV番組をみているとか、どうにでも解釈できるわけのわからない本を読んでいる最中なのだと思い込みながら・・・・。
 (チャペル・ペララス)はこのようにトリッキーなのだ。」
                  ロバート・アントン・ウィルソン著 『コズミックトリガー』より



                   ∽  L  O  V  E


 それから・・・又色々なことがありました。
 
 7月に僕は又実家に帰りました。入院していた祖母が危険な状態になったからです。 

 母は毎日病院に泊まり込んでいました。
 鎮痛剤では痛みが抑えられなくなり、モルヒネが打たれました。
 その翌々日の午後、病院から電話があり、父と母僕が駆けつけたときにはもうなくなっていました。
 僕は涙は出ませんでした。 
 
 葬儀の前日の夜、僕は弟と父と三人で式場に泊まり込んでいました。
 父が思い出話を始めました。父が高校生の頃、雨の日に祖母が傘を学校まで届けに行ったことがあったそうです。
 父が校舎を出ると自転車に傘が引っかけてあり、それと一緒に間違いだらけの文字で「傘持ってきた」 と書かれたメモがあったそうです。父はそのメモを今でも持っていると言っていました。僕は父がそのような感傷的な話をするのが以外でした。
 葬儀の当日。父は喪主の挨拶をしている途中言葉を詰まらせていました。僕は父に感情を見せて欲しくはありませんでした。なぜか、父が感情的に決壊するのを見るのは恐ろしくもあったからです。
 火葬場へ向かう車の中でみんなが泣いていました。「涙を流すな!マシンになるんやー!」といつもいっているユウも泣いていました。気が付くと僕も泣いていました。
 頭の中では今は祖母はずっとずっと心地よい世界にいるから、泣くのはおかしいと思いながらも。 

 その後東京に帰ってきてから、ひとつの体験をしました。

 その体験の中でずっと僕は「自我・神・宇宙・快と苦」などのキーワードについて考えていました。そして家族のことを思い、祖母のことを思いました。
 ぽっくりと死ぬのが幸運で、苦しみが長引くのは運が悪いと誰しも思います。
 母も「あれだけ毎日勤行してたのにな~。可哀相に」といっていました。
 僕はもし、祖母がぽっくりと亡くなったらどうであったろうかと考えてみました。
 その場合、おそらく、僕が実家に帰り、長いこと家族とともに過ごすという時間はなかったでしょう。そのほかにも色々な出来事が起こらなかったはずです。少なくとも僕にとっては祖母の病気と死が家族との癒着剤として働いたのは否めないことです。
 そして、それは本当に偶然であったのかと考えてみたのです。
 ここからは妄想の世界です。
 祖母も顕在意識のレベルではそんな苦痛はごめんだったはずです。
 ですがここにより高いハイヤーセルフ的な概念を仮定すればどうでしょうか。
 誰のなかにも高次の自己が、自我を超越した意志が働いています。
 愛・神・全体性・と呼ばれるものと繋がっている僕らは、これらの意志によって無意識的に行動を選択しているのかも知れません。
 現実の祖母はぼけていて、話せなくて、トイレも行けなかったのに、目に見えないレベルでは、もしかしたら家族のために肉体を苦しめる、という道を選んでいたのかも知れない、と考えてみたのです。
 僕はその妄想のなかでありがとう、ありがとう、ありがとう。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と言い続けました。
 祖母がそうではなくても、そのようなことはきっと頻繁に起こってるのではないかと思ったのです。

 それが直観であるか妄想であるか僕は知りません。  

見かけで人を裁いては行けない。誰もが目に見える以上の存在なのだから。その人がなぜ、どういう理由でそのような存在を選択しているのか、誰も、本人さえも知りはしないのだから。」と僕は呟いていました。

 どこから見ても、普通のおばちゃんが道ばたでぼーっと突っ立っていることがものすごくこの世界にとって必要かも知れないのです。誰がちがうと言えるでしょうか?普通の人間にはそのおばちゃんのぼーっとした顔とださい格好しか見えないのです。

 「愛は、自我をゲームのコマや仮面として自由に使える。でも自我は愛を自由には出来ない

 と僕はまた呟きました。これが本当なら面白いことです。
 自我の中には既に愛や神がしみ通っているわけです。
 それは既に愛によって利用され、動かされているかも知れないのです。
 「動かされたいな・・・・面白いな・・・。」と僕は思いました。

 カップラーメンの中のとうもろこしの粒は自らが命であることを語り、
 ろうそくの炎は限りなく明晰に燃え
 鏡の中の自分の瞳は輝いている。
 僕は、僕らは美しいと思える。

 そんな夜がありました。




                 ∽ D E A T H


 8月に入って又苦痛のサイクルがやってきました。世界中が苦痛のかたまりみたいに感じられました。

 いったい苦しみの多いこの世界において、健康な心ってなんなんでしょうか?

 本屋でふと手にした本に書かれた病気の人の苦しみが僕の生きる理由さえ奪っていくような気がするのは、僕が不幸だから何でしょうか?

 もし僕が幸福なら不幸は目に入らなくなるのでしょうか?わかりません。「ヴァリス」を書かせたのはディックの狂気なのでしょうか?正気を越えた純粋さと、正しさなのでしょうか?ただ僕は善人であるよりは透明人間でいたいと思うだけです。自意識のない快楽追求者に僕は憧れます。いいことが快楽になるまで、僕はボランティアは多分しません。 

 そして今度は僕自身が「擬似的に」死の恐怖を経験しました。

 世界が遠ざかっていくとき、何も助けになるようなものはありませんでした。

 テレビはいつも通りの番組を流しているだけです。

 思わず何かに祈ってました。

 そして、その地点からいつもの日常を見返したとき、自分が間違った生き方をしているように思いました。
 たった一滴の水の意味も、たった一粒のトウモロコシの意味も、僕はとらえきれず、しかもそれによって生かされてます。 そして自分の体・・・これも、「自分の」というよりも、ひとつの生き物として慈しまないと可哀相だと思いました。 
 なのに僕は死のうとしてるのかもしれない。だから今こんな風に、横たわって化学物質で神経をスパークさせている。
 ずっと自分がキライだった。みんな僕をキライだとしか思えなかった。みんな怖かった。
 嫌悪と恐れが今この現実に僕を導いた。そしてそう遠くないところには死が口をあけてるように見えました。

 「生きなきゃ・・・・ダメだよ。」そう言ってくれる誰かを自分は求めていたことに気付きました。

 でも、そのとき僕の周りには誰もいませんでした。
 真っ暗な夜が、窓の外にあるだけでした。
 だから僕は夜が明けるまで、自分自身に言い続けました。

 「愛してるよ、生きていいんだよ、幸せになってもいいんだよ」と。

  僕はジョン・レノンのイマジンを想います。「想像してご覧・・・全ての人が今日の為に生きてるんだって・・」死と対置した生を思うときこのフレーズが蘇ります。
 奇妙なことに「死」は余計な執着やマインドの不平不満をばっさりと切り落とし、生を浄化し、現在を輝かせるという効能も持っているのです。それは生の敵ではなく生のパートナーでもあると思います。
 その向こうにはいっぱいのお茶や、吹き抜ける風が全ての幸福の源泉であるような、禅のような世界があるのではないでしょうか? 
 
 「知覚の扉が浄化されれば、物みなその無限の姿をあらわさん」                                 ウィリアム・ブレイク


                          ∇ W O R L D


 僕はかつてもっと純粋な世界に住んでいました。
 
 子供の頃に描いた「世界」のイメージを僕は覚えています。そこはとんがり屋根の家や塔が立ち並ぶとても平和で魅力的な世界でした。

 ノストラダムスの予言を初めて知ったときにとても怖かったのを覚えています。

 でもそれから10年も経つと、僕は終末予言を読み半ばそれを待っている自分を発見しました。
 こんな世界はつぶれてなくなった方がいいような気がしていました。こんな世界・・・というのはこの地球のことではなく、この地球上に生きている人間や社会(日本や西欧社会の)のありようが嫌だったのです。
 もちろん僕には現実の一部しか見えていなかったのですが、確かに一部は見えていたと思います。

 そしてその世界の後には本当の世界が来ると思っていました。たとえそれが廃墟と青空に過ぎなくても。
 
 でもそんなことを考えながらも、響いてくる物音や目に映る風景は今よりも鮮やかでした。
 
 雨が降ると窓を開けて、思い出せそうで思い出せない、かすかなイメージをいつも見つめようとしてました。何がそうさせるのかは全くわからないけど、自然の物音やアスファルトに落ちた雨の匂いは胸を苦しくさせました。ずっとそれらを捕らえようとしていた気がします。

 純粋さを失うことが大人になることだと言います。

 でもそれはもう一度取り戻すことが出来るはずです。

 今の社会が忘れてるもののひとつはそれです。

 純粋さ・世界・生命への畏怖の念を・童心を取り戻す術を忘れていること。

 子供にとっては不幸な世界です。彼らは成長するに連れ永遠に死ぬしかないのですから

 それは「幼児性」とは違います。我が儘だとか自己本位だとかそれは子供の一面に過ぎません。
 「幼児性」が起こす事件なんてよく言いますが、本当の意味で大人になりきれていない子供だけの社会なら、もっとここはましな世界でしょう。
 犯罪を起こすのは歪められ・虐げられてきた子供です。
 
 僕はもう一度あのような世界をみたいと思います。
 生きていくためには、お金もいるし、10年後の心配とかそんな物がつきまとうけど・・・結局僕が最終的に求めるのは、幼い頃とは又違った方法で純粋さを取り戻し、この世界を・宇宙を肯定しなおすこと、それ以外にはあり得ないような気がします。
 世界を思い出すこと 

 神秘を経験すること

 愛を知ること

 ハイになること

 僕は宇宙を想い出すために生きます。 


 そしてそのためのキーは、僕にとっては自分の存在を肯定し、愛し、信頼するということでした。

 この世界で生きて、幸福になってもいいと言うことを自分に許すことでした。
 スピリチュアルな世界への興味や関わりは色々な形で起こります。
 そしてそこに入っていく人の多くが「グラウディング」大地と繋がると言うことが出来ていないと言われています。
 これは僕の課題でもあります。
 つまり、肉体や他者や大地との間にエネルギーブロックがあるのだと思います。
 そのために霊的な世界との接触を求めるのです。 
 確かにスピリチュアルな世界はより、高次の世界かもしれません。
 しかし、今僕らが生きているのはこの世界です。
 この世界との絆である肉体的な生命や、自分自身、そして自然との間にブロックがあれば、ここで充実した時間を過ごすことは出来ないでしょう。
 なぜなら、苦しみとは「分離したリアリティ」だからです。
 
 なぜ、禁欲的修行僧は不幸なのか、
 なぜ大富豪が虚無感に襲われるのか、
 なぜ人間の目先の欲望を追求した西洋文明が行き詰まっているのか、
 なぜずっとひとりぼっちでいると苦しいのか、
 なぜ多重人格が生まれるのか、
 そして、なぜ「本当の自分」を探そうとするのか?

 これらの答えは全て「分離したリアリティ」と関係があります。

  そして幸福とは「統一・エネルギーの広がり」です。

 だからイチバン身近にある分離、「自分が嫌い」という、自分と自分との分離を癒す、その為にも、自分を愛することが必要なんです。
 

 だから・・・
  

 まずは自分、大切にしよ?
  
 一番近くにあるものだから、一番大切にしてあげてね。
 
 全てはその後でいいよ。

 なんでかっていうとそれはあらゆるもののはじまりだから。
 
 愛されていない自分がするおこない、と愛されている自分がするおこないは違うんだよ。
  
 だから、自分を愛情で包んであげよ? 
 
 自分の存在の根っこを愛情で包んでみよ?
 
 その体で、その心で、 生きることを許してあげよ?

 僕が心の一番根っこにいるから、君はもう生きていいかどうかなんて悩まなくてもいいよ

 僕が君を支えるよ

 僕は誰の中にもいる生きる意志・肯定と愛だから。

 君だけのために君の中にいるから 


 僕がずっと・永遠に、君の味方だから 


 この辛気くさい文章を書き始めたときにイメージしたのは、もんもんとした男の書いたものを読んで、「ああーこんなやつもいるんだな。俺の方がましだな」とか「この人私と同じことで悩んでるんだな」とか感じて、孤独の慰みになるようなものを書こうとしました。
 
 でも書き進むに連れて、あれもこれも入れていったので、多くの人が共感できる内容にはならなかったかも知れません。でも多分この中のなにかには共感していただける方もいらっしゃるでしょう。

 というのは人は誰でも分離の幻想の中で、愛を求めている、神だからです。
 その点で、すべてはイコールであり、僕はただ孤独や恐れの中にやや多くの時間を過ごしてきたというだけなのです。

 例えどのような悩みや問題を抱えていても、僕らは一人ではないのだと思います。
 
 僕自身も書き始めた頃とはまた少し変わりました。
 狭い部屋に閉じこもり、もんもんとしていた自分が、その部屋のドアを少し開けて
 親元を離れ東京に住んで見ました、人の肌の温もりを知り、自分の苦痛だけではなく、他者の苦痛のためにも苦しみました。
 そして愛と死の深みをちらりと、覗き込みました。
 
 なんだかすごく凝縮した時の流れの中を生きているような気がするときがあります。  

 今世界的に急速に古い価値観が崩壊し、新しいことが始まろうとしています。

 「終わりなき日常」なんかではありません。
 「日常」という言葉の意味さえもが変わる時代に僕たちはいる・・・そんな気がします。
 それはきっと、少し感性を働かせれば誰にでもわかることです。

 この世界に溶け込めないと言うこと、それは次の世界に向けて投げ出されているからかもしれません。
 何もない空っぽの部屋から・・・僕よりももっと有用で、もっともっと有能な人たちがたくさん現れてくると思います。
 あなたがどんな場所にいようと、どれだけ自分をいじめ、嫌い、憎み、死にたいと思おうと、あなた達は不適応者じゃありません。
 というか不適応者なんかいません。それはファシズムの言葉です。
  
 あなたたちは強さと純粋さの故に、そこで、そうしているのかもしれないから。

 まずは10秒でもいいから、そう信じてみませんか?
 んでもって・・一緒に明日を好きになれればいいですね!

                 
                    あなたがあなたでいられますように


 August 2002 haitaka
セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/31 16:16

Somatic experience(ソマティック・エクスペリエンス)④



 三回目のSEセッションの記録。5月16日(金)。
 セッションメインではなく導入と世間話しでの気付き。

 ピーター・リヴァインの本の話しをして、どこが印象深かったですか?とたずねられて、「興奮と不安を切り離す」という箇所がすごくよかったと話した。

 それに対してセラピストのHさん、神戸でのセミナーの模様などを教えていただいた。

 「私も改めて学んだのは、興奮するということが楽しいことと結びついていればいいんですけど、、怖いとか嫌だとか、死の恐怖じゃないですけど、そういうものと結びついてる場合があってどっちも大きな神経系の興奮の<山>なんですよね。だからスタジアムでサッカーを応援するとかすごく楽しいはずのところへ行っても、その状態はある意味トラウマのときの状態と同じなので、交感神経的には、がたがたがたと調子が悪くなったり、怖いことを思い出したり、逆にフリーズして動けなくなっちゃうとか。

 だからSEのセッションの時はなるべくなだらかにこのS字、サインカーブが出るように神経ちゃんをもっていくというのが大事みたい。

 そう、だから巷でちょっとはやっている何かを蹴るとかぶったたくとか、大きい声を出すとか、そういうカタルシスワークも一時アメリカですごくはやったんですけど、それもやっぱり大きい<山>を作ってしまうのでよくないっていわれ始めてて。。

 アメリカで一時はやったんですよ、DVの被害にあった女の人が男の人をボコスコにしちゃうっていう、そういう。男の人は防具みたいなのをつけて「OH・・・」なんてやられぱなし。で、女性は「やってやったぜ」みたいにすごいすっきりするんだけどそれはすごく大きな<山>なので、そのあとはすごく落ち込んだり、だから最近は最先端の科学ではよくないってことになっていて。

 だから美しいS字カーブを描くセッションをするということが大切だと、今回改めて学んできたので・・


 「おだやかであるほどいいっていう感じですか?」
 
 「そうなんですよね~ Less is more っていうんですよね。より少ないと、より多くが得られるみたいな。ピーターの言葉でね。

 こないだのセッションでKさんの脳幹はひたすら走ったんでしょうね、山に向かって。だからちょっとそのあとのリアクションが大きかったのかな。

 それは落ち着いたので、成功だったと思うんですけど

 より深い落ち着きに戻していくって言うことを今回はやんなきゃなーと思っていました
。」


 こないだは、わけのわからない恐怖世界に接触して、途中でストップをかけてもらったセッションだった。
 そのあとものすごい怒りが湧いてきて、困惑した。

 今回は3回目

 この日は朝から寝不足気味で、ちょっとイライラしてる。

 SEは、まず、いい感覚としっかりつながってからトラウマの渦と接触するという方法を毎回おこなうけど、その日は心地よい体験を呼び出しにくかった。

 

 感覚的に もわもわ + ぼけー + イラ って感じでいいイメージングが難しい。


 「ある意味そのもやーっていうのがね今日はもうフリーズ入ってるのかもしれないですね」とHさん。

 フリーズっていうのは、きっとトラウマ構成4要素の、過覚醒・狭窄・解離・凍りつきの四つ目、凍りつき反応と何か関係があるのだと思う。

 「どうしたものですかね、フリーズするといいものも探せないしイメージしづらいんですよねぇ

 「いやー今日は朝からこんなだったので、無理じゃないかなと思ってたんですけどw」

 「うん、本当ね、今日は無理ッすねそっから入るのはw」

 「まーなくはなかったんですけどね。楽しいことは・・」


 「うーんそうでも、大丈夫よ、無理しないで

 ・・・じゃあKさんが最近マイブームで読んでる本とか、面白いこととかなんかあります?」


 と質問され、なぜか真っ先に、レンタルして読んでいた森田まさのり作の漫画「べしゃり暮らし」が頭に浮かんだ。

 そのあと対話は意外な展開を見せる。
 
a762dadd2bc92e33f32a1bfbddea68bb1.jpg


 「芸人をテーマにした漫画なんですけど、それが面白くて最近よく読んでましたね。」

 「へ~それは、なに、下積みの極貧生活みたいな?

 「うーん、そうですね高校のときのお笑い好き仲良しの2人が、だんだんメジャーになってデビューするまでを描いたみたいな感じで、あの~『ろくでなしブルース』ってご存知ですか?」

 「ううん(^_^)

 「あははwまあ結構有名な漫画家の作品で、それを読んでると、自分は全然そんなことやったことないんですけど・・・演劇をやってたことが昔あって、舞台で何かを表現するときの興奮みたいなものが伝わってくる感じがして、これは気持ちいいだろうなって感情移入していました。」

 img804.jpg


 598033eb530808f89902a001105630c8.jpg




 「あ~!なるほどね、Kさんもお芝居されるんですね。

 「いや、やってたたってほどでは学生の時2年くらいですけど」

 「でもステージに立ったときの高揚感っていうのは味わったんですね。」

 「そうですね、それはよかったかと」

 「そうですか、すばらしいですね。ステージに立ったときの高揚感が体の中に今でも住んでいるとしたらどこいらへんに住んでますかね~?

 僕は体の中にその高揚感を探して見た。

 「いや、もう「全身」っていう感じが」 そう言うと 大きな感情の波がこみあげてきて言葉が少し詰まった。

 「そうなんだ!その高揚感がエネルギーだとすると色とか、形とかどんな感じですかね

 「エネルギーに満ちたような・・・色・・・ちょっと表現しづらいんですけど、やっぱりちょっと覚醒するようなそういう感じ、非日常的な感じですね」

 ゴールドの、燃えるような形状?

 「なんだろうそれは観客の視線を感じるから? 拍手とか

 「それも大きいと思いますね、あとウケたりとか、見てる人に何か感動を与えられるって言うことが

 「感動を与えたいっていう感じ?」

 「っていうのはあると思います。」

 「じゃあKさんがめちゃくちゃ感動した!っていうのある?本でも映画でも

 と質問され、これもなぜかわからないが「ショーシャンクの空に」が頭に浮かんだ。好きな映画はほかにもいっぱいあるんだけど。

201403311056373b8.jpg
 
 Hさんは知らないようだったので、その内容を説明した。

 「ステーブン・キング原作の映画なんですけど・・・無実の罪で刑務所に入れられた人が脱走して、自由を手に入れて本当の人生を手にいいれるていうような話です。

 「本当の人生を生きる・・・みたいなのが・・あっでも今閃いた。・・・・私が勝手に解釈して色つけちゃいけないけど、Kさんも無実の罪で刑務所に入れられてたから、脱走して本当の人生が生きたいと思ったんじゃない?やっぱり。

 だって自分で選んだり、こうしてくださいっていったわけじゃないのに、そういう状況のところにもう生活していて・・・罪もないのに。である意味その以前のひきこもりっていうのも無実の罪で収監されてるようなものよね


 「そうですね・・・で、まあ学校には行けなかったんですけど、自然の中に行くのは好きだったので、一週間に一度くらい自転車で海まで行ったりとか。映画の中でも脱走して、最後に海の近くでホテルを作ってそこで囚人仲間と働くみたいなシーンで終わるんですよね。海っていうのが自分にとってすごく自由のシンボルみたいな部分はあります」

 「なるほど・・ではちょっと目を閉じて見ましょうか。そのホテルは海辺のちょっと小高い場所にあるような感じ?

 と、これくらいからまた目を閉じてのセッションが再開されることになったけど、

 この頃にはもやーという感じやイライラした感じは消えて、シャキっとした感覚に置き換わっていた。
 「べしゃり暮らし」からステージに立つ感覚、そしてショーシャンクの空と、高知の海のイメージ 
 きっと会話を通じて、なにげなくリソースとコンタクトさせてもらったということだと思うけど、僕にとって意外だったのは、公園を歩くとか、きれいな風景を見るとかいうある種静的なリソースではなく、舞台に立つ感覚なんていうずっと以前に忘れ去っていた高揚感が、意識を変えてくれたことだった。

 それは自分の中では完全に水面下に沈んだ過去のアイデンティティだったけど、そこで経験した感覚は今でもどこかに残っていて、意識をビビッドな質に転換してくれるのだった。
 


 リソースと、ソース



 マイク・マクナマス著の「ソース」という本がある。
 分類するとすると自己啓発系のジャンルに入るのだろうか。
 機関車の絵がキュートで好きだ。(著者が汽車好きだったことによる)

 source.jpg


 この本の言わんとしていることは、人生はワクワクすること、喜びを感じることをどんどんすることで力付き好転してゆくということだ。
 そういう考え方は精神世界や、自己啓発系ではそれほど珍しくないだろうと思うけど、「ソース」がユニークなのは、ワクワクすることをすべて同時に行うように呼びかけていることだ。簡単にいうと、歌を歌うこと、絵を描くこと、ボランティア活動、将棋が好きなら、どれかを切り捨てることなくそのすべてに同じような情熱をかけて楽しむことが大事だという。
 それによってシナジー効果が起こり、人生がダイナミックに動いていくという。
 私見では、喜びを感じることをする、それを生きるというのは至極まっとうな生き方だと思うけど、「ソース」の同時実行という考え方にはちょっと疑問符をつけていた。
 それは僕の実体験でブログに書いたこともあるけど、「ソース」を実践してみて、過活動(過覚醒)になりすぎて夜中にがばっと目を覚ました経験があったりするからだ。
 冒頭のHさんの話に書いたように「興奮」がトラウマと結びついている人は、きっと、そこまで一日を活動的には行動できない。OFFの時間、ニュートラルな時間をたっぷりとらなければ神経システムが飽和状態になってしまう。あと、そんなにあわただしく生きたくない、だらーっと、のんびりしてたいという人だっていると思う。

 でもこの考え方に抵抗するほかのいくつかの理由があることに気づいた。

 そのひとつはマインドの特化したいという性質、指導者を決めたいという性質ではないかと思う。

 よく「自分探し」で本当の自分を探す、となると誰もがイメージするのは特定のひとつの仕事、ひとつの趣味、ひとつのテーマである。

 人は普通、あるエネルギー、価値観・信念、行動パターンで形成されたメインパーソナリティを持っている。

 それによって

 社交的な人、内省的な人、なんとなく面白い人、などの見た目のキャラクターと、

 「私はこういう人だ」という自己同一性が確立される。

 そのメインパーソナリティの周囲には、メインより却下されたり忘れ去られたいくつものエネルギー、感覚、衝動、価値体系がコロイド化した状態で取り巻いている。

 メインパーソナリティは外部からの条件付けで形作られる部分が大きいと思う。

 例えばある能力をほめられた経験を持つ子供はそれをメインパーソナリティの部分として取り込む可能性が大きい。
 よりよく評価されたり、成功体験としてのリソースが多い局面を自分だとみなすように人は条件付けされる。
 別の言い方をすると、生存に適した自己、家族や社会との折り合いがつきやすい自己、そういった役割的自己や、職業的自己と強く同一化して、それ以外のエネルギーはメインに制圧・無視された形で水面下で眠っている。
 この構造があまりに硬直的な場合(メインを狭く限りすぎてる場合)、人は自分でも制御できないような感情や感覚に振り回されたり、内的な衝動を他者に投影しやすい。

 例えば僕の場合は、スピリチュアルなパーソナリティが結構力を持っているけど、これは宇宙や人生の根源を知りたいという衝動、高次の力とつながりたいという衝動、瞑想やアウェアネスを好む衝動、スピリチュアルなものを追求することがとても価値ある生き方だという信念などからなっている。理想とする人物はやはりどこかスピリチュアルな存在を思い描く。

 ところがこれはもっと昔、20世紀末(笑)は、いまだコロイド化してるサブパーソナリティだった。自分が何か宇宙の広がりのようなもの、海のようなかわらないもの、を求めているということはわかっていたけど、それをスピリチュアルという言葉では表現できず、むしろカルト教団の起こした事件などもあり、スピリチュアルなことに興味を持つことはアブナイことだとかなり思い込んでいた。その頃理想化する人物は、さめた視線や日常を越えた想像力を持つ「作家」だった。

 そのひとつの理由は、周りに生きた人間で、そういう世界に興味を持つ人がひとりもいなかったことが大きな原因でもある。
 ところがネットを始め、東京に来て、そういう世界に興味を持つ「生きて動いてる」人たちとたくさん出会い、共鳴しあったり、自分の感覚を認められることにより、コロイド化してるエネルギーの中からスピリチュアルな人格がよりはっきりと出てきたのだ。
 ということでここでも外部からの条件付け、他者との相互作用が大きな力を持っている。

 ところがスピリチュアルなパーソナリティというのはひとつ間違うと、暴君的で、鼻持ちならないものにもなりうる。
 それは自分は特殊だと思い込んだり、何もかもわかってると思い込んだり、俗的なものをとかく批判しやすい。(それはスピリチュアリティではないんだけど)
 スピリチュアルなものはある種究極的な事柄であるために、人格がそれと同化するとどうしてもそのような効果が生まれてくるのだ。

 それは、ひとつ間違うと残りのすべてを「皆殺し」にする。
 「皆殺し」が言いすぎなら、多面的な残りの自己すべてを水面下に封印しようとする。

 スピリチュアルな人のほかに、自分の中では援助者や、外面的に一見落ち着いた内省的キャラクターは力を持っている。
 僕に会って「いやーなんておしゃべりな人だ」と思う人はまずいない(と思う)。
 昔はよく「お前、なんか喋れ」といわれることがあった。それくらい無口で暗い時期もあった。
 ところが驚いたことに10歳前後のときのビデオフィルムを見直してみると、僕はテレビレポーターの真似をして、あちこち飛び跳ねながらうざいくらいに喋りまくっている。
 
 このうるさい子供はどこにいったんだろうか?

 きっと、内省的なキャラが育つうちに水面下に押し込まれたけど、エネルギーとしてはまだ生きているんだろうと思う。
 僕が割りとお笑いが好きで芸人さんに惹かれる部分があるのは、そういう水面下のエネルギーと共鳴するからかもしれない。
 演劇をしたのも、そういう喋りたがりで目立ちたがりの自分がいるからだ。

 となると面白い仮定が出来上がる。
 実は僕はスピリチュアルな人ではなくて、芸人や、レポーターのなり損ねではないかという仮説だ(笑)。
 たまたまどのエネルギーと衝動がメインパーソナリティとして凝固したかというだけの話であるならば、絶対的にスピリチュアルがメインで、芸人あるいは「うるさい子供」がサブだとは言い切れないような気がしてくる。
 以前、だちょうクラブとジャングルを探検してるというアホな夢を見て、「あー楽しかった」とすっきり目が覚めたことがあった。
 ところで、なんでだちょう倶楽部?と思ったけど。

 ソースのプログラムが役に立つ可能性は、どこにいったのかわからない「うるさい子供」のようなエネルギーをもう一度すくいあげて、メインに統合できるという心理学的次元にもあるのではないかと思う。

 別に一生スピリチュアル一辺倒でいったって悪くはないんだろうけど、できたら僕はこの「うるさい子供」ともう一度合体したい。そして彼がどういう気持ちではしゃいでいたかを思い出してみたい。

 好きなことをすべてする、という発想だとかならずそういう水面下のエネルギーと接触して再発見する機会ができるというのは確かだと思う。

 それらのすべてが僕らが自分ではないとして却下したエネルギー、生命力とつながってる可能性がある。



 3回目のSEセッションのはじめに思わぬところからリソースとつながれた経験から考えると、それってとっても意味があることかもしれない。



 ということで、近々NSCに願書を出すことにしました!(嘘)

 初コンビなのに安定感があって気に入った漫才↓
 

 サンドイッチマン富沢VSフット後藤

 



 

セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/16 23:16

Somatic experience(ソマティック・エクスペリエンス)③


 SEセッション二回目以降の記録
 
現在、三回体験。

 興味深いことがあればアップして行こうと思いますが、効果を確認しつつ、心を整理しつつなのでかなり時間差レポートになると思います。

 *比較的に内面さらしてるので期間限定記事となるかも・・・・


 ■SEその後


 一回目のSEセッション(4月初旬)のあとエネルギーの高まりを感じた。
 次の日は5時半ごろ目が覚めてしまったけど、よくある目覚めの重苦しさはなく、胸が躍るような感覚があった。
 「木々の形はそのままで喜びの表現なんだ」というような言葉が浮かび、また二度寝することもないかという気になり、早朝の公園を散策にいった。

 その日は自分にしては活動的にいろんなことをした。活動しすぎてラインを超えてしまったのか、夕方ごろにはなんか熱っぽくなっていた。
 夜寝ると「ハッ」と驚いたような驚愕反応で一度目を覚ましたけど、すぐに寝付く。翌日仕事なので安定剤を半錠飲んで・・だけど。

 SEの影響かどうか微妙な部分もあるけど、重要なものを見つけたという感覚はとても強かったので、翌日二回目のセッション予約メールを出した。
 仕事もいつもよりも心の余裕があって、コミュニケーションもやや力がぬけてるように思えた。
 夜も更けて仕事が暇になってくると、SEのセッションや、そのトラウマ理論のことで頭がいっぱいになってきた。
  
 明らかに自分の生きづらさの根本はこの持続する内的過覚醒にもとづく慢性的緊張、苦痛にあった。
 精神状態でも、経済的にも、人間関係でも、僕の人生はいつも外的にはギリギリ感が強かったけど、これは明らかに、内的ギリギリ感(つまり常時警戒態勢の)の反映に過ぎず、苦しみの原因ではなく、むしろ結果だったのだ。

 頭ではすべては起こるべきタイミングに、完璧に起こってるとわかってるが、強烈な感情が次々に湧いてくる。

 でも、恒常的になってるこのある種の緊張状態が良くなるという可能性を考えても、どこか、そんなうまい話あるか、なんてささやく部分がある。
 
 心身の安定へのささやかな希望さえも、どうせ無理かも・・・何も変わらない、とか、そのまま受け入れ苦しむ必要があるとか、そんなことはやめて神だけを追求せよとか、そのうち癒しなんて言ってられない時代が来るとかって思う、実人生への期待値が下がった自分にある種驚いた。

 というかこの思考パターンの重さに気付いた。

 怒りの感情はSE的には、大歓迎ということになるらしい。
 興奮レベルは高い位置にあるけど、少なくともそれを越えてエネルギーが凍り付いてるというわけではないからだ。
 怒り大歓迎といわれるとちょっと安心するけど、問題は人といてそれが出るときかな。怒りが強くなりすぎると、僕はそのエネルギーで凍り付いてしまい、自分自身でそれを解除することがなかなかできない。誰かがお湯かけてくれるの「待ち」のめんどくさい状態になる。この解凍がセルフでできるようになったらいいんだけどな。そのための一歩はまず、どれくらい不条理な怒りでも自分でしっかり「感じる」ってことなんだろう。

 ということで「怒り」をしっかり感じてやろうと決意。


 ■二回目のSEセッション



 2回目のSEセッション(4月中旬)もとても興味深かった。

 今回はストレートに、僕の恐怖の中核をテーマにしてセッションが進んだ。

 「怖くなりすぎたら目を開けてください」と事前に言われた。

 誘導に従い徐々にイメージを感じ、深めていくと、すぐ苦手な雰囲気、黒い悪の気配に飲み込まれ

 「あーちょっと気持ち悪くなってきました、目あけていいですか」と

 即効でギブ(T_T)/~~~  (笑)

 激しい呼吸法はしてないのに両手がじんじん痺れてるし、頭の後ろも痺れ感が

 これは神経系のエネルギーが放出しているってことらしい。なにか見てはいけないものの直前まで行き、その気配におののきすぐにUターンしてきたみたいな感じ。

 ホラースポットの廃病院に見物に行ったはいいが、近づくにつれその禍々しさに圧倒され門柱くぐる前に引き返しました・・みたいな。
 きびすを返すその寸前、暗い窓のあたりに見てはいけないものの姿がちらっと見えてしまいました。。。みたいな。

 なんだこりゃ・・この感じは・・・こんなものいつか直面できるのかって思ったけど。

 でもHさんによると、パンパンになった風船から少しづつ空気を抜いていくのがセッションの目的なので、一見中断したみたいだけど今のでも、エネルギーが抜けてるということ。「1ミリづつふたを開けていきましょう」と言われた。

 少しづつ少しづつ、このプレッシャーを弱めていけば深く感じるところまで入れるし、入れるようになってそこを懐中電灯で照らしたらただの粗大ごみ置き場でしたとかそういう感じのものらしい。その段階では、トラウマは分解され力を失ってるから。でも一度にふたをあけようすると、そのトラウマエネルギーに圧倒されるから注意が必要とのこと。 

 SEでは、トラウマの領域と、リソース(資源)の領域(自分にとって心地よい体感覚)の間を交互に往復しエネルギーを解放していく。

 リソースの渦と、トラウマの渦の相互作用によってふたつの力が統合される。というのがSEの主要なセオリーのひとつだ。

 リソースの体感が、トラウマの解放・統合をサポートしてくれるという。

 僕は昔からリラクゼーションなどで心地いい体感を感じるのが苦手だ。きれいなイメージを思い浮かべても、ビジュアルとして見えるだけで現実感が感じられないというか、そこにいる喜び、楽しさがなかなか感じられない。マインドの働きがリラックスを邪魔する、拒絶する。今回のセッションでも自覚していたその傾向を指摘された。

 不安になるのは得意なのだが・・・

 この、すぐバッドトリップできる能力、何かに生かせないものか・・・


 木漏れ日の森をイメージするけど、やはりなかなかその世界の現実感と接触できない。

 さっきの恐ろしい世界と、この世界を対比すると、ここはとても美しく思える。そのことを伝えると

 「どちらに行きたいですか?」

 そりゃきれいな世界に行きたい。
 でも現実感があるのはまださっきの恐怖世界だ。

 「それが体の感じてる現実なんですね」とHさん。

 そのままリソースを探っていくと、胸の中にある生き物がいるイメージが出てきた。その生き物がいとおしくてなぜか少し泣きそうになった。

 心地いい感覚がゆっくりとひろがってきた。この生き物のことを考えると、さっきの恐怖世界の感覚が遠のいていった。
 うれしさ、よろこびがあらわれる。

 とても不思議だった。これがリソースの感覚?
 もともと僕の中にあったのか。

 最後のほう誘導されることに疲れてきたのか体感的には左胸の辺りにイライラ感が脈動し始めた。

 言っていいのかどうか少し迷うが、「あの・・・ちょっとイライラしてきました」と伝えた。

 「大丈夫ですよ。その感情はとてもウェルカムなので。やっと出てきてくれましたかっていう感じですから。その感覚が次回以降のテーマになるかもしれません」と。

 表層的には、疲れたとかでイライラしてると思っても、誘導によってフェルトセンス(常に移り変わっていく感情・体感覚・イメージなどを総合した概念)を見ていくと、別の内的なエネルギーとつながってることがわかってきたので、なるほどと思う。
 
 以上セッションのごく一部。

 前回はすっきり感と共にセッションが終わったけど、今回は地下世界をのぞき見た動揺がまだ残っていて、頭痛もした。
 すごくいろんな世界を旅して疲れた。
 でも駅まで歩き、ホームで電車を待つころになると、気持ちがいい覚醒感覚が意識に浸透してきた。
 夜は不安を感じることが多いけど、線路に降る雨の線がなんかきれに見えた。
 またインドにでも行って、どっかの駅でこんな風に雨を見ながら電車を待ってみたいなと思った。

 SEちょっと癖になりそうだ。
 
 自分の感じる感覚を、それがなんであれ尊重してもらえることが心地よい。

 あんまこれに依存してもなと思うが、当初の予定通りとりあえず3回は受けて見ようと思う。

 セッション翌日、動画サイトでやりすぎ都市伝説をぼーっと見てる。
 怖い話し系が多くて、こういうの見てるの久しぶりだなと考えてると、もしかして昨日のセッションと関係あるのかなと思った。
 フェルトセンスで体験したトラウマ世界はどっちかというとこういう超自然の恐怖系だったからだ。うん、そうこの不気味ーな体感が似てるような・・・
 ただリヴァイン博士によると、トラウマがイメージに置き換わるときに、そういう形になることもあるようなので、必ずしも現実に体験したイメージかどうかはわからないみたいだ。



 ■ 二回目のセッション後 <4月中旬以降~>

 相変わらず激しい感情の表出は続いてるけど、なんか知覚の範囲が広くなったような印象がある。
 気のせいかな?
 今まで、ここにこんなのあったっけ?という感じとか、ああ、この幼稚園の先生は毎朝門の前に立って一人一人にハイタッチしたりして「おはよう」って声かけてるんだなーとか。
 大変だなー、でもそれくらい子供が好きなんだろうなとか。
 いつもの道を散歩しててもいろんな刺激が新鮮に見える。
 
 非常時に生体がする反応のひとつとして「狭窄」というサバイバルのために知覚を狭めるというのがあるけど、そういう知覚の限定が少し緩んだのかとも思う。

 激しい怒りが出てきたときに、解放する方法のひとつを教えてもらった。

 タオルを横にし適当な分厚さに折りたたんでその上部を握る。そして、ぎゅーっと力を込めて、ゆっくりゆるめる。また力を込めて、ゆるめる・・・・これを何度か繰り返す。
 
 これは神経系に負荷をかけないで怒りを表出させるためによいらしい。

 まあ普通に生きてたら誰でも一度や二度は家具や壁をぼこって凹ましたりしたことあると思うけど(え・・・ないかな?)、こういうことをするとそのあとスッキリするかもしれないけど、なんか暴力的になったことによって余計気持ちが昂ぶったり、ある種の恥の感覚が強くなったりする。自分が怪我をすることもあるだろうし、なにかその激しさが自分自身のどこかをきづつけてるような気もする。

 このタオルを使ったやり方だと、穏やかに表出させるということを脳に学習させる意味でもよいらしい。

 これを何度かやってると悲しさと一緒に涙も出てくる。
 怒りと悲しみがセットになってることはフェルトセンスで見ていけば、わかることだけど、このやり方も穏やかだから悲しみも感じられるのかも。
 怒りに任せて枕ぼこぼこにするとかだと怒りオンリーになっちゃう可能性がある。

 
 ■リソースの渦とトラウマの渦



 二回目のセッションから一週間ほど経って(4月下旬)、感情の出方がさらに激烈になってきた。

 こんなに一日中怒ってるのはあまり経験したことがなかったので、ある意味興味深いけど、あまり続くとちょっと衰弱する。怒り疲れ(~_~;)

 頭がおかしくなるような感覚があるくらい底なしに湧きあがってくる。

 これだけのものがあったことに戸惑いつつ、自分で驚く。

 基本的に感情は感じつくすのがいいとは言うけど、SEの本にも圧倒されたら注意を別のことに向けることを勧めているので、この状態はさすがに感じすぎだと思い、タオルに怒りをぶつけるのもやめて走ったり、ストレッチをして体を動かすことに意識を移した。

 うーんそれにしてもタオルを握りながら「このバ~カ~ヤロウ」って呟くくらいいいと思うんだけど、それくらいでも結構罪の意識を感じたり、こんなことしてて次に相手と会ったときにぎくしゃくしないか、スピリチュアル的にこれはいいもんだろうかと気にする部分があり・・・どんだけ良い子ちゃんやってるのかと思った。

 ずっと基本的には感情を押さえつけ、コントロールすることで対処していた。だからそれを出すのは本当に不本意ながら切れてしまった時が多かったから、切れるだいぶ前からこうやって怒りを表現するというのは新鮮だ。

 それにそのほうが人に迷惑がかかりにくい。

 結局相手は、エネルギーを投影した仮の標的になってるだけだから本当の意味では憎んでいないことが多いんだと思う。ただそれをわかるためには、その怒りをトータルに感じたり、ひそかに放出させるということが必要だ。念が飛んでいかないことを祈りながら。

 ただあまりに頭がマッドな状態で、プラクティショナーの方にも「その怒りをひとりで感じつくすことはお勧めしません」と言われ、かわりに「心地よさ」を意識的に感じることを勧められた。ありのままに感情・感覚を感じるのと平行して、ここちよい体感覚を意識するようにする。

 ここちよい体感覚はおそらくSEの考え方で<リソース>と呼ばれるもので、生命エネルギーを巻き込んだトラウマの渦の解放と統合には、リソースの渦が重要な役割を果たすと考えられている。それは自然の中を散歩してさわやかに、広がったような「感覚」とか、夕日や朝日を見てその美しさに感動した「感覚」とかお風呂に入って気持ちよかった「感覚」とかとにかくここちよい「感覚」であることが大事みたいだ。体感覚の希薄な難しい理論や理屈は、きっと脳の新しい部分に属するので原始的な脳の部位が喋る言葉とは異なる。

 リソースをふくらませることが、セッションにもいい効果をもたらすらしい。

 頭が感覚や感情と切り離されて空転している状態が多いので、このここちよい感覚を感じつくすというのも新鮮だ。

 普通現代人は理性が優勢だから、ある程度は頭が感覚や感情と切り離されている。
 よくあるたとえでいくと、動物は体感覚で生きているので調子が悪くなるとエサを控えたりするけど、体感覚ではなくマインドのパターンにとらわれている人間は、体が食事を嫌がっていても食べ続け、飲み続け、タバコを吸い続ける。体がそれを欲していなくても、心がそれを望んでいなくても、自動的に回転するマインドパターンの輪の中に閉じ込められてしまうのだ。この閉鎖系が人の生命力と可能性を大幅に限定しているもののひとつじゃないかと思う。

 リソースを感じていると、本当に体や心が喜んでいるものと、そうでないものの見分けもつくようになるかもしれない。

 トラウマエネルギーは神経系の収縮で、リソースは拡大だ。
 リソースの拡大力が、トラウマの収縮力を中和する。

 以下トラウマの渦とリソースの渦にヒントを得た考えで、ちょっとSEの理論外の話になるけど、<収縮する渦>と、<拡大する渦>というのは癒しや人生の出来事を考えるときとてもいいモデルになるような気がする。
 人生の総合的バランス度は、このふたつの渦の勢いの均衡によるとも言えるのではないだろうか。
 収縮する渦の方が勢力が強いと、人生はやはりつらいもの、耐え忍ぶもの、ひとつ間違えば地獄のようなものになる。
 拡大する渦のほうが強ければ、人生はつらいことはあるが生きるに値するもの、喜びに満ちたものにもなりうる。

 収縮する渦は、本来、拡大発散する生命エネルギーを巻き込み、脳神経系や細胞レベルに「帯電」する。
 それは危険時においてサバイバルのために起動し、生命エネルギーを凝縮するためのものだ。
 収縮する渦のとらせる姿勢は筋肉を硬直させ、首や肩に力を入れさせる。
 恐れや怒り、悲しみというエネルギーがリアルなのはおそらく肉体に「帯電」しているからだ。
 もしかするとそれは電子機器に異常さえ起こすかもしれない。
 それに対して拡大の渦は、拡散し、よろこびを放射する。
 拡大の渦のとらせる姿勢を象徴化すると、両手を広げ胸を開いたような姿勢と、全身のリラックスだ。
 その渦は、エネルギーを帯電させるのではなく、放電している。

 収縮の渦は人生を耐えがたいものにもするが、収縮の渦の巨大さに対応した拡大の渦が、それとバランシングするために潜在的に形成される。
 それがきっと、どんな状況でも人に希望を与えるもの=Spirituarityだ。
 きっとそれが顕在化することもあれば、そうならないこともあるだろう。
 でも潜在的には、収縮の大きさと比例した拡大の渦が同時的に作られるのではないだろうか。

 つまり巨大な恐怖を抱えているということはチャンスであり、預金残高のようなものなのだ
 記憶喪失で換金の仕方を忘れてしまった外貨貯蓄と言ったほうが近いだろうか。
 収入は30万くらいあるけどその大半が自動的に外貨に投資されて、手元に残る日本円は10万くらいで、しかもどうしたら日本円にできるかわからなくなってしまい貧乏を余儀なくさせられてるような。
 あるいは買い込んだゴールドを常にリュックでしょって歩いているので、なにをするにも疲れて働くこともできなくなった状態。

 そんな風に巨大な収縮は、巨大なよろこびをはらんでいるし、巨大な闇は、おそらく光の卵なのだと思う。


  4a9955e4.jpg

  「収縮」を換金した時の、映画「ショーシャンクの空」 アンディ・デュフレーン

  「希望はいいものだよ 多分最高のものだ いいものは決して滅びない

 I hope I can make it across the border.
 I hope to see my friend, and shake his hand. I hope the Pacific is as blue as it has been in my dreams.
  I hope
.

 どうか無事国境を越えられますように。どうか友と再会しやつと握手ができますように。どうか太平洋が夢の中で見たのと同じように濃いブルーでありますように。それが私の望み(希望)だ。

  ショーシャンクの原作 S・キングの「刑務所のリタヘイワース」より

セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/19 22:12
« Prev | HOME | Next »